外交史:近世

南蛮貿易の内容と意義、その衰退を説明せよ。

1543 年のポルトガル人の種子島漂着が南蛮貿易の端緒。当初は平戸横瀬浦など北九州諸港にポルトガル船が来航したが,領主の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進して以来,ポルトガル船はこの地に連年入港した。貿易で日本に大量にもたらされた鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し、戦国時代の到来を招いた。生糸の需要は高く,江戸幕府は糸割符制度によってその輸入を独占,統制した。17 世紀の初めには朱印船貿易が盛んとなり,日本人が台湾・マカオ・ルソン・カンボジア・シャムなどに進出して,日本町が発達。しかし、幕府のキリスト教取締り,鎖国政策の強化とともに,南蛮貿易は行きづまった。


山田長政…シャムの日本人町で活躍した人物で、1611 年頃に首都アユタヤの日本人町の長となって外交・貿易に従事。

●輸入品●…鉄砲,火薬,ヨーロッパの毛織物,中国産の上質生糸,南海産の皮革,香料など

●輸出品●…銀をはじめ,銅,鉄,食料品など


バテレン追放令の背景と帰結を説明せよ。

九州平定の際に、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄付したことや、日本人が奴隷としてポルトガル人に売られている事態を知った豊臣秀吉が、キリスト教が一向一揆のような宗教勢力を形成することを警戒し、キリシタン大名が神社・仏閣を破壊しているとしてバテレン追放令を出した。しかし、キリスト教の布教と一体化している南蛮貿易の継続は認めたため、宣教師の潜入を黙認することになり、その効果は不十分であった。


サン=フェリペ号事件を説明せよ。

1596 年土佐国にスペイン船サン・フェリペ号が漂着し、これを知った豊臣秀吉は船荷などを没収した。これに抗議する航海長の発言やポルトガル人の讒言で秀吉はスペインが日本征服を計画していると疑い二十六聖人の殉教などにみられるように,再びキリシタンを迫害するようになった。


岡本大八事件を説明せよ。

江戸初期,徳川家康の側近本多正純の与力でキリシタンの岡本大八が,ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を爆沈(一時的にポルトガルと断交)し、キリシタン大名有馬晴信から,その恩賞斡旋にかこつけて多額の金品を詐取した事件。


イギリスが 1623 年にオランダ商館を閉鎖した理由を説明せよ。

江戸幕府によるキリスト教弾圧の影響でヨーロッパ人による自由な貿易が制約され始め、本国におけるイギリスとオランダの対立が両国の東インド会社間、更に平戸の商館同士の対立に発展した。また、日本市場を巡っては先行するオランダが有利であり、オランダによるイギリス商船の航海の妨害もあった。日本との仲介役であったアダムスの死もイギリスの対日貿易にとって大きな痛手となり、アンボン事件によりオランダ東インド会社による東アジア貿易支配が確立し、イギリスの影響力は弱体化した。


15 世紀から 18 世紀までの,朝鮮と日本の関係・交流の推移を説明せよ。

15 世紀には室町幕府と朝鮮の間に国交が成立し,対馬の宗氏の管理下で貿易となった。

1510 年,三浦居住の日本人が反乱を起こした三浦の乱以降,貿易は次第に衰微した。1592年以降,明征服を企てた豊臣政権が文禄・慶長の役の2度にわたる出兵を行ったため,両国の国交関係は途絶した。

17 世紀に入ると江戸幕府のもと 1605 年の日韓和約で国交が回復し,18 世紀まで将軍の代替りごとに朝鮮から通信使江戸時代には 12 回、最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使)が江戸に参府した。1609 年に対馬の宗氏と朝鮮の間で己酉約条が結ばれ,宗氏独占のもとで釜山の倭館で貿易が行われた。


