社会経済史:近代

江戸幕府崩壊後に東京の人口が急減した理由を説明せよ。

武家人口が多い江戸は,明治維新により幕府本拠地としての政治的地位を失い,徳川家の駿府転封に伴い多くの旧幕臣がそれに従い、参勤交代にもとづき江戸に居住していた武家奉公人らの多くが帰国した。さらに、諸大名の領国への引き揚げや、消費需要の基盤であった武家人口の減少にともなって町人が開港場の横浜などに移転するなどして東京の人口は急減した。

1870 年代初頭における、城下町の人口減少の要因を説明せよ。

城下町は武士の集住で繁栄したが、身分制の解体や廃藩置県にともなう旧藩主の東京移住などで、旧武士階級が城下を離れたから。

1868年~1870年における政府の殖産興業政策を説明せよ。

幕府諸藩の軍事工業や諸鉱山を官収・官営化した。民業の奨励策としては関所の廃止などの封建的な諸規制の廃止を実施したほか、「太政官札」の発行と貸し付けによる助成措置をとったが、あまり効果は無かった。

※「日本経済史 武田晴人 著」を引用

秩禄処分の背景、内容および社会的影響を説明せよ。

廃藩置県によって,全国の士族に対する家禄賞典禄などの秩禄は,明治新政府によって支給されることになったが、政府はその支出が膨大であるため,士族授産の道を勧誘するとともに,秩禄支給を打切る政策を進めた。その後、 俸禄を米から金禄に切替え,次いで金禄公債条例 を公布して,これまでの禄高に応じた額面の金禄公債証書を一時金として支給するとともに,以後の俸禄支給を打切った。 これにより国立銀行や鉄道会社への投資を行い,実業家へと転身した高禄者がいた一方で、実業になれない多数の士族層の没落を決定的にし、社会不安を惹起した。

民部省札を説明せよ。

設立後まもない明治政府は戊辰戦争の戦費、殖産興業などの要因で大量のお金が必要であったため、由利公正の建議で政府保証のもと、明治政府内で使える不換紙幣である太政官札と民部省札を発行した。太政官札が民間での取引に不便であったために小額紙幣の民部省札を発行したため、民部省札は太政官札の補完的役割を担っていたが,太政官札と同様に社会的信用は低く,流通も困難であった。

民部省札:引用元 Wikipedia

太政官札(金一両札、慶応4年発行)引用元:Wikipedia

新価条例(1871年)の内容を説明し、それにも関わらずなぜ実情は金銀複本位制となったかを説明せよ。

日本最初の統一的貨幣法であり、「両・分・朱」を廃し,十進法による「円・銭・厘」の呼称,各種貨幣の量目公差を定めた。欧米の大勢から金貨を本位貨幣としたが、アジア諸国の実情は銀本位のため、貿易上の便宜から貿易銀も鋳造し、当分の間は無制限通用を認め、また、金準備不足もあったため、実情は金銀複本位制となった。

違式詿違条例(1872年)を簡潔に説明せよ。

軽微な犯罪を取り締まる単行の刑罰法で、入れ墨・男女混浴などが禁止された。

旧貢租を明治以降も継承することにはどのような問題点があったか説明しろ。

貢租の種類と賦課量が領国ごとにばらばらで国民の税負担の公平には程遠く、米納であったため政府は換金しなければならなかったが、それは運搬費などのコストが高くなるという問題点があった。また、米価の変動により予算編成が困難であり、年貢賦課の不満からの農民一揆も後を絶たなかった。

地租改正の内容および、それが当時の農家や日本にどのような社会・経済的影響を及ぼすようになったのかを従来と比較しながら説明しろ。また、地租改正への農民たちの不満についても触れよ。

地租改正によって地主・自作農に地券が発行され、彼らの私的な土地所有および地位と権利が法的に保障されたことで、従来の封建的領有および「村請制」が否定された。その際、地価の3%を現金で納めるという定額金納制が採用されたことは、江戸時代において農民の経済的余剰を可能な限り搾取していた旧貢租とは異なり、特にインフレ期には土地所有者に収益が残存することを前提にしながらも、一方で特にデフレ期などには同時に農民を商品経済に巻き込みんで農民層分解を促進させるなど土地喪失のリスクも生じさせて寄生地主制形成のきっかけともなった。さらに「一地一主」主義の所有権認定や入会地の官有は農民の共同体的結合を弱めた。しかし、農業を中心とした産業構造を持っていた明治初期の日本経済にとって、地租を財源とする殖産興業政策の展開への道が開け、間接的には寄生地主制の形成によって貧農の子女など低賃金労働者の供給源が整うなど日本資本主義発展の発展のための土壌を醸成した。その際、関税収入が見込めなかった明治政府による地租への依存により農民の負担は軽減せず、さらに入会地が官有地に編入されたことにたいして農民たちは不満を持ち、真壁騒動伊勢暴動などの地租改正反対一揆も生じた。

1879年(明治12年)発行の地券 引用元:Wikipedia

裏側 引用元:Wikipedia

1876年(明治9年)に発生した伊勢暴動の様子。「三重県下頌民暴動之事件」(月岡芳年画)引用元:Wikipedia

地租改正に伴い、通過供給体制の整備が喫緊の課題となったのは何故か。

地租改正が進展すると、納税のための貨幣需要が各地で大きくなったが、貨幣の供給体制は国立銀行の不振、小野組・島田組の破産などで整備が遅れた。これによる通貨不足は米価の下落を促して、地租改正反対一揆が増加した。

明治期の農村の人々が都市の人々ほど米を食べなかった理由を説明せよ。

近世以来、農村では雑穀が主食であった。明治期においては零細経営を基盤とする寄生地主制が発展し、そのもとで米の生産が停滞し、生産米の大半が高率小作料として地主により収奪され、残った米も生活物資や肥料などの購入のために換金されていた。一方で、商品化された米は都市での米需要を満たしていた。

明治期に資金を投下したり会社を設立した階層を3つ説明せよ。

政商は政府の保護下での収益、華族は多額の金禄公債証書を原資として資金を投下した。さらに、寄生地主制の形成下、収穫高の5割以上にあたる現物の米である小作料収入をもとに投資する地主も増加した。

町村制と帝国議会衆議院の、寄生地主制との関係を説明せよ。

ともに納税額に基づく制限選挙で,有権者は高額納税者である地主が中心であった。

明治政府の殖産興業政策の特徴を説明せよ。

富国強兵を目標とした「上からの資本主義化」が特徴で、そのため官営模範工場が設けられ、内務省工部省が主体となった。

「工部省庁舎正面」郵政博物館所蔵 引用元:Wikipedia

明治政府が殖産興業政策において企図した「本国人主義」とは何か説明せよ。また、その具体例を説明せよ。

植民地化の危機に対応し、外国資本の進入を防ぐ外資排除政策。鉱山の経営権が外国人の手に渡ることを防ぐために、「日本坑法」という法令を制定して、鉱山の稼行は日本人に限ることを明確にした。本国人主義は条約改正によって内地雑居が認められるまで続いた。

※「日本経済史 武田晴人 著」を引用

工部省の事業例を説明し、その際に赤字経営となった官営工場に対する処置及びそれによる経済的影響を説明せよ。

鉱山・鉄道・電信・製鉄などおもに「重工業の官営事業」を所管してお雇い外国人を用いた欧米技術の性急な導入を特色とし、新橋・横浜間の鉄道の敷設や、鉱工業・電信業などの近代化を進めた。官営工場の多くが赤字経営となったため、インフレ・財政危機対策の一環として、軍需工場などを除いて、損失の多い事業は、「工場払い下げ概則」に基づいた処理が目指されたが、営業資本の即時納入を前提とするなど、その条件が厳しく、希望者が少なかったため、概則の廃止によって赤字事業処分に重点を置き換え、投資に対して大幅な安値かつ長期の年賦払いでの払い下げが促された。払受人はいわゆる政商が多く、官営事業払い下げは近代的企業家の誕生、政商の財閥への転化を促した

渋沢栄一の主な著書3つと功績を説明せよ。

「論語と算盤」。「楽翁公伝」。「青淵百話」。武蔵国の豪農の生れで、生家は農業のほか藍玉の商業も営んでおり、渋沢栄一は年少の頃から家業に従事した。倒幕運動に参加したが、後に一橋家に仕え、幕臣となり、パリ万国博覧会幕府使節団に加わって渡欧した。維新後、大蔵省官吏を務め、国立銀行条例制定などに活躍した。退官後は、実業界の指導的役割を果たし、第一国立銀行(1896年に第一銀行、1971年に第一勧業銀行、2002年にみずほ銀行)をはじめ、日本鉄道会社、大阪紡績会社、抄紙会社(王子製紙)などの500余りの会社を設立し、日本資本主義の発展に貢献した。実業界を引退後は、東京商科大学(現 一橋大学)など実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力するなど、約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残した。

渋沢栄一 引用元:渋沢栄一の紹介/深谷市ホームページ (city.fukaya.saitama.jp)

※森有礼を中心として創設された商法講習所→東京商業学校→高等商業学校→1920年に大学令によって東京商科大学→1944年に東京産業大学→1947年に東京商科大学→1949年に一橋大学

国立銀行設立の目的を説明せよ。

維新当初に乱発し,価値の低下した太政官札・民部省札など政府発行の不換紙幣の整理殖産興業資金の供給を目的に設立された。

第一国立銀行はどのように設立されたか。また、その経営危機の内容と、同銀行の果たした役割も説明せよ。

三井家小野家の共同出資であったが、経営の実権は総監役の渋沢栄一であった。小野組が破綻して困難に直面したが、生糸・米穀金融などの新分野を開拓して危機を脱した。御雇い外国人のアラン・シャンドを招いて洋式簿記を導入すると共に、他の国立銀行にも近代的銀行業務を普及させる役割を果たした

東京銘勝会 海運橋第一国立銀行」歌川国利 明治19年(1886年)引用元:ちんや開化絵ギャラリー (chinya.co.jp) (清水建設の創業者の清水喜助が設計・施工を手がけ、5階建ての擬洋風建築は注目をあびた。)

1872年の国立銀行条例の制定・公布に至るまでの国内での論争を説明せよ。

1870年代初期に、イギリス型の中央銀行制度を推す当時の大蔵少輔の吉田清成と、アメリカ型の分権方式銀行制度を推す伊藤博文が論争した結果、アメリカの国法銀行法を参考に、渋沢栄一らの尽力で1872年に「国立銀行条例」が制定・公布された。

1876 年の国立銀行条例改正で国立銀行の設立数が増加した理由とその影響を説明

1872 年の国立銀行条例は、兌換硬貨と銀行券との交換の為に紙幣に見合うだけの兌換硬貨を用意する必要があるなど条件が厳しく民間銀行である国立銀行には正貨との兌換を運用するための正貨保有量がなかった。しかし、1876 年の国立銀行条例の改正により国立銀行券の兌換義務が廃止され金禄公債証書での出資が認められるなど,設立条件が緩和されたことで国立銀行の設立数は増加した。この結果、不換紙幣が濫発されインフレが生じたものの、一方では産業資金を創出した

●国立銀行設立状況 【朝倉孝吉「明治前期日本金融構造史」により作成】

1870 年代の大隈財政を説明せよ。

新政府の財政的基盤を安定させるため、官営工場や国立銀行を設立したが、殖産興業政策と士族の反乱のため財政支出が増大化し、インフレとなった

松方財政(1881年~1898年頃)の内容、および社会経済的背景を説明せよ。またその政策が社会にどのような影響を与えたのかも説明せよ。

北海道開拓使官有物払下げ事件による政変によって下野した大隈重信に代わって松方正義が大蔵卿に就任した。輸入超過が続いて正貨の流出が進み,大隈財政下の官営工場の設立や殖産興業政策と士族の反乱に対する政府紙幣の増刷や国立銀行の乱立によって不換紙幣の流通量が増加するなかでインフレが進み,政府財政が悪化していたため,その状況を抜本的に改革する経済政策を進めた。

●前期●…営業資本の即時納入など条件が厳しかったために希望者の少なかった「工場払下げ概則」を廃止して官営事業の払下げを促進して政商資本の発展を促進させ,財政赤字の抑制をはかるとともに,酒・煙草税の増税により歳入を確保し,軍事費を除いた歳出を削減する緊縮財政を採用し,余剰により紙幣整理と正貨の蓄積を進めた。一方,日本銀行を設立して発券権を集中させたうえで,銀兌換の日本銀行券を発行し銀本位制を確立し、兌換制度が確立されると低金利政策が実施され,第1次企業勃興の引き金となった。地租改正によって地租の定額金納制が導入され、物価変動が農家に直接影響を及ぼすようになっていた時期のこうした政策は農産物価格の下落による農村不況を惹起し、農民層の分解及び寄生地主制の形成や民権運動の急進化と衰退をもたらした一方、物価を安定させるなど、日本経済の発展に貢献した官業払下げを転機として政商資本の発展を促進すると同時に、農民層分解により発生する没落中小農民層を、払下げを受けた民間資本に従属する賃労働者として、他方では地主制のもとの小作人として配置する「本源的蓄積」を強行し、日本資本主義は1880年代の後半に産業革命期を迎えることになった。

