外交史:近代

日本が植民地とならなかった社会経済的・政治的・国際的背景を説明せよ。

国際的要因としては、日本に隣接する中国の巨大な市場と比べて日本の経済規模ははるかに小さく、また一方で薩英戦争などの日本の抵抗により、英・仏などの帝国主義列強に、日本の植民地化の強行が自国に大きな損害を引き起こす危険性を認識させたため、英・仏などは費用対効果を考慮し、日本とは友好的な関係を築き、経済的利益を得る方針を選択したこと、アメリカも南北戦争に突入していたために日本とは交易関係を結んで金を流出させて資金不足を補う方が都合がよかったことなどが挙げられる。また、国内的要因としては、清の英国への屈服が対外的危機感を増大させ、短期間に封建制を克服して国内を統一し、中央集権国家の形成に成功したことや、江戸時代後期までの経済発展により、国内完結的な独自の経済体系が生まれると共に、一部の産業ではマニュファクチュアも成立していたため、列強経済に従属させられなかったこと、外国人の行動範囲を制限した居留地貿易が外国勢力の国内進出を最小限に食い止め、国内産業を保護したことなどが挙げられる。

戊辰戦争の際の列国の態度を説明せよ。

戦乱拡大で対日貿易に支障をきたすことを恐れ、欧米列国は局外中立として、内乱終結まで武器援助などをしない不関与の態度を宣言した。旧幕府軍はアメリカからの武器購入ができず、結果として新政府軍が有利になった。箱館戦争を間近に控えた新政府の強い要求により局外中立の撤廃が宣言された。

成立直後の新政府に対する欧米諸国の政治的対応

新政府による岩倉使節団に対して、欧米諸国は日本を近代国家とは認めずに条約改正を拒否した。

条約改正交渉以外の国権回復への動きを説明せよ。

日米郵便交換条約を締結して居留地の外国郵便局を廃止し、樺太・千島交換条約を締結して樺太がロシア領に、千島列島全島が日本領になったのに加え、日露の居住民に対して領事裁判権が相互に廃止され、地域的に限定されていたものの法権の回復が実現した。居留地防衛の必要が消滅したと判断した英仏軍が横浜から撤退し、万国郵便連合(事実上の多国間条約機構)への加盟が決まり、日本の近代化が国際的に認知された。

明治維新後のアメリカとの対日関係をイギリスと比較しながら説明せよ。

岩倉の交渉には応じなかったが、日本市場をめぐる貿易上の利害関係が希薄であったことを背景として、寺島の協定関税撤廃交渉には応じた。イギリスと
違い条約改正交渉には友好的であった。

寺島宗則の条約改正交渉への基本姿勢と内容を説明せよ。

関税自主権の回復を最優先課題として条約改正を進めた。アメリカは日本との関係強化のために関税自主権の回復であれば応じる用意があるとして外交交渉が行われて吉田・エヴァーツ条約が成立したが、イギリス・フランス・ドイツの 3 ヶ国がこの条約に反対して条約改正に応じなかった。アメリカ商品のみに高関税がかけられることを回避するために他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった。このことが二国間交渉の難しさを露呈させた。日本国内でもイギリス商人によるアヘン密輸事件が発覚したハートレー事件や、検疫要求を無視して西日本のコレラを関東地方へ持ち込んだへスペリア号事件で、治外法権の解消を優先すべきとする意見が高まった。

マリア・ルース号事件(1872 年)の内容と意義を説明せよ。

ペルーのマリア・ルース号が,ポルトガル領マカオで中国人労働者を乗せてペルーに向かう途中に修理のため横浜に寄港した際,中国人労働者の一人が虐待に耐えかねて船外に逃れ,イギリス軍艦に保護された。イギリス側から同人の引渡しを受けた日本側は,船長を訴追し,虐待行為につき有罪を宣告したが、ペルー船の弁護人は,日本にも「娼妓」という名の奴隷がいると指摘し、日本ではより過酷な契約が行われていると示唆した。諸外国注視のなかで,日本では国家が人身売買を公認していると指摘されたことは,不平等条約の改正を企図している政府には痛手となり、この事件を契機に芸娼妓解放令を出し、表面を取り繕った。実質的には娼妓を解放するにはいたらなかったが,のちの廃娼運動の契機になった。

釜山の歴史的役割を説明せよ。

三浦のうちの富山浦であり、文禄の役では上陸拠点となり、江戸時代には倭館が唯一設けられた。

日朝間の「書契問題」を説明せよ。

明治政府は維新の通知と廃藩置県の告文において天皇を朝鮮国王の上位に位置づけ、「勅」の字を外交文書に用いたが、「勅」の字は冊封体制下で朝鮮が朝貢した中国の皇帝だけが用いたため、朝鮮は明治政府の国書の受け取りを拒否した。

琉球処分の過程を、琉球が近世において置かれていた国際関係をふまえて説明せよ。

江戸時代の琉球王国は、明・清の冊封を受ける一方、薩摩藩の支配下に置かれていた。

明治期になると、琉球併合を図る日本は、1872年に琉球国を廃止して琉球藩を設置して尚泰を藩王とし、琉球民衆殺害(1871年)の報復と称して行った台湾出兵(1874年)をウェードの調停により日清互換条約を結んで属民保護の義挙として清に認めさせて琉球領有を主張した。

1875年には内務官僚の松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えた。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動があったが,1879年に軍隊・警察を用いて沖縄県設置を強行し、約500年の歴史を持っていた琉球王国を滅亡させたが、清から抗議されると、グラントの助言を受け入れて宮古・八重山諸島の清への割譲を提案して妥協を図り、拒絶された。

台湾出兵(1874年)を説明せよ。

1871年に台湾先住民が漂着した琉球漁民を殺害したことや、1873年に岡山県の船員が略奪されたことを理由に、日本政府が西郷従道の率いる征討軍を派遣し、清国から償金を出させた事件。

※副島が征韓論争で下野すると,内務卿大久保利通らは当時高揚した士族の反政府気運解消と領土的野心をもって台湾出兵を計画した。米国や政府内部の異論で中止となったが,台湾蕃地事務都督に任じられた西郷従道が独断で出兵した。

江華島事件(1875年)の概略を具体的に説明せよ。

当初は征韓論を退けていた日本政府は,難航していた朝鮮との国交調整交渉を打開するため,1875年に軍艦雲揚を派遣して朝鮮沿岸の測量を行なわせて朝鮮側を挑発し,江華島で軍事衝突事件を引き起こした。そして,この機会を利用して朝鮮政府との外交交渉の場を作り出し,翌年黒田清隆・井上馨を全権として朝鮮に派遣し,軍事的圧力のもとで日朝修好条規を締結させた。

朝鮮にとって不平等な日朝修好条規に「平等」と記されている理由を、実態や日朝修好条規のその後の日中関係への影響を踏まえて説明せよ。

冊封体制を考慮して日清修好条規による清と対等な立場を利用し、朝鮮を日本と対等な近代国際法上の独立国と規定して朝鮮に対する清の宋主権を否定しようとした。しかし、冊封体制の性格上、清の属国でありながら自主独立を維持することは可能であるため朝鮮側は日本の思惑通りには解釈せず、下関条約に至るまで曖昧な属人主義的な清・朝関係は継続された。日朝修好条規は朝鮮をめぐる日清の対立を惹起させ、日清戦争の遠因となった。


日朝修好条規(1876年)の内容を説明せよ。

日本政府が李氏朝鮮政府に締結を迫り、朝鮮を資本主義世界に初めて開国させた条約。「朝鮮を自主独立の国と承認、釜山・仁川・元山を開港、日本が領事裁判権や関税免除の特権をもつ」など。鎖国攘夷策を採用する朝鮮は清を中心とする冊封体制の枠内で日本との友好関係修復を求めたが、一方で日本は江戸時代の朝鮮通信使以来の関係から近代資本主義の国際法に基づく関係への変換を求めるなど立場の違いが生じた。

全文:資料:日朝修好条規と付属文書 (sakura.ne.jp)

壬午軍乱(1882 年)の内容を簡潔に説明せよ。

日本の指導による改革に不満を抱いた軍隊が反乱し,閔氏政府の要人や日本人を殺し,日本公使館を焼打ちした。暴動後,大院君が再び政権を握り閔氏政権の改革をもとに戻したが,日清両国が介入した。清国の指導権が一段と強化され,日本は朝鮮から一歩後退し,甲申政変の遠因になった。

済物浦条約の内容および意義を説明せよ。

壬午軍乱後,日本・朝鮮間に締結された条約で、日本は首謀者の処罰、軍乱の賠償金,公使館護衛としての軍隊駐留権などを獲得し、さらに日本権益拡大を図る日朝修好条規続約を結んだ。これを機に清国も朝鮮に軍隊を派遣し,宗主権を確保しようとしたので,以後朝鮮における日清対立が強まった

甲申事変(1884年)の内容とその意義を説明せよ。

清国の干渉を排除して朝鮮の完全な自立と内政改革を目指した、金玉均らの独立党が親清派の事大党政権に対して日本公使館の援助を得てクーデターを起こしたが、清軍の介入で失敗した。その結果、清の朝鮮進出が強化され、日本の朝鮮への影響力が減退した。また、この出来事は「脱亜論」が発表された背景ともなった。

天津条約の内容を説明せよ。

両軍の朝鮮からの共同撤兵・軍事顧問の不派遣・今後の出兵に際しての相互通告など。

ジョルジュ・ビゴー「魚釣り遊び」(Une partie de pêche)。 『トバエ』1号(1887.2.15)引用元:Wikipedia

1883年~1890年に軍事費の比率が上昇した理由を説明せよ。

松方財政は緊縮財政でありながら軍事費だけは例外とした。その上、朝鮮で壬午軍乱や甲申事変が勃発するなど、日清間の軍事的緊張が高まった。

大阪事件(1885年)を説明せよ。

旧自由党左派の首領であった大井憲太郎が壬午軍乱,甲申政変などによる朝鮮親日派の後退をみて、景山(福田)英子らと謀った朝鮮の内政改革の試み。保守的な朝鮮政府を武力で倒し、独立党に政権を握らせようとし、同時に民権運動を刺激しようとしたが、渡航前に大阪などで検挙された。

