政治法制史 : 近代【前半】

薩長討幕側と旧幕府側が目指した統一国家の相違を簡潔に説明せよ。

薩長討幕側…王政復古の大号令により「徳川将軍家や摂関制を排除」した、天皇の下の雄藩連合政権樹立を目指した。

旧幕府軍側…大政奉還後に「徳川主導」の連合政権樹立を目指した。

王政復古の大号令の内容を説明せよ。

摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置、諸事神武創業の昔への復帰などを宣言した。

「王政復古の大号令」-史料日本史(0918) (chushingura.biz)

戊辰戦争の開戦経緯と経過を説明せよ。また、その際の京都や大阪の豪商らの行動についても触れよ。

朝廷を中心とした公武合体の政治体制への変革を図った薩摩藩主導の四侯会議の挫折以後、討幕の密勅が薩摩と長州に下されたが、徳川慶喜は土佐藩や安芸藩からの建白書を受けて朝廷への政権返上である大政奉還の上表分を討幕の密勅降下と同じ日に武家伝奏に出し、翌日に勅許された(既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために討幕の名分が立たない)。これは雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言権増大をねらったものであった。しかし、それに対して薩長や岩倉は明治天皇に王政復古の大号令を出させ、幕府廃止と総裁(後続の有栖川宮)・議定(有力藩主など)・参与(各藩の実力ある藩士)の三職の制度を基盤とし、徳川慶喜を除外した新体制樹立を宣言した。

公議政体派を退け、慶喜の内大臣辞任と領地の一部返上(辞官納地)を決定した三職会議である小御所会議に挑発されて行動を起こした旧幕府軍と会津・桑名両藩軍が鳥羽・伏見の戦で敗走すると,倒幕派は朝廷の徳川慶喜追討令を受けて東征軍を江戸に送った。その際、豪商らは自ら義勇軍を組織して新政府の側につき、草莽有志が結成した諸隊も東征に参加した。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に帰った慶喜は、新政府に自己の恭順を訴える工作を行ったが効果なく、ついに上野寛永寺に閉居した。それゆえの英国公使パークスによる総攻撃への拒否や旧幕府側の山岡鉄舟らの西郷との交渉、および西郷と勝海舟による会談もあって江戸総攻撃は中止された。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが、江戸開城後に多くの旧幕臣が脱走し、輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴い彰義隊との衝突である上野戦争など関東各地で抗戦した。会津を中核とする東北諸藩は奥羽列藩同盟さらに奥羽越列藩同盟を結成して倒幕派に対抗したが,長岡落城で北越戦争に破れ,会津落城に及んで降伏したことで会津戦争も幕を閉じ、諸外国も中立を解除して、五稜郭の戦榎本武揚軍が降伏して内戦は終わった。

歌川 芳盛 作。上野戦争の図。画題は『本能寺合戦の図』となっているが、実際には上野の戦闘を描いている。引用元:Wikipedia

相楽総三の戊辰戦争への関わりについて説明せよ。またその際、相楽総三らが弔われている墓の名称も記せ。

赤報隊を組織して東征軍の先鋒として進撃したが、年貢半減令を掲げたため偽官軍とされ処刑された。魁塚

首都が東京になった理由を説明せよ。

すでに発展を遂げ、安定した地位を築いていた大阪ではなく、発達途上であった江戸に首都をおき、政治の中心地として確立させることを最優先すべきという前島密の建白を端緒として、列強の脅威が存在する中で東北地方の警備が手薄だったことに加え、首都は日本の中心であるべきだということ、従来の藩邸などの施設が再利用できること、また江戸市民たちの不満を解消しようとしたことも要因であった。

明治初年以降の天皇巡幸の狙い

民情視察・民心慰撫とともに明治国家支配のシンボルとしての天皇の存在と権威を民衆に示そうとした。天皇巡幸の原型は、天皇の京都から東京への行幸(東京奠都)にあった。

五カ条の御誓文について、起草者・修正および訂正者の名前を挙げながらその性格について簡潔に説明せよ。また、五箇条の御誓文が後の民権運動に与えた影響についても説明せよ。

天皇が天地の神々に誓うという形式で示された明治新政府の基本方針で、由利公正が起草し,福岡孝悌が修正を加え,木戸孝允が「列侯会議」を「広ク会議」に訂正した。

「会議」とは列侯会議のことであり,また「庶民」とは豪農や豪商であって,全体としては国民の政治参加をきわめて限定的に認めたものといえる。しかし、公議世論の尊重を掲げた五箇条の御誓文は、立憲政治の実現を公約したものと解釈され、国会開設要求の根拠として、士族・豪農など多くの階層に運動を拡大させる役割を果たした。

全文:五箇條の御誓文|明治神宮 (meijijingu.or.jp)

五榜の掲示の内容を具体的に説明せよ。

明治政府が民衆に対して出した高札で、旧幕府による政策と変わらない、五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散禁止、キリスト教禁止、外国人への暴行禁止、郷村脱走禁止などを定めた。

全文:「五榜の掲示」-史料日本史(0948) (chushingura.biz)

「一世一元の制」の内容を書け。またその変遷について説明せよ。

天皇一代に一つだけ年号を定めること。一世一元の制をとることは皇室典範登極令においても法的に確認されたが、戦後の日本国憲法制定に伴う皇室典範などの改廃により、国民主権の理念にふさわしくないものとして明文法上の根拠を喪失したが、1979年に「元号法」が成立し、明文法上も一世一元の制は復活した。

政体書の内容およびその実態と変遷について説明せよ。

明治新政府が五箇条の御誓文に基づいて発布した政体組織法のことで、起草には,参与の福岡孝弟と同副島種臣があたった。

政権を太政官に集中し,その太政官のもとに議政,行政,神祇,会計,軍務,外国,刑法の七官をおき,三権分立主義の立場から,議政官に立法を,刑法官に司法を,そして他の五官に行政を担当させた。また,議政官は,議定・参与で構成された上局,各府県・各藩選出の貢士による下局に分けられ,議事をたて世論公議をとることを明らかにした。

この制度は当時としては急進的で国情に合わず,議政官は廃止,上局議院は行政府となり,下局は公議所から集議院へと変って1年あまりで三権分立はくずれていった

版籍奉還および廃藩置県の内容およびその背景を説明せよ。

欧米列強の圧力に対抗し、近代国家として藩による封建的割拠体制を打破して中央集権国家を樹立するため、明治政府は版籍奉還により諸藩の主の領地と領民を天皇へ返上させ、旧大名を知藩事に任じ、従来の石高の代わりにその一部を家禄として与えたことで形式的には藩主は明治政府の行政官吏となった。

しかし、旧来の統治権が実質的に温存され、租税と軍事の両権は各藩に属していただけでなく藩同士の対立や明治政府への農民一揆など反抗的風潮も現れてきた。そこで、薩摩・長州・土佐の兵力から政府直属の御親兵を結集し、廃藩置県により藩を廃止し、知藩事を罷免して東京への移住を命じ、代わりに府と県を設置して中央から府知事・県令を派遣し、租税・軍事の両権も中央政府に集中させたことで従来の幕藩体制は崩壊した。

岩倉使節団について簡潔に説明せよ。

欧米に派遣された条約改正準備のための使節団。岩倉具視を特命全権大使,大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳を副使とし,多数の随員・留学生が参加。米国での条約改正交渉には失敗したが,ヨーロッパの先進文明を摂取して帰国した。随員・留学生には中江兆民や,開拓使が募集した津田梅子ら女子留学生(他には山川捨松・永井繁子など)も含まれていた。

1872年、明治4年12月、サンフランシスコ到着直後の岩倉使節団の面々。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通。引用元:Wikipedia

征韓論の内容と背景を説明せよ。

武力を背景として朝鮮の鎖国排外政策を打破し国交を開くべきだという論で、政府への不満をもつ士族の矛先を海外に向けさせるための案でもあった。維新政府は成立以来朝鮮国王に日鮮修好を求めたが,朝鮮政府は鎖国政策をとり続け,交渉を拒絶しており、さらにロシアの南下政策への対応という面もあった。

内務省が管轄する2つの主要な業務を中心に、成立から廃止までを説明 せよ。

内務省は、明治六年の政変で征韓派が下野した後、地方行政治安維持など内政の一元化を図り、大久保利通を初代内務卿として設立された。知事など地方官吏の人事権を握る一方で特別高等警察も直轄し、治安維持法の下で社会運動弾圧を担った。

敗戦後の占領政策により特高は廃止され、警察法の制定により人口5000人以上の全国の市町村に自治体警察を設置すると共に、他地域に国家地方警察を設置した。また、地方自治法で知事など首長は公選となり、リコール制も定められ、地方自治体の民主的な行政が確保され、GHQの指令で内務省は解体された。

明治政府による神道国教化策の内容。およびそれが社会に与えた影響について説明せよ。またその際、キリスト教への対処の動向も説明せよ。

明治政府は、王政復古による祭政一致の立場から五榜の掲示でキリスト教を禁じ、神仏分離令により神仏習合を否定し、神道布教のために神祇官を置いた。さらに、大教宣布の詔を発し、天皇崇拝・国家の思想統一に利用するため、伊勢神宮を頂点とする、官幣社国幣社別格官幣社などの神社制度や皇室行事を中心とする紀元節天長節などの祝祭日を定めた。神道国教化政策を背景に各地で廃仏毀釈運動が起こり、仏教は打撃を受けたが、一方で仏教界の覚醒を促した。また、強引な宗教政策は民衆の反発を招いて十分に受け入れられず、結局、神道の国教化は実現しなかった。また、キリスト教は五榜の掲示によって禁止され、浦上教徒弾圧事件も起きたが、これへの列国の抗議から政府はキリスト教禁止が条約改正交渉に悪影響を与えていることを知って禁教は説かれた

神道国教化政策に対し、仏教の覚醒および復興を目指した人物3人を彼らの主張とともに説明せよ。

清沢満之は、精神主義を主張して近代仏教への脱皮を説いた。井上円了は、国粋主義の立場から仏教の覚醒を促した。島地黙雷は、真の神仏分離・信仰の自由を主張し、浄土真宗を国の大教院から離脱する運動を進め、仏教の復興を達成した。

「新律綱領」および「改定律例」について説明せよ。

●新律綱領●…明治政府のもとでの最初の刑法典であり、江戸幕府の公事方御定書や中国の刑法典をもとにして作成され、華族・士族に閏刑を認めるなど、刑に身分的差別を設けていた

●改定律例●…その後の社会変化に応ずるために新律綱領の補充として施行されたもので、西欧刑法典の影響も受け、新律綱領より処罰を軽減したが、身分による刑罰の差は残された