己酉約条(1609 年)=慶長条約の内容を簡潔に説明せよ。

①歳遣船は年 20 隻②釜山に倭館を設置。宗氏の外交上の特権的地位が確立した。


柳川一件(1631 年)を簡潔に説明 を説明せよ。

対馬の大名の宗義成と家老の柳川調興の御家騒動から,日朝間の国書の偽作・改竄などの不正が露顕して,幕府外交上の大問題となった事件。


糸割符制度(1604 年)の目的と内容、その後の変遷を説明せよ。

生糸の輸入価格を抑えて銀の流出を防ぐため、輸入独占権を認められた糸割符仲間が、入港した外国船の白糸の価格を毎年春に決定して一括購入したのち仲間構成員に分配した制度。しかし、外国商人が輸出量を調整して価格のつり上げを図ったことにより糸割符制度は廃止され、相対貿易による商人同士の直接取引になった。すると再び日本人商人間の競争により輸入価格が高騰し、銀の流出が進んだため、市法売買として五か所から選ばれた市法商人が長崎奉行の下で輸入品価格を決定することになった。その後、清が遷海令を解いて展海令を出して海外交易を許可し、中国船の急増の可能性が出てきたため、幕府は糸割符制度を復活させ、貿易量の増加を抑制するため定高仕法により、1 年間の取引高を中国船は銀6000貫、オランダ船は銀3000貫に制限した。すると抜荷の傾向が出てきたので唐人屋敷を設け(1688 年)、中国人を居住させ、監視を強めた。


鎖国の目的・過程と鎖国中の 4 つの窓口を説明せよ。

キリスト教の禁制,江戸幕府による貿易の統制・管理と日本人の海外往来の禁止を企図した。

●過程●

1612 年…幕領に禁教令

1614年…幕領の禁教令を全国に拡大。「伴天連追放之文」を起草

★1616 年…欧州船の入港を長崎・平戸に限定

1622年…元和の大殉教

1623 年…イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖
★1624 年…スペインとの国交を断絶・来航を禁止
1631 年…奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要
1633 年…奉書船以外の渡航を禁じ、海外に 5 年以上居留する日本人の帰国禁止
★1635 年…東南アジアへの日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止(朱印船貿易が消滅)中国・オランダなど外国船の入港を長崎に限定

1637 年〜1638 年…島原の乱

1639 年…ポルトガル船の入港を禁止

★1641 年…オランダ商館を平戸から出島に移す


●鎖国中の 4 つの窓口●…

松前口、長崎口(オランダと中国)、対馬口、薩摩口

博多と堺の発展と衰退を説明せよ。

博多は、活発な対外貿易を背景に貿易都市として発展し、堺は瀬戸内海と畿内を結ぶ水運の要衝として成長し、日明勘合貿易の開始とともに拠点の一つとして発展した。しかし,鎖国制の形成にともなって衰退した。


鎖国時にオランダ人が経費を負担してでも江戸参府を繰り返した理由を説明せよ。

幕府による鎖国政策が東インド会社に独占的な貿易利益を与えたから。


17世紀~18世紀の琉球の国際関係を説明せよ。

17世紀初頭、島津家久が琉球王国を侵略し、以後、薩摩藩は琉球支配を進めた。琉球は明・清の冊封を受けつつ朝貢貿易を継続したが、通商交易権を掌握した薩摩藩は貿易で得た産物を収奪した。また琉球は通信国として江戸幕府に慶賀使・謝恩使を派遣した。


新井白石から松平定信までの幕府の対外政策を説明せよ。

●新井白石●…海舶互市新例を出し,来航する船数と貿易額を制限して銀の流出を抑制するとともに,朝鮮使節への待遇を簡素化し、さらに朝鮮からの親書における将軍の表記を「日本国大君」から「日本国王」へ改めさせて将軍が天皇と混同されることを防ぎ、将軍の体面を保とうとした。


●田沼意次●…ロシア人が南下して蝦夷地に接近する情勢下,工藤平助の建議をうけて蝦夷地探検隊を派遣し,ロシアとの交易の可能性を探らせる一方,長崎貿易で俵物や銅の輸出を奨励して銀の輸入をはかった。