ノルマントン号事件(1886 年)の内容と意義を説明せよ。

横浜から神戸へ向かうノルマントン号が紀伊半島沖で難破した際、乗客のうち
ヨーロッパ人は救命ボートで助かったが、日本人は全員溺死した。その裁判において、船長を無罪とした神戸のイギリス領事の審判に対し、国民的怒りが起きたことで法権回復を求める世論が高揚した。

ノルマントン号事件を描いた錦絵「紀伊海難船之図」楊州周延 引用元:紀伊海難船之図 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
ジョルジュ・ビゴーの風刺画「メンザレ号の救助」 引用元:【ノルマントン号事件とは】わかりやすく解説!!事件発生から不平等条約撤廃まで! | 日本史事典.com (nihonsi-jiten.com)

※上記の風刺画は、治外法権などの特権を保持していたフランス人であり日本の不平等条約改正には消極的な立場であったビゴーが、ノルマントン号事件の翌年のフランスのメンザレ号遭難を利用して、「イギリス人が下手な対応をした(ノルマントン号事件)ことで日本が条約改正するようになった」と、イギリスを批判したもの。

防穀令事件(1889~93年)を説明せよ。

開国以来、日本人穀物商による米や大豆の買占めとその年の不作により朝鮮農村は食糧危機に陥っていた際、担当地方官の手落ちで予告期間が不足して紛糾し,日本商人が損害要求を出したという、朝鮮王朝の穀物輸出禁止をめぐる日朝対立事件である。伊藤博文が清の李鴻章に斡旋を依頼し,賠償金の支払いと公使の召喚で妥結した。

青木周蔵の条約改正交渉において、イギリスが軟化した背景を説明せよ。

シベリア鉄道の着工を計画し、極東進出政策を推し進めようとするロシア帝国に対しイギリスが警戒感を強め極東の防波堤としての日本との友好関係を重視するよう政策転換を図った。イギリスとしては、イギリス艦隊の威力の及ばない内陸部を通じてロシアが東アジアに大軍を輸送しうる状況、そして仏・独・露の提携に対してイギリスが極東で孤立する状況を怖れていた。そのため、青木が大隈案の失敗を踏まえ、西洋人法官を採用せず、成文法体系の整備も公約しないで領事裁判権を撤廃しようとする案を提示したのに対してイギリスは妥協を示し始めた。

イギリスが1894年に日本との条約改正に応じた背景を日本側とイギリス側の事情を考慮して説明せよ。

日本は憲法を中心とする諸法典を整備して議会も開設し、欧米に倣った法治国家の体制を整えていた。そして、イギリスが、ロシアのシベリア鉄道起工による極東進出を警戒し、ロシアへの防壁としての役割を求め、かつ日清開戦にあたって欧米諸国の干渉を排除し、イギリスの好意的な立場を獲得しようとして日本に好意的になった。

日英通商航海条約などの発効に伴う内地雑居の実現に関して危惧されたことを簡潔に説明せよ。

内地雑居が実現するのを機に外国人排斥の風潮が生じること。

1894 年における、関税自主権の回復が急がれる根拠となる貿易の現状を説明せよ。

兵備拡張には生糸輸出による外貨獲得が必要だが、輸出入量の約 8 割は外国船が占め、居留地貿易でも外国人商人が実権を持っていた。日英通商航海条約が認める内地雑居は不利益な交易を拡大させるので、関税自主権の回復による対等な貿易の実現が求められた。


1894 年の条約改正においての内地雑居実現に向けて、西園寺がとった対応策を説明せよ。

列強への反感を背景とした攘夷運動の再度の激化を危惧して、開国和親の国是を想起させ、天皇の権威による秩序の維持を企図した。


日英通商航海条約などの発効に伴う内地雑居の実現に対する危惧と対策を説明せよ。

内地雑居が実現するのを機に外国人排斥の風潮を危惧した。五箇条の御誓文に依拠し、開国和親の姿勢を強調してその風潮を抑制し、一等国としての矜持を国民に求めようとした。

日本の、欧米諸国との不平等条約改正の過程を説明せよ。

1894年の日英通商航海条約では、領事裁判権制度が撤廃され、最恵国待遇も双務化し、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目についてはまだ片務的協定税率が残っていてこの点は不十分であった。しかし、1911年の日米通商航海条約では関税自主権が回復し、対等条約が実現した。

明治初期~日清戦争開戦までの日本の対朝鮮政策を説明せよ。

江華島事件を契機に日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させ、欧米の東アジア進出に対抗して朝鮮との連帯を強め、その近代化を促そうとした。親日の閔妃に対して大院君を担いだ排外主義者指導下の民衆に日本公使館が包囲される壬午軍乱、親日的な改革派のクーデタが清国軍の来援で失敗する甲申事変で、朝鮮に対する清の宋主権が強化された。朝鮮政府も日本への米穀輸出を禁じたりしたので、清との天津条約で小康状態を保っている間に軍事力を増強して朝鮮の清国勢力を一掃することを目指していた。

日清戦争直前の国際情勢を説明せよ。

1880 年代後半、朝鮮での清の指導的地位が継続し、日本は朝鮮への関与を抑えた。1890 年代、ロシアのシベリア鉄道建設が始まると、警戒するイギリスが日本に接近すると共に日本が朝鮮への積極的関与に転じるなか、朝鮮で甲午農民戦争が発生した。

日清戦争勃発の直接的背景および戦局について簡潔に説明せよ。

日本国内では政府の条約改正をめぐる外交を軟弱であるとする対外硬派が世論を牽引していた。そして、朝鮮で甲午農民戦争が勃発し、朝鮮政府が日本亡命中の金玉均を暗殺すると対外硬派は日本政府批判を強め、農民反乱鎮圧のため朝鮮政府の依頼で清国が出兵すると,日本も出兵した。その後駐兵継続の理由を得るため日本は朝鮮内政共同改革を清国に提議して拒否された。豊島沖海戦で戦争を開始して宣戦布告し、陸軍は平壌・遼東半島を占領し,北京・天津を脅かした。海軍も黄海海戦に勝って制海権を握り,威海衛攻撃で北洋艦隊を全滅させた。

日清戦争後における天皇の存在の臣民への浸透を説明せよ。

勝利による国家意識高揚で天皇は尊崇を集め、天皇制と結びついた国家主義
思想が浸透した。

日清戦争時の広島市の機能を説明せよ。

大本営は日清戦争の際に東京に初めて設置されたが、その後に戦時の利便性を考慮して広島市に移動することになり、日清戦争中に明治天皇が戦争指揮をしたその都市は一時的に立法・行政・軍事の最高機関が集積して臨時の首都の機能を担った。この際、広島で行われた第七議会は、唯一東京以外で実施されたもの。

広島大本営に着いた明治天皇 「広島県御安着之図」 楊斎延一 所蔵/広島市公文書館 引用元:平和文化 No.181_13 広島平和記念資料館平成24年度第1回企画展 基町 姿を変える広島開基の地 (city.hiroshima.jp)

下関条約の内容を説明せよ。

(1) 清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること,(2) 遼東半島,台湾全島,澎湖列島を日本に割譲すること,(3) 2億テールの賠償金を支払うこと,(4) 沙市、重慶、蘇州、杭州の市港を開くこと,(5) 揚子江航行権を与えること,(6) 最恵国待遇を与えること。

全文:資料:日清講和条約(下関条約) (sakura.ne.jp)

三国干渉(1895年)の内容と意義を説明せよ。

日本の遼東半島領有は朝鮮独立を有名無実にするとして、下関条約で認められた日本の遼東半島領有に反対したロシア,フランス,ドイツの共同干渉。満州への鉄道建設を目指したロシア政府は,遼東半島領有の放棄を日本に勧告し,ロシアとの同盟関係にあったフランス,ロシアの進出方向を極東に反らすことを狙ったドイツもこれにならった。その結果,日清間に遼東半島還付条約が締結され,日本は代償として3000テールを取得した。これを契機に列強の中国分割が開始され、日本では「臥薪嘗胆」のスローガンで対ロシア報復の国民感情が扇動され,また外交面での対英接近が進められていった

日清戦争前後の欧米による東アジア政策の転換を説明せよ。

日清戦争以前においては、アジアの国際体制であった不平等条約体制により、通商利益を最大限に引き出すため、領事裁判権によって異文化同士の衝突によるリスクを避けて、東アジアの地域と円滑な関係を維持して、貿易の利益を最大限吸収しようとし、列強は片務的最恵国待遇を活用し、協調することによってこのシステムを維持していた。しかし、日清戦争の講和条約後において列強の中国市場への投資が現実に可能になると、協調体制は崩壊し、欧米の関心が貿易から投資に転換すると、列強は争って投資先の獲得に乗り出し、勢力圏を設定して他国の侵入を排除するようになった。このように、列強が通商利益を求めて協調してアジアに迫った 19 世紀の不平等条約体制は崩壊し、20 世紀の投資利権を争う列強間の利権争奪競争が開始した。

日清通商航海条約の意義を説明し、その歴史的変遷を説明せよ。

日本は領事裁判権、協定関税、最恵国待遇を獲得して欧米と同一の特権を掌握し、これを足場に中国市場に進出した。その後には共同経営事業の規定や商標登録などの規定も追加された。しかし、五・四運動以後、中国国民の反帝国運動が盛んとなると改訂もしくは廃棄が主張され、日本は条約改訂を応諾し、1930年に関税協定に調印し、中国は関税自主権を回復した。

