社会経済史:中世

平安後期に新たに発展してきた商工業の特徴と動向を説明せよ。

商工業者は,天皇家の家産経済をになう諸官司に所属する供御人や,有力貴族・寺社に私的に従属する神人などに編成され,それら本所への奉仕・貢納の代償に関銭の免除など様々な特権を獲得して活動するなど、様々な本所を持つ商工業者が多様に存在し、支配関係が錯綜していた。

しかし、中世後期には,天皇家の経済の衰えと共に供御人は衰退し、また本所への隷属性が弱まって同業者組織としての性格を強め,供御人・神人などの称号を持たない商工業者や本所を持たない座が増加し,一方で座に加わらない新興商人が台頭し,売買の権利をめぐる対立が発生した。


中世の本所を 4 つ記せ。

大山崎油座(石清水八幡宮)。北野社麹座。祇園社綿座。興福寺絹座


座の発生から 16 世紀末に至るまでの、座の歴史的変遷を説明せよ。

平安時代後期や鎌倉時代の座は、灯炉供御人など、本所に奉仕する性格が強かった。しかし、室町時代には大山崎油座など、市場を独占する商業組織へと発展し、戦国時代の楽市・楽座令により座は衰退した。


院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展 を説明せよ。

●京都●…荘園公領制の確立する院政期以降、左京を中心とする京都は政治都市から政治・経済の中心地へと性格を変えた。各地の荘園、公領からの物資輸送路である東や南へと都市域を発展させ、鴨川沿いに政権中枢が形成

●鎌倉●…幕府権力の安定に伴い港湾整備の進んだ由比ヶ浜と鶴岡八幡宮を結ぶ若宮大路を中心に平安京を模して計画的に都市域が整備された。


六浦津が利用された背景を説明せよ。

鎌倉の海が遠浅で船の着岸が困難であったから。


切通の例と内容を説明せよ。

朝比奈切通(六浦津への経路)。外部への出入口として、山・丘などを切り開いて通した道。

名越切通(三浦半島への経路)・極楽寺切通

和賀江島を説明せよ。

鎌倉への物資の搬入を容易にするために築かれた人工島。


騎射三物を説明せよ。

犬追物。笠懸。流鏑馬。


鎌倉時代中期以降、御家人の生活が窮乏していった理由と対処を説明せよ。

戦いがなくなって所領の増加がないところに、分割相続が代を重ね、所領が細分化されて収入が激減した。また、在地の生産物に経済的な基盤をおいてきた御家人たちは各地域に急速に浸透していった貨幣経済に対処しきれず大きな損失を被り、元寇がそれに拍車をかけた。それへの対処として女性の財産が削られ、女性の地位低下を招き、さらに兄弟の共倒れを防ぐための単独相続が広がったが、女性への相続は本人一代限りで死後は惣領に返す一期分が一般化した。


鎌倉末から室町にかけての商業・貨幣流通の仕方を説明せよ。

鎌倉時代末期に中国銭(宋銭)の流入が増加して以降、流通経済が活発化した。貨幣の浸透に伴って年貢の代銭納が一般化し、それとともに各地の荘園・公領の生産物が商品として流通し、交通の要地に成立した町場は年貢物換金のための市場として発展し、行商人が往来し、常設の見世棚も出現し、月3回の定期市である三斎市も行われた。遠隔地間の商品流通も拡大し、決済手段として為替の利用が広がって信用経済が発展し、金融業者として借上が現れ、相互金融・庶民金融としての頼母子無尽、また手形としての割符もあった。室町時代には永楽通宝・洪武通宝・宣徳通宝などの明銭が流入し、民間の私鋳銭も流通し、月6回の定期市である六斎市も行われた。

鎌倉時代の農業の発達を説明せよ。

水田の利用や用水地の整備が進み、鍬・鋤・鎌などの鉄製農具が普及し、刈敷草木灰などの新たな肥料が用いられ、「松崎天神縁起絵巻」に見られるように牛馬を利用する農耕が広がる中、水車を用いて灌漑する技術や、水田から排水する技術が発達した畿内や瀬戸内海沿岸などでは麦を裏作とする二毛作が行われ、多収穫米の大唐米も栽培された。畠作では豆腐・麦の二毛作が定着し、自然条件に応じて荏胡麻・桑・楮・藍など原料作物の栽培が副業として行われた。

※下肥は室町!!