●松平定信●…海防掛となって諸藩を指導し、江戸湾海防のため相模・伊豆・房総巡見を行ったが、蝦夷地対策では幕閣内で意見が分かれて孤立化。根室に来航したロシア使節ラクスマンに対し,鎖国は祖法であると表明して江戸湾入航と通商の要求を拒否しつつも,長崎入港の許可証である信牌を与え、さらに諸藩に江戸湾・蝦夷地の海防の強化を命令した。クナシリ・メナシの戦による蝦夷地対策の必要性の痛感から北方防備のため、松前藩を支える権力装置として北国郡代の新設など国防体制を模索し、朝鮮蔑視観から通信使の延期・対馬聘礼も決定した。


対馬藩に仕えて朝鮮との善隣外交に活躍し、新井白石とも対立した人物名を記せ。

雨森芳洲

※徳川家宣の〈日本国王〉号に反対した。


杉田玄白らが江戸でオランダ語を学べたのはなぜか説明せよ。

オランダ商館長ら使節一行が江戸に参府しており、通訳を担当するオランダ通詞らも江戸に滞在していたため。


17 世紀~18 世紀の貿易で、金・銀・銅の位置付けの変化と幕府の政策を説明せよ。

17 世紀の南蛮貿易や鎖国下の貿易では金・銀が大量に輸出され、17 世紀後半になると銅の世界的高値や清の鋳銭用の銅の不足を背景として銅輸出が急増した。幕府は 17 世紀末には定高仕法を採用して貿易額制限に乗り出し、さらに18世紀初頭には海舶互市新例で貿易拡大を抑制して金・銀・銅の流出防止策を講じ、田沼時代には俵物などの輸出を奨励して貿易総高を維持し、金銀輸入を図った。


クナシリ・メナシの蜂起(1789 年)の意義を説明せよ。

アイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力闘争である。場所請負制へと急速に変化するなかで,アイヌ民族の立場も,交易相手から漁場の下層労務者へと変質させられ,場所請負人によって酷使されていた。当時のアイヌ民族は全体として経済的に松前藩に依存した生活を余儀なくされていたことや,有力首長層が松前藩側に協力したこともあって,いち早く松前藩に鎮圧されたが、幕府に蝦夷地対策の必要性を痛感させた。


シャクシャインの戦い(1669 年)…松前藩支配に抵抗して起きたアイヌの近世最大の蜂起で、松前藩のアイヌ民族に対する政治的支配が一段と強化


ハンベンゴロウ事件を簡潔に説明せよ。

ハンガリーの軍人ハンベンゴロウが、ロシアから脱走し、逃亡中に出島のオランダ商館長に、書状でロシアの南下を警告した事件。


寛政期~天保期にかけて、欧米諸国の接近に対する幕府の対応を説明せよ。

●寛政期…ロシアに対して長崎での交渉の余地を残した。

●文政期…新たな通行を一切拒む姿勢に変化し、捕鯨船の出没に対して異国船打払令を発した。

●天保期…アヘン戦争を契機として薪水給与令へと転換し、鎖国制を維持しつつ衝突を回避した。


18 世紀末~明治初期までの幕府の蝦夷地政策を説明せよ。

1796 年から翌年にかけて、イギリス人ブロートンが蝦夷地の絵靭(室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するために測量する事件がおこったため、幕府は 1798年に近藤重蔵最上徳内らに千島を探査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、1802 年に箱館奉行を設けた。

文化期にレザノフが長崎に来航し、さらに幕府が通商を拒否したことに対してレザノフ一行が樺太や択捉島を攻撃するフヴォストフ事件が生じると、1807 年に松前藩と蝦夷地全てを幕領化して松前奉行の支配下に置き、東北諸藩に蝦夷地の警備を命じ、さらに間宮林蔵らに樺太を探査させるなど、ロシアの攻撃に備える体制を築いた。


1786 年 最上徳内…択捉&得撫
1798 年 近藤&最上…択捉
1800 年 伊能忠敬…蝦夷地
1808 年 間宮林蔵…樺太とその対岸


ロシアの海軍士官であったゴローウニンが、国後島上陸の際に江戸幕府の役人に捕らえられ,ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らと交換に釈放されたゴローウニン事件により緊張が高まったものの、解決すると関係が改善したため、直轄した蝦夷地の経営が予期した成果をあげられず、幕府及び警備を命じられた東北諸藩に重い負担となったことなどから、文政期になって松前藩を復活させ、蝦夷地を再び松前藩に還付した。