日清戦争後に割譲された台湾の支配について説明せよ。

日本は樺山資紀を台湾総督に任命し、当初は台湾の抵抗運動を軍政を敷いて鎮圧した。その後、台湾総督府条例により民政に切り替え、民政局長後藤新平の下で、「旧慣尊重」の方針をとると同時に、戸口調査、警察力の強化、土地調査事業の実施、アヘン・樟脳の専売の施行・度量衡の統一など、植民地経営事業を本格的に推進した。一方で、日本人と台湾人の分離政策を遂行し、日本人を一級市民、台湾人を三級市民として徹底的に分離・差別する政策をとり、学校や公共施設の利用も差別した。台湾の資源開発を目的として制定された台湾銀行法 (1897) に基づいて 1899年に半官半民の台湾銀行が設立された。また、台湾植民政策の中心を産業振興・経済の資本主義的発展に置き、その中心を糖業奨励に置き、三井物産などが出資して台湾製糖会社が設立され、1902年から操業した。台湾の経営は弾圧と懐柔を織り交ぜた統治政策であり、資源の収奪を行い、砂糖・樟脳は外貨獲得の面で、台湾米・木材は国内用として活用された。また、土地調査事業により清国統治時代の複雑な土地関係を整理し、土地所有者を地租負担者として地租増徴をすることで台湾財政を自立化させた。また、徹底した日本語教育も行われ、1895年には台湾初の日本語教育学校の芝山岩学堂が設置された。後に公学校により日本語以外の教育も行われ、1919年には台湾教育令が出され、台湾人の教育制度を確立させた。八田與一が烏山頭ダムの建設に尽力した。

閔妃殺害事件(1895年)の影響を簡潔に説明せよ。

国王高宗のロシア公使館への避難、親露派政権の成立という事態を招いた。

小村・ウェーバー協定(1896年)の内容を説明せよ。

閔妃殺害事件の後に悪化した日露関係を改善するため、国王の帰還を日露両国が朝鮮政府に忠告すること、またロシア公使館にいる朝鮮国王の還宮実現の条件として両国軍隊の駐屯定員などを取決めた。

山県・ロバノフ協定(1896年)の内容を説明せよ。

小村=ウェーバー協定を確認するもので,日本が朝鮮問題に関してロシアと協調しようとしたもの。両国政府は必要な場合,合意をもって朝鮮に経済援助を与えること,両国の駐屯兵員数などが協定された。

西・ローゼン協定(1898年)の内容を説明せよ。

ロシアは、日本がロシアの旅順港租借に抗議することを予期し,日本の関心を韓国にひきつけておくために、ロシアの旅順・大連租借権を認めさせる代わりに朝鮮における日本の経済的地位の優越と日本・朝鮮間の商工業の発展を妨害しないことをロシアが認めることなどを定めた。これにより、日本は韓国進出の足掛かりを得た。

1896年~1900年に軍事費の比率が急増した理由を説明せよ。

三国干渉や閔氏虐殺事件で満州・朝鮮をめぐってロシアとの対立が激化しており、政府は日露戦争を想定した軍備拡張が行われた。日清戦争後、藩閥政府は政党との提携を強め、軍拡予算を順調に成立させた。

北清事変(1900年)の内容、および北京議定書の内容・意義を説明せよ。

日清戦争後,欧米諸国や日本が中国分割に乗り出し、また安い商品の流入などで農民の生活は破壊された。とくに外国の勢力を後ろ盾にして特権をもったキリスト教の布教は反感を買い、それへの反発から義和団が蜂起し,「扶清滅洋」を叫ぶ排外運動が始まり、清国政府も同調して北清事変となり、列国の公使館が包囲された。それに対して列国は,日本やロシアを中心とする連合国軍を派遣して清国を降伏させ(主力となった日本の軍事力の有用性が列国に評価された=極東の憲兵),その結果,北京議定書により莫大な賠償金を支払わせ、また北京周辺における駐兵権を認めさせて清国駐屯軍が編成され、日本の公使館・領事館・在留邦人の保護を担うこととなり、清国の滅亡に伴い清国駐屯軍を支那駐屯軍と改称した。さらに、清朝による排外運動取り締まり義務や義和団事件の責任者の処罰、通商・航海条約の修正、外交官が殺害された日・独への謝罪使の派遣などが規定された。この北京議定書により、列強の中国への干渉はさらに強まり、中国の半植民地化は決定的なものとなった。

※厦門(あもい)占領計画→列国の抗議により中止

北清事変の経費を補うための日本の税制上の措置を説明せよ。

第二次山県内閣の地租増徴、および第四次伊藤内閣は酒税・砂糖税・海関税の増発・菜煙草専売率の引き上げ。

北清事変は日露関係にどのような影響を与えたか説明せよ。

閔妃殺害事件以後、朝鮮で日本が後退してロシアの勢力が強まると、日本は対露宥和策をとって朝鮮での勢力確保を目指した。しかし、北清事変を契機にロシアが満州を軍事占領すると、日本が対露強硬策へ転じ、満州・韓国問題をめぐって日露の対立が強まり、日露戦争の原因となった。

日英同盟締結を促した日英両国の背景を説明せよ。また日英同盟の意義も説明せよ。

ヨーロッパ列強との外交において「光栄ある孤立」を続けていたイギリスは、アジアにおいてロシアが進出してきたことをイギリス権益に対する脅威として警戒するようになった。当時のイギリスは南アフリカ戦争中であり、アジアに十分な力を注ぐ余裕がないという事情があり、ゆえに台頭してきた日本と同盟関係を結ぶことによって権益を守ろうとした。日本は条約改正などの国際的地位を高めることをめざしており、またロシアの圧力に対抗する後ろ楯として日英同盟に期待した。なお、日本国内ではそのような日英同盟論と満韓交換論の対立が生じていたが、ロシアが義和団事件後も満州から撤退しないことから、ロシアに対する警戒感が強まり、日英同盟論に決することとなった。この同盟は、日本が列強と同様の利害をアジアに有する帝国国家として承認されることとなったという意味でも重要な外交的成果であった。

日露協商論の主張者2人と内容を説明せよ。

伊藤博文。井上馨。日本の朝鮮における優越権とロシアの満州経営の自由を相互に認めあう満韓交換の考えであり、日英同盟を結んでロシアに対抗するとの桂太郎等と対立した。結局後者が通り、 1902 年に日英同盟が締結された。

対露同志会の会長と内容を簡潔に説明せよ。

近衛篤麿。対露強硬論を主張した国家主義団体で、開戦を煽る活動をして政府に影響を与えた。

日露戦争時の非戦論と開戦論を具体例を説明せよ。

「万朝報」による理想団の黒岩涙香,幸徳秋水,堺利彦,内村鑑三は非戦論を展開した。黒岩が主戦論に転ずると3人は退社し、幸徳,堺は平民社を創立して「平民新聞」を刊行し,社会主義の立場から反戦を主張した。内村は「聖書之研究」により非戦を訴え、安部磯雄ら社会主義協会も非戦論を堅持した。

一方で、「東京朝日新聞」に掲載された七博士意見書により、戸水寛人らは義和団事件後の対ロシア強硬外交を主張し,日露戦争前には開戦論を展開し、また対露同志会が開戦を煽る活動をして政府に影響を与えた。また、日清戦争前後から次第に国権論・国家主義に傾き、長州閥の御用新聞と揶揄された徳富蘇峰の「国民新聞」も帝国主義を鼓吹した。

※国民新聞社は 1905年に日露講和条約支持で,1913年には憲政擁護運動のなかで群衆に襲撃焼打ちされた。

第1次日英同盟(1902年)調印時の日本側代表者名を記せ。また当同盟の内容を簡潔に説明せよ。

林董。両国が清・韓国における利益の相互尊重を認め、締約国の一方が他国と交戦の時は他方は厳正中立、他国が2国以上の時は参戦する。

日英同盟の変遷について説明せよ。

日露戦争直前、光栄ある孤立を保ってきたイギリスは、当時バルカンや東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて、第1次日英同盟(1902年)が成立した。

日露戦争後には、第2次日英同盟(1905年)を成立させ、同盟の適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権(韓国保護権)をそれぞれ認め、また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負うという本格的な軍事同盟に深化した。

さらに、ドイツの進出に対応するとともに、日露戦後の日米関係の悪化を恐れ(日英同盟のため、もし日米戦争となればイギリスもアメリカと戦わなければならなくなるから)、イギリスは第3次日英同盟(1911年)の改定に際し、日英同盟の対象国からアメリカを除いて将来日米開戦に至った場合にはイギリスは援助義務を負わないことを明らかにした。その結果、日英の協調関係は次第に冷却化していった。

日露戦争が「第0次世界大戦」といわれる理由を、戦争に用いられた技術やその戦争が世界へ与えた影響を考慮して説明せよ

日露戦争では巨大な装甲艦を用いた艦隊決戦や、広大な平野での機関銃を用いた激しい陸戦は19世紀のヨーロッパで一般的であった戦争とは大きく異なり、この衝撃が、その後の列強における軍事力増強、さらには第一次世界大戦における激しい戦闘に帰結した。また、実際は直接的な世界大戦ではなく、交通や通信手段が限られた中での戦争であり特にロシアでは総力戦とまでは言えなかったが、間接的にみると、ロシア海軍の致命的な損失を負ったことで、イギリスにとってロシア海軍はもはや脅威ではなくなり、それが英露協商への伏線となり、また日本の勝利が朝鮮半島及び満州における日本の優越的な地位へと結びついたことが次第にアメリカなどの大国との摩擦を生み出すことになったこと、さらにはロシアの敗北が皇帝ニコライ二世の権威を大きく損ない、ロシア国内での帝政の権力基盤が侵食され、ロシア革命への道を開いたことなどが挙げられる。このように、その後の世界大戦につながる勢力均衡の変容や、合従連衡の再編、さらには革命につながる国内秩序の動揺を喚起したことからも、日露戦争は世界史的な影響を及ぼす戦争であったことから「第0次世界大戦」と呼ばれる。

【日本近現代史講義 中公新書 参照】

日露戦争の戦局を簡潔に説明せよ。

1904年の日本側の仁川沖,旅順港奇襲で戦争が開始され、宣戦を布告した。戦闘は遼陽会戦,沙河会戦と苦戦ながら日本が勝利。他方、旅順攻略は乃木希典を司令官とする3次にわたる総攻撃で多大な損害を出し,ようやく占領した。その後、奉天会戦の結果も日本軍が勝利し、以後戦闘は膠着状態となった。海軍は日本海海戦で勝利し,これを機に,米国大統領T.ローズベルトの講和勧告を受諾してポーツマスで講和会議が開かれ,日本全権小村寿太郎外相とロシア全権ウィッテがポーツマス条約に調印した。