刈敷・草木灰を説明せよ。

●刈敷●…田植え前に広葉樹の若芽や草などを入会山から採取して水田に踏込み,肥料としたもの。

●草木灰●…藁や落ち葉、枯れ草などを焼いてつくった灰。


頼母子を説明せよ。

金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散するもの。


※無尽は頼母子に利子を収益とする営利性が加わった。


中世の商品取引の様子を説明せよ。

地方では寺社の門前や荘園の中心地で開かれた三斎市などの定期市で、物々交換や貨幣によって取引され、都市では独占権を得たの構成員も取引を行い、見世棚もあった。


河原者を説明せよ。

河原に住み、課役を免除された中世被差別民で、様々な雑役に従事したが、手工業や造園の分野で重要な役割を果たした。特に造園技術に優れた者は山水河原者と呼ばれた。


南北朝の動乱が長期化した背景を説明せよ。

観応の擾乱に加え、分割相続から単独相続へという動きが定着し、本家と分家のつながりを前提とする惣領制が崩壊していったことで武士は血縁ではなく地縁を重んじて結びつくようになり、各地に新しい武士集団が生まれ、武士集団は各地方、各地域の主導権をかけて互いに争い、一方が北朝に属せば一方は南朝にという具合になり、さらに本家とかつての分家が争うケースもあった。


南北朝の動乱以降の荘園制の変遷を説明せよ。

室町時代には、武士の荘園支配が一層進み、南北朝の動乱期には、守護や在地の武士たちは戦闘の過程において幕府の許可なく実力によって、あるいは半済などの合法的手段によって略奪行為を行い、公家・寺社の荘園に対する支配権を動揺させたが、次第に守護が国ごとに地域秩序を安定させ、京都在住を進めるのに伴い、公家・寺社は幕府や守護と密接な関係を形成し、室町殿から個別に所領安堵を受けたり、守護や五山禅僧、金融業者などに年貢納入を請け負わせる代官請を行って、寺社本所領からの年貢収納を確保するなど荘園制は変質しながらも幕府と守護の支配秩序のもとで存続した。

しかし、応仁の乱を契機に戦乱が各地に広がり、幕府と守護による支配が崩壊すると荘園制も実質的に解体し、寺社本所領に対する武士の侵略が進む中、公家・寺社は年貢収納を確保することが困難となり、顕密仏教の有力寺院はその経済的基盤を動揺させ、衰退した。


南北朝の動乱により社会はどのように変化したか説明せよ。

60 年に及ぶ内乱は、天皇を頂点とする旧来の権威・権力を決定的に失墜させ、観応の擾乱による幕府権力の分裂は武士団内部の惣領と庶子との対立を激化させ、惣領制の解体を促した。幕府により派遣された守護が、段銭徴収や所領紛争に関する裁判権行使など軍事だけでなく土地や民事的裁判に関する権限を拡大し、在地の武士を家臣化して統制下に置くと共に、国人など在地の武士が地域的な一揆を結んで自主的な地域秩序を形成し、守護大名ないし守護領国制と呼ばれる体制を発展させ、武家主導の地域社会が形成された。守護・国人らによって荘園を横領されたりして公家・寺社の荘園・公領への支配権が後退し、畿内近国では自衛や年貢減免要求を基盤として名主・百姓の地縁的自治結合である惣村などの村落結合が進んだことで、荘園制の解体が進んだ。動乱の中で物流・商業活動や貨幣流通が活発となり、それと表裏の関係で田楽・猿楽・連歌など民衆性の高い地方文化が展開した。


惣村が形成された理由を説明せよ。

農業生産力の向上や入会地・用水の共同管理、荘園領主や有力守護の収奪に対する減免要求、国人の非法への抵抗や戦乱・略奪に対する自衛などのため。



『太平記』に描かれた時代の社会変容を説明せよ。

鎌倉時代末から南北朝動乱期に至るこの時代は,惣領制の解体にともなって各地の武士団が対立・抗争をくり広げ,全国的な動乱が展開した。武士による荘園・公領の侵害が進んで公家・寺社勢力が後退した。幕府による権限強化を背景として守護が領国支配を進めると共に,地方武士が国人一揆を結ぶなど,地域勢力の自立した。畿内やその周辺では,戦乱に対する自衛などから惣村とよばれる百姓の自治的結合も広がった。