●後期●…海軍の軍備拡張費調達,地方産業改良などのための外資導入が政策課題となり,金本位制度導入の準備に着手し,「貨幣法」制定を主導した。

            【官営事業払い下げの例】

三井

三池炭鉱・新町紡績所・富岡製糸場

三菱

高島炭鉱(最初は後藤象二郎)・佐渡金山・生野銀山・長崎造船所

古河市兵衛

院内銀山・阿仁銅山

浅野総一郎

深川セメント製造所

1873年~1916年にかけて小作地率が上昇した背景

地租改正により土地所有制度が確立して,農地の売買も可能になった。松方デフレによる米価下落に伴う地租の実質的負担増や,日露戦争前後の増税を背景に,没落した自作農が土地を手放したことで農民層が分解し、寄生地主制が進展した。

松方財政における日本銀行設立の目的とその業務内容を、日本銀行の性格を国立銀行と比較しながら説明せよ。

分散的な民間銀行であった国立銀行に対して、唯一の発券銀行である中央銀行であった日本銀行は、業務内容として日本銀行券の発行・手形割引・買い入れ・国庫金の取り扱いなどを行った。その設立の意図は、発券業務の中央集権化・金融の円滑化・金利低下による産業振興・兌換制度確立であった。

1883年の国立銀行条例改正の内容を説明せよ。

前年の日本銀行設立を受け、国立銀行は開業後20年間のうちに普通銀行へ転換することとし、また 免許をうけた後20年間の営業期間内に発行した紙幣を全額償還して営業期間が終了した後は紙幣発行を認めないことなどを定めた。

1883年~1890年に軍事費比率が上昇した理由を説明せよ。

松方財政は軍事費だけは緊縮財政の例外とし、さらに壬午軍乱甲申事変が勃発するなど、日清間の軍事的緊張が高まっていた。

1883年~1890年に地租の比率が急減した理由を説明せよ。

営業税が新設され、所得税酒造税が増徴された一方で、地租増徴が民党の抵抗により実現が遅れた

明治初期の通信・鉄道・海運業の発展について具体的に説明せよ。

●通信部門●…東京~横浜間電信が開通され、前島密の尽力により、郵便制度も誕生した。

鉄道部門●イギリスの技術を導入して新橋~横浜間に鉄道(陸蒸気)が開通した。近代産業の発展と並行して、交通·運輸機関も発展し、官営による新橋~神戸間に東海道線が全通し、1892年には鉄道敷設法が制定されて、全国幹線網の計画が立てられた。また、民営の鉄道も華族の金禄公債を主たる資本として、1881年に日本鉄道会社が設立されたのをはじめとし、私鉄ブームの結果、1889年には営業キロ数では民営が官営を上回り、日清戦争後には本州の両端である青森・下関間が鉄道によって連結された。

海運部門●…岩崎弥太郎の九十九商会から発展した三菱汽船会社共同運輸会社が合併して日本郵船会社が設立され、政府の保護のもとに、大阪商船会社と並んで、沿岸航路から外国航路にも進出するようになり、後にインド綿花輸送において重要となるボンベイ航路を開いた。

(日本史研究 山川出版 参照)

「鉄道敷設法」(1892年)の内容を説明せよ。

国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄道建設を軍事上,行政上の観点から全国的な規模で統一することを目的とし、以後国鉄として建設すべき路線,私鉄の買収などを規定した。

1889 年~1901 年にかけての鉄道の営業距離の変化を説明せよ。

日本鉄道会社の成功を受けて企業が勃興し、資本主義の発展とともに輸送手段としての鉄道網整備の需要が拡大したことで、私設鉄道の建設が激増して官設鉄道の営業距離を大幅に上回った。

郵便汽船三菱会社の事業内容・変遷を、政府との関係を踏まえて説明せよ。

土佐藩出身の岩崎弥太郎が藩の汽船を借り受けて創業した九十九商会に発し,三菱財閥の基礎となった会社である。官船の無償払下げや助成金の交付などの政府からの特権的保護の下に、佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争などの軍事輸送によって海運の独占を確立して巨富を得て、横浜―上海航路を開設しP&O汽船会社との競争に勝つなど、外国航路も開設した。極度の独占への批判と明治十四年の政変の影響から設立された三井による半官半民で反三菱を掲げた共同運輸会社と激烈な競争の末に合併し,1885年に日本郵船会社が設立された。1893年には日本初の遠洋航路であるボンベイ航路を開設した。

郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の競争 引用元:商船(明治16年)▷郵便汽船三菱会社・共同運輸会社の競争 | ジャパンアーカイブズ – Japan Archives (jaa2100.org)

※共同運輸会社は、三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資しあい、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社の3社が合併して創立された。

※海運部門を切り離した三菱会社は三菱社と改称し、鉱山・造船業の経営にあたった。

岩崎弥太郎 引用元:Wikipedia

鉄道業の日本資本主義への貢献を貨客の運搬以外で説明せよ。

巨額の設備資本を必要とするため、当初から株式会社形態による資本の集中、株式の市場での売買を不可欠の条件としていたため、貨客の輸送のみでなく、株式会社の普及、株式市場の形成という点からも、企業勃興期から産業革命期にかけての日本資本主義の発展を促進した。

交通・通信の発達による文化的影響を説明しろ。

交通・通信機関の発達は、人問と物が短時間で遠距離を移動することを可能にし、言論機関や教育制度の発達と相まって、人間の生活圏の急速な拡大をもたらし、狭い地域社会の範囲を越えた国家意識や国民としての自覚と一体感を、庶民層にまで押し広げることになった。明治中期以降、学生・生徒の間で修学旅行や庶民の観光旅行の習慣が広がり、江戸時代まではおおむね上流階級の人々に限られていた遠隔地の男女間の結婚が、庶民の間でも盛んになったのも、交通機関、とりわけ鉄道の発達によるところが大きかった。

(日本史研究 山川出版 参照)

政府の紡績経営が失敗した理由を説明しろ。

規模が過小であり、水力を動力源としたものの日本河川の流水量変動の激しさのために安定操業が難しく、水力利用を優先した立地により労働力・製品販売面に不利があり、機械操作の技術者が不足し、資金調達力も弱かった

(概説日本経済史 近現代 三和良一著 参照)

大阪紡績会社の経営およびその成果について、そこで用いられた最新技術を具体的に示しながら説明せよ。

1万 500 錘という蒸気力を動力とした大規模工場かつ最新鋭で熟練が不要なリング紡績機を導入し、低賃金女工の昼夜二交代制を実施し、英国の技術を身に着けた山辺丈夫による経営が行われた。国産の綿糸・織布は国内市場を席巻し、アジア(とくに中国)へと輸出産業として市場を拡大した。

引用元:大阪紡績株式会社 – ゆかりの写真|渋沢栄一ゆかりの地|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団 (shibusawa.or.jp)

繊維産業に従事させられたのはどのような人々か。理由とともに述べよ。(1920年代まで)

賃金を抑制して低価格により外国産との対抗力にするため、寄生地主制下の貧農の子女による出稼ぎに依存していた。

産業革命期の重工業の内容及びその性格について説明せよ。

国策によって発展したのが軍艦や銃砲、弾薬(のちには飛行機も)などを生産する軍需産業であり、関連産業として製鉄業なども存在した。

東京と大阪、名古屋には官営の陸軍砲兵工廠が建てられ、特に東京砲兵工廠は小銃、大阪砲兵工廠は大砲の生産を主として分担した。幕府が設立した横須賀造船所は明治政府に移管され、呉・佐世保・舞鶴とともに海軍工廠として整備され、三菱に払い下げられた長崎造船所とともに海軍を支え、官営八幡製鉄所も設立された。

重工業は膨大な下請け業者が必要となって多くの中小の町工場誕生にもつながったが、軍需生産に特化した傾向が強く、重工業としての幅広い発展にはつながりにくく、機械工業など民需への広がりは進まず、工場の機械の多くは欧米産のものが中心であった

特殊銀行を3つ説明しろ。

横浜正金銀行は貿易金融を目的とし、日本勧業銀行は農工業を改良・発展させるために長期貸付を行い、日本興業銀行は産業資本の長期融資機関として設立され、外資導入・資本輸出に活躍した。

最初の企業勃興の背景および内容を説明し、その経済的影響も説明しろ。

明治初期以来、おおむね輸入超過が続いていた貿易収支は、生糸と鉱産物の輸出増大や、松方デフレによる輸入の減少によって輸出超過に転じた。こうした貿易の発展による刺激や、貨幣・金融制度の整備などによって1880年代後半には産業界は不況を脱して活況を呈し、日本鉄道会社を嚆矢とした鉄道と大阪紡績会社を嚆矢とした紡績部門や筑豊地帯の石炭企業の興隆を中心に株式会社設立のブームが起こった。これが日本最初の企業勃興であり、鉄道・紡績・鉱山・の3業種を中心とする機械制大工業の発展により、日本資本主義が確立過程に入ったことを意味した。1890年にはその反動で金融が逼迫し恐慌が起こったが、それを契機に日本銀行が民間の普通銀行を通じて積極的に資金を供給するようになり、その後、民間の近代産業は順調に発展した。

1890年恐慌の原因について説明しろ。

当時の株式会社は、設立時に株式の一部払い込みで発足し、年を追って未払い分の追加振り込みを行う資本調達方式であったため、会社設立は容易であるが、株式会社設立ブームの後になってから追加払い込みのための資金需要が急増し、金融市場が逼迫し、さらに米穀の不作に伴う米穀投機に関する資金需要増加、米穀輸入超過による資金需要増加も合わさって金利が高騰した。また、凶作による農家所得の減少と米価騰貴により国内消費財市場を縮小させ、企業による過剰生産状態が発生した。さらに、一時的な銀価騰貴と世界恐慌により日本からの輸出が激減し、それによる企業業績悪化に触発された投資家の短期的な収益に目を奪われた投機的行動が株価暴落を招いた

1890年公布の「鉱業条例」を説明しろ。

鉱業法則の原則が鉱山王有制から鉱業自由制へと転換されて近代的な鉱業所有権を保証し、明治初期の本国人主義に基づいた「日本坑法」以来の借区制が廃止されたことで、生産物処分の自由や鉱区規模の細分化を制限することができた。これは国による恣意的な介入が無くなったことで、鉱山業での本格的な企業発展が開始した。

幕末~1870 年代の綿織物業の盛衰を説明せよ。

幕末以来、安価な綿糸や綿織物が大量にイギリスなど海外から輸入され日本の伝統的な手工業生産による綿糸や綿織物生産は、輸入品に圧迫されて一時的に衰退した。しかし、1870 年代にはウィ一ンの万国博覧会を契機に飛び抒の技術が日本に紹介され、手織機を改良するなど、農村を中心に小規模ながら徐々に生産を回復した。

1880年代半ばから1890年代における労働生産性の上昇をもたらした政治的・文化的背景を簡潔に説明せよ。

初等教育普及と明治憲法による財産権の保護。

日清・日露戦争を経て達成された日本の産業革命について、何が日本の貿易上の収益を支えていたかを明確にしながら説明せよ。また、産業革命下での農村の実態についても説明せよ。

★綿紡績★…従来の人的動力による手紡水力を動力とする臥雲辰致が開発したガラに代わり、蒸気力を動力として熟練を必要とせずに低賃金労働者による生産を可能にした最新鋭のリング紡績機を備えた大阪紡績会社を嚆矢として綿紡績業で民間大企業が勃興した。日本郵船会社がインド航路を開設し,インド産綿花の輸入コスト低減などの安定した市場経営に支えられ、原料綿花・機械を輸入に依存しながら機械制生産が拡大して綿糸生産が日清・日露戦争を経て国内市場を席巻し,主に中国などのアジア向けの輸出産業へ発展した。

●綿織物業●輸入力織機を用いた大紡績資本の兼営などにより機械制生産を拡大させ、農村では従来のジョン・ケイの考案したバッタン機構や手織機を用いた小規模な問屋制家内工業に代わり、豊田佐吉考案であり糸を自動補給しながら連続運転できる国産力織機を用いた生産が盛んになり、日露戦争後には輸入から輸出に転じて、主に満州などに輸出された。

●絹織物業●…ジャガード織を用いるマニュファクチュアが福井・石川など輸出羽二重産地で発達し、桐生や西陣では力織機を用いる経営も出現したが、なお問屋制家内工業の力が強かった。

●重工業●…鉄鋼の国産化をめざして官営八幡製鉄所が操業を開始し,造船業が発展するなど日露戦争後に基礎が整ったが,多くは輸入に依存し、国際競争力は弱かった

★製糸業…綿花や機械類・鉄類などの輸入に必要な外貨の獲得に貢献し,主に絹織物業が成長したアメリカ向けの最大の輸出産業であり,国産繭を原料として従来の手工業の座繰製糸ないしは水力を動力とする器械製糸が中小工場を中心に小規模経営として普及した。

農村では,製糸業に原料を供給する養蚕業は発展したが,綿紡績業が原料綿花を輸入に依存したために綿作が衰退した。さらに,自家用の衣料生産の衰退などにより衣料の商品としての購入が一般化して商品経済が深く浸透して階層分化が進み,寄生地主制が展開して家内工業の解体により労働力の商品化(織物工場へ雇用)が進み,重工業の未熟さに起因する農村人口の相対的過剰による小作地不足における高率小作料のもとで米作など農業生産は概して停滞的であり、寄生地主制下の小作農などの貧農の子女は家計補充のために出稼ぎに出され、繊維工業における低賃金労働力となった