ポーツマス条約の内容を説明せよ。

(1) 日本が朝鮮において指導,保護,監理を行う権利を有すること(欧米列強の承認を取り付けた),(2) 両国が満州から撤兵すること,(3) 関東州租借地と長春-旅順間の東清鉄道を日本に譲渡すること,(4) 北緯 50°以南の樺太を日本に割譲すること,(5) 日本海,オホーツク海,ベーリング海のロシア沿岸漁業権を日本に与えること

全文:ポーツマス条約 (teikoku-denmo.jp)

日露戦争における戦費の調達を説明せよ。

戦費は臨時軍事費として支出され,国家予算の数年分の規模にのぼったため,なかば近くをイギリス・アメリカで募集した外債でまかない,国民には地租・所得税などの増税に加え、毛織物消費税などの間接消費税や相続税・財産税などの非常特別税を課した。

日韓議定書の内容を説明せよ。

日露開戦とともに、日本と韓国の間に締結された協約であり、韓国の安全のためとして、戦争遂行に必要な諸便宜を韓国が提供すると約したもので、日本の韓国植民地化の第一歩となった。

日露戦後経営について説明せよ。

帝国国防方針に示された軍拡や植民地経営、鉄道国有法に伴う財政負担の増大、累積する外国債の利払いなどのため、深刻な財政危機となった。さらに、非常特別税の継続・増税と内外国債の発行は、市民生活を圧迫し、市民による減税・廃税運動や労働争議が激化し、政府の戦後経営は困難を極めた。

【山川 日本史用語集 参照】

関東州とはどのような地域か。また、日本が関東州を支配するようになった経緯とその経営について簡潔に説明せよ。

遼東半島南部における日本の租借地。日露戦争に際して結ばれたポーツマス条約で、日本は旅順・大連の祖借地権をロシアから譲渡され、旅順に関東都督府を設置して支配した。また、長春以南の鉄道などを経営するため、半官半民の国策会社南満州鉄道株式会社を設立した。

※鞍山製鉄所(1918年満鉄により設立され、国家の保護を受け発展した。)→昭和製鋼所

南満州権益を具体的に説明せよ。

旅順・大連の租借権、長春・旅順間の鉄道とそれに付属の利権。

関東軍ができるまでの経緯を説明せよ。

日露戦争後に、民政部・陸軍部からなる関東都督府(戦時中は関東総督府)が旅順に置かれた。第一次世界大戦後、国内政党政治の進展や、世界的な民族主義の高揚を受けて植民地統治機構の改革が課題となり、1919年に関東都督府が廃止され、民政部を基礎に文官を関東長官(同州の管轄・南満州の鉄道の警務と満鉄会社の監督)とする関東庁が新設され、陸軍部は関東軍となった。

※満州国成立後、関東庁は関東局に改組

明治時代末、アジアから多くの留学生・亡命者が来日した歴史的背景を説明せよ。

列強諸国による属国化・植民地化に苦しむアジア諸国の人々にとって、近
代国民国家を樹立し、日露戦争で勝利した日本は模範となる国であった。

桂・タフト協定(1905)の内容とそれが成立した背景を説明せよ。

(1) 日本はアメリカのフィリピン統治を認め,フィリピンに対して侵略的意図をもたない,(2) 極東の平和維持は,日本,アメリカ,イギリス3国間の合意に基づいてはかられるべきこと,(3) アメリカは朝鮮に対する日本の韓国指導権を承認する,の3点を骨子とした。台湾を足場にフィリピンに対する日本の南下を危惧するアメリカと,日露戦争後の朝鮮支配を列国に認めさせたい日本の思惑が重なって成立した。

日本の韓国保護国化を列強が保障したものとみなせる取り決めを3つ書け。

第2次日英同盟、ポーツマス条約、桂・タフト協定。

アメリカが日露戦争を仲介しようとした理由

ロシアが満州を独占支配することを警戒していたから。(結局は日本が南満州へ進出し、日本と対立するようになった)

桂・ハリマン協定(1905年)について説明せよ。

南満州鉄道(満鉄)の日米共同経営に関する予備協定であり、桂太郎首相と米国鉄道企業家ハリマンとの間に交換され,満鉄経営のためのシンジケート組織とその共同所有を約したが、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相の強い反対で解消された。

日露協約の基本的性格の変遷を、4段階に分けたうえで背景と共にそれぞれ具体的に説明せよ。

日露戦争はポーツマス条約で講和となり、ロシアは満州北部は確保したものの、大方針であった満州南部から朝鮮半島方面への進出の道は閉ざされたため、アジア方面での南下をあきらめたロシアは、その目標をバルカン方面に集中させようとした。そのため、中国での権益を維持しつつ、日本との衝突をさけることを得策と考えていた。日本は日露戦争後に批判を強めるアメリカに対抗する必要上、ロシアと結ぶことを良しと考えていた一方で、反露感情の残る日本には日露協約締結には消極的であったが、ドイツとの対立が深刻化し、英仏協商に続いて英露協商が成立することを強く望んでいたフランスが後押しをし、日英同盟を結んでいる日本に国債引き受けを条件にロシアとの協約締結を勧め、英露協商と共に1907年に成立した。この第1次日露協約では、秘密協定により、日本の南満州、ロシアの北満州の勢力範囲が定められ、日本の韓国保護国化とロシアの外モンゴルに関する特殊権益を相互に認めた。その後、アメリカの国務長官ノックスが満州鉄道中立化計画を打ち出して米・日・英・仏・独・露・清の7ヵ国による満鉄経営の提案したことに対し、日露両国は満州での権益を脅かされると反発し、それを阻止するために第2次日露協約を結んだ。アメリカなどが借款を通して満州に浸透するために1911年に四国借款団が幣制改革、産業開発のために清朝に対して借款を申し入れたことに反発し、さらにその借款に起因する辛亥革命を機に起きた外蒙古独立問題などに対応するため、第3次日露協約を結び、勢力範囲を満州から広げ、モンゴルと中国西部まで及ぼし、内モンゴルの権益を東西に分割した。さらに、第一次世界大戦中、満州の分割支配のためや、それまで相互に承認した中国での権益を守るため、相互に軍事援助を行うという秘密相互援助条約として第4次日露協約(日露同盟)を結んだ。その後、ロシア革命で廃棄された。

日露戦争後の日米関係悪化について3つ述べよ。

日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。日本はこのアメリカの動きに対し急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。アメリカは両国による満州分割に反発し、ハリマン計画によって満州の鉄道すべてを国際管理に置くことなどを提案した。また太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって日本の海軍は大きな脅威であり、日露戦争後に積極的な建艦競争に乗り出し、互いに仮想敵国視するようになった。さらに20世紀に入り、アメリカ西海岸に日本人移民が激増したことにより、白人労働者が人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点かつ黄禍論の影響から激しく日本人移民を排斥するようになった。

【山川 日本史研究 参照】

アメリカが日本人移民を排斥しようとした理由を説明せよ。

日本人移民は勤勉で低賃金・長時間労働をいとわなかったので、白人労働者の地位を脅かした。その上、生活習慣や宗教意識の違いや言葉の障害などから、なかなかアメリカ人社会に溶け込めず、日米摩擦の原因となった。

【山川 日本史研究 参照】

日米紳士協約を説明せよ。

対米移民制限に関する協約であり、米国では当時排日運動が激化,日本人移民に対する襲撃事件が多発していたため、日本は移民中の父母・妻子,農業定住希望者以外には旅券を発行せず,その他の目的の旅行者の旅券発行は厳重に制限することを約し,排日運動は一応鎮静させた。その後、一切の移民を禁止する排日移民法で廃棄された。

高平・ルート協定(1908年)の内容と意義を説明せよ。

日露戦争後の太平洋,中国問題に関する日米間の協定であり、太平洋地域における両国の現状維持,相互の領土の尊重,商業上の機会均等主義の尊重などを規定した。この協定によって日本はフィリピンなどに対する領土的野心がないことを表明し,またアメリカは満州における日本の特殊権益を暗に認めている。これは、日露戦争後の日米関係の対立解消の一手段となった。

日韓協約の変遷を説明せよ。

第一次…日本政府推薦の財政・外交顧問をおく顧問政治で、軍事・経済的支配の基礎を作った。

第二次(乙巳保護条約)…日本は外交権を接収して外国による干渉排除を目的として保護国化し、伊藤博文を初代統監とする韓国統監府を設置した。

第三次…ハーグ密使派遣を契機に締結し、内政権を掌握、同時に秘密覚書により韓国軍隊を解散、内政全般にわたる指導権を得た。第三次に関しては、反対する一部の軍隊を中心に反日抵抗である義兵運動が起こった。

朝鮮・台湾・樺太が日本の植民地となった経緯を説明せよ。

朝鮮については、ポーツマス条約で日本の優越権が承認され、三次に及ぶ日韓協約で外交権や内政権を掌握し、伊藤博文の暗殺により韓国併合の機運が高まったことで1910年に韓国併合条約を締結して併合を強行し、韓国全部に関する一切の統治権が完全に譲与され、寺内正毅を初代総督とする朝鮮総督府が設置された。

台湾は下関条約で日本に割譲され、樺太はポーツマス条約で北緯50°以南が日本に割譲された。

韓国併合前後の朝鮮内での社会政策と、その結果を説明せよ。

地税の整理と土地調査事業を進めた。土地調査事業では、地租設定のために土地所有権の確定・価格の査定・台帳の作成などが行われ、さらに所有権が不明瞭な土地の接収も行われた。その結果、日本人地主の土地所有が拡大した反面、朝鮮の小農民で没落する者が多くなり、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住した。また、拓殖事業を推進するための国策会社として東洋拓殖会社を設立し、農業経営や灌漑・金融事業を行った。また日清戦争後から着手されていた京釜鉄道の完成は、産業の発展と軍事輸送に大きな役割を果たした。

会社令の内容を説明せよ

朝鮮内外で会社を設立する場合、朝鮮総督府の許可を得ることを義務付けた。しかし、民族資本抑圧と批判され、統治政策の転換を機に廃止された。

第一次世界大戦期の中国への権益要求・政府による資本輸出について説明せよ。

第二次大隈内閣は袁世凱政権に対して二十一か条要求をつきつけ,

1号…山東省ドイツ権益の継承

2号…南満州・東部内蒙古権益の強化・延長

3号…漢冶萍公司の日中合弁化

4号…沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと

などを要求した。また、国内過剰資本が累積する中で、中国への発言権拡大を狙って、寺内内閣は段祺瑞政権に対して西原借款を行った。

二十一カ条要求の第5号において、それが米・英など列国の反発を招いた理由を第五号の内容も併せて述べよ。また米英に関しては具体的に何の協定や同盟に反するとされたのかも説明せよ。