明治政府の機構の変遷を説明せよ。

王政復古の大号令後

…三職七科の制が発足(ほどなく三職八局の制に変更)

※三職…総裁(有栖川宮熾仁親王)・議定(皇族・公卿・諸侯など)・参与(雄藩の代表)

※徴士…全国の有能な武士

政体書の発布後

…立法・行政・司法の三権に分け、議政官以下の七官を置き、これらの中央官庁を太政官と総称

【三権分立の実はなく、行政官が、国政の決定・執行の中枢機関であった】


※七官(後に八官)→議政官・行政官・会計官・神祇官・軍務官・外国官・刑法官、(民部官)


版籍奉還後

…二官六省。律令的太政官制に基づく復古的なもので、三権分立制は消え、太政官の上に神祇官が置かれた。


※六省→大蔵省・兵部省・外務省・民部省・刑部省・宮内省


廃藩置県後

…天皇を輔弼する最高責任者の太政大臣以下、納言(その後、左・右大臣と改称)、参議などがこれを構成する、太政官の最高機関の正院、行政事務を審議する右院、議院・諸立法の事を議する左院が置かれて太政官三院制が成立し、その下に各省が設置され、中央集権の官僚政府の基礎が固まった。

※1873 年には、強大な大蔵省の権限を抑え、正院の権限を拡大するために改革が行われ、正院には参議を議官とする内閣が設置されて、立法・行政をはじめとする国政の中枢機関に。右院は臨時に開く機関にかえられた。そして、征韓論をめぐる政変後から、参議と各省の長官の兼任制が確立してゆき、参議の権限はしだいに強大になっていった。


漸次立憲政体樹立の詔の発出後

…左右両院は廃止。正院のもとに元老院と大審院が設置。後に地租軽減・政費節減の実施に伴う機構改革の一環で、正院の称は廃止され、名実ともに内閣が中枢機関になった。

大坂会議の内容と意義

伊藤博文と井上馨の周旋により,大久保利通と木戸孝允,板垣退助らが大阪において行なった一連の秘密政治会談。将来国会を開く準備として元老院を設けること,裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること,民意を疎通するため地方官会議を興すこと,および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意をし、木戸と板垣は再び参議として政府に復帰することになった。これにより,征韓論以後次第に弱体化しつつあった政府は一応その補強に成功し,この会議の成果をふまえた詔が発布され,元老院,大審院の創設,地方官会議の召集,立憲政体の漸次採用が宣言された。

立志社建白の意義

すぐに却下されたが、以後の民権運動を国民的な国会開設請願運動の方向へと導いた。

日本最初の政党について、名称を記したうえでその消滅までの活動を説明せよ。

征韓論に敗れて下野した副島種臣,後藤象二郎,板垣退助,江藤新平の前参議がヨーロッパより帰国した由利公正らとともに1874年に東京で結成した愛国公党は、自由民権運動の口火となった民撰議院設立建白書を左院に提出したり,この建白書に対して加えられた加藤弘之らの批判に駁論するなど活発な行動を展開したが,旧土佐藩士族による右大臣岩倉具視要撃事件,江藤による佐賀の乱,板垣らの帰郷などによってまもなく自然消滅した。

愛国社の変遷について説明せよ。

土佐の立志社を中心に全国の有志が1875年に大阪で結社した。最初は士族中心で、板垣が大阪会議後に政府に復帰したため事実上解散した。1878年に再興し、次第に豪農層が参加し、やがて国会期成同盟と改称した。

四民平等について、旧武士および民間の文化の変容=文明開化にも触れながら具体的に説明せよ。

大名・公家を華族、一般武士を士族、農工商ら庶民を平民に改め、解放令を布告して、えた・非人の呼称を廃止し、さらに四民平等の立場から平民に苗字をつけることを公認し、平民と華士族との結婚や、職業の選択、移転・居住の自由も認められた。また文明開化の風潮の下で洋装が民間にも広がり、ざんぎり頭肉食の習慣も普及し、ガス灯やランプがともり、人力車や馬車が見られるようになる一方、武士身分は帯刀を禁止されるなど解体が進行し、さらに日本の伝統的文化を軽視する風潮も現れた。

銀座・京橋の様子 広重 安藤徳兵衛『鉄道馬車往復京橋煉瓦造ヨリ竹河岸図』あらい亀吉
明治15 (1882) 【寄別7-1-2-3】
 引用元:錦絵ギャラリー | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 (kodomo.go.jp)

壬申戸籍の画期性および問題点を説明せよ。

それまでの戸籍の代りをなした宗門人別改帳が身分別記載であるのに対し,壬申戸籍は身分によらず、居住地による登録で作られ、形式的ではあるが身分制を克服している点が画期的である。しかし、廃止したばかりのえた・非人は平民に編入されたものの、「新平民」と記されたので社会的差別は続けられた。

女性民権運動家3人を記し、そのうち2名の著作も記せ。

岸田俊子の「函入娘」。景山英子の「妾の半生涯」。楠瀬喜多。

明治以降の言論・出版統制について略述せよ

明治政府は最初に太政官布告を発し、後に出版条例を公布した。この出版条例により出版の許可制がとられ、勝手な議論や機密の漏洩などを導くような出版は処罰された。自由民権運動が活発化する中で、出版条例は全面改正され、讒謗律新聞紙条例とともに、行政処分としての発行停止を明文化し、違反者には厳罰を科すなど、言論弾圧の大きな武器となった。

太政官布告や勅令であった出版条例は、1893年に出版法となり、1909年の新聞紙法とともに、明治憲法下の二大メディア法を形成した。出版法は書籍のほか、学術、技芸、統計、広告の類を記載する雑誌も規制の対象とし、天皇機関説に関する美濃部達吉博士の憲法書や津田左右吉博士の神代史に関する著書などがこれにより規制を受けた。新聞紙法は太平洋戦争時に強化されたが、戦後になって廃止された。

新聞紙条例(1875年)が制定された背景を説明せよ。

当時、征韓論に敗れた副島種臣ら前参議が東京で愛国公党を結成して民撰議院設立建白書を左院に提出しており、また、土佐では立志社、大阪では後に国会期成同盟と改称する愛国社が結成されるなど、自由民権運動の活発化から、反政府的言論を取り締まる必要があった。

自由党および立憲改進党の主張を説明せよ。

自由党…主権在民一院制・フランス流の急進論

立憲改進党…君民同治(君主と議会が共同する)・二院制・イギリス流の立憲君主制

国民協会の結成者と主張を説明せよ。

西郷従道。品川弥二郎。政府の条約改正交渉に反対して国権拡張を主張し、強硬外交を行えという対外硬を唱えた。

立憲帝政党の結成者と主張と支持層を説明せよ。

福地源一郎(演劇界の改良にも尽力した)。丸山作楽。自由・改進党に対抗してつくった政府系政党で、「国憲意見」などにより主権在君説を掲げ、神官・官吏などの保守層が支持した。

「私擬憲法案」を作成した民間団体と、その案の特徴

交詢社。立憲改進党に近く、イギリス流の二院制議会,財産による制限選挙などを提唱し,議院内閣制も規定され、自由民権派の私擬憲法起草に多大の影響を与えた。

伊藤博文らは、交詢社案のどこが危険であると考えたか説明せよ。

君民共治のもとで天皇の統治権が内閣・議会に制限され,議院内閣制などが規定されていたこと。

「東洋大日本国国憲按」の作者を記し、その特徴を説明せよ。

植木枝盛。一院制の議会に強い権限を与え、広範な人権を保証したうえ、抵抗権や革命権を認めた。

「日本憲法見込案」の作成団体を記し、その特徴を説明せよ。

立志社。「東洋大日本国国憲按」と同系統であり、主権在民・一院制を規定した急進的なもの。

「五日市憲法草案」(「日本帝国憲法」)の作成者、その者の所属団体を記せ。またその特質的な内容について説明せよ。

千葉卓三郎。五日市学芸講談会。他の草案にはみられない幾重にも基本的人権を保障しようとする周到さが認められる。この基本的人権の尊重という点では現日本国憲法に近似している。

「私擬憲法意見」の作成団体と内容を説明せよ。

共存同衆。イギリス的君主制議会主義を主張。

「嚶鳴社憲法草案」の内容。また、嚶鳴社を結成した人物2人を記せ。

共存同衆案に似ており、イギリス型議会主義の影響を受けている。沼間守一。田口卯吉。

板垣退助外遊問題とその影響

板垣と後藤の外遊資金は、政府の井上馨らの斡旋により三井が提供した。政府首脳は自由党の最高指導者を外遊させることによって、党の弱体化をねらうとともに、彼らにヨーロッパ諸国の社会や政治のあり方を実地に見学させて、自由党の政策が現実的になることを期待した。板垣外遊に際して、資金の出所に疑念を抱いた自由党員の一部がこれに強く反対して脱党した。また、立憲改進党は自由党が政府に買収されたとして非難し、ー方、自由党は大隈重信と三菱の関係を激しく攻撃した。こうして両党の対立は一種の泥仕合的様相を呈し、自由民権運動の分裂傾向が強まった。

激化事件の背景を説明せよ。

自由民権運動の展開に対して、政府は新聞紙条例·集会条例を改正するなど、さまざまな手段によってこれを厳しく取り締まるとともに、ー方では、民権派のなかから、有能な人材を官吏に登用するなどの懐柔をはかったので、民権運動はしだいに分裂する方向に向かっていった。1882年ころから政府の緊縮財政(松方デフレ)によって農村に深刻な不況が訪れ、運動資金源が枯渇したり農民層の分解が進んで民権運動の支持階層の分裂を招いたことも運動退潮の一因となった。とくに自由党では1882年、板垣退助が遊説中の岐阜で暴漢に傷つけられる事件がおこった。その後政府の働きかけで、同年末から翌年にかけて、党の最高指導者である板垣退助と後藤象二郎がヨーロッパヘ外遊の途に着くと、自由党は内紛を生じ、また自由党と立憲改進党との対立も激しくなった。指導者を失った自由党員のなかには、政府の取締りに対抗して、政府転覆や政府高官暗殺計画などの暴力的な直接行動に走る急進分子も現れてきた。

自由民権運動の衰退の背景を説明せよ。

長期にわたる民権運動で経済的困窮に陥った民権家の多くが仕官して運動から離脱し、さらに松方財政で農村が疲弊し、没落農民と自由党急進派が結びついた激化事件が各地で続発した。