製糸女工の労働環境の実態について説明せよ。

多くは寄宿舎に拘禁され、前貸し金に縛られ、生家の家計補充的な低賃金で日の出から日没後までの長時間労働に従事した。平均繰糸成績を得た者に標準日給を与え,成績の上下によって日給に大きな格差をつけるという製糸業独特の賃金システムである等級賃金制によって,長時間緊張した労働を余儀なくされ、過酷な労働が強制された。

産業革命に対する政府の役割を説明せよ。

綿糸輸出関税を撤廃し、また国内綿作を保護していた綿花輸入関税を撤廃して安価なインド綿花購入を可能にして紡績業を保護し、「造船奨励法」や「航海奨励法」(総トン数1000トン以上,最大速力10ノット以上,船齢15年以内の鉄鋼船が対象)を制定して造船業や海運業に奨励金を与え、綿花と綿糸の輸出入の便を図った。さらに、日本勧業銀行などの特殊銀行を設立して産業界に資金を供給するとともに銀本位制から金本位制に移行し、銀下落による円安を阻止して綿花や機械の輸入の不利を解消して綿糸輸出による海外市場獲得に努めた。

※航海奨励法により、日本郵船はヨーロッパ・北米・オーストラリア航路へ進出し,東洋汽船もサンフランシスコ航路を開設した。航海奨励法は、「遠洋航路補助法」(1909年)(一般航海奨励金をやめ、4 大航路である「欧州・北米・南米・豪州」に集中して補助金を出す政策)の制定で廃止された。

1885 年以降の棉花生産の減少理由を説明せよ。

中国やインドからの輸入棉花を原料に採用し,国内の棉花栽培が壊滅的な打撃を受けた。


1886 年~1890 年の間に、大坂と長野の労働者数増加した理由を説明せよ。

大阪では、綿糸紡績業での企業勃興により,大規模な機械紡績工場の設立された。長野では、座繰製糸に代って器械製糸が普及し、中小の製糸工場が増加していた。


1890 年~1909 年の間に福岡の労働者数増加した理由を説明せよ。

産業革命が進展したことで、海運・鉄道業の動力源としての蒸気機関が普及し、八幡にドイツの技術を導入した官営製鉄所が設立されたうえ、石炭に対する需要で炭鉱労働者も増加した。

官営八幡製鉄所が福岡県八幡村に設立された地理的要因を説明せよ。

製鉄には原料鉄鉱石とともに燃料石炭の安定的な供給が必要であったが、福岡県八幡村は,中国の大冶鉄山からの鉄鉱石の輸入に適した立地であり、さらに筑豊炭田を後背地にもっていたため,筑豊炭田から鉄道や水運で石炭を大量・迅速に調達できるメリットが大きく、地理的には製鉄所建設に最適であった。

※1901年に操業開始。

官営八幡製鉄所 引用元:官営八幡製鐵所 | 世界遺産を知ろう | 世界遺産のある街・北九州 明治日本の産業革命遺産 -製鉄・製鋼、造船、石炭産業- 官営八幡製鐵所 (kitaq-whs.jp)

産業革命期の製糸業,綿糸紡績業の技術革新を説明せよ。

製糸業…手工業の座繰製糸に代わり,フランスなどの技術を導入して改良され,水車を動力源とする器械製糸が普及したが、工程の複雑さから従来の座繰製糸も残存し、小規模経営が多かった。

綿糸紡績業…手工業手紡水力を動力源とする臥雲辰致が開発したガラ紡に代わり,イギリス・アメリカの新鋭機械であるリング紡績機が輸入され,蒸気機関を動力源とする大規模な機械紡績が普及した。


製糸業と日本の産業革命との関係性を説明せよ。

当時綿糸紡績業では機械制生産が普及し、輸出が増加していたものの、原料綿花・機械を輸入に依存したために輸入超過であった。しかし、最大の輸出産業であった製糸業は国産の繭と機械を使用したため、製糸輸出によって確保された外貨が原料綿花・機械の輸入に使用された。

『上州富岡製糸場之図』長谷川竹葉画 明治9年(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 所蔵) 引用元:歴史を学ぶ | しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ (tomioka-silk.jp)

富岡製糸場において指導をしたフランス人名を記せ。また、製糸場設立の地として富岡が選ばれた背景を説明せよ。

ポール・ブリュナ。富岡付近が養蚕が盛んであり、良質な繭が確保できた。また、工場建設のための広い土地があり、既存の用水で製糸に必要な水が確保でき、蒸気機関の燃料である石炭が付近で採れた。

日本資本主義の特色と副作用を説明せよ。

政府の主導による近代産業育成政策のもとで、欧米先進諸国から高い水準の経済制度や技術・知識・機械などを導入して移植することにより、極めて短期間で資本主義を達成し、急速に成立・発展を遂げた。また、産業革命達成への過程では例外を除けばほとんどが外国資金に頼ることなく日本国内でその資金が調達された。しかし、日本資本主義の副作用として、工業・農業、大企業・中小企業の間の格差=二重構造や、劣悪な労働条件、様々な公害や環境破壊などが現出した。

明治前期の伝染病の流行や病気について、人口の変動とともに説明せよ。

産業化の進行とともに、特に都市人口が増加し、出生率は上昇を続け、衛生環境や栄養状態の改善、伝染病対策など医療技術の進歩により死亡率は少しづつ低下していた。しかし、伝染病による死者数はかなりの数に上っており、特に19 世紀初期に日本に初めて侵入して 1858 年などに大流行したコレラは、都市のスラム化や上下水道の未整備、工場の劣悪な労働環境などを背景として明治初期でも流行し、多数の死者を出した。伝染病や衛生に関する知識不足を背景として様々な流言が飛び交ったため、患者の強制隔離や避病院建設に反対したり警察の取り締まりに反抗するコレラ一揆も多発し、1880 年には「伝染病予防規則」が制定された。

しかし、明治後期には、港での検疫の強化や医療・衛生設備改善、衛生思想の普及などにより大流行は終息して死者は減少した。コレラは衛生行政の原点となり、近代的衛生行政も次第に人々に受容されるようになり、衛生環境や栄養状態の改善、北里柴三郎や志賀潔らの伝染病研究所における研究などによる伝染病対策の進歩などにより死亡率は少しずつ低下していった。一方では産業化の進行とともに肺結核による死者は増加していった。

師団を誘致することの地方へのメリットを説明せよ。

消費人口の増加や経済の活性化、軍人たちの需要増加によるインフラ整備などのメリットがあった。

初の資本主義恐慌を説明せよ。

日清戦争の戦勝景気による企業熱と株式高騰の反動で生じ、倒産・銀行休業・紡績業の操短が相次いだ。

貨幣法(1897年)を出した理由を貨幣法の内容とともに説明せよ。また、その後の金本位制についての日本の動向および貨幣法の変遷を簡潔に説明せよ。

世界的に銀価格が下落するなか,産業革命の進展にともなって綿花や重工業資材などの金本位制地域からの輸入が増加しており、さらに産業振興のための資金不足から欧米の資本輸入が期待された。そのため、欧米など金本位制地域との外国為替相場の安定化を企図し、日清戦争で賠償金を獲得したことで金本位制採用の条件が整ったため、貨幣法により価格の度量標準の法定,貨幣の鋳造・発行の国家独占を規定した。1917年、第一次世界大戦下に金輸出禁止の措置をとり、金本位制を停止したが、1930年、金輸出禁止を解いて金本位制に復帰した。しかし、1931年にふたたび金本位制から離脱し、管理通貨制度へと移行し、貨幣法の内容は一部を除いてほとんど空文化することになった。1938年の「臨時通貨法」が、貨幣法で規定されている貨幣に代わって臨時補助貨幣を発行する根拠となり、その後に発行した補助貨や政府紙幣はこれに準拠した。1988年の「新貨幣法」の施行とともに貨幣法は廃止された。

貨幣法による経済的弊害を説明せよ。

従来の銀本位制下での銀安メリットを失った。円高は欧米からの機械輸入には有利になって輸入は増大し、そのうえアジアからの原料輸入が割安になりさらに輸入が増大し、貿易収支は赤字に転落した

松方財政下の銀本位制にはどのような長所・短所があったか。またその短所を克服するために後にどのような政策が出されたか。

長所…国際的には銀安トレンドは円安を招来させ、さらにアジア諸国など銀本位制国同士では為替は安定するため、アジア貿易拡大など輸出が促進された。一方で、輸入は円安により抑制された。

短所…金銀相場の変動により円為替が不安定であり、 産業革命の進展にともなって綿花や機械などの金本位制地域からの輸入が増加し,また,産業振興のための資金不足ゆえに欧米からの資本輸入が期待されていたのにもかかわらず、 金本位制国である欧米との貿易に不利であり、また欧米からの輸入品価格の上昇により国内物価が上昇し、さらに円為替が不安定であることを理由として外債の募集や外資の導入には不利であった。そこで、日清戦争で賠償金を獲得したことを背景として貨幣法により金本位制へと移行して外国為替相場の安定を図った。(輸入は増大して貿易収支は赤字に転落した)

日本の工場労働者による最初のストライキ名及び1898年に起こった交通部門の大規模労働争議名を書け。また、産業革命期の労働組合結成状況を説明しろ。

雨宮製糸スト日本鉄道機関方スト。 アメリカから帰国した高野房太郎らによって職工義友会から改組した労働組合期成会(機関誌は「労働世界」)が組織された。その後、初の労働組合である鉄工組合日本鉄道矯正会活版工組合などの労働組合の結成が進んでいた。

工場法の問題点を説明しろ。またその制度の導入への反対意見が生じた理由も説明しろ。

労働者15人以上を使用する工場に限られたうえ,年少者や女性の就業時間を制限し,その深夜業を禁止したものの,製糸業では時間延長,綿紡績業では期限つきながら深夜業を認めるなど労働者保護の観点から不十分なものであった。

当時の日本産業革命は繊維産業を中心として進行していたため、それを支えていた低賃金女性労働者の待遇改善が行われることは日本の貿易上の不利益を被ると考えられ、大日本紡績連合会なども深夜業禁止実現の引き延ばしなどにも積極的に取り組んだ。

足尾銅山鉱毒事件の内容を、それを社会問題化させた人物を述べながら説明し、またその際、なぜ彼の主張が受け入れられなかったのかを説明しろ。

立憲改進党の田中正造が第二議会で足尾銅山の鉱毒被害を社会問題化すると、被害農民の大挙請願運動が活発化した。川俣事件田中正造天皇直訴事件も起こった。しかし、第一次西園寺内閣の原敬内相らを中心に徹底した農民の弾圧が行われ、最終的には「土地収用法」で谷中村の廃村遊水池の設置が決定された。そこには、当時の日本の貿易上、銅は外貨獲得に貢献していた輸出品目であったために政府は古川市兵衛などの政商を保護しようとした背景があった。

1895年頃の足尾鉱山  三省堂「画報日本近代の歴史5」より 引用元:Wikipedia

明治末期の都市民衆騒擾の特徴を説明せよ。

貧困層の住環境が悪く、インフラ整備の追い付かないことで住民の不満が高まっていた大都市部で発生したこと、外部からの刺激で市民が動き始め、既成政党とは関係のない各種団体(弁護士や記者)から大規模な国民大会へと発展して不特定多数の新・旧中間層や労働者・学生などが参加するようになるという展開をとったことなど。

明治末期~大正初期の都市民衆騒擾と江戸時代の打ちこわし・普通選挙運動との相違点と共通点。また騒擾の具体例を一つ挙げ、それらの騒擾の歴史的役割を述べよ 。

都市民衆騒擾は、江戸時代の打ちこわしと比較すると、偶発性という点は似ているが新聞が介在することで規模ははるかに大きかった。また、普選運動と比較すると、規模は同じ程度でも組織性が薄弱であり、目的も曖昧であった。それゆえ、気まぐれでかつ破壊力の大きい都市民衆騒擾は政治家にとっては不気味な存在であり、実際に米騒動などで閥族内閣を窮地に追い込み、政党勢力の発展を促したようにデモクラシーの発展に寄与した。

明治末期における社会問題の発生と社会運動の盛衰を説明せよ。

日清戦争前後の産業革命期に入ると、労働者の多くは、劣悪な労働環境のもと長時間の低賃金労働に従事しており、足尾鉱毒事件などの公害問題も生まれていった。こうした社会問題を解決するために労働組合期成会が労働運動の指導に乗り出したが、治安警察法の公布で運動は抑圧された。また、社会民主党・日本社会党といった社会主義政党も生まれていったが、政府は大逆事件を機に社会主義運動に弾圧を加えたため運動は沈静化した。

大逆事件について説明しろ。また、その事件を批判した人物についても触れよ。

天皇爆殺計画の発覚を機に多くの社会主義者らが検挙され、幸徳秋水管野スガらが処刑された。警視庁内には思想警察の特高が置かれ、社会主義運動は冬の時代を迎えた 。徳富蘆花は「謀叛論」で幸徳らを弁護し、永井荷風は「花火」で文学者として事件を批判した。

冬の時代において堺利彦が設立した団体名を書け。また彼の冬の時代における活動を説明せよ。

売文社。 出獄した堺が,大逆事件で検挙・弾圧された同志らの生活費獲得及び、運動の維持を目的に,大杉栄,荒畑寒村らとともに新聞雑誌の執筆や代作を行うなど、社会運動よりも言論活動などの文化運動に力を注いだ。