幕末期、日米和親条約が結ばれて松前地箱館の開港が決まり、日露和親条約で日露間での国境が画定され、樺太は両国民の雑居、千島列島は択捉島以南が日本領となると、幕府は箱館を直轄地とし、続いて全蝦夷地を再び幕領に編入した。

明治新政府の支配下に移ると、明治新政府は蝦夷地を北海道と改称して開拓使を設置した。屯田兵制度(初期は士族授産のため失業士族を優先したが、後に応募資格を平民に広げた)を設けるなどして植民を進める一方、アイヌへの日本語教育・農業強制などの同化政策や戸籍への編成を進めると共に土地私有制度を導入し、アイヌから生業と固有の文化を奪っていき、1899 年には北海道旧土人保護法を制定した

※1997 年には北海道旧土人保護法が廃止され、アイヌ文化振興法が成立したが、アイヌの少数民族としての権利保障の面が弱いとの批判もある。


レザノフに対する幕府の対応を批判した人物 2 人と、その中の 1 人の著書を挙げよ。

杉田玄白の「野叟独語」。司馬江漢。


1804 年に遣日使節レザノフにともなわれて帰国した人物を挙げよ。

津太夫。


日本でのプチャーチンの活動を説明せよ。

1853 年に長崎に来航し,江戸幕府に拒否されて退去したが再来し、幕府応接掛の筒井政憲らと通商および国境画定問題の交渉を行う。軍艦『ディアナ』号が津波で大破したものの、日米和親条約と同様の条約を日露間に締結することに成功した。


異国船打払令(高橋景保の進言の影響力大)の背景となった事件3つを挙げよ。

フェートン号事件。イギリス人ゴルドンの通商要求。常陸大津浜、薩摩宝島でのイギリス捕鯨船暴行事件。


高島秋帆の功績を説明せよ。

近代的西洋流砲術の先駆者であり、江川太郎左衛門(韮山に反射炉を築造)に砲術を伝え、その後幕府に招かれて、江戸郊外の徳丸ガ原で練兵を行った。


幕末・明治初期、長崎を拠点に活動した在日イギリス人商社名を記せ。また、その設立者が日本に与えた影響を説明せよ。

グラバー商会。グラバーは武器商人として幕末の日本で活躍し、薩摩藩の依頼で外国船輸入の斡旋に関わり、薩摩、長州、土佐などの雄藩への船舶、武器、黒色火薬などの密貿易を行い、近代的な西洋の武器を倒幕勢力に供給した。また、「長州ファイブ」のような伊藤博文などの若い志士たちの海外勉学の旅を斡旋したりもした。造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓し、蒸気機関車の試走や西洋式ドック建設により長崎の造船の基礎を築き、高島炭坑を開設するなど、日本近代化に大きく貢献した。

日本に現存する最古の木造洋風建築である旧グラバー住宅 引用元:旧グラバー住宅 | 世界遺産ガイド (world-heritage.net)
トーマス・グラバー 引用元:旧グラバー住宅 | グラバー園公式ウェブサイト (glover-garden.jp)


日米和親条約の内容を説明せよ。

下田,箱館の両港を開き,難破したアメリカ船舶に対して薪水・食料などの便宜を供与する

②アメリカは常駐代表を下田に設置する

林韑(あきら)とペリーが調印

日露和親条約の内容を説明せよ。

下田・箱館・長崎を開港、択捉・得撫島間を国境とし、樺太を両国雑居地と定めた。

※日本側全権は大目付格の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。


日米修好通商条約の内容と不平等な点を説明せよ。

アメリカ総領事 T.ハリスのきびしい督促と,朝廷を中心とする尊王攘夷運動の圧力との板ばさみになった幕府は苦慮の末,大老の井伊直弼の専断をもって,勅許を待たずに調印を断行した。

①江戸に駐在代表をおくこと②下田,箱館,長崎,新潟,兵庫の 5 港を開港し,江戸,大坂を開市とし,それぞれ駐在領事をおくこと③開港場における外国人の遊歩規程④信教の自由を尊重し合うこと⑤輸出,輸入に制限を設けないこと、などが規定された。