主な騒擾事件を説明せよ。

県令三島通庸の労役による会津三方道路などの道路開発や一方的な路線決定に反対する数千人の牒民が抵抗し、県会議長河野広中ら自由党員もこれを支援して検挙された福島事件をはじめ、高田事件・群馬事件·加波山事件など東日本各地で騒擾事件が次々におこった。そして自由党急進派の影響のもとに、生活に困窮した農民たち(困民党·借金党)がいっせいに蜂起するという大規模な暴動事件である秩父事件がおこり、政府は軍隊を出動させて鎖圧にあたった。このような混乱のなかで自由党は統制力を失い、正常な政党活動が困難になったため自由党は解党し、立憲改進党も大隈重信·河野敏鎌ら幹部が脱党して活動を停止し、自由民権運動はいったん衰退した。

【日本史研究 山川出版社 参照】

士族反乱を説明せよ。

初期には維新政府の洋化・権力集中政策に反対し,1869年大規模な長州藩脱隊騒動(長州藩が奇兵隊以下の諸隊に対し、兵士を精選して常備軍とする方針を出したところ、不満をもった諸隊が農民一揆を結んで、挙兵した)が起きた。

征韓論分裂後の1874年には佐賀の乱が、士族への廃刀令・秩禄処分発令後は政府打倒・転覆を目的とし,1876年に秋月の乱,萩の乱,1877年には西南戦争が起きた。反乱鎮圧後,政府は積極的に士族授産を実施し,士族掌握に努めた。1878年紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)を最後に終焉。自由民権運動のイデオロギーに影響を与えた。

軍人勅諭(1882年)の起草者と内容と背景を説明せよ。

西周。西南戦争後の待遇に対する不満から近衛砲兵隊の兵士が起こした竹橋事件後に山県有朋によって「軍人訓誡」が出されたが、その後も軍隊への自由民権思想の浸透に危機感を持ち、山県が西周に勅諭起草を命じた。天皇の統帥権、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の徳目を明示し、軍人の政治不関与を説いた。勅諭は軍隊内で神聖視され、太平洋戦争中は中等学校でも暗誦を強要され、天皇制思想形成に大きな影響を与えた。

全文:gunjin.pdf (inv.co.jp)

参謀本部の歴史を略述せよ。

1878年に陸軍省から独立し、内閣の外にあって天皇に直属する軍令統轄機関として設置された。1886年には海軍をも管轄する統一的軍令機関となったが、1889年に海軍参謀部を分離して陸軍の軍令機関に戻った。1893年の戦時大本営条例では参謀総長が陸海軍の作戦計画を立てるとされていたが、1903年に改正され、参謀総長と軍令部長とは大本営において全く同格となった。

甲申事変後には鎮台が師団に改編された。

※1893年、日清戦争に備えて海軍参謀部は海軍軍令部に、1933年からは長官が以前の軍令部長から、陸軍に対抗して軍令部総長となった。

戦前日本の兵役制度について,植民地である朝鮮・台湾も含めて,具体的に説明せよ。

明治初期,大村益次郎および山県有朋を中心に近代的軍隊の方針が具体化され、全国の兵権を兵部省に集め、御親兵を近衛兵と改めた。また、国民皆兵を原則とする徴兵令により,満20歳以上の男子に兵役を義務づける近代的な兵役制度が導入されたものの、武士の特権を奪われた士族および負担の増加した平民らの反対が増加し、血税一揆も起きる中、当初は戸主や代人料270円納入者などの兵役免除が規定されていたために国民皆兵には遠かった。

後の改正によって免役規定が削除されて国民皆兵が実現し(この際も、国外長期移住や徴兵令が未施工であった北海道や沖縄への移籍、自傷・偽病などが用いられ、徴兵逃れの神仏信仰も流行した)、徴兵令は1927年に兵役法へと改称された。それでもやはり大学生については兵役が猶予され,植民地である朝鮮や台湾では徴兵制度が適用されていなかった。

しかし、アジア太平洋戦争の戦局悪化にともない,学徒勤労令女子挺身勤労令による若年者の動員が行われ,朝鮮や台湾でも徴兵制が実施された。そして本土決戦に備えるため、国民総武装・一億玉砕のスローガンの下、防空、警防などの準軍事的活動を目的として国民義勇隊が編成され、後に大政翼賛会、大日本婦人会などを解散のうえ統合し、さらにその組織的強化のため義勇兵役法により国民義勇戦闘隊も編成されたが終戦で解散した。

徴兵令制定以降の日本の軍隊による近代的社会秩序の形成を説明せよ。

軍隊は、緩やかではあるが、当時のもっとも近代的な洋服、洋食、洋楽および時計を介した時間秩序などの生活条件を農村出身者に与えるという形で、中央文化の地方進出を早める役割を果たし、文明開化の推進力となった

明治維新後の軍事制度と江戸時代の軍事制度を対比せよ。

●江戸時代●…将軍が最高指揮権を握り、武士身分を対象として主従関係に基づいて石高に応じた軍隊を常備・動員した。

●明治憲法下●…天皇が最高指揮権を持ち、国民皆兵の原則の下、成年男子に兵役を義務付け軍隊に配属・訓練した。

民権派最後の運動について説明せよ。

大同団結運動三大事件建白運動(①言論の自由②外交失策の挽回③地租軽減)が起こったが、政府は保安条例で弾圧し、星亨ら民権派570名を皇居外3里の地へ追放した。

自由民権運動の盛衰を説明せよ。

立志社建白国会期成同盟の結成などの自由民権運動の展開に対して、政府は新聞紙条例·集会条例の改正などで取り締まると共に民権派の官吏登用などの懐柔を図り、松方デフレにより農民層の分解が進んだことも相まって運動退潮が如実となった。そして党の最高指導者である板垣退助らの外遊で自由党は内紛を生じ、また自由党と立憲改進党との対立も激化し、激化事件も頻発して自由民権運動はいったん衰退した。その後、旧民権派の再結集をめざす大同団結運動三大事件建白運動が起こったが、政府は保安条例で弾圧した。

※保安条例条文:http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/1001_1050/1035.htm

「集会及政社法」(1890年)の内容と歴史的意義を説明せよ。

女性の政談集会や政治結社への参加を、明文で禁じた最初の法律。後に、社会主義者や労働組合運動を弾圧した治安警察法(1900年)の第5条に引き継がれた。

井上馨の条約改正交渉について説明せよ。

江戸幕府が欧米諸国と結んだ安政の五カ国条約は,欧米諸国に領事裁判権を認めるなど不平等な内容をもっていた。明治政府はそうした不平等条約の改正をめざし,1880年代には井上馨を責任者として交渉が進められた。井上は改正の重点を領事裁判権の撤廃におき,欧米同様の法典を編纂すること,外国人を被告とする裁判では外国人判事を採用すること,日本国内を外国人に開放する内地雑居を条件とし,列国の代表を東京にあつめて予備会議を開き、一括交渉を行った。そして,この交渉を有利に進めるため,欧米の外交官を接待するための社交場として鹿鳴館を建設し,舞踏会や夜会を頻繁に開く欧化政策をとった。しかし、三大事件建白運動が高揚するなど政府内外から国家主権を侵すとの批判が起こり、交渉は失敗した。

楊洲周延『貴顕舞踏の略図』鹿鳴館の舞踏会の様子 引用元:Wikipedia

主な欧化政策とそれへの反発を説明せよ。

鹿鳴館の建設、羅馬字会・演劇改良会・風俗改良会・男女交際法改良会・衣服改良会の設立など文物・制度・風俗の欧化を進めたが、その貴族的な姿勢は国粋主義や平民的欧化の立場からの反発を招いた。

対外硬派グループの主張とそれが生まれた背景を説明せよ。

政府の欧化政策とそれに反発する国粋主義の高揚を背景とし、立憲改進党などの残存民党は、陸奥の進める外交方針と自由民権運動の民力休養路線の双方に反対し、内地雑居を進めるのではなく、軍事力を拡張したうえで、現条約を励行して欧米諸国に不便さを痛感させることで欧米諸国の方から改正を求めさせるという強硬な態度で交渉を行うべきだと主張した。

大隈重信の条約改正交渉について説明せよ。

列国間の対立を利用して、各国と個別に交渉する方式に転換し、井上時代の改正案を基調としながら、一方では現行条約を遵守することによって現行条約の不便さを外国人に痛感させ、より有利な条件をかちとろうと試みた。西洋人関係の裁判に西洋人法官が多数を占める混成裁判所を大審院のみに限り、西洋法原理にはとらわれないとの条件で日本の法権回復を認め、引き換えに日本内地を開放する単独条約がまず、メキシコとの間に相互平等条約、ついでアメリカとの間に締結された。しかし、その内容がタイムズ紙上を通じて日本国内に伝わるに及んで、自由民権派自由党系や国家主義者らは、憲法違反、内地雑居の危険を叫んで政府攻撃を展開した。大隈は玄洋社来島恒喜の爆弾によって負傷し、改正交渉はまたも挫折し、単独条約も取消しとなった。

熱海会議を簡潔に説明せよ。

伊藤・大隈・井上の3参議により国会の開設が合意された会議。

三田演説館を簡潔に説明せよ。

福沢諭吉が日本に演説を普及させるため、常設会場として設立した。

明治十四年の政変を説明せよ。

憲法制定に関し、大隈の建議書(実質は福沢諭吉門下生が作成)ではイギリス型の議院内閣制を採り、しかも1年以内の国会開設を主張していた。これに対し、岩倉や伊藤は、プロシア型の君主権限の強い憲法にならい、国会開設も時間をかけるべきという漸進策を考えていた。明治初期のこの時期、政治体制はまだ固まっておらず、急進的に議会主導で政治体制を充実させようとする大隈と、まだ官僚が主導すべきだとする岩倉・伊藤の考え方が対立していた。対立が決定的になったのは、憲法制定に関する建議書のとりまとめ役であった右大臣の岩倉を通さず、直接、左大臣有栖川宮熾仁親王に建議したことであった。これにより政府内部で大隈批判が高まり政変の引き金となったところへ、北海道開拓使官有物払下げ事件で政府批判が相次ぎ、政府は払下げ中止、払い下げ問題に関与ありとされた大隈らを罷免するとともに、勅諭により1890年の国会開設を約束し、この危機を乗り切り、政府の基本的方向を明確にしたうえで薩長藩閥による権力体制を固めた。

1870年代末~1880年代初めにかけて、国会開設運動が激化した社会的・経済的理由(明治十四年の政変以外で)