日本の財閥の特徴を説明せよ。

戦前の日本において、コンツェルンの形態の下で政府との癒着を背景として、同族の閉鎖的な支配の下で持株会社を中心として多角経営を行った。

日露戦後経営について説明しろ。

帝国国防方針に示された軍拡や植民地経営、鉄道国有法に伴う財政負担の増大、累積する外国債の利払いなどのため、深刻な財政危機となった。さらに、非常特別税の継続・増税と内外国債の発行は、市民生活を圧迫し、市民による減税・廃税運動や労働争議が激化し、政府の戦後経営は困難を極めた。

鉄道国有法の目的を説明せよ。

軍事面・産業面から輸送の能率化と画一化を意図したと同時に、利益誘導により政友会の基盤を拡大するため。

地方改良運動について説明せよ。

日露戦後の経済不況下で、疲弊した地方自治体の財政再建と農業振興、民心向上を目的として、町村の税負担の能力を高め、神社合祀政策などを通じて江戸時代以来の村落共同体である旧町村が、市制・町村制による行政単位としての町村に再編成して、国家の基礎を固めることに力を注いだ。講習会などが開催され、全国に模範村も設定された。

報徳会の内容および役割について説明せよ。

報徳主義を指導精神とし,〈勤倹力行〉〈分度推譲〉などの諸徳目を道徳と経済の調和というスローガンに組み入れて,資本主義の発展によって動揺した農村共同体秩序(日露戦後の厳しい財政状況を乗り切るためや、資本家と労働者・地主と小作農の階級対立を緩和し階級協調を導くという意味合いもある)を再編するための地方改良運動の推進母体となった。

神社合祀政策の内容を説明しろ。その際に、明治末期にそれに反対した人物名も記せ。

神社合祀令によって始められ、一村一社化を原則とする大幅な統廃合により、神社の国家管理が強化された。南方熊楠。

1907年恐慌について説明しろ。

日露戦争後の反動恐慌で、賠償金がとれなかったこともあって1907年から金融・産業部門の倒産が拡大し、生糸輸出の減退、紡績業の操短・休業も続出した。不況は慢性化したが、財閥は企業集中を進めてその基礎を固めた。

関釜連絡船の内容および役割を説明しろ。

日露戦争に勝利した日本が山陽線と朝鮮の京釜鉄道(京城~釜山)を連結し,さらに南満州鉄道とつなぐことによって朝鮮支配および中国進出のための運輸機関として,この定期航路を開設した 。職を求めて日本に渡る朝鮮人を運び、戦時体制期には朝鮮人の日本への強制連行に利用された。

日清・日露戦争を経た日本の貿易のあり方の変化を説明せよ。

日清戦争前においては生糸や茶を輸出し、綿糸を輸入していた。しかし、日清・日露戦争前後になると綿紡績業で産業革命が進展するとともに造船業が発展し、綿花や機械類・鉄類の輸入が増加する一方で綿糸が主要な輸出品へと転じた。

友愛会(1912年)の結成者と機関紙を記し、内容と変遷を説明せよ。

鈴木文治。「労働及産業」。当初は労働者の共済・修養を目的とした労使協調主義的な性格が強かったが、第1次世界大戦を通じて組織は拡大,戦闘化し,労働組合的色彩が強くなった。 19年に大日本労働総同盟友愛会、 21年に日本労働総同盟と改称し,階級闘争主義を掲げたが,25年に左翼が分裂し、日本労働組合評議会を結成してからは右翼組合の代表となった。

第一次世界大戦前の日本の貿易収支の赤字を招いていた背景ともなる日本の貿易構造を説明せよ。また、貿易構造以外で経常収支の赤字を促進させた要因も説明せよ。

中国・朝鮮・台湾に関しては食料品の入超・綿糸など繊維品の出超という先進国型貿易の形で大幅な黒字を示し、ヨーロッパとの関係は、繊維出超、機械・金属等は入超という後進国型貿易の形で大幅な赤字になり、インドなどのアジア地域との関係は先進国型ではあるが綿花や食料品の入超で、アメリカとの関係は後進国型ではあるが生糸の出超が巨額であった。つまり、欧米に対しては後進国型、アジアに対しては先進国型の貿易構造の進行途上であった。その際、外債利払い増加などの要因も経常収支の赤字を促進させた。

第一次世界大戦が日本の経済および貿易に及ぼした影響を説明しろ。

日本経済は明治末期から慢性的な不況と財政危機に悩まされていたが、第一次世界大戦によって大戦景気を迎えた。日本は参戦したものの戦争の直接的被害はほとんど受けず、中国市場をほとんど独占し、全世界に日本商品を売り込んだ。

ヨーロッパ諸国からの機械類・鉄類などの重工業製品の輸入が途絶えた。、また、敵国であったドイツからの輸入が途絶して化学工業の自立が進んだ。 一方,ヨーロッパ諸国が後退した中国などアジア市場への綿織物の輸出, 戦争景気のアメリカへの生糸輸出の増加、および ロシア・イギリスへの軍需品の輸出が拡大し,綿織物業・製糸業および絹織物業・重工業が成長して日本の貿易収支は輸入超過から輸出超過へと転換し、債務国から債権国へと変化した。また海運業の発展が船舶需要を急増させ、また世界的な船舶不足により船の価格や海上輸送の運賃は急騰して造船業の成長につながり,内田信也などの船成金が生まれた。

鉄鋼業では、八幡製鉄所の拡張や満鉄が経営する鞍山製鉄所の設立の他、民間会社が相次いで創設された。工業生産の拡大は電力需要の増大につながり電力業を発展させ、 工業動力が蒸気力から電力へと移行するとともに、地方都市での電灯の普及や電気機械の国産化も進行した。猪苗代水力発電所による東京への長距離大量送電も行われるなど水主火従の時代となった。このように、工業は未曽有の発展を遂げ、工業生産額は農業生産額を追い越した。工場労働者数も大幅に増加し、重化学工業が発展した結果、男性労働者が急増した。

賃金引上げを求める労働者の争議行為が頻発したが、大戦ブームによる労働力需要の急増のために深刻化していた労働力不足を背景として、企業は争議行為による損失を避けるために、ブーム下の高収益を基盤として労働者の要求に対する譲歩を重ねた結果、名目賃金は上昇し、労働者の賃金上昇により個人消費も拡大し、商業・サービス業の発達もめざましく、都市への人口集中が起こった。

蓄積された資本は盛んに海外に輸出され、在華紡として盛んに上海や天津など中国各地に事業所が建設された。めざましい経済発展の中で、日本工業俱楽部日本経済連盟会など資本家や経営者の団体が設立され、経済政策の形成における発言力を強めた。企業収益の好転は、多数の成金を生むバブル経済の様相を呈し、株価の暴騰によって株式投資に対する関心が広がり、全国的な株式投資ブームが発生し、資本市場は従来の縁故を中心とした募集から様変わりし、企業設立には株式会社形態が有力な手段となった。

「成金栄華時代」 和田邦坊作 引用元: 和田邦坊画業館|施設案内|灸まん美術館 (kyuman.art)

大戦景気に投機ブームが発生した背景ともなる、「投資拡大の制約」とは何か説明せよ。

設備財などを製造する重化学工業が大戦期の産業発展に対応できる水準になかったことで、それを国内で支えることはできなかった。例えば、アメリカが参戦に伴って戦略物資の輸出禁止措置をとると、輸入鋼材に依存していた日本の造船業が建造のめどが立たなくなるなど、日本の重化学工業は未成熟であり、産業発展の絶好の機会を十分に生かせないという「中進国」的性格が背景にあった。そのため、余裕資金は投機的な運用に委ねられる傾向が強かった

明治時代から大正時代初期の電力事業の発展について説明しろ。

明治初期…東京電灯会社など電灯の普及が中心で、火力発電のコストが高かったため事業は不振であった。

中期…琵琶湖疎水を利用した蹴上発電所が成功し、高圧遠距離送電が可能となり生産動力への電化が進んだ。

末期…水力発電が火力発電を上回るようになり、工業エネルギーは蒸気力から電力へと移行した。1915年には、福島県の猪苗代水力発電所から東京の田端変電所まで、215㎞をつなぐ長距離送電が始まり、以降は水力発電による長距離高圧送電時代を迎え、電力需要の拡大に応えることになり、水主火従の時代となった。

全国的な規模で行われた米騒動(1918年)が勃発した経済的背景と歴史的意義を説明しろ。

大戦景気ににより労働者の賃金は上昇したものの、都市化の進展による人口の都市集中は米の消費量を増大させていた。そして、十分ではなかった都市での就労機会を背景として農村にとどまる人口も多く、高率の小作料および零細な小作地であった寄生地主制下での米生産の停滞も背景として米価も高騰していた。さらに、大戦が長引くと軍用米の需要が増えたことも米価高騰に拍車をかけ、政府の米価調節失敗と,シベリア出兵を見越した地主と米商人の投機買占めによって急激に上昇し、民衆は深刻な食糧危機と生活難に陥っていた。自然発生的な蜂起として,近代日本が経験した初めての大規模な大衆闘争であり、一定の政治的自由を拡大させてその後の大衆運動発展の基礎となった。そして、非立憲的な寺内正毅内閣は崩壊し,原敬政友会内閣が誕生した。

富山の米騒動を報じる「大阪朝日新聞」(1918年8月5日)引用元:米騒動と大正デモクラシー(3)米騒動と全国水平社 | 日本近現代史の授業中継 (jugyo-jh.com)

第一次世界大戦が日本へ及ぼした社会的・文化的影響を1920年代まで具体的に説明しろ。

第一次世界大戦による経済発展である大戦景気によって急激な都市化・大衆化が起こった。

大戦ブームにより都市の就業機会が増加し、一方で米価などの農産物価格の上昇が遅れていたため、農村・農業は軍需ブームに沸く都市に比べて不利な条件にあり、農村から都市に向かう大規模な人口移動・社会移動が促進され、都市人口が増加した。

大学令の制定によって単科大学や公立・私立大学が認可され、高等学校令も改正され、さらに中学校や高等女学校も増設され、高等・中等教育機関が大幅に拡張されて教育が普及したことにより知識層が拡大され、都市中間層として文化の担い手となった。義務教育も普及し、就学率は99%を超え、男女の就学率の格差も是正され、文化の大衆化を促進した。第二・三次産業を職業とする俸給生活者ら高学歴層の総体であり比較的均質な生活様式を営む新中間層を媒介として洋食や文化住宅などの近代的な欧米風の文化が普及し、またタイピストや電話交換手などの事務職、接客・サービス業などに従事する職業婦人(自立困難な低賃金であり、時代の先端を行く新しい女性への好奇だけでなく蔑視の響きも込められていた)の登場など、日清・日露戦争前後においては繊維工業で働く出稼ぎの女工が中心であった女性の職域も拡大してモボ・モガも闊歩した。

市街地では明治後期に輸入された自動車が新しい交通機関として利用され、とくに乗合自動車(バス)が市民の足となり、タクシーも出現した。昭和初期になると東京には地下鉄が開通し、郵便輸送や旅客輸送用の定期航空路も開設された。明治時代以来の赤煉瓦造に加えて、鉄筋鉄骨コンクリートのビルディングが建設された。都市ではガスや水道設備が普及し、電灯は農村でも広く用いられるようになった。また、鉄道の沿線での住宅地開発やターミナルデパートなどの娯楽施設などの多角経営も都市化を促進させ、鉄道敷設法の改正による新規の鉄道開発による関連事業の需要も拡大し郊外文化住宅も受容され始め、ローカル線拡張計画などを通じて鉄道路線が広がり、郊外電車が発達した。鉄道の伸長が沿線での住宅地開発をもたらして郊外と都市間の通勤流動性を上昇させた

さらに「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」「東京朝日新聞」「東京日日新聞」の4大紙や大衆雑誌である「キング」、政治・経済・文化など広い分野について小説や随筆から論文・評論までを合わせて掲載した総合雑誌である「中央公論」・「改造」・「文藝春秋」関東大震災や戦後恐慌などの不況下において人気を博した、「現代日本文学全集」などの円本や岩波文庫などの低価格本、1925年から東京・大阪・名古屋で始まったラジオ放送や日本放送協会の設立などのジャーナリズム・マスメディアの発達がそのような大正デモクラシーとよばれる文化の普及および大衆化を加速化させた。

しかし一方で、都市人口の急増により賃金上昇を上回って米価などの物価が上昇して実質賃金が低下したため, 大戦景気のなかで重工業が発展したのに伴い、男子を中心に労働者人口が激増して大企業に集中していたことや、ロシア革命による社会主義思想の流入およびILOの結成、労働者の権利意識の高まりなどを背景として、賃上げを求める労働争議や「小作料引き下げ・都市と農村の所得格差是正・耕作権の確立」などを要求する小作争議、女性の社会的地位の向上を促す青鞜社や同じく女性の地位向上及び社会主義の普及を求める赤瀾会、西光万吉の設立した全国水平社による被差別部落民の自主的な差別の撤廃運動など米騒動以降さまざまな社会運動が発展した。 戦前に鈴木文治が組織した労使協調的な友愛会日本労働総同盟と改称して労働組合の全国組織となり、杉山元治郎や賀川豊彦らが組織した日本農民組合も戦闘性を増した。年功的賃金体系が端緒的に形成されていた大企業と、不利な労働条件を受け入れるしかなかった中小企業の労働者間の賃金格差の増大=「二重構造」を背景として三菱・川崎造船所争議などの労働運動も高揚した。 さらに、新婦人協会 治安警察法第五条で禁止された女性の政治活動の自由をめざし,女性の地位向上を目的とした 。そして、それら大正デモクラシー期の団体運動の共通の目的であった普通選挙を求める普選運動が高まった。