領事裁判権が規定され,関税率の自主的改定権が日本側にないことなどから,この条約は日本の主権を毀損する不平等条約とされる。


※外国奉行の井上清直岩瀬忠震を全権とした。

幕末遣外使節について説明せよ。

●1860 年●…日米修好通商条約本書批准交換のため外国奉行の新見正興を正使として,遣米使を派遣。使節と同時に木村喜毅提督,勝海舟艦長の咸臨丸が太平洋を渡った。

●1862 年●…開港による物価騰貴と攘夷運動を恐れ、兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市期日の延期交渉のためヨーロッパへ派遣。開港開市を5年間延期するという内容のロンドン覚書を締結した。

●1864 年●…横浜鎖港交渉のため外国奉行の池田長発を正使としてフランスへ派遣。パリ約定に調印した。

●1867 年●…万国博覧会列席のため徳川昭武をパリへ派遣した。

幕末から明治初年に輸出入貨物の取締りや関税の徴収にあたった役所名を記せ。

運上所。


18 世紀末以降の江戸湾岸の警備の強化を説明せよ。

●18 世紀末…諸大名に江戸湾防備の強化を指示した。

●19 世紀初頭…フェートン号事件を契機として、白河・会津両藩に江戸湾防備を命じた。

●アヘン戦争後…神川県側を川越藩が、千葉県側を忍藩が担当し、モリソン号などの来航後は彦根藩や再び会津藩が加わった。

●ペリー来航後…品川沖に台場を築かせた。


イギリスの外交官であったアーネスト=サトウの著作と功績を説明せよ。

「一外交官の見た明治維新」。「英国策論」が倒幕派に影響を与え、倒幕勢力と広く接触をもち、パークス公使を助けて対日政策形成に貢献した。


開港による欧米諸国との関係性の変化を説明せよ。

幕府は、鎖国制の下では欧米諸国と国交を結ばず、オランダのみと通商関係を持った。開港場は長崎に限り、幕府が統制していた。しかし、安政の五か国条約では、欧米諸国と国交を結び、オランダ以外の諸国とも通商関係を持った。長崎以外も開港し、幕府の統制を排した自由貿易を始めた。


幕末の外国への渡航を説明せよ。

幕府は幕臣の榎本武揚や洋書調所教官の西周津田真道をオランダに、中村正直らをイギリスヘ留学させた。諸藩でも、長州藩では井上馨伊藤博文井上勝(鉄道の開設に尽力)・遠藤謹助(貨幣鋳造事業に尽力)・山尾庸三(工部省で中心的役割)の藩士 5 名(長州ファイブ)をイギリスヘ留学させ、薩摩藩も五代友厚・寺島宗則・森有礼らをイギリスヘ送るなど、攘夷から開国へと政策転換するにしたがい、留学生などを外国へ派遣した。幕府は日本人の海外渡航の禁止を緩和し、学術と商業のための渡航を許可した。その後、最初の移民としてハワイへの砂糖植付け移民が現れた。

安政の五か国条約の不平等な点3つを記せ。

関税自主権の欠如。片務的最恵国待遇の供与。領事裁判権の認定。


具体的な攘夷運動を説明せよ。

ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケンが江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺された。また、東禅寺事件では高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷し、生麦事件では神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った。生麦事件は、のちに薩英戦争の原因となった。さらに、イギリス公使館焼打ち事件では、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作·久坂玄瑞らが襲って焼いた。


幕末における尊王攘夷運動の明治維新にとっての意義を説明せよ。

天皇を新たな政治中枢へと押し上げるとともに,身分や幕府・藩の割拠性を超えた国家意識の形成を促進し,集権国家樹立の基礎になった。


四国艦隊下関砲撃事件の意義を説明せよ。

攘夷の無謀さが認識されたことなどの理由で,攘夷運動は急速に衰退し,長州藩内の攘夷主義的指導者は,列国に接近しつつ討幕運動に力を傾けるにいたった。以後は尊王討幕の方向をとって展開され,明治維新の原動力となった。