地方三新法の府県会規則により全国で府県会が開催され、地方では地方民の政治的関心が増し、それまでの士族中心の運動である士族民権は農民の地租軽減要求などとも結びついて豪農・地主や商工業者らの参加する広範な運動である豪農民権に発展するようになった。また、インフレの傾向が進み、米をはじめ農産物価格が上昇したため、農家の家計にも余裕が生じて活動資金の調達が容易になった。

【日本史研究 山川出版社 参照】

大津事件の内容

来日中のロシア皇太子のニコライが、津田三蔵巡査に傷つけられた事件。対露関係の悪化を恐れた政府は不敬罪を適用して死刑を処するように企図したが、大審院長児島惟謙らは刑法の規定通り、無期徒刑を主張し、司法権の独立を守った。

※大津事件で辞任した青木の後任、榎本武揚も青木の路線を受けて列国と交渉、まずポルトガルとの間で領事裁判権撤廃に成功した。

師範学校について簡潔に説明せよ。

小学校教員養成機関であり、1872年に東京に師範学校が設置され,アメリカ人M.M.スコットを教師として招いてアメリカの教授法を導入した。次第に各府県に公立師範学校が設けられ、 1886年に「師範学校令」が公布されて師範教育の基礎が確立された。

学制の内容とその成り行き

フランスに倣い、全国を学区で区分し、それぞれの学区に決まった数の大学校・中学校・小学校を置いて小学校から大学に至る画一的な学校制度の整備を図ったもので、実学を強調する個人主義・功利主義的な理念を掲げつつ、国民皆学の精神を説いていた。しかし、学校設立の経費が地域住民の負担であり、就学が有償であったことや、画一的過ぎて地方の教育の実態に即さない面が多く、問題が続出し、民衆の反発にあい、この政策は失敗した。

※画一的でも功利主義的であることに注意

被仰出書とは何か説明せよ。

学制の序文であり、正式には「学事奨励に関する被仰出書」のこと。国民皆学、教育の機会均等などをうたった。

学事奨励ニ関スル被仰出書(学制序文) (sakura.ne.jp)

教育令の代表的な制定者を記せ。またその内容と変遷について説明せよ。

田中不二麻呂。画一的な学制に対する反対運動を考慮し、学生の中央集権的な政策を改めて、アメリカに倣って地方分権的な教育政策へ転換したものが第一次教育令である。しかし、その緩和策があだとなり、地方によっては学校を廃止するなど初等教育に対する混乱を引き起こし、一挙に衰退するという事態に陥った。そこで、第二次教育令が発令され、再び国家による統制が強化され、小学校の設置や就学の義務に対する規定が強化された。そして第三次教育令によって、松方デフレに応じて教育費の節減が図られた。第二次・三次教育令により、国家が地方の教育に干渉する方針へと転換し、その後は小学校令が出されることになる。

学校令(1886年)による教育理念の大幅な転換と、学校令の具体的内容について説明

自由主義的・功利主義的な教育政策から、次第に国家統制を強化して国民としての自覚と国家への忠誠心を民衆の間に広めることを目的とするドイツ式の国家主義的な方向に向かった。内容としては、小学校・中学校・師範学校がそれぞれ「尋常」「高等」の二段階に分けられ、、当時唯一の大学校だった東京大学が名称を変え「東京帝国大学」となり、各教育機関の細かな編成が定められ、さらに小学校への3~4年間の就学が「義務教育」として定められた。

※学校令は、帝国大学令・小学校令・中学校令・師範学校令の総称

教学大旨とは何か説明せよ。

学制における実学主義から皇国主義への転換を示したもので、改正教育令での修身科重視の政策に反映した。後の「教育勅語」の原型となった。

小学校令の変遷と就学率の変遷について説明せよ。

明治中期に学校令の中の小学校令で尋常小学校の3~4年を義務教育と定められていたが、1900年に改正されて義務教育が尋常小学校の4年に統一され、日清戦争の賠償金をもとにして義務教育が無償化されると女子の就学率も上昇した。日露戦争後にはさらに改正され、義務教育が6年に延長され、明治末年には男女の就学率がほぼ100%に達した。

教育勅語(1890年)の起草者2名を挙げ、その内容と普及のあり方を説明せよ。

井上毅。元田永孚。勅語の形式で発布された近代日本の教学の最高規範書。家族国家観に基づく忠君愛国主義と儒教的道徳を内容とした。御真影と共に謄本が各学校に交付され,奉安殿に安置し、学校で奉読式を行うなどして修身教育等を通じてその精神が注入され,天皇制の支柱となった

国定教科書制度について説明せよ

教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件である疑獄事件を契機に、小学校では文部省著作の国定教科書に統一され、修身・国語・国史などを科目の中心として国民思想統制を図った。

明治初期~戦後の教育の制度・内容の変遷を説明せよ。

●明治初期●…政府は国民皆学と実学の普及を目指し、中央集権的な学制を制定した。

●明治中期●…学校令を発して帝国大学を設立すると共に、義務教育を導入し、教育勅語で忠君愛国などの基本理念を示した。

●明治末期●…義務教育は広く普及し、大正期には高等教育の拡充も行われ、個性尊重を掲げる自由教育運動も起こった。

●昭和期・十五年戦争期●…小学校は国民学校に改組され、学徒出陣も行われ、教育の崩壊が進んだ。

●敗戦後●…新憲法に基づいて教育基本法学校教育法などが公布され、教育の民主化が行われた。

沖縄県設置時の県政を説明せよ。

旧来の人頭税を残す旧慣温存策を採ったため、人頭税廃止運動が起こった。また地租改正などの諸制度の整備も遅れた。

太陽暦への移行に時間を要した理由

農山漁村では旧正月など、旧暦の生活行事とのかかわりが強かったから。

民法典論争について説明せよ。

ボアソナードを中心に完成し1890年に公布された民法に関して、施行断行を主張する梅謙次郎らと、その民法は家族道徳を破壊するものだとして施行延期を主張する穂積八束らの間で民法典論争が生じた。この結果,修正を前提として施行延期となり、天皇制国家支配の一手段となった家父長制的な家の制度は存続した。

皇位継承者に関する皇室典範の規定を説明せよ。

男性皇族のみに皇位継承を認めている。

※その他…皇族、皇室経費、摂政の制なども

旧皇室典範と現行の皇室典範の性格上の違いを説明せよ。

帝国議会の旧皇室典範への不干渉と、旧皇室典範の帝国憲法への不干渉が定められていたことに基づき、旧皇室典範は、帝国憲法と対等な法という扱いであり、両者を合わせて「典憲」と称した。しかし、現行の皇室典範の位置づけは日本国憲法に基づく法律という形式であり、一般の法律と同じく国会の議決によって改正することができる

華族令の内容とそれを制定した目的

華族は公・侯・伯・子・男の5爵に分けられ、これまでの旧大名・公家らに加えて、明治維新以後、国家に功労のあった人々を新しく華族に列した。これは、国会が開かれた場合の貴族院の選出母体とするためのものであり、そこには立憲政治の実現に向けての国内の対立を和らげる目的があった。この華族令によって、政府の首脳はほとんどが、民権派の指導者や旧幕臣の有力者にも爵位が授与された。

近代刑法の根本原則を説明せよ。また、日本の近代刑法(現行刑法)が制定されるまでの経緯を説明せよ。

いかなる行為が罰せられ,その処罰はいかなる程度・種類のものかを規定する罪刑法定主義。日本では明治初年に律令の系譜をひく新律綱領改定律例があったが,やがてフランス刑法に基づきボアソナードの起草した旧刑法が定められ,同時に治罪法も定められた。罪刑法定主義が初めて認められ、内乱罪の厳罰、家制度を守るための妻の姦通罪や堕胎罪、大逆罪や不敬罪も設けられた。後に新たな刑事訴訟法の施行とともに治罪法は廃止された。その後、当時のヨーロッパにおける最新の刑法や刑法草案を広く参照し,リストをはじめとする近代学派の刑法理論を摂取したドイツ法系の現行刑法が制定された。

商法が必要だった理由となる、近世から近代初期の商業の実態を説明せよ。

江戸時代には幕府が儒教的な重農抑商政策を進めたこと、諸藩が自藩の産業保護を優先した事によって、商業の全国的レベルでの発展は抑え込まれた。現代的な会社形態の組織が生まれる事はなく、商業のほとんどは個人又は同族経営による商店のみが存在した。そのため、商取引は商慣習に従って行われた。

明治に入ると、近代的な会社・企業組織などの考えが日本にも伝わり、政府も欧米の巨大な資本に対抗するには日本でも企業を起こしていく必要性があると考えたが、組織形態もバラバラでありすぐに倒産する会社も少なくなかった。また為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まった

商法典論争の背景を説明せよ。またその際、商法の制定までの経緯を簡潔に説明せよ。

民法と商法の双方の間に重複や矛盾が生じていたこと、また、ロエスレルが日本の商慣習を慣習法としての価値を全く認めようとしなかったことに対し、穂積陳重らが商法は現地の商慣習を無視した商法はありえないと主張していたことが挙げられる。商法の施行は2年延期となったが、具体的な規定が無かった会社法や破産法は先行して施行され、後に旧商法も全面施行された。そして、その後新しい商法が公布され、会社設立を許可制から準則主義にし事実上の自由化を行いさらに、商慣習の地位を引き上げて商法にない規定は商慣習法を援用するようにした。

衆議院議員の選挙権および被選挙権を説明せよ。

衆議院議員の選挙権は直接国税15円以上の納入者で満25歳以上の男性で、被選挙権は30歳以上の男子で直接国税15円以上を納めた者

貴族院の構成を説明せよ。

皇族議員・華族議員らの世襲議員勅選議員多額納税者議員(各府県で互選1人)

勅選議員と勅任議員の違いを説明せよ。

勅選議員…勲功があり学識のある人物で、内閣に推薦された貴族院議員。

勅任議員…多額納税議員と勅選議員を合わせた総称である。

府県知事の選出方法を説明せよ。

天皇によって任命され、内務大臣の指揮監督を受けた。

市町村長の選出方法を説明せよ。

市長は市会の推薦で内務大臣が選任し、町村長は町村会が選挙し府県知事が認可した。

府県会議員の選挙権の変遷を説明せよ。

府県会規則(1878年)によって、地租5円以上納付の満20歳以上の男性になる。

府県制・郡制(1890年)によって、当初は市会議員などによる投票で間接選挙により選出され、その後は住民の直接選挙で選出されるようになった。

(当初は制限選挙で、1926年以降は25歳以上の男子の普通選挙)

市会・町村会議員の選挙権について説明せよ。

市制・町村制(1888年)により、直接国税2円以上を納める満25歳以上の男性の直接選挙であり、地主ら地方名望家が市町村会の実権を握った。

(1926年以降は25歳以上の男子の普通選挙)