中世後期での農民の識字能力を証明するものを挙げよ。

惣村では、惣掟が制定されたり、地下請の契約が交わされるなど、惣村の自治を主導した上層農民の識字能力が発達した。さらに、蓮如は御文による農村への布教に成功した。

段銭の徴収権の変遷を説明せよ。

もともとは朝廷のものであったが、義満がその権利を掌握して以降、幕府は徴収権を守護に移した。

※段銭・棟別銭→臨時から恒常へ


初期の土一揆が農民を主力にして「畿内」の地域に集中的に生じた理由を説明せよ。

荘園領主たちは遠国で守護によって荘園の利権を削減された代償として畿内近国の荘園において課税を強化し、また幕府による関銭などの税も重かった。それに加え、いち早く諸産業が発達し貨幣経済が浸透した影響から、農民が高利貸に多額の負債を抱えていた。そして、農業生産力の向上を背景に惣村が形成されていたことが一揆の基盤になった。


傘連判の内容と役割を説明せよ。

大勢の人が連署するとき、一つの円の周囲に放射状に署名を連ねること。また、その証文。首謀者を隠し、あるいは平等に責任を負い、団結する意志を示す。

菜畑村傘形連判状 引用元:生駒谷に残る傘型連判状 | 生駒市デジタルミュージアム (ikoma.lg.jp)


室町幕府の財政の特徴を幕府の所在地との関係に注目して説明せよ。

年貢や公事を主な財源基盤としていた鎌倉幕府とは違い、室町幕府は商工業の発達する京都に所在したため、それまでは多くが延暦寺の保護下にあった高利貸を営む土倉を幕府の保護下において営業税を課すなど、流通経済への課税を主な財政基盤とした。一方で、幕府料所あるいは御料所とよばれる直轄領があり、将軍の直臣たちが管理していたが、その実態は荘園と異ならず、収入額を期待することはできなかった。


徳政一揆が室町時代後期に頻発した理由を説明せよ。

鎌倉後期に発生した惣村は南北朝の動乱のなかで各地へ拡大し、農民による自治的な村である惣村の農民は連帯意識のもとで年貢や加地子の減免を求めて一揆を結び、荘園領主に対して強訴や逃散などの実力行使を行った(庄家の一揆)

商品経済が発達する中、生産力上昇と相まって、農民の手元に残るはずだった加地子の収入が、農民の借銭によって京都の土倉・酒屋らの高利貸に差し押さえられたので、それを取り戻そうとして、一揆は次第に徳政を要求するようになり、京都近郊の惣村が手を結んで徳政一揆が生じ、実力による債務破棄・売却地の取戻しが行われた。


私徳政を簡潔に説明せよ。

室町時代、幕府が発令した徳政令によらず、土一揆が実力で行った徳政。

惣村の構成・運営・機能を説明せよ。

惣村は名主層や小農民によって構成され、おとな・沙汰人などが指導者であった。祭祀集団である宮座が結合の中心となり、その運営は寄合の決定に従って行われ、惣掟を定めたり、入会地の管理にあたるなどした。地下検断地下請など治安維持や年貢納入をも担う地縁的自治組織として、その結合は連歌や能、一向宗の浸透を促すと同時に、年貢減免を要求する強訴・逃散や土一揆など土民が支配勢力に抵抗する基盤として機能した。


宮座を簡潔に説明せよ。

村落の氏神を祭祀する特権的集団をいい,惣の基盤をなした。

惣村の構成員となるための資格と、身分差を説明せよ。

屋敷の所持、一定年数以上の居住、村税・宮座運営費等の納入をしている者。村人、間人という身分差があり、女性は運営からは排除された。


起請文を簡潔に説明せよ。

神仏への誓いを記した文書で、誓いの内容を記した前書の部分と、違背した場合に神仏の罰をこうむることを記して神名を列記した神文の部分とからなる。熊野神社などの牛王宝印の守り札の裏を利用することが多い。