文化面では、従来の画一的な注入主義の旧教育から、子どもを主体とした自由で実践的な教育体験の創造である新教育をめざす「自由教育運動」が展開され、羽仁もと子の自由学園、沢柳政太郎の成城小学校など新教育のための学校建設も相次ぎ、他には各々の能力を生かすドルトン・プランや子供たち自身に生活上の出来事に関する感情を作文につづらせる綴方教育運動などプロレタリア教育運動が発展した。また、児童の村の開設なども行われ、鈴木三重吉「赤い鳥」の創刊やそれを舞台として、唱歌教育へ対抗する童謡運動北原白秋らによって行われた。さらに、労働者を主体とした文化形成をめざすプロレタリア文化運動も展開した。

労働問題や失業救済などの社会問題、交通・住宅問題などの都市問題を背景として、政府は内務省に社会局や都市計画局をおき、また職業紹介法・健康保険法・借地借家法などを制定した。

小林一三が創設した鉄道を答えよ。さらに彼が行った乗客の確保・増加のための具体的な事業展開とその社会的影響を説明せよ。

箕面有馬電気軌道。沿線で住宅地開発を進め通勤・通学の乗客増加を図ると共に、周辺に温泉・遊園地や宝塚少女歌劇団などの娯楽施設を設立・経営した。また、発着駅には、三越百貨店などの従来の呉服系ではなく、百貨店を経営していた「白木屋」に出店を依頼したことを契機として、その後に阪急百貨店(1929年創業)など世界初の鉄道会社経営の百貨店であるターミナルデパートを開業し、関連事業の多角経営に成功した。これは都市化を促進させ、鉄道敷設法の改正による新規の鉄道開設は電力・鉄道車両など関連事業の需要を拡大させた。

1920年代の東京府の人口、特に郊外人口が急増した社会的背景を説明せよ。

大戦景気で急激な都市大衆化が起こり、重工業の発展で労働者人口が増加しただけでなく、産業構造の変化により新中間層・給与生活者が急増して郊外文化住宅も受容され始め、鉄道の伸長が沿線での住宅地開発をもたらして郊外と都市間の通勤流動性を上昇させた。また関東大震災の被害を受けた市街地から郊外への移住により郊外人口が増加して急速に都市化が進展した。

第一次世界大戦による大戦景気時に猛威を振るった感染症名を記せ 。また、その感染症が当時世界的に伝播した理由も説明せよ。

スペイン風邪。第一次世界大戦時の国境や大陸をまたいだ各国の軍隊の交流がスペイン風邪の大流行を引き起こした。

1920年代に小作争議が増加した理由を説明せよ。

第一次世界大戦期以降に発生した大きな「所得格差」が背景となった。そして、土地生産性の低迷の下で土地投資の収益性が低下し、耕地からの限られた成果をめぐって地主・小作人の間の争いが強まったこと、商業的農業の展開と都市労働市場での雇用機会の増大の下で農民たちが自己の労働に対する評価が不当に低いという意識を持つようになり、正当な労働の成果の範囲で小作料率を抑制すべきだと主張するようになったこと、先行して労働争議が社会運動として農民たちに影響を与えていたことなどを条件とし、経済的な利害対立の顕在化とともに小作人らが権利意識に目覚めていった。

※米穀商品流通による全国市場形成を背景とする、品質保証のための米穀検査も小作人の負担を増大させていた。

1922年に創立した日本最初の全国的農民組合の名称と創立者2人および機関紙名を記せ。また、1920 年代の小作農民の運動が掲げた要求6つを記せ。

日本農民組合賀川豊彦。杉山元治郎。「土地と自由」。小作料の減額。小作権の確立。小作組合の承認。小作農の地位確立。小作農の人格承認。小作立法。

※日本農民組合は、左右両派の対立で分裂,統一を繰り返した。戦後は 再結成、分裂を経て、1958年に大同団結して全日本農民組合連合会 (全日農) となった。

1916年~1919年に地租の比率が低下した理由を説明せよ。

大戦景気で第二次・第三次産業が急成長したため、営業税・所得税などの地租以外の税収が増加した。

第一次世界大戦期に成長し,その後経営危機に陥った商社名を記せ。

鈴木商店。

鈴木商店を第一次世界大戦期に総合商社へと発展させた人物を記せ。

金子直吉。

1919 年の春ごろから、大戦景気を上回る景気拡大(戦後景気)が生じた要因を説明せよ。

アメリカ経済の好調にリードされたアメリカ向け生糸輸出の好調や対アジア向けの綿布輸出の拡大、賃金上昇を背景とする国内個人消費の増大など民需・内需に牽引され、重化学工業部門ではなく繊維業や電力業が中心的な担い手になった。また、貿易収支は赤字基調に推移したものの、欧米からの輸入の再開による投資制約条件の解除により投資も拡大し、株式ブームが続いていたことで資金調達面での制約は小さく、海外からの設備財輸入が可能になったことが投資拡大に実質を与えた。アメリカが金本位制に復帰し、正貨流入の途が開かれたために為替銀行等が正貨を取り入れ、日本銀行の正貨準備は急増し、日銀券発行高も激増して投機が過熱した。さらに政府の積極政策や大戦中の英仏の国債の払い戻しによる国内通貨供給の増大も追い風となって景気拡大が生じた。これらを背景として、大戦景気を上回る急激な物価上昇が綿糸・綿織物・生糸・米などに発生し、大都市部では住宅供給不足から土地価格の急上昇も生じた。

日本資本主義の、第一次世界大戦を経た新たな問題を説明せよ。

経済界の過大な膨張」が戦後恐慌以降に不況を長期化させ、工業の国際競争力不足の遠因ともなった。また、物価騰貴が都市民衆の生活を圧迫して、都市と農村との格差を惹起させた。さらに、在華紡などの資本輸出拡大の反面、中国では民族運動の高まりから日貨排斥を招き、対中国輸出の減退も生じた。

1915 年~ 1920 年に綿糸の生産量が落ち込んだ理由を説明せよ。

大戦終結によって国際競争が復活するとともに,中国では五・四運動以降,日貨排斥運動が拡大し,綿織物・綿糸の輸出が抑えられたことで生産量が落ち込んだ。

池貝鉄工所が果たした役割を説明せよ。

アメリカ式旋盤の精度を持つ旋盤を完成させ、日本の工作機械製作の先進的役割を果たした。

大地主の戸数が1923年をピークに減少傾向に入り、自作化傾向(寄生地主制の希薄化)が進んだのはなぜか。地主および小作農両者の視点で説明せよ。

地主側…1920年代に小作争議が多発して小作料収入が不安定になり、また小作利回りが預金利率や有価証券利回りと比べて有利でなくなったことで、地主側からすれば小作地所有が資産所有形態として魅力を減じた。

小作農側…電力及び小型モーターの利用による小幅力織機使用の中小工場の発達で手機使用の農家家内工業が圧倒され、副業機会が縮小して高率小作料が負担できなくなり、さらに農村外の雇用機会も急激な都市化の進展によって拡大していた。

※小作地率は農業恐慌のなかで再び増大した

20世紀初頭の社会主義運動の性格の変化について説明せよ。

当初はアナーキズムの影響が強く、労働者の直接行動に頼り、政治闘争を軽視し、ロシア革命を否定的に評価する傾向があったが、次第に、私有財産を否定するマルクス主義が社会主義運動の主流を占めるようになり、ロシア革命に倣って政治闘争を重視するボリシェヴィズムが優位に立つようになった。

アナ・ボル論争について説明せよ。

1920年代初めの日本の社会主義運動や社会運動において、アナルコサンディカリスム派 (アナ派、無政府組合主義)とボルシェビズム派 (ボル派、レーニン主義)の間で起こった思想的・運動論的論争と対立であり、労働組合運動の組織論について、アナ派は自由連合論をとり政党の指導を排除すべきと主張したのに対し、ボル派は中央集権的組織論をとった。日本労働組合総連合結成大会に至る過程で両者の対立が頂点に達したが、のちにアナ派は衰退し、マルクス主義が主流となった。

民本主義の提唱者と、その人物が「中央公論」上に掲載し、その主張を唱えた論文名を記せ。また、その主張の内容を、「民主主義との違い」を明確にしながら説明せよ。

吉野作造。「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」。デモクラシーを国民主権(人民の,人民による)の民主主義と解さず,天皇主権の帝国憲法に抵触しないようにし、主権運用が民衆本位(人民のための)である=民本主義と解し,政党内閣制と普通選挙法制定を具体的目標とした大正デモクラシーの指導理論となった。

しかし、民本主義によって指導された普選運動は原敬内閣による普選法案否決を契機として挫折し,民本主義自体もまた,その妥協的性格を社会主義やサンディカリズムの側から批判され,大正中期以降急速に影をひそめた。

「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」-史料日本史(1145) (chushingura.biz)

吉野作造(1917年2月)引用元:吉野作造|大正デモクラシー|民主主義|選挙普通 (yoshinosakuzou.info)

寄生地主制の下での小作農の耕作権の確立過程について説明せよ。

農地改革以前の日本は、耕地の半分近くが小作地で、地主耕地を借りて耕作する零細農家が全農家の7割を占めており、農村における過剰人口の滞留のもとで地主の力が優勢であった。小作農は賃借地について地主から高額現物小作料を徴収され、耕作権もきわめて弱かった。小作契約も文書によらず口約束のことが多く、地主の一方的意思で小作契約の解除、土地取り上げが行われることが多かった。

1920年代以降本格化する小作運動も、小作料減免とともに、耕作権の確立を地主に要求して激しく闘われた。政府も事態を放置しえず、20年代に「小作法」の制定によって小作権をある程度強化することを企図したが、地主・保守勢力の強い抵抗(議会は地主を有力な支持基盤としていた)のもとでこの企ても成功せず、 「小作調停法」(当事者は地方裁判所等に調停を申し立てることができ,調停が成立すれば和解と同じく,双方を拘束する効力が生じた。 ただし小作農に不利に作用することも少なくなく、地主側は多少の譲歩で争議を解決できるとして歓迎したが,小作側は終始これに反対した。)が成立したにとどまり、小作法の制定の企ても30年代初頭に中止となった。

しかし、日中戦争をはじめとする戦時体制への突入は、米をはじめ、食糧増産のために生産の担い手である小作農の耕作権の強化を必要とした。1938年に「農地調整法」が制定され、賃貸契約の登記がなくても小作契約に第三者への対抗権を認めたり、地主による小作契約解除を制限したりするなど、小作農の耕作権が強化された。また、統制経済下では、小作料の制限・生産者米価の優遇も行われた。

戦前の労資協調機関を記し、その限界を説明せよ。

工場委員会。1920年代から1930年代にかけて、日本のおもに重工業部門の財閥系大企業や国営軍工廠の工場において、労使間の意思疎通のため設置された機関であったが、工企業横断的な労働組合の企業への浸透を排除するために、使用者側の主導で導入されたものがほとんどで、審議事項は作業能率や福利厚生が中心であり、使用者の諮問機関の域を出ず不十分であった。本格的な労使協議制は戦後の日本生産性本部の設立以降である。

関東大震災が及ぼした文化的影響を説明せよ。

東京・横浜は壊滅状態となり、都市機能が完全に麻痺したことは、近代文明への懐疑と、近代化のいっそうの加速という両面を生み出し、社会や世相が大きく変わる転機となり、貧困児への給食の関心も高まった。さらに、被害を受けた市街地から郊外への移住により郊外人口が増加して急速に都市化が進展した。

関東大震災の混乱の中での社会主義者への弾圧事件を2つ説明せよ。

革命的労働運動の拠点であった南葛飾地方の労働運動の弾圧を図り、 南葛労働組合の幹部河合義虎ら組合員と自警団員,それにアナルコ・サンディカリズム系の労働組合員の平沢計七を警察と軍が虐殺した事件である亀戸事件および、憲兵大尉の甘粕正彦らが無政府主義者大杉栄らを計画的に殺害した事件である甘粕事件

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状 大阪毎日新聞社 – 関東震災画報引用元:Wikipedia
「大正12年9月1日」 鹿子木孟郎画
関東大震災で避難する人びとをえがく。東京都美術館蔵 引用元:明治から大正へ (coocan.jp)

第一次世界大戦後の社会主義運動の高揚の中、その痛手となった出来事、またそれにより一時的に解党が決議された組織を説明しろ。

関東大震災の混乱の中、社会主義者や朝鮮人が暴動を企てているというデマが流れ、戒厳令がしかれた中で、青年団・在郷軍人会・消防組などを中核として住民がつくった自警団や警察・憲兵などにより社会主義者や朝鮮人が虐殺される事件が起こった。こうした情勢に直面して、日本共産党の内部では政治方針をめぐって対立がおこり、解党が決議された。

ワシントン軍縮を背景として結成された、陸軍工廠を中心とする労働組合を記し、その内容も説明せよ。

官業労働総同盟。軍縮による失業不安を契機として、大阪砲兵工廠の向上会、東京砲兵工廠の小石川労働会、八幡製鉄所の八幡同志会、東京市電の交通労働組合によって結成された。官公業労働者の地位の改善を目標に掲げ、軍縮失業反対運動を展開し、また、ロンドン軍縮による失業反対や、製鉄合同反対運動にも取り組んだ