市町村会議員,衆議院議員,貴族院議員の選出方法を説明せよ。

●市町村会議員●…地租もしくは直接国税(所得税や営業税も)2円以上の納入者で満 25歳以上の男性に限られ,地主ら地方名望家が市町村会の実権を握った。

●衆議院議員●…直接国税 15 円以上の納入者で満 25 歳以上の男性

●貴族院議員●…多額納税者として大地主が各府県から1人選出された。


明治期の地方制度を説明せよ。

●政体書後●…府・藩・県の三治制を定めた後、版籍奉還で諸大名を知藩事に任じたが、藩体制は実質的に維持された。

●廃藩置県後●…知藩事の東京移住や府知事・県令の派遣を実施して、中央集権体制を整える一方、画一的な行政区画の大区・小区を設けた。

●明治六年の政変後●…地方行政も担う内務省の新設を経て、大区・小区制を改めて郡制を復活させた「郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則」地方三新法で、府会・県会を通して民意を汲み取る地方制度が整備された。

●大日本帝国憲法発布の前後●…この時期に公布された市制・町村制府県制・郡制では、政府の統制下で地域の有力者を担い手とする地方自治制が確立した。

●日露戦争後●…日本経済が慢性的な不況に陥る中で、政府は戊申詔書を発布し、内務省を中心に地方改良運動を推進。租税負担力の増加をはかるこの運動によって、江戸時代以来の村落共同体である旧町村が、市制・町村制による行政単位としての町村に再編成された。

大日本帝国憲法が ”外見的立憲主義” と呼ばれる理由を、権力分立の面・国民の権利保障の面で日本国憲法と比較しながら説明せよ。その際、「法の支配」と「法治主義」の2つの概念を説明しながら、大日本帝国と日本国憲法が、それぞれそのどちらの性格を有しているかについても言及せよ。

新旧憲法ともに三権分立・司法権独立の精神を持った点で共通するが、旧憲法下では統治権を総攬する天皇のもとに諸国家機関が併置されたのに対し、新憲法下では、「抑制と均衡」を相互に機能させる三権分立制が保障された

<議会>いずれも二院制が採用されたが、旧憲法の貴族院は非公選であり、帝国議会は天皇の協賛機関として法律・予算の審議を担当し、憲法改正の発議権も天皇が有していたのに対し、新憲法下において両院ともに選挙された議員で組織される国会は、「国権の最高機関」・「国の唯一の立法機関」とされ、憲法改正は国会の発議で行われるようになり、解散があるためにより民意を反映していた衆議院の優越もある。

内閣>旧憲法には明文規定が無く、元老などにより選定された首相も国務大臣の天皇への単独輔弼の制度の下では各国務大臣の一人(同輩中の首席)に過ぎなかったが、行政権を内閣に帰属させた新憲法では、議会の信任が内閣存続の要件となる議院内閣制が採用され、国会で選出された首相は国務大臣に対する任免権を保持している。

<裁判所>旧憲法では、天皇の名において司法権を行使したが、司法権を裁判所に帰属させた新憲法では、司法権独立・裁判官の独立が明文化され、さらにすべての裁判所に違憲立法審査権も付与された。

<国民の権利保障>新憲法においては国民の基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」とされていたのに対し、旧憲法では臣民の権利は永久不可侵の権利である自然権とは考えられておらず、天皇が恩恵的に与えたものとされ、かつ表現の自由・信教の自由などは法律の留保が適用され、法律によって制限可能なものであり、また思想・良心の自由、学問の自由、社会権は規定されていなかった。

「法の支配」は為政者を法によって拘束し、国民の権利・自由を確保しようという考えで、国民の権利・自由を侵害するような法は根本的に法とはみなさない概念であり、法の内容を重視する。一方、「法治主義」は人の支配を否定するという点では「法の支配」と同じであるが、適正な手続きに従って制定された法律に基づいて行政を行わなければならないという考えから法の内容よりも法律制定に際しての形式的な根拠を重視し、法律の根拠さえあれば国民の権利や自由を侵害することが可能になる。つまり、法律の留保を適用していた旧憲法は「法治主義」、基本的人権を永久不可侵とした日本国憲法は「法の支配」の性格を有していたことがわかる。以上により、議会・内閣・裁判所が天皇を補完する役割を与えられ、臣民の権利の保障に対して重大な制約が課され、さらに「法治主義」的性格を有していたことから、大日本帝国憲法は外見的立憲主義と呼ばれる。

「憲法発布式之図」歌川国利 明治憲法発布式の様子 引用元:憲法発布式之図 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

天皇大権について3つ説明せよ。

帝国議会閉会の場合,緊急の必要によって,枢密院の諮詢の下で、各国務大臣の輔弼により法律と同じ効力をもつ勅令を発することができる権限(次の議会の承認は必要)である緊急勅令の発布権

陸海軍の指揮・統率権であり、天皇大権の1つでありながら内閣も関与できない慣例で、参謀総長・軍令部長(後に軍令部総長)の輔弼で内閣を経ずに帷幄上奏し,天皇の裁可を経た後それを奉勅命令として執行した統帥権

非常事態に軍に治安権限を与えた戒厳令

その他…官制の制定・文武官の任免権・宣戦、講和及び条約締結権・衆議院解散権・帝国議会の召集権・独立命令・法律の裁可(法律案が最終的に確定・成立するためには天皇による裁可=承認が必要であった。)

※緊急勅令は、大津事件の際に、新聞・雑誌等取締りのために発せられたのが最初

★戒厳令は日比谷焼き討ち事件、関東大震災、二・二六事件などで出された

※兵力量の決定は内閣の輔弼事項である天皇大権であり、統帥権とは別であると規定。

大日本帝国憲法原文〇:憲法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)

独立命令について説明せよ。

法律の規定を実施するためでもなく、法律の委任に基づくものでもなく、法律から独立に発せられる命令。天皇主権をとる明治憲法の下では「公共の安寧秩序を保持し臣民の幸福を増進する」という抽象的な目的で発せられた

軍政と軍令の相違を、天皇や内閣との関係も含めて説明

軍政機関である陸軍省は、軍の編成・維持・管理を担当し、陸軍大臣は内閣を構成する閣僚であった。一方、軍令機関である陸軍参謀本部は軍の指揮・命令を担当し、参謀総長は内閣から独立し、天皇に直属していた。

明治憲法における民主主義的要素を説明せよ。

法律案・予算案は公選の議員による衆議院の同意が必要とされたため、その成立には民意が反映された。所有権の不可侵、言論・出版・集会・結社の自由が法律の範囲内、信教の自由が安寧秩序を妨げず、天皇中心の国体観念の枠内において臣民の義務に背かないという条件の下で認められた。

大日本帝国憲法は「欽定憲法」であったにもかかわらず、民権派が発布を祝ったのはなぜか説明せよ。

明治憲法は権力分立を定め、制限付きであれ人民の自由と権利を保障し、帝国議会の一部として公選制の衆議院を設けており、政府官僚の専断を抑制し、公議に基づく政治を実現させる道が開けていたから。

政党内閣とは何か。簡潔に説明せよ。

衆議院に基盤を置く政党の党首を首相とし、閣僚の過半が政党員によって組織された内閣

帝国憲法下の内閣総理大臣で、国政選挙で国民から選ばれて議員になったものが少ない理由を説明せよ。

天皇を統治権の総覧者とした帝国憲法下において、内閣総理大臣はあくまでも天皇を輔弼する国務大臣の一員であるため、国政選挙で選出する必要はなかった。さらに帝国憲法には内閣総理大臣の選出に関する規定事項はなく、元老や重臣の推挙を受けた人物が、天皇の組閣大命を受けて内閣総理大臣となることが慣例となっていた。

大日本帝国憲法下の内閣が短命であった理由を説明せよ。

議院内閣制が採用されず、内閣総理大臣は議会から選ばれているわけではなく議会との対立が生じた。また、軍部枢密院など国家の諸機関が割拠しており、内閣とこれらの諸機関との対立もあった。さらに、総理大臣は他の国務大臣に対する任免権を持っておらず、各大臣が天皇に対して単独で輔弼して責任を負ったため連帯責任制が欠け、重大事項に関して閣内で意見の対立が生じた場合は内閣不一致で総辞職しなければならなかった。


明治憲法の、政党政治の発展における「意義」を説明せよ。

立法や予算制定には帝国議会の協賛が必要であり、帝国議会は貴族院・衆議院の2院で構成され、両院の同意がなければ法律や予算は成立しなかった(租税の設立や税率の変更には新たな法律が必要)。さらに、公選議員からなる衆議院が予算の先議権をもち、加えて、衆議院は、法的拘束力は無かったものの、内閣や国務大臣に対して不信任決議を行って、今後の予算案や法律案を可決しないという意思表示ができ、議会は内閣を監視・監督する機能を実質的に保持していた。上記を背景として、衆議院に基盤をもつ政党が次第に政治的影響力を拡大した。

明治憲法による、政党政治の発展への「制約」を説明せよ。

予算案が不成立の場合は前年度予算をそのまま施行可能であり、明治憲法では議院内閣制が採用されず、首相の選定についても規定がなく、元老が実質的な選定にあたったため、元老の支持がなければ政党党首が首相に就任して政党内閣を組織することは困難であった。そして内閣に権限が集中する構造が採用されず、政党内閣が成立しても、天皇の諮詢機関として重要な国務の審議にあたった枢密院、統帥権が内閣から独立した陸海軍、また予算先議権を除けば対等であった非公選の貴族院から制約を受けていた。

明治憲法での臣民の三大義務と日本国憲法の国民の三大義務

●明治憲法…教育の義務(教育勅語により)・納税の義務・兵役の義務

●日本国憲法…教育の義務・納税の義務・勤労の義務

超然主義の内容とそれが理論上可能であった理由およびその挫折について説明せよ。

明治憲法は、議会に干渉されない天皇大権など、天皇と政府に強い権限が与えられる規定を含み、また予算先議権以外は衆議院と対等であった非公選の貴族院が存在していたことを背景として政府は政党の意向に左右されないとする超然主義を掲げたが、憲法上、予算・法律の成立には議会の協賛が必要なため、軍拡が進んで前年度予算執行権が使い物にならなくなると予算案を通すために政府は衆議院を基盤とする政党との妥協を余儀なくされた。

4次にわたる伊藤博文内閣をそれぞれ説明せよ。

第1次(1885~1888年)…内閣制度創設後初の内閣・日本最初の内閣であり、外相井上馨を中心にして条約改正交渉を推進した。民権諸派の反対を保安条例により弾圧した。外相を大隈重信に替えて交渉を続けたが失敗し、総辞職した。