希望条項として、日本人の政治・財政・警察顧問の招聘、日本の兵器受給などの要求などを定めた第五号が当初秘匿とされたため、米・英などの列国は態度を硬化させた。その要求が、列国の既得権に抵触するのみならず、中国への内政干渉的な内容を含み、「領土保全」・「機会均等」・「門戸開放」といった、それまで日本を含む列強間で確認されてきた中国に関する原則に反すると考えられたからであり、具体的にはイギリスは日英同盟に、アメリカは高平・ルート協定に反するとして交渉妥結後にはブライアン国務長官の名前で覚書を発表し、交渉の結果全体を否認する姿勢をとった。

【日本近現代史講義 中公新書 参照】

在華紡について説明せよ。

日露戦争後本格化した日本の海外投資の中心的存在で,在中国の紡績工業。 上海や青島に紡績工場を建設し、低賃金,関税諸掛の減免,市場の独占によって高い利潤をあげた。しかし、第一次世界大戦後の中国のナショナリズムの高揚の際には日貨排斥を招き、対中国輸出の減退につながった。

加藤外相の、第一次世界大戦参戦目的とそれを促した背景を説明せよ。

日露戦争で賠償金が取れなかったため、満州権益に対する期待感は非常に強かった。日本はポーツマス条約でロシアから遼東半島の租借権や南満州鉄道の経営権などを継承したが、遼東半島に関しては1923年、南満州鉄道に関しては1939年に返還期限が設定されており、それ以降の租借期限延長は保障されていないなど、満州権益は不安定であったため、日露戦後には満州権益の租借期限延長をいかに行うかが外交課題であった。そこで、日英同盟を理由として参戦し、ドイツから獲得した山東半島の返還を取引材料としてそのような満州問題を解決しようとし、それを二十一カ条要求で実行しようとした。さらに太平洋地域での権益拡大の面もあった。

【日本近現代史講義 中公新書 参照】

「大正新時代の天祐」は誰の言葉か記せ。また、その意味を説明せよ。

井上馨。第一次世界大戦により日本の貿易輸出が伸びて、日露戦争以来の経済不況が終焉し、対外的には中国大陸に進出するチャンスであるという意味。

20 世紀初頭以降、多数の一般邦人が中国に在住した歴史的背景を説明せよ。

日露戦争により南満州、第一次世界大戦で山東省に権益を獲得した。資本主義の発達とともに商品や資本の輸出が拡大し、企業進出も行われた。満州事変により満州全体、日中戦争以降は中国本土・香港へと占領地が広がり、満州移民など移住者も増加した。

石井・ランシング協定の背景とその内容、および2国間の解釈の違いについても説明せよ。

ロシア革命によって日露協約が破棄されたため、満州の権益をロシアに認めてもらっていた日本は危機感を感じた。これと日米関係を打開するために結ばれたのが石井・ランシング協定であり、協定を結び、お互いの立場を理解して衝突を避けようとした。米国は日本の中国における特殊権益を承認し、両国は中国の独立、機会均等、門戸開放の尊重を約束した。日本政府は、この協定によって二十一カ条の要求をアメリカ政府が承認したもの解釈したが、アメリカ政府は経済的特権のみを認めたもので、政治的特権は承認していないと理解した。

シベリア出兵(1918年~1922年)を説明せよ。

ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。干渉はパルチザンの抵抗で失敗したが、米・英・仏が撤兵した後も日本は出兵目的をチェコスロバキア軍救援から居留民保護と朝鮮,満州への過激派の脅威防止に変更して駐留を続けた。日本は尼港事件の報復と賠償保障のため北樺太(サハリン)も占領した。しかし、国内外の非難により1922年に撤兵した。結果的に、日米関係の悪化を招き,日ソ国交回復の妨げとなった。そして、後の日ソ基本条約締結による国交回復で北樺太から撤兵した。

対露非干渉運動の内容を簡潔に説明せよ。

日本の労働者階級によるシベリア撤兵要求運動。日本の労働運動が手がけた最初の大衆的国際連帯の運動であり、日ソ国交回復の機運を生み出した。

ベルサイユ条約の日本側の全権を2人記せ。また、日本が第一次世界大戦参戦の結果、得たものを説明せよ。

西園寺公望。牧野伸顕。ベルサイユ条約で山東省権益の継承,赤道以北の南洋諸島の委任統治を実現させ,新しく発足した国際連盟で常任理事国となるなど国際的地位を高めた。

国際連盟の問題点を、戦後の国連と比較して説明せよ。

国際連盟においては、モンロー主義により大国アメリカは国際連盟に加盟せず、原則として「総会における加盟国の全会一致」が必要で迅速な対応が困難であった。加えて、侵略行為に対して軍事制裁ができず、大国の脱退が相次いだ。

一方で、国際連合は「多国籍軍」を結成し、軍事制裁をおこなうことが可能であり、「総会」は全会一致から多数決に変更され、迅速に方針を決定することができた。また、「拒否権」の存在により、大国の利害衝突が機構の分解を招くことを防いだ。

南洋庁を説明せよ。

第一次大戦後、日本の委任統治領となった南洋群島に関する行政事務を行った官庁。特に、南洋諸島で製糖事業を中心に事業展開した株式会社を南洋興発といい、「海の満鉄」と呼ばれた。

パリ講和会議において、日本の人種差別撤廃案が採択されなかった理由

アメリカでは人種差別問題は自国内の問題であり、日本の提案は内政干渉にあたるという強い反発があり、イギリスも同様に反発し、オーストラリアでは白豪主義により反対された。

三・一独立運動と五・四運動の背景・内容を説明せよ。

三・一独立運動…第一次世界大戦後、日本統治下の朝鮮では、十四カ条の民族自決に触発された三・一独立運動が起こり、全国規模の独立運動に拡大した。日本は軍隊を動員して武力弾圧したが、これを機に武断政治を改め、言論統制を緩和するなどの文化政治といわれる同化政策に転換した。また、上海では大韓民国臨時政府が樹立され、海外において独立運動の継続が図られた。

五・四運動…中国では、第一次世界大戦中に民族資本家や労働者階級が急速に成長し、新文化運動などを経て学生や知識人層の政治的自覚も高まるなど民族意識が高揚していた。二十一カ条の破棄要求がパリ講和会議で拒否されると北京の学生デモから五・四運動が開始され、全国的な反帝国主義・軍閥打倒の愛国運動に発展し、中国政府はヴェルサイユ条約調印を拒否した。

第一次世界大戦後の朝鮮における民族独立運動と、それへの日本の対処を説明せよ。

三・一独立運動(パゴダ公園・「独立万歳」)の高揚に対し,日本政府は徹底的に弾圧したものの,朝鮮総督と台湾総督の任用資格を文官にまで拡大する官制改革を実行し,憲兵警察制度を廃止し,さらに会社令を撤廃するなど武断政治から文化政治へと転換し、巧妙な同化政策への転換をはかり産米増殖計画も実施した。

※堤岩里(チュアムリ)事件→日本人巡査殺害への報復

 柳寛順→「韓国のジャンヌ=ダルク」

第一次世界大戦の前後での日本の外交の軸の変化を説明せよ。

日露戦後においては、日英同盟や日露協約などでイギリス・ロシアと提携していた。第一次世界大戦期を経て日本は極東・太平洋地域に勢力を拡大して五大国の地位を獲得したが、アメリカとの対立激化、中国では反日民族運動、荒廃したイギリスの国際的地位の低下、ロシア革命が起こって社会主義国家が成立した。このことから日本は外交の軸を転換させ、アメリカと協調しつつ中国での既得権益を確保することを目指し、ワシントン会議に参加した。

ワシントン体制を生みだす背景となった東アジア・太平洋地域の情勢を説明せよ。

日露戦争後においては、南満州をめぐって日米が対立したが,日英同盟・日露協商により国際関係は安定していた。しかし、第一次世界大戦期を経るとイギリスの国際的地位が後退,ロシア革命で帝政ロシアが崩壊した。また、東アジアのドイツの拠点であった中国山東省の青島とドイツ領南洋諸島を軍事占領し、中国の袁世凱政権に二十一カ条の要求を突きつけるなど、第一次世界大戦期には日本が東アジア・太平洋地域に勢力を拡大して日米対立も激化し,中国民族運動も高揚して、国際秩序が不安定化していた。

ワシントン会議における日本側の全権を3人記せ。また、アメリカがワシントン会議を開催した理由および日本がワシントン海軍軍縮条約の締結に踏み切った理由を説明せよ。

加藤友三郎。徳川家達。幣原喜重郎。アメリカは、東アジアにおける日本の膨張を抑えて東アジアの新しい国際秩序をつくり、また日本やイギリスとの海軍拡張競争を抑制しようとした。日本は戦後恐慌の最中で税収が減少して建艦競争による海軍拡張費が国家財政を圧迫しており,軍事費を削減する必要があった。

ワシントン会議の内容と日本政府の対応を説明せよ。

アメリカの提唱によりワシントン会議が開催された。アメリカ首席全権はヒューズ。主力艦(戦艦・巡洋戦艦)建造を10年間停止し,保有比率を英・米各5,日3,仏・伊各1.67と定めた、史上最初の軍備制限条約であるワシントン海軍軍縮条約を結んだ。また、太平洋に関する四か国条約、中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束する九カ国条約などが結ばれた。日本政府はアメリカと協調を保ち,権益の維持をはかるために会議に参加してそれらの条約に調印した。九カ国条約に基づき,中国と個別協定の山東懸案解決条約を結んで山東省旧ドイツ権益を返還した。

四ヵ国条約と九ヵ国条約の内容と意義を説明せよ。

四ヵ国条約で日米英仏が太平洋上の領土不可侵を約束し、九ヵ国条約で、中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束し、列強が中国において新たな領土・権益を獲得することを禁じた。これにより、太平洋・東アジアにおける平和的な国際秩序の形成が目指された。