ワシントン海軍軍縮条約締結による経済への影響

軍需に望みをかけていた大戦期の主導産業である造船・鉄鋼業が大きな痛手を受け、不況が長期化した。一方で、軍縮の時代であったことは都市化に対応した社会資本投資拡大の余地を与え、道路・上水道の整備だけでなく、大都市部での電鉄・電気供給事業などが中央地方を通じた財政支出の拡大を主導した。

ワシントン会議後の、日本国内の軍縮を行った人物を陸軍と海軍それぞれ述べよ。また、軍縮の背景、その軍縮により強化したもの、軍縮を行う中での学校教育面での変化を説明せよ。

海軍は加藤友三郎、陸軍は山梨半造・宇垣一成。第一次世界大戦を契機に出現した、戦争形態の総力戦段階への突入と国際的な軍縮機運の高揚という2つの課題に同時に対処するために軍縮を行い、また、陸軍は軍縮を行う中で、師団を削減すると同時に航空部隊や戦車部隊を新設・増設するなど、装備の近代化を図った。また、整理された将校の失業対策と国防観念の普及を図って、中学校以上の学校で軍事教練が正課となり、配属将校が配置された。

1923年~1930年に軍事費が低水準で推移した理由を説明せよ。

戦後恐慌以降の慢性的不況により軍事費削減が求められており、さらにワシントン会議が開催されて太平洋・東アジアにおける平和的な国際秩序が形成された。また、不戦条約ロンドン海軍軍縮条約が結ばれ、列強間の協調と戦争の再発防止が目指され、日本は米英との協調外交を進めて中国への軍事不干渉を原則とする政策をとった。

1920年代初期に結成された平和主義団体を記し、その内容を説明せよ。

軍備縮小同志会。 尾崎行雄や吉野作造、島田三郎らを発起人とし、第一次世界大戦後の軍縮ムードの中で、軍国主義の打破や平和の確立を訴える講演・出版などの啓発活動を行った。

石橋湛山による「小日本主義」を説明し、それを提唱した国際的背景を説明せよ。

植民地を放棄して貿易関係に重点を置くことを主張するもの。植民地経営が財政的な負担が大きいことや、民族自決の国際世論を背景に朝鮮で三・一独立運動、中国で五・四運動が起こり、さらにワシントン会議において軍備縮小の機運が高まっていた。

国民の基本食糧である米穀の需給に対する国家統制の開始を意味する法律名を述べ、その内容を説明せよ。

米穀法。 間接的な米価調節による米穀投機抑制が失敗し、社会不安を惹起した米騒動の経験から、市場で米穀の直接買い入れ・売り渡しを行い、需給量の調節を図る米価政策を定めた法律であり、 農業恐慌が深まった際に廃止され、より強力な「米穀統制法」にかわった。

戦後恐慌によって物価は下がったのにもかかわらず、賃金は高止まりした理由を説明せよ。

国際競争圧力が強い重工業製品・綿製品などについては海外市場の影響によって価格が低く抑え込まれたものの、国内消費財の価格は通貨膨張の影響もあって高い水準にとどまっていた。さらに賃金水準には下方硬直性という性質があり、賃下げ反対の労働争議も激化していたことから賃金水準は高止まりしていた。また恐慌過程で解雇されたのが大戦中に人員確保のために雇われた若年労働者であったために在職していた熟練労働者の存在によって賃金が高止まりしていた。

1920年代の日本の貿易収支を説明せよ。

国際競争力不足により国際競争力の弱い鉄鋼・機械の輸入が増加し、国内市場拡大による食料品・肥料・衣料原料・木材の輸入が増加した。また、再三の恐慌に対する政府の日本銀行券の増発によるインフレ傾向による輸出の減少(輸出品の価格が高くなる)に加え、関東大震災後の復興資材の輸入増大で入超が続いた。

1920年代の労使関係・企業関係の変化

企業は、技術革新による労働生産性上昇を実現させるために良質な労働力を確保することに強い関心を払うようになり、前借金で労働者を束縛するような古い労務管理方法を改めて近代的な雇用関係と労務管理方法の採用に向かった。企業内福利厚生事業にも力が入れられ、さらに労働組合の浸透防止を目指して労使協議の場としての工場委員会制度も行われた。熟練労働者を企業内で育成して保持するために年功序列型賃金体系も大企業で採用されるようになった。しかし、産業間・企業間労働力移動の部分的制約や大企業・中小企業間の賃金格差など、労働力市場の「二重構造」も発生した。

1920年代に、企業部門を中心に不況感が支配的であった理由を説明せよ。またそれとは反対に生産が拡大した部門は何か。また、そのような不況感は歴史的にどのように解消されていったか説明せよ。

カルテル等の独占組織による価格支配力の弱さや対外競争圧力によって製品価格が低下して、賃金上昇に対応すべき労働生産性の上昇不十分に起因する生産費上昇を製品価格がカバーできなかったことを含め、高賃金・高金利などの制約によって日本の産業企業部門が低収益を余儀なくされ、また綿紡績などの基軸的な輸出産業では銀貨の持続的な低落によって輸出価格が低下傾向にあり、日本製品のボイコットもあって市場拡大に制約が大きく、閉塞感が強まり、重工業などの新たな基軸産業とともに企業収益が悪化した。また大戦ブームまでの投機の失敗がかさなって金融面では貸出が消極的となり、そのために高金利が解消せず、債権債務関係も固定化した。また、ワシントン海軍軍縮条約によって軍需に望みをかけていた造船や鉄鋼業が大きな痛手を受け、関東大震災の発生とその対策としてとられた震災手形の承認が不良債権を助長した。

一方で、大戦期の都市への人口集中によって生じた社会資本の不足は、国内の公共部門投資の増大を促し、大戦期に投資が遅れていた電力業への投資拡大が進展し、電力関連産業の成長を促し、その関連で綿織物業の力織機化を促して新たな輸出産業も作り出した。これらのことはワシントン体制下の軍縮時代の財政的余裕が支えた。

しかし、高金利については金融恐慌による不良債権・債務関係の整理に関しての低金利政策が企業の積極的な投資活動を促して解消に向かい、また、高賃金については昭和恐慌期の賃金の下落によって解消に向かい、対外競争圧力については高橋財政期の円安と関税引き上げによって解消に向かった。

産米増殖計画の目的を日本側・朝鮮側で述べ、内容・帰結も説明せよ。

日本は急激な人口増加と生活向上に伴って米の需要が高まったが、当時の日本国内の生産力はその需要に対応しきれず、20世紀に入った頃には日本は恒常的な米の輸入国になっていった。当時の日本では工業生産性を維持するために賃金の抑制を図る必要があったが、そのためには賃金の動向に大きな影響を与える主食である米の価格を抑制していくことが重要であった。そして、米価の抑制のためには大量の米を日本本土に輸入する必要があったが、安定的な輸入は困難で、日本の国際収支の悪化要因にもなっていた。第一次世界大戦中にはその問題は深刻化して、米騒動へと発展し、食糧危機も露呈していた。一方、朝鮮半島では三・一独立運動以来の独立運動を鎮静化のために生活水準の向上が課題となり、そのためにも資金難で進まなかった農業生産向上のための土地・農事改良事業が必要とされた。更に朝鮮総督府及び朝鮮銀行が朝鮮銀行券の安定化のために、朝鮮銀行が準備できる正貨であると同時に朝鮮銀行券と唯一交換できる外貨でもあった日本銀行券を日本本土との交易によって獲得する必要に迫られていた。だが、世界恐慌の影響による資金不足で事業遂行が困難となり、更に朝鮮米の大量移入は日本本土の農村恐慌を悪化させるとした世論の批判も登場するようになった。このため、1934年に事実上の計画打ち切りとなった。

治安維持法が出された歴史的背景は何か。

日ソ基本条約の締結によるソ連との国交樹立により、第一次世界大戦中に起こったロシア革命によって惹起された共産主義の影響力が拡大しており、日本においても共産主義勢力の活動が活発になることが懸念された。また無政府主義者が摂政宮裕仁親王の暗殺を謀った事件である虎ノ門事件の発生など、無政府主義活動ないし社会主義運動が活発化していたためにその取り締まりが求められ、さらに第二次護憲運動を背景として護憲三派内閣が成立し、普通選挙法を制定したことで男子普通選挙が実現したが、その結果、労働者階級の政治的影響力の増大が懸念されていた。

金融恐慌の背景および内容、またその終息のための政策を説明せよ。また、金融恐慌が当時の金融界に与えた影響も説明せよ。

戦後恐慌や震災恐慌に際して政府が日本銀行券の増発による過剰な特別融資で救済をはかったため,経済界の整理が遅れ、その結果,未決済の震災手形が多数残っていた。 1923年には震災前に銀行が割り引いた手形のうち,震災で決済できなくなったものは日銀が再割引して銀行の損失を救い,それによる日銀の損失は,1億円を限度として政府が補償する「震災手形割引損失補償令」を勅令で公布したり、また特別貸し出しにより決済期限を延長していたものの、戦後恐慌以来の不良手形が含まれていて決済が進まずに一部銀行への信用不安が拡大していた。 その処理を急ぐ法案を議会が審議する過程で、実際は破綻していなかった渡辺銀行の経営不安をあおるような片岡直温蔵相による失言が激しい取付け騒ぎを引き起こし、多くの銀行が休業するに及んだ。 その後、若槻内閣の総辞職の後を受けた田中義一内閣により、3週間のモラトリアムを発して全国の銀行を一時休業させ、日銀から20億円近くの非常貸出しを行って恐慌を鎮めたものの、国民の心理的不安から大銀行へ預金が移ったことで中小銀行の休業・倒産が続出して銀行の整理・統合が進んだため,銀行数が減少した。一方で「第一銀行・三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行」の五大銀行は中小銀行を吸収し、銀行の産業への貸し付けは長期的・固定的となり、その額も莫大なものになって、銀行資本は産業資本と不可分に結びついて支配力を強めていった。

「詳説 日本史図録 第6版 山川出版社」を元に筆者作成。(※訂正:五代銀行→五大銀行)
1927年(昭和2年)3月23日 当時の取り付け騒ぎ 毎日新聞社「昭和史第5巻 昭和の幕開く」より 引用元:Wikipedia

1927年の「銀行法」の内容およびその結果と、その歴史的意義について述べよ。

資本金の最低額を100万円に定めて小銀行の整理を促したもので、預金者が銀行預金から郵便貯金へ、あるいは中小銀行から財閥系大銀行へと預金先を移動するようになり、預金の大銀行への集中を高め、中小銀行の整理・統合が促された。それにともない,五大銀行の金融界での支配的地位が確立し,財閥の金融面からの産業支配が強化された。また、20年代の企業収益の悪化の一要因であった高金利が解消される一方で、地主資金の地方的流通を媒介していた地方銀行が地主制の後退と並行して弱体化し、地方的金融市場は大銀行が支配する都市金融市場に従属する関係が生じた。

1920年代、欧米が金解禁を断行したのにも関わらず、日本は金輸出禁止を継続した理由。またそれによる弊害

日本にとって1920年代は恐慌の時代と言われ、1920年に戦後恐慌、1923年に震災恐慌、1927年に金融恐慌が生じていたが、これへの救済策として政府は、「金本位制下では不可能な」、日銀券増発によるインフレ的な放漫財政を行った。このため、金解禁の機を失っていた。その影響として、経済界の整理は進まず、インフレ傾向により工業の国際競争力が低下し、また、変動為替相場制下では、出超は円高、入超は円安となるが、恐慌下で輸入超過となっていた日本の円は下落し、かつ外国為替相場は不安定に動揺して海外取引に困難を生じさせていた

1925 年~ 32 年頃にかけての労働争議の特徴を説明せよ。

第一次世界大戦直後は,階級闘争主義の立場をとる日本労働総同盟のもと,大規模な争議が多く,賃上げなど積極的な要求が中心であった。

しかし、1920 年代後半以降,日本労働総同盟は労使協調へ転じ,左派が脱退して日本労働組合評議会(日本共産党の影響が強い)が結成される(それ以外は社会大衆党の基盤となる日本労働総同盟)など労働組合の分裂が進んだことで、争議は小規模化した。また、昭和恐慌を背景として失業反対・賃金値下げ反対など防衛的な要求になっていった。

浜口内閣の政策で犠牲となった階層2つ

蔵相の井上準之助は、金解禁の準備として緊縮財政を行い、海外市場における日本商品の価格を引き下げるために国内物価の引き下げを図った。それは輸出に有利な要因をつくる意図があったが、一方で農産物価格下落による「農民」の犠牲を伴うものであった。

また、産業合理化を促進して、企業利潤の増大と国際競争力の強化を図ったが、強烈なリストラを意味する産業合理化は、解雇や賃金カットなど「労働者」の犠牲を伴うものであった。

昭和恐慌時に過剰な労働力が農村に集中した理由

都市では失業者が増大していた。このことにより、都市における就労機会が減少し、農村から都市への人口移動が抑制され、さらに都市の失業者の多くが帰村したから。

「重要産業統制法」制定の経済的背景および内容を説明せよ。

1920年代の再三の恐慌の際の企業への日銀の過剰な救済融資によって、国際競争力の弱い日本企業の淘汰が遅れていた。そこで、浜口内閣は金輸出解禁を行ってデフレ効果を期待するとともに,企業に対しては補償措置としてカルテル結成を助長する「重要産業統制法」を定め,産業合理化を促進し、国際競争力の強化を目指した。