第2次(1892~1896年)…元勲内閣と呼ばれ,初期議会の民党攻勢のなかで元勲総出で組織。議会解散,詔勅政策などで民党を圧し,海軍拡張を強行した。1894年にイギリスとの条約改正に成功して日英通商航海条約を締結し、日清戦争を遂行した。日清戦争後は自由党と提携し党首板垣退助を内相にしたが,閣内不統一で総辞職した。

第3次(1898年)…自由・進歩両党との提携に失敗し,地租増徴案などで反対を受けて議会を解散。政府党を組織しようとしたが失敗し,自由・改進両党合同による憲政党の出現をまえにして総辞職。

第4次(1900年~1901年)…立憲政友会結成直後に同会を基礎に組織。北清事変処理のため増税案を提出し,貴族院の反対を受けたが詔勅により切り抜けた。その後予算案をめぐり蔵相の渡辺国武と他の閣僚が衝突し,閣内不統一で総辞職した。

黒田清隆内閣(1888~1889年)を説明せよ。

第1次伊藤博文内閣のあと薩長藩閥をもって組織した。逓相に大同団結運動の中核の後藤象二郎を迎え運動の分裂を企図し,大日本帝国憲法発布直後には超然主義を宣言した(超然内閣)。外相大隈重信の条約改正案は在野諸勢力のほか政府内部からも反対された。

2次にわたる松方内閣をそれぞれ説明せよ。

第1次(1891~1892年)…成立直後に大津事件が起こり、外相・内相を更迭した。第2議会で海軍拡張費をめぐり民党と対立し、樺山資紀海相の蛮勇演説で議会を解散した。総選挙では内相品川弥二郎により民党候補者に対する大干渉を加え,第3議会で民党と貴族院からその責任を追及され,議会閉会後に総辞職した。

第2次(1896~1898年)…進歩党と提携して党首の大隈重信を外相に迎えた(松隈内閣)。日清戦争の償金をもとに貨幣法により金本位制度を採用し、その後に地租増徴案を提出して進歩党と対立し大隈外相は辞任した。野党連合の内閣不信任案にあい総辞職。

第一議会~第四議会までの政府と民党との間の対立を説明せよ。

議会の同意がなければ予算や法律は成立しなかったため、第一議会以降、衆議院の多数を占めた民党は「民力休養・経費節減」(政府予算の削減による地租軽減)を唱え、藩閥政府の目指す軍拡を妨害した。政府は山県内閣による自由党の一部の切り崩し(海外への体面を考慮して、東洋で事実上最初の議会を無事終わらせようとした)や、松方内閣による選挙干渉などで対抗したが、民党の優位を覆せなかった。しかし、藩閥政治家を擁する元勲内閣であった第二次伊藤内閣は、第四議会で建艦詔勅を利用して自由党の協力を取り付け、軍拡に成功した。

蛮勇演説を説明せよ。

1891年に第2回帝国議会で行われた樺山資紀海軍大臣の演説。薩長藩閥政府の正当性と民党批判を力説し、民党側の強い反発を引き起こして衆議院を解散させる一因となった。

「樺山資紀の蛮勇演説」-史料日本史(1044) (chushingura.biz)

和衷共同の詔書について説明せよ。

文武官の俸給の減額宮廷費からの供養により、宮中・政府・政党の三者がいわゆる三方一両損的譲歩により軍拡を成功させ、第二次伊藤内閣は第四議会を乗り切った。

なぜ日清戦争後に政府と政党は提携できたのか説明せよ。

政府は明治憲法によって前年度予算執行権が保証されていたが、日清戦後経営のための急激な予算規模の膨張によって前年度予算執行権は使い物にならなかった。そのため予算案などを通すために政党と協力したいと考えており、また政党の支持基盤であった地主たちは産業革命の展開により資本家としての性格を強めていたため、政府と結びついたほうが公共事業など自分たちに有利な政策を遂行できると考えた。

日清戦争後の政府と政党との提携について、憲政党の成立まで説明せよ。

戦争中、政府と政党は政争を一時中断して「挙国一致」で戦争遂行にあたったが、戦後になると、政府である第二次伊藤内閣と自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。その後、第二次伊藤内閣に板垣が入閣して自由党との連立内閣となり、第二次松方内閣でも、かつての対外硬派を中心とした進歩党と提携して松隈内閣となった。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党は次第に勢力を伸長していった。その後、地租増徴を図った第三次伊藤内閣が倒れ、憲政党が組閣された。

第1次大隈内閣の内容と、それが瓦解した経緯を説明せよ。

この内閣は自由・進歩両党合同の憲政党を基盤とする日本初の政党内閣であり、内相は板垣退助で「隈板内閣」ともいう。政党としての基礎不確立のまま組閣したので、当初より大臣の椅子をめぐって旧自由、進歩両派が争い、また猟官運動も盛んであった。尾崎行雄文相が共和演説事件で辞任すると、後任をめぐる内部対立が激化し、旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂して内閣は瓦解した。

日清戦後の政府と政党の協調関係が破綻した理由を説明せよ。

戦後経営のために地租増徴が欠かせなくなったこと、および、政党の政府進出を危惧した官僚が山県有朋のもとに集い始め、発言権を強めていたために、政党への譲歩が困難となった。

2次にわたる山県内閣を説明せよ。

第1次(1889~1891年)…黒田清隆内閣が大隈条約改正案の失敗で倒れたあと成立した藩閥内閣。国会開設を翌年に控えて超然主義を掲げたが、1890年の第1回総選挙では、反政府派の民党が多数を占めた。教育勅語を発布して、天皇制の精神的基礎の確立を目ざした。第1議会では国是として主権線と利益線(朝鮮)の擁護を訴え、軍備拡張を基本とする予算案を提出した。これに対し「民力休養・政費節減」を主張する民党は全予算の1割に及ぶ削減案で対抗した。そのため内閣は一方で衆議院解散をほのめかし、他方で後藤、陸奥を通じて自由党土佐派を切り崩し、第1議会を乗り切った。第1議会閉会直後に総辞職し、松方正義内閣に引き継いだ。

「外交政略論」(『山県有朋意見書』)-史料日本史(0990) (chushingura.biz)

第2次(1898~1900年)…内閣の最大の課題は日清戦後の大軍備拡張を柱とする戦後経営の財源確保のため地租増徴を実現することにあった。そのため内閣は星亨を通じて憲政党(旧自由党系)と提携して地租増徴を実現させた。このあと文官任用令を改正して政党勢力の官僚機構への浸透を防止し、さらに翌年には枢密院諮詢事項の拡大、軍部大臣現役武官制の確立など総じて官僚機構の強化に努めた。そして衆議院議員選挙の納税資格を直接国税15円から10円に引き下げ、都市を独立選挙区として地主中心の議会を都市商工業者や自作農にも広げ、被選挙権の納税要件を無くすなど国民の参政権を拡大させた。また労働者、農民の運動を抑えるため治安警察法を制定し、対外的には、1900年の義和団事件(北清事変)に大軍を派遣した。義和団事件の処理をめぐる閣内不統一を理由に総辞職し。同年に立憲政友会を組織した伊藤博文にその後任を託した。

後年の山県有朋 引用元:山縣有朋の生涯(山縣有朋と吉田松陰) (yoshida-shoin.com)

治安警察法(1900年)の目的と内容

第2次山県内閣は治安立法を集大成し,あわせて日清戦争後,産業経済の急激な発展に伴って台頭してきた労働運動に対処するため治安警察法を制定し、政治に関する結社および政治的集会の届け出義務,軍人,警官,女子,教員,生徒,未成年者などの政治結社への加入禁止など多くの規制を含んでいた。また労働争議の抑圧を目的とした 17条の新設が重要であったが、この条項はストライキ権や団体交渉権を制限していたため内外の批判が多く,1926年の第 51議会で削除され,「争議の自由」が確立された。

「治安警察法」(『法令全書』)-史料日本史(1094) (chushingura.biz)

文官任用令の改正について具体的に説明せよ。

1893年に制定された文官任用令では奏任官(同法令により帝国大学卒業者への試験免除の特権が廃止され、高等文官試験の合格者から任用するようになった)ではない勅任官を自由任用としたため、日清戦争後、藩閥政府と政党の提携が進むと、政党員が勅任官の多くを占めた。山県内閣は、1899年に文官任用令を改正し、勅任官の任用を原則として奏任官と同じく高等文官試験合格者に制限し、政党員の猟官を困難にした。

文官分限令について説明せよ。

一般官吏の身分保障について定めた法令。第二次山県内閣が、政党の官僚進出を抑えるために制定し、政党内閣が自由に官吏の任免を行うことを防ぐ効果をもった。

文官懲戒令について説明せよ。

官吏の身分保障と秩序維持のために制定された。

軍部大臣現役武官制の制定の背景および内容とその変遷を説明せよ。またそれがなぜ内閣の急所をつけたのか、またそれにより倒閣された例を3つ説明せよ。

藩閥政府が日清戦後経営のため政党との提携を強化すると、政党員の官界進出が進んだ。これを背景として、軍部大臣の任用資格を現役の陸海軍大将あるいは中将に限定した制度である軍部大臣現役武官制が第2次山県有朋内閣のときに定められ,軍部の政治的発言力の強化に利用されたが,第1次護憲運動の高まりとともに第1次山本権兵衛内閣によって「現役」の規定は取りはずされた。しかし 二・二六事件後,広田弘毅内閣によってこの制度は復活し,軍部の政治支配の有力な武器となった。現役武官の行動・人事は統帥権に関わり内閣も関与できないため、軍部大臣現役武官制によって組閣に軍の合意を要し、軍部大臣辞職により倒閣も可能となった。

第二次西園寺公望内閣が二個師団増設を拒否した際、陸相上原勇作が辞職して倒閣した。

②広田内閣総辞職後、軍部ファシズムに批判的であったために軍事統制を期待された陸軍穏健派の宇垣一成内閣が、反対する陸軍の陸相推挙拒否によって不成立に終わった。

③陸相畑俊六辞職によって、日独伊三国同盟、新体制運動に消極的な米内光政内閣が倒閣された。

上記の②について、上原勇作の行動と帷幄上奏権の本来の意味との相違点を、明治憲法の規定と関連付けて説明せよ。

帷幄上奏権とは、軍令事項について内閣を通さずに天皇に直接進言できる権限で、明治憲法に規定された天皇の統帥権を輔弼する軍令機関の長の権限とされたが、軍機・軍令の範囲が明確でなかったことを背景として特に陸軍は軍政事項まで帷幄上奏によって決定する傾向を強め、しばしば政府との対立原因となった。この典型例として、上原勇作の行動は軍政機関の長による上奏であり、その内容も軍令事項に含まれないものであった。