一味神水の内容と意義および一揆が構成員に与えた影響を説明せよ。

中世・近世に、一揆などで誓約を結ぼうとする者が、起請文などを記し、各自署名の上、それを灰にして、神前に供えた水にまぜ、一同回し飲みして団結を誓い合った儀式。

これを経て一味同心することにより神と一体化した一揆が形成され、その要求・目的は神の意志として正当性をもち、通常の法や権力などを越えた特別の力をもつ存在と認識された。一揆は、日常の血縁や身分などの諸関係を断ち切った平等な関係の構成員が行う衆議により、集団の意志目的が決定される公正で自律的な集団と認識され、新たな人々の結合・人間関係をしばしば形成された。


徳政令の発布が室町幕府に深刻な財政難をもたらした理由を説明せよ。

徳政令は土一揆の実力行使を追認したため土倉・酒屋は打撃を受け、質物など課税対象(土倉・酒屋)などの減少から幕府は財政難に陥った。そこで徳政令発布に際して手数料として分一銭を徴収し、収入を確保した


分一銭の取得方法を説明せよ。

徳政令発布に際して債務者から手数料を徴収するだけでなく、一方で債権者である高利貸の土倉や酒屋が債権額の 5 分の 1 ないし 10 分の 1 を納めて徳政令の適用免除を幕府に要求する際にも幕府は債権者から債額の一部の分一銭を得ることができた。

室町時代における農村の生産力の発展を説明せよ。

室町時代になると、鎌倉時代に畿内などで始まった二毛作・牛馬の使用・藍などの原料作物の栽培が関東地方など各地に広まり、畿内では米・麦・そばの三毛作も行われ、朝鮮回礼使の宋希璟の「老松堂日本行録」に記載がある。早稲・中稲・晩稲など水稲の多品種化や大唐米の導入、竜骨車の使用など灌漑・排水技術の進歩、下肥などの肥料の多様化が見られ、収穫の安定化が生じ、桑・楮・漆・荏胡麻・木綿などの商品・原料作物とその加工品の増産により特産物も生まれた。この状況を背景に小百姓の独立性が強まった

※主な特産品…

●加賀・丹後・京都・美濃などの絹織物

●越前・土佐での和紙

●備前・美濃での刀剣、陶磁器

●三河・備後の綿織物

●近江高宮・奈良の麻織物

●美濃の美濃紙、播磨の杉原紙、越前の鳥の子紙、讃岐・備中の檀紙

●河内・大和の酒造、鋳物


惣村がそれまでの農業集落と異なる点を説明せよ。

●それまでの農業集落●…荘園・郷保など支配単位ごとに形成され,名主だけを構成員とし,在地支配権をもたなかった。

●惣村●…名主だけでなく新興の小百姓も含めて百姓が全体としてまとまり,自検断を行うなど在地支配権を掌握し,ときには荘園・郷保など領主支配の枠をこえて周辺の村々と結びついた。

地侍の二つの性格を説明せよ。

● 農民としての面●…惣村の指導者として荘園領主に対して年貢減免などを求めて、強訴・逃散を行い、土一揆を主導して幕府に対して徳政令発布を求めた。

●武士としての面●…国人と共に国一揆を起こして大名支配の排除を図ることがあった。


中世における農民の識字能力の発達を説明せよ。

鎌倉時代後期には,阿弖河荘百姓等申状(地頭の湯浅宗親の非道)のように,名主らが領主に対して百姓申状を出すことがあった。また、室町時代には惣村の形成が進み,村掟の制定や年貢の地下請などにより文書の作成・利用が広がった。


正長の土一揆が広汎なものとなった背景 を説明せよ。

自治村落である惣村を基盤として農民が階層や地域の違いをこえて結束し、高利貸業者への借金が農民や運送業者たちの生活を脅かし、将軍・天皇が代替わりして飢饉や疫病に伴う社会不安からの解放を願って年号改正が行われた。