「重要産業統制法」の内容と歴史的意義

不況カルテルを容認して企業の共倒れを防ぐとともに、政府による生産・価格の制限などの産業統制で国内産業の立て直しを図ろうとするものであったが、効果を上げられなかった。しかし、これは公益規定により価格吊り上げを規制するという側面を持っていたため、需給関係・価格関係に対して政策的に介入する動きが現れたという歴史的意義をもっていた。

1931年~1936年の間の鉄鋼生産量の急増の要因となった政策とその目的

満州事変以降の軍需拡大に対応し、昭和恐慌下の鉄鋼業の経営悪化を改善して鉄鋼業の国際競争力を強化するために官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄会社を合併させる製鉄大合同が実行され、国策会社である日本製鉄会社が設立された。

1930年代の重化学工業の発展に寄与した「昭和恐慌以来の賃金コストの低下の維持」はなぜ起こったか。また、その発展過程における企業間の格差についても説明せよ。

熟練工の不足及び農村の不況を背景とした過剰な不熟練労働力が大量に存在していたのに加え、昭和恐慌の際に高給者が解雇されたこと、回復期に雇用の拡大が主に若年者を中心に進み、平均賃金が低下したこと、雇用の充足に関して臨時工制度や外注によるコスト引き下げが試みられ、さらに下請け・外注関係などより低い賃金水準を利用した生産形態が普及したことで、景気拡大に伴う製品価格の上昇が企業収益に直結し、労働分配率も下がり、海外競争圧力の大幅な低下・円為替の低下・関税改正なども踏まえたそのような有利な条件を利用して操業率の上昇・生産拡大・設備投資というような流れで自律的に内部循環的な経済拡大が実現した。しかし、その間に中小経営では雇用の削減や賃金の引き下げによる労働条件の悪化など、賃金格差のような「二重構造」が定着し、そのような境遇の労使紛争は「労働争議調停法」の事実調停による和解及び厳しい弾圧により、社会的に不満が鬱積した。

教化総動員運動の内容および歴史的意義を説明せよ。

政府が 青年団,婦人会,在郷軍人会,宗教団体その他一切の教化団体などを動員して展開した国体観念の高揚運動および教化による勤倹節約を図る運動であり、金解禁による不況への覚悟を訴え、輸入を極力抑えるために国民は外国製品を買わずに我慢し、企業は経営努力をして生産性を上げ国際競争力を高めることを促し、質素倹約・国産品愛用を呼びかけて国民に浸透させ、難局打開への協力を迫ることを目的とした。日中戦争の激化につれて国民精神総動員運動に引継がれていくが,特に日本ファシズム化の道を開いた点で重要な意味をもっている。

なぜ金解禁(1930年)をする必要があったのか。対外関係に着目して説明せよ。

金本位制の役割である自動調節機能(高物価による輸入超過で金が流出すると国内貨幣量は減少し、デフレ効果で物価が下落し、輸出促進となる)による国際的経済均衡を求めて対日圧力が高まり、さらに輸出を拡大させるために為替を安定させる必要があった。また、日露戦争の外債償還期限が迫り、その返済のための借金を各国からするために円為替を安定させる必要もあった。

あえて、”旧平価” で金解禁を行った理由を説明せよ

新平価を採用するためには「貨幣法」を改正しなければならなかったが、当時の議会ではそれは困難であった。また、円の国際信用を落としたくないという配慮に加え、実質的な「円高」による金流出によって通貨の縮小とデフレを引き起こし、経済界の抜本的整理を促進しようとした。

金輸出再禁止の歴史的背景を説明せよ。

対中国政策の失敗が重なってナショナリズムおよび日貨排斥運動が高揚した対中国輸出が不振になったことに加え、円切上げをともなう金解禁策と世界恐慌の二重の打撃により昭和恐慌が発生して大量の金が流出したうえ,満州事変に伴う軍事費の膨張によって財政の赤字が拡大したため、緊縮財政方針は破綻した。さらに満州事変後のイギリスの金本位制離脱を契機とし、金輸出再禁止を見越した三井・住友財閥などによるドル買いによりさらに金が流出し、金解禁政策も破綻していた。

管理通貨制度の弊害を説明し、それへの対策として40年代になにがなされたか。

金とのつながりが切れた通貨制度は、ともすればインフレを招く危険があるため、悪性インフレが生じないように通貨発行を管理することの必要性から、1941年に日本銀行券の最高発行限度は大蔵大臣が定めることにした。

昭和恐慌の際の農村の危機の内容と背景および、それを原因として民間団体や軍部の中で起こった運動を説明せよ。

緊縮財政による米価下落(農家は生産量の拡大によって現金収入の現象をカバーしようとしたが、それが一層の価格の下落をもたらした)、産業合理化による労働者解雇が進展する中、世界恐慌下で行った金解禁は昭和恐慌を招き、当時人造絹糸との競合にさらされていた生糸のアメリカ向け輸出激減は養蚕業に打撃を与えた。更に、産米増殖計画に伴う朝鮮・台湾からの米流入の影響や、日本史上初の豊作飢饉による米価暴落に冷害による東北大飢饉が相まって、欠食児童や娘の身売りなど農村は惨状を呈した。また、失業者帰村による農村人口激化により農家経済の疲弊は加速した。その際、農村では 農村救済請願運動 、児童虐待防止法や、疲弊した農村の農民を入植させると共に対ソ戦略の兵力扶植のために満蒙開拓団など移民政策も図られた。

こうした経済政策の失敗と農村の惨状を背景として、民間の農本主義者・国家主義者の団体や、農村出身者も多かった軍部の青年将校を中心に、政党政治・協調外交や財閥の打破を目指す国家改造運動が活発となった

満蒙開拓団の推進者を2人挙げ、その現地での実態を説明せよ。

東宮鉄男。加藤完治。現地の人々の耕地を奪うような強圧的なものであり、日貨排斥などの反日感情を高め、さらに気候風土の違う満州に送り込まれた農民たちの農業経営も困難を極めた。

小作争議件数が 1930 年代半ばにピークに達した理由を説明せよ。

農業恐慌が生じると、小作地を取り戻して自ら耕作しようとする中小地主が現れ、これに対抗する小作農との闘争が各地で激増したから。

1920年代の小作争議と1930年代の小作争議の違い

1920年代…大地主を相手とする小作料引き下げ要求を主とした

1930年代…中小地主の小作地引き上げに対する反対争議が主になり、争議形態も激しくなった。

農本主義を説明し、また近世・近代のそれについて言及しながら後者のそれがどのような思想や事件に結び付いたか説明せよ。

農業生産と農村共同体こそが国家と民衆の基礎であるとの主張。近世においては、農村への商品経済が浸透してその矛盾が拡大する中で、崩れつつある農村の自然経済や共同体的結合を美化する、近代化への対抗思想として登場し、安藤昌益二宮尊徳大原幽学などがいた。明治以降では,小農業生産の危機や地租改正に伴う村請制の解体を背景とした農村共同体の崩壊が進行するにつれて農本主義の主張は強まり、報徳社などが存在した。とりわけ昭和初年の農業恐慌による中小農民の没落は、権藤成卿や農本主義にもとづく青年教育のための愛郷塾を設けた橘孝三郎ら農本主義者の急進的活動を促した。農本主義者の思想は右翼思想につながり,社会主義思想と対立しつつ日本ファシズムの精神的支柱の一つとなり、血盟団事件・五・一五事件・農村救済請願運動などの思想的背景となった

1929 年~39 年の間に長野の労働者数が減少し続けた理由を説明せよ。

世界恐慌のなかで消費が縮小したアメリカへの生糸輸出の不振が続いた。


1929 年~39 年の間に福岡・大阪・東京の労働者数増加の理由を説明せよ。

綿織物の輸出が拡大し、また軍需により重化学工業が成長した。


1929 年~39 年に東京の労働者数が大阪のそれより増加した理由を説明せよ。

産業構造が重化学工業中心へと転換し、日中戦争で戦時経済統制が強化され,軍需優先・民需抑制の動きが進んだ。


※長野=製糸業、大阪=綿糸紡績・綿織物業、東京=重化学工業

1930 年から 1935 年にかけて繭の生産量が落ち込んだ理由を説明せよ。

世界恐慌で消費が縮小したアメリカへの生糸輸出が激減し,原料繭の需要が落ち込んだ。また、レーヨンの台頭に押されて後退した。

1930 年~40年の大都市への人口集中の背景を説明せよ。

高橋財政のもと,世界的な綿花価格の低下による原料安及び低為替政策により綿製品などの輸出増進および軍事費増額などの積極政策が行われ、綿業や重化学工業が発展し,大都市での労働力需要が増大した。広田内閣以降の大軍拡や日中戦争勃発に起因する重化学工業の発展、および「国家総動員法」に基づく「国民徴用令」により一般国民の軍需工場への徴用が行われた際も大都市への人口集中が起こり、軍需工場の郊外化も進行して郊外人口も増加した。

1932年に行われ、無産運動として一定の成果を上げた運動を記し、その内容およびその背景を説明せよ。

米よこせ運動。昭和恐慌下の当時、東京では失業者が続出し、弁当を持ってこられない「欠食児童」が増える一方、豊作で政府手持米は増大していた。 無産団体は請願署名や陳情デモなどの大衆行動を背景に対政府交渉を行い、 ついに政府米の低価格払下げを実現させた。

日本が他の資本主義諸国に先駆けて世界恐慌による恐慌を克服できた理由および、1930年代後半に重化学工業の生産量が軽工業の生産量を上回るようになった理由を説明せよ。またその過程における高橋財政による歴史的意義を国内・対外両面について説明せよ。

高橋財政下での、赤字国債の発行による満州事変に関する軍事費・農村恐慌に関する時局匡救費などの農村救済費を中心とする有効需要創出による財政の膨張と、 世界的な綿花価格の低下による原料安および円為替相場の大幅な下落を利用した綿製品などの植民地への輸出の振興とによって産業界は活況を呈した。これには、井上財政期に進められた企業の合理化による国際競争力の強化や世界恐慌に先行した金融恐慌により金融界が安定していたことも起因している。また、1931年には資本と労働の犠牲への補償措置として「重要産業統制法」が公布されたことによる各種産業部門におけるカルテルの活動の保護と生産価格の制限や、 重化学工業製品を中心とする輸入税引き上げ及び国内市場の相対的拡大を企図した「関税定率法」の改正など、満州事変以後の軍需の増大と政府の保護政策とに支えられて、重化学工業が目覚ましい発展を遂げ、日本の産業構造は 軽工業中心から重化学工業中心へと大きく変化した。

しかし、そのような積極財政政策は浜口・井上が必死になって押さえ込もうとした軍事予算の急増を意味し、大量な国債の発行による際限のない軍需インフレの道をひらくものであり、また通貨安を利用しての輸出攻勢は、世界からソーシャル=ダンピングであるとの反発を買い、国際協調を破壊して世界をブロック経済など保護主義政策に追いやる一因となった。

高橋財政において、上記の政策以外の政策で主なものを説明せよ。

為替相場の低落を背景にして「外国為替管理法」による外国為替の統制が開始され、貿易摩擦の激化への対応策として通商会議を開催したり「貿易調節及通商擁護法」を制定した。また、重化学工業製品を中心とする輸入税引き上げ及び国内市場の相対的拡大を企図して「関税定率法」を改正し、税率の引き上げが行われた。また、船舶のスクラップアンドビルドによる新造に助成金を与え、海運不況対策、海運競争力強化対策及び新造船需要を創出するために船舶改善助成施設が実施された。

高橋蔵相の財政・金融・貿易政策の特徴を井上蔵相のそれと比較 せよ。

井上蔵相…財政を緊縮して物価の引き下げを図り、産業の合理化を促進して国際競争力の強化を目指し、旧平価による金輸出解禁で外国為替相場の安定と経済の抜本的整理を図った。

高橋蔵相…金輸出再禁止を断行し、円の金兌換を停止して管理通貨制度に移行し、円為替相場の大幅な下落を利用して植民地への大量輸出を行い、軍事費増大・時局匡救費を柱とする予算の増額(有効需要の創出)など、高橋財政と呼ばれる積極財政政策を推進した。

※一方で、高橋財政期には、「軍事費の公債発行」を認めず、公債発行額は抑えられていた。軍事費支出は36年までは比較的に伸び率が抑制されていたため、軍事費支出の増加は一回限りの呼び水的効果に限定されていた。

高橋財政が二・二六事件とどのようにつながっているかを説明せよ。

日本銀行引受の赤字公債を財源に軍需を中心とする積極財政を展開したことで,軍需インフレの先がけとなった。しかし、赤字公債が増えてしまうことを懸念し、景気回復が鮮明になった1936年から積極財政から緊縮財政へ転換しようとしたが、その際に軍事費を削減されそうになった陸軍が二・二六事件で高橋を暗殺した。

1932年の時局匡救事業と農山漁村経済更生運動をそれぞれ説明し、それらの活動の歴史的意義を説明せよ。

時局匡救事業は、政府が主体となり、公共土木事業に農民を就労させて現金収入を得させようとするのが目的で、農山漁村経済更生運動は、内務省・農林省が主体となり、農村の窮乏を農村自身の力で救済させるため、「自力更生・隣保共助」を提唱し、産業組合を拡大して農民の結束を図った。