「自由党を祭る文」の発表者を記せ。また、何を批判したものか説明せよ。

幸徳秋水。自由党の後身である憲政党が藩閥と妥協して立憲政友会を結党したことに対して。

「自由党を祭る文」(『万朝報』)-史料日本史(1107) (chushingura.biz)

公式令(1907年)の内容と意義

全ての勅令に必ず首相が副署することを定めたもので、首相の権限が強化され,閣内(そして天皇)に対する統制力が強化され,内閣が天皇の統治権を一元的に輔弼して国務を担う体制が整えられた。

軍令の内容と意義

陸海軍の統帥に関する天皇の命令であり、公式令の制定に対して統帥事項に関する軍部大臣の帷幄上奏権に抵触するとして、山県有朋らが強く反発して制定された。軍令は勅令と切り離され、帷幄上奏により、陸軍大臣・海軍大臣の副署だけで公布されるとされ、軍の既得権益は守られた。

「軍隊内務書」の内容及び全面改定後のそれの性格および変遷について説明せよ。

陸軍の兵営内部での日常生活の規則書で、日露戦後に全面改訂されたものは精神主義教育や家族主義の色彩が濃厚であった。太平洋戦争期には戦争の長期化に伴う軍紀の弛緩に対処するため新たに「軍隊内務令」が制定された。

「軍機保護法」(1899年)を簡潔に説明せよ。

軍事上の秘密を保護することを目的として公布され、1937年には〈広義国防〉の観点からの大改正が行われ,内容が整備され取締りが強化されるとともに,軍事上の秘密の範囲,種類についても陸海軍大臣が命令によってこれを定めることとされた。

輔弼とは何か。またそれに関して明治憲法と昭和憲法を比較しろ

大日本帝国憲法下において,天皇の権能の行使につき国務大臣,宮内大臣および内大臣が行なった、助言し、その全責任を負うこと

●明治憲法…国務大臣は各個独立して天皇に対する輔弼責任に任じていた。

●日本国憲法…天皇の国事行為につき,内閣の「助言と承認」を要求し (「助言と承認」は天皇に対して法的拘束力をもつ) ,天皇の国事行為に関し内閣の国民に対する責任を明確にしている。

副署について、明治憲法と昭和憲法を比較しろ

天皇の署名に添えて輔弼する者が署名することをいい,大日本帝国憲法は法律,勅令その他国務に関する詔勅について国務大臣の副署を要求していた。

日本国憲法には副署についての定めはないが,慣例上,天皇が文書の形式による国事行為を行う場合には,「助言と承認」に対する内閣の責任を明らかにする趣旨から,内閣総理大臣が副署する。

天皇機関説の内容とその政治史的意義について具体的に述ベよ。

美濃部達吉の憲法学説であり、国家法人説に基づいて国家が統治権の主体であり,天皇は憲法の規定および制限下で統治権を行使する国家の最高機関であるとした。これにより君主権の制限が合理化されるとともに政党政治の形成が促される理論的根拠となった

3次にわたる桂太郎内閣を説明せよ。

第1次…

第4次伊藤博文内閣が総辞職し、井上馨が組閣に失敗した後を受けて成立。最大の課題は、満州(中国東北)占領を策するロシアとの対決、当面は反藩閥官僚色を強める立憲政友会への対応であった。1902年に日英同盟を成立させ、1904年に日露戦争が勃発し、軍国議会で各政党政派の支持を得て日露戦争を完遂した。戦争末期、日本の国力よりみて戦争継続の困難を察し、アメリカ大統領に講和斡旋を働きかけ、1905年にポーツマス条約を締結し、朝鮮支配と満州進出の基礎を築いた。この前後、桂‐タフト協定によりフィリピンを侵略せぬことを約し、日英同盟を改訂し、米英の黙認下に第2次日韓協約により韓国を保護国化し、日清協約で清国にポーツマス条約を承認させた。講和を不満とする日比谷焼打事件をみて、戦争処理終了後に総辞職した。後継内閣は西園寺公望により組織された。

第2次…

第1次西園寺内閣が財政策に失敗して倒れた後を受け成立。日露戦争後の支配体制の動揺、思想の変化を考慮し、1908年に戊申詔書を発布し、また地方改良運動をおこした。1910年に大逆事件が起こり、1911年には南北朝正閏問題が政治問題化し、一方、憲政本党の抱き込みに失敗すると、「情意投合」により立憲政友会と妥協して議会を切り抜けた。外交では1910年に日露協約を改訂し、韓国併合など帝国主義政策を進め、社会政策では1911年に恩賜財団済生会を設立し、工場法を成立させた。しかし人心は反対し、閣内でも総辞職論がおこり総辞職した。後継内閣はふたたび西園寺公望によって組織された。

第3次…

第2次西園寺内閣が倒れたあと、後継難から元老はついに内大臣桂太郎を首相に推挙(宮中、府中の別を乱す)した。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に波及し、東京では暴動化したため総辞職した。後継内閣は山本権兵衛によって組織された。

立憲同志会の構成を説明せよ。

立憲国民党の反犬養派に桂系官僚を加えた。

2次にわたる西園寺公望内閣を説明せよ。

第1次…

第1次桂太郎内閣の後を受け成立。前内閣の計画を継承して戦後経営に積極策をとり、鉄道国有、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)の経営、産業振興策、2個師団増設を実行した。1906年に日本社会党の結社を認め(翌年に禁止)、外交では1907年に日仏協約、第1次日露協約を締結し、第3次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得した。1907年には文部省展覧会(文展)を設けて美術の統制と振興を策し、文士とも歓談した(雨声会)。一方、交通機関の整備、産業の発展策などにより輸出を伸ばそうとする積極政策は、1907年の恐慌で失敗した。

第2次

第二次桂内閣の後を受け成立。最大政策は行財政整理であったが、これは帝国主義政策の修正を意味し、世論の支持を受けた。1911年の辛亥革命には表面上不干渉政策をとった。行財政整理計画は進捗したが、その途中で明治天皇が没し、天皇を支柱とした官僚派は整理進捗による政友会の人気を喜ばず、危機感を深め、政府の海軍充実策に対し陸軍は2個師団増設案を強硬に主張、内閣が拒否すると上原勇作陸相は辞職し、陸軍はその後任を出さず、内閣は総辞職した。この結果、第一次憲政擁護運動が起こった。

1900 年に公布された「産業組合法」の内容を説明せよ。

信用・販売・購買などの事業をする協同組合の設立を認可した。日本勧業銀行の融資や免税に有利に機能し、大半は農業の組合であった。

「帝国国防方針」内での仮想敵国と内容を説明せよ。

陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋艦各8隻を中心とする八・八艦隊を建設するというもの。

鉄道国有法の目的を説明せよ。

軍事面・産業面から輸送の能率化と画一化を意図したと同時に、利益誘導により政友会の基盤を拡大するため。

在郷軍人会を説明せよ。

兵役を終えた予備・後備役、退役軍人の団体。戦時動員に即応できる予備軍人の教育を目的とし、会員の鍛錬、軍国主義の普及活動に努めた。

戊申詔書の内容を説明せよ。

日露戦争後、国民の間に芽生えた個人主義・享楽的傾向を是正させ、家族主義を強調し節約と勤勉による国力の増強を説いた。

地方改良運動を説明せよ。

日露戦後の経済不況下で、疲弊した地方自治体の財政再建と農業振興、民心向上を目的として、町村の税負担の能力を高め、神社合祀政策などを通じて江戸時代以来の村落共同体である旧町村が、市制・町村制による行政単位としての町村に再編成して、国家の基礎を固めることに力を注いだ。講習会などが開催され、全国に模範村も設定された。

日本社会党とは。また党内での対立とその終焉

 1906年に片山潜,堺利彦,西川光二郎らによって結成された最初の合法的無産政党。『平民新聞』を発行し,東京市電争議や足尾銅山争議などに積極的な役割を果したが、議会中心に全国的組織の運動を主張する穏健派である議会政策派(田添鉄二や片山潜ら)と、労働者の団結と直接行動を主張した過激派である直接行動派(幸徳秋水)が対立して分裂し ,07年に治安警察法で政府に結社を禁止されて解散した。

社会主義研究会(1898)→社会主義協会(1900)→社会民主党(1901)→日本社会党(1906)→→冬の時代→→日本社会主義同盟(ロシア革命や米騒動後の社会運動の高揚で復活)(1920年創設→1921年解散)→日本共産党(1922)

赤旗事件を説明せよ。

1908年に当時の社会主義運動活動家が集まって山口孤剣の出獄歓迎会を催した後,荒畑寒村らが用意した〈無政府共産〉〈無政府〉と白文字を縫いつけた赤旗を振りまわしたため,阻止しようとした警察官ともみ合いとなり,大杉栄,堺利彦,山川均,荒畑らが逮捕された事件。以後社会主義運動の弾圧が強まり、西園寺内閣が倒れる契機となった。

大逆事件を批判した人物とその内容を2例示せ。また、大逆事件の内容とその歴史的意義を説明せよ。

徳富蘆花は「謀叛論」で幸徳らを弁護し、永井荷風は「花火」で文学者として事件を批判した。天皇爆殺計画の発覚を機に多くの社会主義者らが検挙され、幸徳秋水管野スガらが処刑された。警視庁内には思想警察の特高が置かれ、社会主義運動は冬の時代を迎えた。

南北朝正閏問題について説明せよ。

小学校の日本歴史の国定教科書に南北朝並立説を執筆した喜田貞吉が、国民の天皇への忠誠心が損なわれるとして南朝を正統とする立場から激しく攻撃され、議会で問題になり編修官を休職になった。文部省はこの教科書の使用を禁止し、南北朝時代を吉野朝時代と改め、北朝の天皇を教科書から抹消した。

第一次護憲運動の直接的な原因を説明せよ。

内大臣・侍従長のまま、大正天皇に詔勅を出させて首相となった桂太郎に対して、政党・世論の批判を浴びた。

第1次山本権兵衛内閣を説明せよ。

第三次桂太郎内閣が大正政変で倒れたあと、山本権兵衛が立憲政友会の原敬と結んで組織した内閣。現役武官大臣制の予・後備役への拡大、文官任用令の改正、行財政整理を断行して業績をあげたが、日本海軍高官がドイツのシーメンス兵器会社などから収賄していた事実が明るみに出て、海軍腐敗の責任追及が山本に集中して倒閣運動にまで拡大し、総辞職した。