馬借は、広汎な情報を得やすく集団的組織力をもつため、しばしば土一揆の先駆となった。


「大乗院日記目録」・畠山満家・柳生徳政碑文


正長の土一揆での徳政と永仁の徳政令の相違点を説明せよ。

●永仁の徳政令●…経済的に困窮して所領を売却してしまい御家人役を担えない御家人が増加したことへの対応策として幕府が実施したものであった。

●正長の土一揆での徳政●…土民が幕府の承認なく実力行動により自ら実現させた。


一揆形成による参加者相互の関係の変化を説明せよ。

参加者相互に独立性が強く、個別的な利害が優先される関係から、個別的な利害を抑制し、全体秩序を優先させる関係へ変化した。


宋銭や明銭の使途・機能について説明せよ。

商品の交換手段として機能しただけでなく,年貢の代銭納のように支払手段として,また蓄財や貸付のための手段としても使われた。


奈良時代~戦国時代の相続制度と女性の地位の推移を説明せよ。

律令政府のもとでは財産は分割相続され、女子も相続権を持ち、妻の地位は高かった。鎌倉時代の武家社会でも同様であったが、子供の所領相続については父母を問わず親の意思が主君たる将軍の決定よりも優先された。

しかし、分割相続の繰り返しが所領の細分化を招いたため、鎌倉後期以降、相続法が次第に転換し、所領が他家へ流出することを防止するために女子の相続権が本人一代限りでその死後は惣領に返す一期分が多くなり、さらには惣領による単独相続へと転換して庶子や女子への相続権は否定された。その結果、一族間の内紛を招いて次第に所領相続の決定権が主君によって掌握されるようになる一方、女子は地位を低下させ、夫に従属する存在と扱われるようになった。


室町時代の民衆運動の推移を説明せよ。

惣村を基盤とする一揆的結合を強めた農民は、領主に対して年貢減免や代官罷免を求め、集団で訴える愁訴・強訴や耕作を放棄する逃散を行うようになった。これらは荘園などを単位とする一揆として庄家の一揆と呼ばれた。貨幣経済の進展に伴う土倉・酒屋への負債増加などを背景に、やがて村落の枠を超えて結集し幕府に債務破棄を意味する徳政令の布告を要求する一方で、土倉・酒屋を襲う土一揆と呼ばれる蜂起を行うようになったが、応仁・文明の乱後は散発・縮小化し衰えた。


鎌倉~安土桃山までの銭貨の流通を説明せよ。

鎌倉・室町時代に幕府や朝廷は銭貨を鋳造せず宋銭明銭が大量に輸入されて貨幣経済が発展し、年貢の銭納が普及した。室町時代は段銭・棟別銭など多様な税を銭貨で徴収し、戦国大名は、土地を年貢の銭納高で表示した貫高を基準に年貢や軍役を賦課し、私鋳銭の受け取りを拒む撰銭を制限する撰銭令を発して銭貨流通の円滑化を図った。織豊政権も銭貨は鋳造せず、明銭などの輸入銭や私鋳銭の流通が続いた。


問から問屋への業務の推移を説明せよ。

問ははじめ荘園領主の支配下にあり、特定の荘園の商品のみを扱っていた。しかし、鎌倉時代末期になると領主から独立して営業するようになり、荘園の物資を倉庫に納入し、適当な時期に市に出して利益を上げた。


中世における水陸交通に関わる流通業者の発展について説明せよ。

港や都市部に荘園からの年貢の輸送・保管を行う問丸が発達し、後に貨物の委託販売を行う問屋となった。京都周辺では馬借・車借などの運送業者が活躍し、海・川の交通路が発達して廻船が盛んに往来した。


馬借は、広汎な情報を得やすく集団的組織力をもつため、しばしば土一揆の先駆となった。


11 世紀~14 世紀初頭に至る日本の貨幣媒体の変遷を説明せよ。

古代朝廷による銅銭の流通政策が挫折して、日本では綿布や米が貨幣の機能を果たしたが、大陸からの輸入銅銭によって再び金属貨幣が流通した。中国大陸に進出したモンゴル帝国が銅銭を規制したことで宋銭の流入は増大して一般市場にも金属貨幣が浸透した。


座の変遷を説明せよ。

座は、本来、本所である貴族や寺社に貢納や労働奉仕を行う隷属的な性格が強かったが、次第に営業税として座役を納め、関銭の免除や流通・販売の独占などの保護を受ける独立した営業座に発展した。