更生運動の性格は一時的・応急的な恐慌対策から、日中戦争後の総力戦体制に即応した農業生産力拡充対策へと変わって国家による農業統制の仕組みが成立した。また町村末端の集落活用により、国民精神総動員運動、翼賛運動の先駆となり、ファシズム支配機構形成の起点となった。

日本資本主義論争( 日本民主革命論争 )の内容を説明せよ。

日本共産党の32年テーゼに基づいた『日本資本主義発達史講座』の刊行を機に起こった、日本の資本主義の現状・性格規定および日本における革命戦略の問題などに関して戦前の日本マルクス主義者の間でなされた論争。共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であるという「二段階革命論」を唱え、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。 しかし、コム・アカデミー事件で講座派が壊滅状態になり、ついで人民戦線事件で労農派が一斉検挙を受けると、議論も不可能となり、論争は終焉を迎えた。

労農派…雑誌「労農」によって主張を展開した、山川均,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら。

講座派…「日本資本主義発達史講座」で主張を展開した、野呂栄太郎,山田盛太郎、服部之総ら。

エロ・グロ・ナンセンスとは何か。その社会経済的背景と合わせて説明せよ。

昭和初期の刹那的・享楽的・退廃的な風潮を表示する言葉で、迫りくるファシズムの足音に対して民衆の風俗的抵抗という側面もあった。重なる不況・金融恐慌・倒産・失業・凶作による農村での心中や身売り・思想家などの検挙など、出口のない暗い絶望と虚無感を背景としていたが、満州事変後の軍国主義台頭によりこのような逃避的流行は見られなくなった。

中国の国権回復運動に対して陸軍の間に危機感が高まったのはなぜか。また、それに対する日本の行動を説明せよ。

満州は日露戦争以来の日本の特殊権益地帯であり、対ソ戦略拠点としても、重工業発展のための重要資源供給地としても、日本の生命線とされていた。そこで、軍事力により満州を中国の主権から切り離し、日本の支配下に置こうとする機運が高まったため、柳条湖事件をきっかけにして満州事変を起こした。

新興財閥の財閥名を5つあげ,それらのうち2つについて、朝鮮・満州への投資を説明せよ。また、新興財閥と既存の財閥との違いについて具体的に説明せよ。

日産コンツェルン。日窒コンツェルン。森コンツェルン。日曹コンツェルン。理研コンツェルン。鮎川義介日産は満州に進出し,満州重工業開発会社を設立して満州の産業開発を進めた。野口遵日窒は朝鮮に進出し,水力発電・化学工業を開発した。

それら新興財閥は、国内外をターゲットとし、鉱山・金融・流通業を軸とした多角経営を行い、融資や補助金などの政府からの金融面の優遇および閉鎖的な同族経営による株式所有を背景とした一族内の内部資本を資金源とした既成の財閥に比べて、株式の公開による事業資金の調達・閉鎖的な同族経営による株式所有の排除など、より合理的な経営方針をとる、重化学工業を軸とする財閥であり、経営理念・技術・植民地進出などの面で斬新で積極的な経営を展開したが、資金的基盤が脆弱で、外部金融機関への依存度が高く、戦時統制経済の進展に伴い既成財閥との競争が激化し、さらに、戦局の悪化で植民地への進出も成果をあげられずに弱体化していき、戦後の財閥解体で崩壊した。

※森コンツェルン…森矗昶(のぶてる)が日本沃度、昭和肥料の2社を設立。前者でアルミニウムを国産化し、後者で国産技術による合成アンモニアの生産に成功した。

※日曹コンツェルン…中野友礼が日本曹達(ソーダ)を設立したことに始まり、ソーダ工業を起点に鉱業、鉄鋼、人絹などに事業網を拡大した。

※理研コンツェルン…理化学研究所(1917年に設立)の資金確保とその研究成果を工業化するために形成。

新興財閥が満州に進出するようになった背景を説明せよ。

関東軍が一時満州経営から既成財閥を排除する方針を取ったため、新興財閥は軍部と結び、満州事変以降に満州に進出した。

満州重工業開発ができた背景

金融難と子会社・持株会社双方への二重課税問題に悩む新興コンツェルン日産の総帥鮎川義介南満州鉄道に代わる満州全体の資源開発・重工業建設を統括する事業主体を求めた関東軍の思惑が一致した結果、日産が満州に移駐して満州重工業開発に改組した。しかし、鮎川のアメリカからの外資導入計画が失敗し、満州産業開発5年計画も破綻する中で満業の業績は不振を続けた。

なぜ関東軍は1931年を好機と判断して軍事行動を起こしたのかを、国際的視点を反映させながら説明せよ。

張作霖爆殺事件後、張学良が青天白日旗を掲げて易幟を断行して国民政府と合体し、満州を含めて中国が統一されると、対ソ戦略拠点、資源供給地である満州に民族運動が波及し、満鉄並行線建設も進み、満州の収入も減少した。ソ連の五か年計画進展と相まって危機感を抱いた関東軍は、五か年計画が未完で対日軍備が整っていなかったソ連が北満洲への介入を控え、世界恐慌で列強が、国内整備と国共内戦を優先した蒋介石の安内攘外により国民政府が対応困難と判断し、ロンドン海軍軍縮条約による国際的軍事力均衡も背景として軍事行動を開始した。石原莞爾の綿密な作戦と奉天政権の油断により、数的優位の奉天政権軍は抵抗もせずに長城線の南に脱出した。

財閥転向の内容および背景を説明せよ。

財閥が民衆の反財閥的気運をそらし、他面で軍需経済に対応するために行った諸工作。1931年のイギリスの金本位制離脱後の「ドルの思惑買い」は、三井銀行をはじめとする財閥への民衆的反感を募らせ、浜口雄幸首相、井上準之助前蔵相、団琢磨三井合名理事長らの暗殺となって噴き上げ、右翼テロが財閥支配を動揺させたため三井などは各方面へ寄付を行ったり持株の公開を行うなど財閥への反感をそらすとともに、閉鎖的財閥の近代化を推進した。こうした転向は、本社の株式会社化とともに資金動員の基盤を強化し、重化学工業、軍需工業における日産、日窒など新興財閥に対する立ち後れを取り返そうとする巨大財閥の対応でもあった。

広田弘毅内閣の下での「馬場鍈一財政」について説明しろ。

二・二六事件で大蔵大臣高橋是清が暗殺されたあと、軍部の要求する軍事費の急膨張を認め,前年度の予算規模を上回る予算を組み,低金利政策のもとでそのための財源を公債増発と増税に求める方針をうち出した。こうした政策は物価の暴騰,国際収支の悪化をもたらし、財界に不安を与えた

1930 年代において日本のアメリカへの経済的依存度が高まった理由を説明せよ。

イギリスのブロック経済に対抗して、満州事変を通じて満州全域を新たに支配下に組み込んだこともあいまって、朝鮮や台湾などの植民地や満州といった勢力圏内での分業の形成を進めながら重化学工業化が進み、さらに綿織物を中心として世界市場への輸出を拡大していたため、日本経済は大きな膨張と同時に綿花や石油、屑鉄、機械などの輸入においてはアメリカへの依存を余儀なくされた。

日中戦争期の政府による経済統制について、その内容及びそれが必要となった背景を説明せよ。

屑鉄などの原材料や高度な工作機械の多くを特にアメリカからの輸入に依存しており、重化学工業の生産力が低かったため、二・二六事件以降の大軍拡に伴って軍需物資の輸入が増加して外貨不足が深刻化したうえ、日中戦争の勃発に伴って総力戦体制の整備が進み、軍需産業への資金・資源の優先的な配分が不可避となり、経済統制が本格化した。

政府は物価上昇を抑制するために公定価格制を導入すると共に、生活物資の切符制や、労働力不足などから米の生産・供給が低下したため、最低限の国民生活維持を図るために米の配給制を導入した。しかし、それにより、物不足の深刻化とともに闇価格・闇取引が横行した。また、 「輸出入品等臨時措置法」によって貿易関係品に対する政府の全面的統制権限(輸出入・生産・流通・消費を規制)を認めてほとんどの物資に対する統制を可能とし、 「臨時資金調整法」によって設備資金の貸付や株式・社債の発行、会社の新設を政府の許可事項とし、資金面から投資を統制した。さらに、大量の国債発行の消化のための強制割り当てがおこなわれ、貯蓄運動が推進され、初めは国民に戦時意識を徹底させる精神運動が中心であった国民精神総動員運動もしだいに貯蓄奨励,国債応募,国防献金奨励,物資節約などの物的運動を行うようになり、可能な限り民間から資金を吸収して、民需部門への投資を規制しながらの軍需部門への巨額の資金投入を行った。物資需給の不均衡が激しくなり、インフレが加速したため、「9.18ストップ令」(価格等統制令)や流通統制も行われた。

統制経済下の電力の国家管理について説明せよ。

戦時経済に対応したより一層の生産力拡充のため,発電力の急増と低電力料金政策が要請されて「電力管理法」が公布された。電力会社の発電・送電設備の現物出資による日本発送電が発足し,電力国家管理へと移行し、配電も「配電統制令」に基づき全国に 9 社の配電会社が設立された。

統制経済下による民間企業・労働者組織・農業への影響 を説明せよ。

民間企業にも政府の介入が強化され、職場ごとに労使一体の産業報国会が組織され,全ての労働組合は解散した。また、小作料の制限生産者米価の優遇をしたが、労働力や肥料・資材の不足から生産は低下した。

1941年~1945年にかけて、小作農の収益配分が上昇した背景

小作契約の不当解約禁止による小作農の地位確保や,供出制のもとでの小作料の制限や生産者米価優遇などの措置により,小作農の生産意欲を向上させ,戦争長期化の中での食糧増産を図った。

商業報告会の目的を簡潔に説明せよ。

闇取引の根絶、奢侈品取引の廃止など。


「賃金統制令」の目的を説明せよ。

軍需インフレのもとで、物価統制と関連して、熟練工争奪に伴う賃金高騰の抑制と労務需給の調節を行うため。

「企業整備令」の目的を説明せよ。

中小企業の整理統合と下請企業化を法的拘束力の下で推し進めるため。

1940 年~45 年にかけての、地方への人口移動の理由を説明せよ。

成年男子の動員で内地人口が総体的に減少し、空襲の激化で軍需工場の地方移転・住民の疎開が生じた。


1942 年以降に動員数が意識的に少なくされた国民階層を説明せよ。

米の安定供給のため、「食糧管理法」が制定され,労働力の確保が必要であったために、「農家」の動員数が意識的に少なくされた。

通帳制を簡潔に説明せよ。

配給された物資などの数量を記入し、一定限度を超えると配給されないようにする制度。

「軍需融資指定金融機関制度」の内容および歴史的意義を説明せよ。

「軍需会社法」に基づいて実施され、個々の軍需会社について大蔵省の指定する金融機関が融資を実施した。それにより資金調達の必要から株式公開が進み、さらに財閥参加企業の自己資本比率の低下と系列銀行との関係深化によって、財閥本社の傘下企業に対する支配力が弱まり傘下企業の自立性の拡大という傾向を示し、戦後の系列融資の始まりとしての意義も持った。

「ABCD包囲陣」はどのように使われたか

マスコミ用語であったが、これを政府や軍が拡大して用い、国民に生存の危機を煽り、開戦の正当化の宣伝に利用された。

戦時下の女性の社会進出の実態およびその歴史的意義を説明せよ。

戦争協力体制の下で編成された近隣組織の隣組の中で実際に社会活動を繰り広げ、戦局の悪化に伴い、 「学徒勤労令」によって中学生以上が工場へ配置され、さらに「女子挺身勤労令」よって未婚女性や朝鮮の女性までもが女子挺身隊に編成されて勤労動員に駆り出された。また、戦地に送られた男性に代わり、女性がその穴埋めとして、労働現場で働いた。それにより、性的役割分業という社会常識の変更と偏見の是正と、女性の技能習得と社会進出が進み、第二次世界大戦後の女性の地位の向上につながった。

近代以降の女性の社会的地位の変化について説明しろ。

近代初期では、封建的な家制度のもとで女性は家に従属する存在であった。しかし,資本主義の発達にともなって繊維工業の労働力として社会進出が進むと,劣悪な労働条件下の女性の保護が政治問題化し,さらに大正デモクラシー期には政治活動への参加が一部承認された。十五年戦争期には婦人運動は抑圧されたが,勤労動員により社会進出が促進され,敗戦後,GHQの指令により婦人参政権が実現した。

サイパン島の陥落の影響を説明せよ。

制海・制空権を失った南太平洋諸島で玉砕が相次ぎ、サイパン島陥落で本土がアメリカ軍機の爆撃圏内に入り、本土空襲が激化した。

戦時下の代用品・代用食を説明せよ。

木綿や毛織物の代用品である人造繊維によってつくられた糸や繊維であるスフや、ガソリンの代わりの木炭、食料不足の深刻化によるカボチャ作り、主食の米の代用食としてのさつまいも

本土空襲後の国内政策を説明せよ。

都市では、建築物の強制撤去灯火管制防空壕掘り、住民の縁故疎開や国民学校生の学童疎開を行わせた。

花岡事件(1945 年)を簡潔に説明せよ。

花岡鉱山で起きた大規模な中国人労働者の蜂起事件。