山東省をめぐる日本の外交政策および国際情勢の推移を説明せよ。

日本は袁世凱政権に二十一カ条の要求を突きつけ、山東省権益の継承を認めさせ、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約でもその継承を認められた。しかし、これに反発して中国で五・四運動が起こると、ワシントン会議で結ばれた九か国条約に基づいて日中間で山東懸案解決条約を結び、山東省権益を中国に返還した。

※山東懸案解決条約の日本全権→加藤友三郎、幣原喜重郎

ワシントン体制を簡潔に説明せよ。

ワシントン会議の結果成立した第一次世界大戦後の極東および太平洋の国際秩序である。日本の中国への独占的進出を抑制し,アメリカ・イギリスの均等な海軍力の協力を背景に,太平洋の勢力範囲の現状維持をはかった。

ワシントン体制下の日本の対中国政策の変遷を説明せよ。

対米英協調によって列強間の中国権益の相互承認を図るとともに中国への内政不干渉および中国との交渉を通じて既得権益維持をめざした。しかし、北伐と金融恐慌によって枢密院・軍部の支持をえた政友会の田中内閣による積極外交に代わり,後に復活した幣原外交も,中国の国権回復運動や日貨排斥・排日運動の激化と昭和恐慌の下で,関東軍が満州事変を起こして破綻した。

五・三〇運動の内容および意義を説明せよ。

上海の在華紡でのストライキに際し、中国人労働者が虐殺されると、労働者・学生・市民による虐殺抗議の大規模なデモが起き、そのデモが列強の共同租界に入ると、イギリス警官が発砲して多数の死傷者が出た(五・三〇事件)。これに対し、中国共産党の指導下で上海総工会が組織されゼネストが宣言されると、この動きは全国的な反帝国主義運動へと発展し、やがて中国民族の統一と独立回復を目的に中国国民党により北伐が開始された。

ジュネーブ海軍軍縮会議(1927年)の日本全権を記せ。また、同会議の内容と帰結を説明せよ。

斎藤実。イギリス・アメリカ・日本の3国による「補助艦艇」制限に関する会議である。アメリカはワシントン海軍軍備制限条約の「英5・米5・日3」のワシントン比率を巡洋艦,駆逐艦,潜水艦にも適用することを提案したが、海外植民地・海外基地をもつイギリスは小型巡洋艦には制限を加えないことを主張した。日本は調停に入ったが,英米の対立が解けず,会議は失敗した。

田中義一内閣の対中国政策を説明せよ。

中国統一を目指す国民革命軍による北伐が進展し、民族運動を抑圧する手段であった張作霖の北京政府が危機に陥った。田中内閣は北京政府を支援するため、三次にわたる山東出兵によって北伐に軍事干渉すると共に、東京に中国在勤の外交官・軍部代表を集めて開催した東方会議で満蒙権益を実力で守る方針を決定した。

「対支政策綱領」の内容を説明せよ。

中国における権益確保と日本人居留民の生命・財産の保護を口実に、満州と内蒙古を中国本土から切り離して日本の勢力下に置く方針、満蒙の特殊権益が侵された際は軍事行動をとる方針などが表明された。

詳細:東方会議の「対支政策綱領」に関する田中義一外相訓令 | 大浦崑 (ourakon.com)

田中義一内閣の欧米諸国と中国に対する政策の違い

欧米諸国に対しては幣原外交時代の協調外交方針を受け継ぎ、ジュネーブ軍縮会議に参加し、不戦条約に調印したが、対中国政策では、従来の幣原外交の協調外交に反して、山東出兵を行うなど積極外交政策をとった。

不戦条約の日本側の全権を記し、意義と限界を説明せよ。また、不戦条約調印の際に生じた、田中義一内閣の倒閣を早める一因となった出来事も説明せよ。

内田康哉。第一次世界大戦後の国際協調の動きの中で、不戦条約は国策の手段としての戦争を放棄することを宣言し,侵略戦争の違法化を進めた。しかし条約交渉を通じて「国際連盟の制裁として行われる戦争」および「自衛戦争」は対象から除外されることも了解された。戦争の違法化を推進した点で非常に重要であるが、他方で自衛権という例外を生み出すきっかけともなり、理念的・抽象的に過ぎなかったため,1930年代以降の非常事態には対処し得なかった。また、調印の際に、右翼などから「人民ノ名ニ於テ」の字句は天皇の大権を侵し国体にもとるという非難がおこされた。野党の立憲民政党はこれを田中義一内閣の攻撃材料に取り上げ、張作霖爆殺事件とあわせて政府を追及し、枢密院も批准拒否の態度をとった。結局、「人民ノ名ニ於テ」の文言は日本には適用されないとの留保をつけて批准した。

張作霖爆殺事件の目的とその結果を説明せよ。

利用価値のなくなった張作霖を殺害して北伐軍の仕業に見せかけ、満州に混乱を起こし、それに乗じて直接満州を占領しようとしたが、張学良が混乱を抑えたため失敗した。田中内閣は陸軍の調査で真相を知ったが公表せず,天皇に咎められ総辞職した。

ロンドン海軍軍縮条約の日本側の全権を2人記せ。浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約の成立を推進した背景および国民の負担軽減への影響を説明せよ。

若槻礼次郎。財部彪。主力艦の保有制限及び建造禁止を1936年まで延長させ(5年の延長)、米・英・日の「補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)」保有量を、全体で10:10:6.975(当初は対英米7割を希望したが、アメリカの要望に応じて0.025割を削った妥協案)、大型巡洋艦は10:10:6とすること、などにより制限した。ワシントン会議以降、国際協調・軍縮の動きが国際的に進展していたうえ、金輸出解禁に伴い財政を緊縮する必要があった。だが条約成立によって期待された国民の負担軽減は、海軍が条約承認とひきかえに約束させた海軍補充計画によって果たされなかった。

※海軍部内はかねてから「対米7割」の保有量を主張していた。

第一次世界大戦後の平和的な国際秩序への日本の関与を説明せよ。

国際連盟が発足すると加盟し,当初から常任理事国になった。アメリカがワシントン会議の開催をよびかけると参加し,太平洋に関する四か国条約,中国に関する九か国条約,主力艦に関する海軍軍縮条約を結ぶなどして東アジア・太平洋地域の安定した国際秩序づくりに寄与した。戦争放棄を宣言したパリ不戦条約,補助艦艇に関するロンドン海軍軍縮条約の締結にも参加した。

日中関税協定(1930年)の内容とそれへの批判を簡潔に説明せよ。

軍部・右翼は、日中関税協定による「中国への条件付きの関税自主権承認」を軟弱外交であると批判した。

中村大尉事件について説明せよ。

 1930年、陸軍参謀本部員の中村震太郎大尉らが中国兵に捕えられ,スパイ容疑で銃殺された。日本は南京政府に抗議し,陸相南次郎はこの機をとらえて満蒙問題を解決するため,武力発動を辞さないと声明した。また陸軍は中国の排日的姿勢の現れとして態度を硬化させ,柳条湖事件を発端に満州事変に突入した。満州事変勃発の一因をなした事件。

日本帝国主義にとっての満州の軍事的・経済的重要性をふまえるとともに、なぜ関東軍は1931年を好機と判断して軍事行動を起こしたのか説明せよ。

張作霖爆殺事件後、張学良が青天白日旗を掲げて易幟を断行して国民政府と合体し、満州を含めて中国が統一されると、対ソ戦略拠点、資源供給地である満州に民族運動が波及し、満鉄並行線建設も進み、満州の収入も減少した。ソ連の五か年計画進展と相まって危機感を抱いた関東軍は、五か年計画が未完で対日軍備が整っていなかったソ連が北満洲への介入を控え、世界恐慌で列強が、国内整備と国共内戦を優先した蒋介石の安内攘外により国民政府が対応困難と判断し、さらにロンドン海軍軍縮条約による国際的軍事力均衡も考慮して軍事行動を開始した。

満州事変における日本側の主張と国際連盟側の主張の食い違いを説明せよ。また、その際にリットン調査団が用意した解決案および結果を説明せよ。

満州事変のなかで関東軍が建国した満州国に対し,日本政府は日満議定書を結んで承認していたが,国際連盟はリットン調査団の報告書に基づき,住民による自発的な建国とは認めなかった。そして、リットン調査団の解決案では、満州に対する中国の主権を認めると同時に日本の権益も保障しており、満州に中国の主権下に自治政府を作り、治安を守るため少数の憲兵隊をおいて、それ以外の軍隊は撤廃することなどが提案された。結局、アメリカが侵略の結果を承認しないとするスティムソン・ドクトリンを発表しただけで,日本の侵略行動を事実上黙認した。総会において日本に対する撤兵勧告案が42対1で可決されると、日本代表の松岡洋右は総会を退場し、1933年に日本は国際連盟脱退を通告した。

リットン調査団 引用元:Wikipedia

1932年の第一次上海事件と1937年の第二次上海事件を説明せよ。

●第一次上海事件●…満州国樹立工作から国際世論をそらすために関東軍が日本人僧侶殺傷を口実に国際都市上海に出兵した事件

●第二次上海事件●…日中戦争勃発直後、大山勇夫中尉射殺事件を機に戦域を中国北部のみから上海にも拡大させ、兵力を増強させて日中全面戦争へと突入するきっかけとなった事件である。

満州国建国の際の建前を説明せよ。

第一次世界大戦後の領土非併合、民族自決の世界的風潮を慮って、天津から脱出させた清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀を執政に据え、清朝発足の地に自発的な独立運動があり、関東軍がそれを支持したとの体裁を作り上げた。また、満州はかつての清帝国の辺境にあり不可分の領土とはいえないこと、満州は中国人・モンゴル人民共和国(ソ連の衛星国。中ソ戦争の発端となる)・ソ連との緩衝地帯である安全保障上の「生命線」であり確保すべき、多種多様な民族構成なので中華民国政府が満州への主権を主張する根拠にはならない(五族協和・王道楽土の根拠)などを理由とし、実際に多様な自治運動も生じていた。