第2次大隈内閣を説明せよ。

シーメンス事件で山本権兵衛内閣辞職の後に成立した。立憲同志会を基礎に組閣し,外相は加藤高明,法相は尾崎行雄。第1次世界大戦には日英同盟を理由に参戦し,二十一ヵ条要求を中国に突き付け,排日民族運動を引き起こした。内相大浦兼武の収賄事件である涜職(とくしょく)事件や加藤高明と元老との対立、官僚派や政党の倒閣運動が進み、山県の圧力もあって内閣は倒れ総辞職した。

軍需工業動員法(1918年)を説明せよ。

戦時体制下において軍需生産を増強するために国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律で、軍需品工場の国家管理などを規定した。1937年に日中戦争が勃発すると本法が適用されたが,1938年の国家総動員法の施行により廃止された。

2つの「暴利取締令」を説明せよ。

第一次世界大戦期インフレによる物価騰貴を抑えるため寺内正毅内閣により公布施行され、米穀類などの買占めや売り惜しみに対して戒告、懲役、罰金が定められて米価騰勢を抑えることを企図したが米騒動を未然に防ぐことはできなかった。

関東大震災時第二次山本権兵衛内閣によっても暴利取締令が出され、警察部によって株式市場と米穀取引所の状況が調査され不穏な経済活動に気が配られた。

民力涵養運動を説明せよ。

第一次世界大戦後に実施された国民教化運動で、原敬内閣により民力涵養計画が発表され、大戦後の社会秩序の動揺に対する国民教化の運動を組織しようとした。各地で講演会や懇談会が開催され、町村では国民意識を自覚し、勤倹貯蓄などの実行が目指された。

普選運動の推移を説明せよ。

普通選挙期成同盟会に始まり、普通選挙同盟会と改称して衆議院へ請願書を提出したりしたが後に貴族院で否決されて実現しなかった。

米騒動後,吉野作造らの民本主義の影響を受けつつ1918年に普選同盟会が活動を再開,組織労働者を中心とする広範な民衆の運動が高揚したが、普選拒否の原敬内閣は議会を解散してこれに対抗した。労働組合,社会主義者は普選に反対する党首原敬の立憲政友会の圧勝と1920年の東京株式市場の暴落による戦後恐慌とアナルコ・サンディカリスムの影響で運動から後退した。

後に既成政党は大衆運動と結合せず,第2次護憲運動を展開し、1925年に加藤高明の護憲三派内閣が治安維持法と一緒に普選法を制定した。25歳以上の男子に対して財産による選挙権の制限は撤廃されたが,婦人参政権は第2次大戦後まで実現しなかった。

方面委員を簡潔に説明せよ。

米騒動を契機として開始された社会政策の一環として、地域秩序を維持することを目的とし、方面カードを作成して困窮者の状態を調査し、施設の斡旋や借家争議の調停などに携わり、生活困窮者の保護・救済・指導に当たった。

大正デモクラシーに対する言論弾圧事件の名称を記し、その内容を説明せよ。

白虹事件。米騒動による深刻な政情不安の中で、政権批判の急先鋒だった大阪朝日新聞の記事の「白虹日を貫けり」という内乱の前兆を指す言葉が、新聞紙法違反に問われ、新聞社が詫び状を公にして権力に屈服する結果となった。

黎明会を説明せよ。

白虹事件を契機に吉野作造らが,大正デモクラシーを普及・推進、民本主義擁護のために組織した民本主義的知識人の啓蒙団体であったが、後の社会主義思想の進出で影響力は弱まり,会員内部の思想不一致も加わって解散した。

大正期の学生運動勃興の背景を説明せよ。また東大新人会の結成および性格の変化について触れながら学生運動の詳細について説明せよ。

第一次世界大戦による国内資本主義の成長や、世界的なデモクラシーの風潮およびロシア革命の影響を受けて社会主義・共産主義思想が浸透していた東大新人会は東京帝国大学内の社会主義学生団体で、赤松克麿らが吉野作造らの援助を得て結成され、民本主義から急激に社会主義に傾斜し、労働運動に接近して1929年の解散まで学生運動の中核となった。また、早稲田大学を中心にした建設者同盟、友愛会会員や京大の学生による新たな労学会も結成された。

最初の教員組合の名称を書け。また結成された背景および内容を簡潔に説明せよ。

啓明会。大正期の物価騰貴による小学校教員の生活難と、大正デモクラシーの風潮は、教育界にも組合結成の気運をもたらしていた。教育理想の民衆化や教育の機会均等などの綱領を掲げて教員組合運動の出発点をなした。

寺内正毅内閣を説明せよ。

第2次大隈重信内閣総辞職のあと、元老山県有朋の後援を得て朝鮮総督の任にあった寺内正毅を首班として組織された超然内閣で、不偏不党、挙国一致体制を目ざした。第一次世界大戦後の国際情勢に備えて臨時外交調査委員会を設置し、外交政策の挙国一致体制をつくりだした。対華政策では段祺瑞軍閥政府を支持し(援段政策)、これに2億4000万円に上る借款を貸与し(西原借款など)、南方革命政権の圧殺を図った。1917年にロシア革命が起こるとシベリア地方への侵略をもくろんで翌年に日華共同防敵軍事協定を結び、さらに革命干渉のためシベリア出兵を断行した。国内政策では、名目のないシベリア出兵や物価騰貴で社会問題が深刻化し、労働運動や民本主義的潮流が起こると、これに対して強圧的な姿勢で臨み、臨時教育会議を設置して、国民教化の体系化を図った。また軍備拡張政策を進めるとともに、独占資本擁護の重化学工業拡張政策をとった。1918年の米騒動では軍隊を出動させて鎮圧に努めたが、その責任をとって総辞職し、本格的政党内閣である原敬内閣にその席を譲り渡した。

1920年の総選挙で立憲政友会が圧勝できた理由を説明し、その影響を当時の運動の動向に留意して述べよ。

原敬内閣は1919年に衆議院議員選挙法を改正し、選挙権の納税資格を直接国税3円以上に引き下げ、小選挙区制を採用した。立憲政友会は大政党に有利な小選挙区制を生かし、支持基盤である農村部の有権者拡大を背景に、鉄道建設などの地方への利益誘導的な積極政策推進により、赤字にはなったものの選挙には圧勝した。そして、普通選挙を否定した立憲政友会が総選挙で圧勝したため、普選運動は一時衰退した。

原敬内閣を説明せよ

立憲政友会総裁の原敬が寺内正毅内閣から政権を引き継いで成立した内閣で、元勲ではない政党の党首が組織した最初の政党内閣。原内閣は平民宰相・純政党内閣の出現として歓呼の声をもって国民に迎えられた。原は政友会が主張してきた、「教育施設の改善充実、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興開導・一般物価の調節、国防の充実」の四大政綱に基づいて政策を推し進めた。原内閣はこの積極政策の実現に努めるかたわら、貴族院研究会と提携することに成功し政友会の勢力の安定と拡大を目ざした。また内閣は、植民地朝鮮での三・一独立運動をきっかけに、植民地長官武官制を文武官併任に改正し、外交政策では英米との協調外交を展開しながら中国での権益の維持を図ろうとした。さらに国内においては、民本主義の潮流を背景に普選運動の高まりにあおられ、かつこの動きに対抗して選挙権を拡大した。この選挙権の拡張は、小選挙区制と組み合わせて有権者資格の範囲を直接国税の納入額10円以上から3円以上に切り下げた衆議院議員選挙法の改正法として実現した。原内閣は、議会で絶対多数を得た政友会の力に依拠して、普選の実施、治安警察法改正などの民主主義的要求を拒み、もう一方では労資協調をもくろむ協調会を設立したり、国民の共同調和の実をあげるために民力涵養運動を推進したりした。また急進的な社会運動を抑圧することにも奔走し、大日本国粋会の結成を積極的に後援したりした。しかし、第一次世界大戦中の好景気の反動として過剰商品、過剰取引が問題となり、生糸の暴落を手始めに多くの商社が深刻な打撃を受け、銀行も取り付け騒ぎとなって、政府の積極政策は手詰まり状態に落ち込み、さらに満鉄幹部・関東庁拓殖局幹部の起こした満鉄・アヘン両汚職事件で苦境にたたされた。さらに尼港事件でシベリア干渉戦争の失敗が明らかになり、こうしたなかで内閣は国民の支持を失っていった。原首相が東京駅で刺殺され、その翌日に内田康哉臨時首相が閣僚の辞表を提出することで幕を閉じた。

原敬が普通選挙の実施を時期尚早だと考えた理由

ロシア革命の影響や米騒動以後の諸社会運動の高揚を背景に、普通選挙の実施により階級制度打破を目指す無産者勢力が議会に進出し、ようやく定着し始めた政党政治の妨げになるのを警戒したため。

原敬の積極政策の内容を4つ説明せよ。

①教育施設の拡充②交通機関の整備③産業の振興④国防の充実

大学令の内容を説明せよ。

帝国大学以外に単科大学や公立・私立大学の設置を認可した。

高橋是清内閣を説明せよ

原敬暗殺後,高橋是清が首相兼蔵相に,他の前閣僚が留任して成立した。経済界不況のため積極方針を修正し,第一次世界大戦後の内外情勢に対応すべく、外交面ではワシントン会議の方針に沿った軍縮政策をとり、ワシントン条約に調印し、緊縮政策をとった。一方、過激社会運動取締法案を提出したが審議未了に終わった。原内閣時代からの5校大学昇格問題で閣内対立し,改造反対派の強硬な反対で総辞職した。

加藤友三郎内閣を説明せよ。

政党に直接の基礎を置かず、官僚と貴族院を母体にして成立した超然内閣で海軍大将の加藤友三郎が組閣した。世論は「変態内閣」「憲政の逆転」と批判し、加藤首相のあだ名「燃え残りのロウソク」をとって「残燭内閣」と揶揄したものの、加藤内閣は内外の平和要求にこたえ、1922年にシベリア撤兵を完了し、ソビエトとの国交回復交渉を行った。また、ワシントン海軍軍縮条約の線に沿い、海軍軍縮を断行し、山梨軍縮も行われた。同時に行財政整理を進め、臨時外交調査委員会、防務会議、国勢院などが廃止された。他方では、普通選挙法案に反対し、小作争議調停法案を議会に提出したが(労働組合法案と過激社会運動取締法案は未提出)、三悪法反対運動にあい不成立に終わった。首相の病死により総辞職し、内田康哉外相が臨時首相として残務を整理した。後継内閣は、山本権兵衛によって第二次山本内閣が組織された。