満州国が傀儡政権である理由を説明せよ。

溥儀を執政とし、外面は王道楽土・五族協和を目指す独立国だが、内閣にあたる国務会議の主導権は満州人の部長の下にいる日本人の次長が握っていた。

満州国の役割の変容を、日中戦争を境にして説明せよ。

日中戦争以前は「王道楽土」という新しいタイプの国家を目指し、日本国内では不可能であった様々な実験(新京建設による都市計画技術や計画経済の実験)が試みられたが、日中戦争勃発によって日本の戦時体制の一環に組み込まれ、重工業は日本軍の軍需物資補給のための生産に追われ、農業は日本国民のための食糧供給地と位置付けられた。「五族協和」を目指した協和会も、戦争遂行のための行政補助機関となった。つまり、日本にとって、育成することよりも収奪する対象となった。

広田内閣の「国策の基準」の内容を説明せよ。

大陸における日本の地位を確保する一方で、南方へ漸進的に進出する方針を決定した。

天羽声明が国際世論に与えた影響を説明せよ。

列国の中国に対する共同行動は必然的に政治的意味を帯びて,東アジアの安全ひいては日本に対しても重大な結果を及ぼすおそれがあるため、それが財政的または技術的なものであっても,日本はこれに反対するという趣旨であり、アメリカ,イギリス,国際連盟などによる中国援助計画に警告を発したものであったが、声明直後に欧米や中国からアジア・モンロー主義として,また中国の主権侵害として強い非難が起こり、また中国側の対日感情をさらに悪化させた。

日本によるアヘン政策を説明せよ。

日本は満州国の傀儡政権維持や謀略の資金を得る必要上、また中毒による抗戦力の麻痺をねらって、国際条約に禁止されている麻薬アヘンの専売制度を中国に創設して巨利を得た。満州国は1933年に専売制を発足し、39年には軍事占領した綏遠省でアヘンを生産・管理した。また中支那派遣軍は興亜院の統括の下、三井物産を通じてイランなどから大量のアヘンを中国に輸入した。

満州国と華北5州 引用元:満州国 (y-history.net)

塘沽停戦協定の内容2つと、その中国側の意図を説明せよ。また、その後の日本の行動(華北分離工作から日中戦争開戦までの行動)について説明せよ。

塘沽停戦協定では、日本軍・中国軍が撤退し、さらに長城以南に非武装地帯を設定し,中国警察が同地区の治安維持に当たることなどが規定された。日本が熱河省まで範囲を拡大させようとしていたので、中国は北京までは拡大させまいとして、満州国と北京の間に非武装地帯を挟んだものであった。それは、満州国を一つの国として認め、熱河省も満州国のものとして認めるということを意味し、日本はこれによって満州国の承認と、その周辺への進出の足場を獲得するという目的を達したが、中国民衆の抗日感情はかえって高まった。日本軍は塘沽停戦協定で非武装化した地域を、関東軍とは別に支那駐屯軍1900年の北清事変に際して北京に駐屯を認められた軍隊)の支配下におき、中国本土への進出拠点とすべく、華北分離工作を進めることとなる。それは、華北が反満抗日運動の策源地であり、さらに鉄・石炭・綿花などの資源が豊富であったからである。日本軍は国民政府に梅津‐何応欽協定土肥原‐秦徳純協定を強要し、河北省とチャハル省から国民党の勢力を駆逐して本格的な華北資源調査を開始した。国民政府がイギリスの支持を得て幣制改革を断行すると、日本軍はその華北への波及の阻止を図る一方、冀東防共自治委員会冀察政務委員会を発足させ、分離工作を進めた。興中公司などの資本輸出と、冀東政権を使っての冀東密貿易の拡大は、中国の資本家階級を抗日の陣営に追いやり、日本と英米との対立も増大させ、中国の抗日救国運動は高揚し、西安事件を経て事態は抗日民族統一戦線の結成に進展し、幣制改革も華北を組み込んで経済面から華北分離工作を挫折させた(ソ連の脅威や関東軍の内蒙工作の失敗である綏遠事件も背景)。その後は国民政府の対日接近を促進する新政策(中国再認識論)が図られたが、華北を防共と国防資源獲得の場とする基本的方針は変更されず、盧溝橋事件を契機として日中全面戦争に発展することとなった。

日中戦争の際、両国とも宣戦布告をしなかった理由を説明せよ。

両国ともアメリカからの軍事物資の輸入に依存していたため、アメリカが中立法を発動し、交戦国への武器・戦略物資の輸出を禁止するのを避けなければならなかったから。

ゾルゲ事件を説明せよ。

日本を舞台とした大規模な国際スパイ事件。ゾルゲはソ連のコミンテルン本部の指令で来日し,上海で旧知の尾崎秀実らと接することで軍,政府上層部から二・二六事件,日独両国の機密情報や三国同盟,関東軍特別大演習など対ソ情報を入手通諜していたため、 2人は処刑された。

第一次~第三次近衛声明の内容を説明せよ。

南京占領を契機に、第一次近衛声明では国民政府を対手とせずとしてトラウトマンを介した和平工作を打ち切り、第二次近衛声明では戦争目的を東亜新秩序の建設にあるとした。そして第三次近衛声明で善隣友好・共同防共・経済提携を和平条件として示し、重慶を脱出した汪兆銘との和平を模索して南京政府を樹立させ日華基本条約で正式に承認し、日本・満州及び中国の日本占領地域を円ブロックとして、日本円による経済地域を形成した。

張鼓峰事件(1938 年)の背景と意義を説明せよ。

日独防共協定の締結がソ連の対日硬化を招き,当時日ソ関係は悪化しており、張鼓峰は満州,朝鮮,ソ連国境に近く国境線も不明確な地点で,満ソ両国が自国の領土であると主張していた。日本軍はソビエト機械化部隊に敗北し、この事件は日本軍にソ連の軍事力,特に機械化部隊の実力を知らしめた。

興亜院を説明せよ。

第一次近衛文麿内閣の際に、対中国政策の一元的指導を図るため内閣に設置さ
れた機関である。大東亜省の設置に伴い廃止された。

第二次近衛内閣組閣直後の国際情勢を説明せよ。

第一次世界大戦直後の国際紛争の平和的解決と国際協力を目指したベルサイユ体制を打破して「世界新秩序」を目指す日本・ドイツ・イタリアの枢軸陣営、アメリカなどの自由主義・民主主義諸国、社会主義国であるソ連の三勢力が対立し、国際情勢は動揺していた。

二・二六事件~太平洋戦争開戦に至る時期の日本の国際関係について説明せよ。

1936年の日独防共協定に翌年イタリアが加わり、3国は反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営が成立した。しかし、39年の独ソ不可侵条約締結を経てドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発しても当初は日本は参戦しなかった。翌40年にドイツ優勢の中でアメリカを仮想敵国とする日独伊三国同盟が成立すると、日本はドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでいることを前提として,南進政策を進めるために北方の安全を確保するとともに日ソ提携によりアメリカを牽制することを目的として日ソ中立条約を締結し、同時期に北部仏印進駐を行い、さらに41年の独ソ開戦後に南部仏印進駐を行ったことはアメリカの強い反発を招いた。

1940 年代のアメリカと日本の関係の推移を説明せよ。

日中戦争が長期化するなかで日本が天津の英仏共同租界を封鎖し,さらに南進
政策に着手したのに対し,アメリカは日米通商航海条約を破棄して経済制裁を行った。第二次近衛内閣が北部仏印進駐を実行すると屑鉄などの対日禁輸措置を行った。独ソ戦開始後の第三次近衛内閣のもとでの南部仏印進駐には在米日本人資産の凍結,石油の対日禁輸の措置を取った。日本では野村吉三郎駐米大使(応援のために来栖三郎)とハル国務長官の間で開始した日米交渉を継続しつつ、対米英蘭開戦の準備を整えるとの方針が決定され,対米強硬派の東条内閣の成立・最終案の提示と満州事変以前の状態への復帰を要求したアメリカのハル・ノート提出により日米交渉が決裂し、日本は真珠湾奇襲攻撃の直後に交渉打ち切りを通告した。

太平洋戦争前の、日米の対立を決定づけた同盟を説明せよ。

日独伊三国同盟。3 国のヨーロッパ・アジアにおける指導的地位を確認し、第 3 国からの攻撃に対しては相互援助を協定した同盟である。

1940年代の北方問題を解決するための措置を説明せよ。

独ソ戦争の情勢によってはソ連に侵攻することを計画し,関東軍特種演習と称して満ソ国境に軍隊を集結させた。

日本人民解放連盟の活動を簡潔に説明せよ。

日中戦争中,中国軍の捕虜となった日本兵が結成した反戦組織であり、終戦まで日本軍へ戦争反対の呼びかけを行った。

有田=クレーギ―会談について説明せよ。

天津のイギリス租界で親日派の中国人海関監督が暗殺される事件が起こった。日本側の容疑者引渡しの要求に対しイギリス総領事が物的証拠がないとして拒否したため,陸軍は報復措置として天津のイギリス租界を封鎖した。陸軍はこの事件を利用して,イギリスの蔣介石援助政策の変更と「東亜新秩序」建設への協力を迫り、協定が成立したものの、突如米国が日米通商航海条約破棄を通告したので英国も方針を転換し、決裂した。

日鮮同租論について説明せよ。

日朝両民族はその祖先を同じくし,兄弟あるいは本家と分家に擬せられる間柄であり,本来一体となるべきであるという主張で、日本の朝鮮侵略,朝鮮支配が歴史的に合法なものであると説明するために喧伝され、三・一独立運動後の同化政策の理論的支柱となり、さらに太平洋戦争下の皇民化政策を支えた。

皇民化政策について説明せよ。

戦時下の朝鮮や台湾において、日本語の使用や神社参拝を強制するなどの同化政策が実施され,朝鮮では姓名を日本風に変更させる創氏改名が行われた。また、「皇国臣民の誓詞」を暗唱させた。(児童用は「皇国臣民の誓い」)

皇民奉公会を簡潔に説明せよ。

台湾において,大政翼賛会を模倣して結成された国民動員の中心組織。台湾総督府の行政機構と表裏一体をなし,隣組にあたる末端組織の奉公班の編成にあたっては,従来現地住民を連坐制によって相互に監視させるために組織されていた保甲制度を活用した。

「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(1941年7月2日) の内容とその影響について説明せよ。

第2次近衛内閣時に御前会議において決定された国策。この決定を受けてソ連に対しては関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソ連に攻め込むという作戦であった。一方南方に対しては南部仏印への進駐が実行された。しかし、このことが原因となってアメリカの経済制裁を受け、アメリカでの日本の経済活動がすべてアメリカ政府の管理下に置かれ、石油の対日輸出が全面禁止された。

 資料:情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 (sakura.ne.jp)

南進策の狙いを説明せよ。

第二次世界大戦でドイツに降伏したヨーロッパ諸国の植民地を影響下に置き、援蒋ルートを遮断して長期化した日中戦争を打開するため。

「帝国国策遂行要領」(1941年11月5日)の内容を説明せよ。

アメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められた。

資料:帝国国策遂行要領 (1941.9.6) (sakura.ne.jp)

太平洋戦争開戦の詔書の内容を簡潔に説明せよ。

米英中蘭の列国から経済的・軍事的に圧迫されたがゆえに、日本は「自存自衛」のために戦争に訴えざるを得ないという内容。

対米英宣戦の詔書: 太平洋戦争・開戦の詔勅 (coocan.jp)

真珠湾開戦から沖縄戦までの戦局を説明せよ。

日本軍は真珠湾攻撃と同時にホンコン,マレーシアなどでも軍事行動を開始し,開戦を予期していなかったアメリカ軍やイギリス軍に多大な損害を与えた。イギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領(シンガポール華僑虐殺事件)し,オランダ領東インド諸島を制圧し,さらにビルマに侵攻、ニューギニアまで制圧地域とし,東南アジアに広大な勢力圏を築き上げた。しかし、ミッドウェー海戦で日本海軍の作戦が見破られ,アメリカ海軍の太平洋艦隊が空と海から連合艦隊を攻撃して連合艦隊の編制が崩壊し戦局が転換し、ガダルカナルの戦いで莫大な損害を被った。アッツ島の玉砕でアメリカ領アリューシャン列島の日本軍守備隊が全滅し、アメリカは日本軍が占領する南アジアの島々のなかから日本本土に近づくための要衝ルートを選び出し,集中的に攻撃した。攻撃を仕掛けない島々に対しては補給ルートを断ち,日本軍はいたるところで餓死者を出した。制海権はアメリカ軍の手に落ち,日本軍はその勢力範囲を縮め,見捨てられる日本兵が相次いだ。日本は大東亜会議を開催して日本主導の大東亜構想を確認したが、日本軍の戦況悪化を知っている各国国内では連合国との連絡ルートをもつグループもいたため,大東亜共栄圏構想は現実味をもたなかった。マリアナ沖海戦で機動部隊や攻撃機が致命的な打撃を受け、またアメリカ軍のサイパン上陸作戦によって,守備隊,民間人が玉砕し、レイテ湾海戦で日本軍は航行可能な戦艦と空軍力をすべて失ったために特攻作戦が強行され,硫黄島の戦い沖縄の戦いは玉砕と特攻の戦いであった。大本営は本土決戦を呼号し,根こそぎ動員で全軍特攻の戦略を立てた。

サイパン島の陥落の影響を説明せよ。

制海・制空権を失った南太平洋諸島で玉砕が相次ぎ、サイパン島陥落で本土がアメリカ軍機の爆撃圏内に入り、本土空襲が激化した。

満州事変・日中戦争・太平洋戦争の日本の正当化理念を説明せよ。

満州事変に関しては、中国軍の攻撃に対する自衛措置と主張し,満州国建国を住民の自由意思による独立と認めた。日中戦争に関しては、当初は暴支膺懲を掲げつつ,長期化すると,日満支三国提携による東亜新秩序の建設を戦争目的と表明した。太平洋戦争に関しては、米英の脅威に対する自衛措置と主張しつつ,欧米の植民地支配からの解放による大東亜共栄圏の建設を掲げた。

大西洋憲章(1941年8月14日)の内容を説明せよ。

米英は領土の不拡大,民族自決などを内容とする大西洋憲章を発表し,太平洋戦争の開始直後には連合国共同宣言へ継承された。

大西洋憲章:憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)

大東亜会議の内容・限界と東南アジア諸国の実態を説明せよ。

太平洋戦争の完遂・大東亜各国の共存共栄秩序の建設・自主独立の尊重・互恵提携をはかり,大東亜共同宣言を発表した。しかし、各国の対日批判の姿勢は強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ず、この「大東亜会議」自体も、内実を伴わぬ日本の宣伝に過ぎなかった。参加したビルマやフィリピン,満州国は日本軍の傀儡政権であり,中国汪兆銘政権や自由インドは地域を代表する政権とすら言えなかった。植民地の朝鮮や台湾などの代表も招請されなかった。皇民化政策を進め,戦争遂行のための資源・労働力調達を優先したため,次第に抗日運動が高まった。


大東亜共同宣言の内容を説明せよ。

米英からの解放をめざした提携強化・戦争完遂と独立尊重などが宣言され、自給経済体制の確立、日本を中心とした新たな国際秩序の建設を企図した。

全文:昭和18年の「東京サミット」、大東亜会議 (teikoku-denmo.jp)


日本民族観から見たアジア太平洋戦争の性格と実態を説明せよ。

日本民族を世界無比の優秀な民族と観念し,そのもとにアジアを統合するための戦争という性格をもち、戦局悪化にともなって一部民族の独立を認めつつも,多くの占領地では軍政(行政・司法・立法を行使)がしかれ,日本語使用や天皇崇拝を強要するなどの皇民化政策も行われた。


バターン死の行進を説明せよ 。

日本軍がフィリピン・バターン半島の米比軍基地を占領した際、米兵らを捕虜にし、炎天下を歩かせ数千の死者を出し、その後捕虜を日本や旧満州に送り、強制労働でも大勢が命を落としたことで激しい非難を浴びた。

「南方占領地行政実施要領」の内容を説明せよ。

占領地に軍政を実施し,軍政実施の目的は重要国防資源の獲得,治安維持および作戦軍の自活確保の 3 点であり,その本質は帝国主義的なものであった。

全文:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/19411120.O1J.html


太平洋戦争末期の船舶不足の影響を説明せよ。

占領地においては、自活を方針としていた日本軍が軍票を乱発して食糧など必要物資を現地調達したため,生活物資の不足が深刻化し,激しいインフレが生じ、植民地でも,物資不足となった。国内では、植民地・占領地から石油・ゴムなど資源や資材の輸送が困難となって工業生産が減退し,また,米の輸入が激減して食糧難となった。さらに、戦時の船舶不足を補うために建造数増加を最優先としてつくられた貨物船の航海速度などの性能の劣化、および船舶不足により一輸送船あたりの人員の搭載量が過重となっており、狭い居住空間に押し込められた兵士たちが沈没の際に脱出できずに死亡したケースも増加した。


カイロ宣言について、具体的に説明せよ。

アメリカ・イギリス・中国3カ国首脳が発表した共同宣言であり、南洋諸島の剥奪,満州・台湾などの中国への返還,朝鮮の将来的な独立など領土処理方針とともに日本の無条件降伏まで戦うとの姿勢が表明された。


沖縄戦の際に守備兵が水際作戦を取らずに攻撃をしなかった理由を説明せよ。

本土決戦準備と国体護持の時間稼ぎのための捨て石作戦であったから。

※男子中等学校…鉄血勤皇隊、女子中等学校…ひめゆり隊白梅隊

第二次世界大戦における沖縄民の疎開が困難だった理由を説明せよ。

日本軍が飛行場建設など戦闘準備にあたり県民を動員したため。

近代の日本が関わった戦争と、占領・支配した諸地域を説明せよ。

日清戦争後に台湾を植民地とした日本は、日露戦争後、関東州を租借し、南満州鉄道株式会社を設立する一方、南樺太を領有し、朝鮮を植民地化した。

第一次世界大戦を機に在華紡など中国に資本輸出を行い、南洋諸島を委任統治領とし、シベリア出兵に際しては北樺太を占領した。満州事変を起こし、満州国を捏造してワシントン体制を崩壊させ、日中戦争を全面化させた。第二次世界大戦が始まると仏印進駐を行い、アジア・太平洋戦争を起こして占領を拡大した。

トルーマンが日本への原爆投下を命じた理由を説明せよ。

ソ連参戦前に日本をアメリカ単独で降伏させ、戦後世界におけるアメリカの優越的地位の確保を図った。

カサブランカ会談の内容を説明せよ。

チャーチルとローズベルトがカサブランカで行った会談。シチリア島とイタリア本土への上陸作戦を決定。ローズベルトは枢軸国に対する無条件降伏要求の原則を明示した。

テヘラン会議の内容を説明せよ。

ヨーロッパにおける連合国の第二戦線問題について協議し、ソ連の対日参戦も約された。

サンフランシスコ会議の内容を説明せよ。

国連設立の準備会議で、ダンバートン=オークス提案を骨子に審議が進められ,国連憲章を採択して幕を閉じた。


ヤルタ会談の内容を説明せよ。

対独処理方策・国際連合問題などを討議し、対日秘密協定でソ連の対日参戦と千島・南樺太領有を了承した。


ポツダム宣言の内容を説明せよ。

欧州の戦後処理と対日戦終結方策を討議し、英・米・中3国の名で日本に降伏を勧告。同会談参加のソ連はまだ日本と中立関係にあったために対日宣戦布告の際まではこの宣言には加わらなかった。条件として軍国主義の絶滅、領土制限、民主化促進などが列挙された。

全文:憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)

敗戦時に多数の日本人孤児・婦人が中国大陸に残留した理由を説明せよ。

ヤルタ協定にもとづき対日参戦を行ったソ連軍に対し、関東軍は壊滅し、戦時
中に送られた満蒙開拓団の移民男性の多くも犠牲となった。生存した日本人に対しても、ソ連軍は強制収容を行い、米国は中国での日本軍の影響を除去するため軍人の帰還を優先した。そのため、疫病の流行や食料不足で自力での帰国の困難な孤児・婦人が、残留を余儀なくされた。