中世の京都における住民のあり方や構成の変化を説明せよ。

武家政権の成立とともに内裏警固に勤務する地方武士が増え,室町時代には幕府所在地となったため,将軍・守護など多数の武士が居住していた。経済流通の発達とともに商工業者も増加し,初め寺社や官衙に隷属したが,のち地縁に基づく住民組織を形成していった。


祇園祭の担い手の変化を説明せよ。

応仁の乱によって京都が荒廃すると祇園祭(発足時は御霊会としての意味合いが強かった)は中絶した。しかし、町衆を中心に自治的な運営が町や町組で行われるようになると、町衆たちの祭りとして再興された。


中世後期の京都の運営を説明せよ。

地縁的な自治組織である町の構成員として町衆とよばれ,月行事を中心に自治運営された。

室町・戦国時代の都市の発達とその要因を説明せよ。

農村手工業や商品流通の発達を背景に、淀や兵庫など海陸の要衝には港町が、善光寺の長野など参詣者で賑わう寺社周辺には門前町が発達した。越前の吉崎など一向宗寺院を中心に門徒らが形成した寺内町や、戦国大名が家臣団を集住させた城下町では、楽市にして商工業者の経済活動を保障した。伝統都市の京都や日明貿易で栄えた博多・堺では富裕な商工業者が台頭し、それぞれ町衆や年行司・会合衆が市政を運営する自治都市となった。


中世における女性の社会的活躍を説明せよ。

鮎を売る桂女や薪・炭を売る大原女をはじめ、魚売り・扇売り・布売り・豆腐売りなど行商人として活躍し、金融業でも活躍した。


連雀商人とその衰退を説明せよ。

連雀とよばれる背負い運搬具に商品荷物をくくり付け、行商して歩く商人である。連雀商人は、各地の市を巡回して商売したが、戦国大名がその拠点とする城と城下町を経営するようになると、城下の大手付近に定期市を設定し、ここに連雀商人が多く集まるようになった。城下町建設期に多くみられたこのような連雀商人の町は、近世に入って商品流通が発達し、都市では店舗商業が一般化し商店街が形成されるとしだいにその機能を縮小していった


中世後期の京都における町の構成・町政運営のありかたを説明せよ。

道路を挟んで向かい合う商工業者が結びつき、一つの町を構成する両側町が生まれた。複数のによって町組がつくられ、さらに上京・下京に惣町と呼ばれる連合体も形成され、町や町組は富裕な商工業者である町衆から選ばれた月行司により自治的に運営された。


撰銭令が 15・6 世紀に集中的に出された理由を説明せよ。

15・16 世紀には貨幣鋳造を行う統一権力が不在で,中国銭が流通したため,種類の異なる貨幣が混在していた。商品経済の発展にともなって貨幣不足が生じ,次第に粗悪な私鋳銭が増加した。粗悪な銭貨の受取りを拒否する撰銭が発生しており,室町幕府や戦国大名は撰銭令を発して撰銭を規制する必要が生じていた。

※江戸時代は,江戸幕府が統一権力を確保し,貨幣鋳造権を掌握したため,規格の統一された貨幣が全国的に通用した。


貫高制の内容について説明せよ。

貫高は土地の価値を銭額で表示したもので,戦国大名のもとでは家臣への知行給付・軍役賦課や百姓への年貢・諸役賦課の統一的な基準になった。


貫高制の問題点を説明せよ。

戦国大名は在地領主制を基礎にしており、自ら検地などを行って直接把握している土地が限られていたことで、貫高の決定方法が従来の慣行や政治的力関係などで左右されて一元化されておらず、生産高や年貢収取の実態との間の偏差は多様であった。


山科寺内町が有していた機能とその背景(軍事的性格以外)を説明せよ。

山科寺内町は、本願寺を中心とした信仰の場であり、交通の要地に位置したことで、各地の門徒や参詣者が訪れ、消費活動が盛ん。商品取引が活発化し、手工業生産も盛んになり、物資の流通や生産活動の場として機能した。応仁の乱で京都が荒廃し、その近郊の山科は芸能や娯楽の場としても繁栄した。


11 世紀~15 世紀にかけての一国平均役(段銭)の変遷を説明せよ。

平安末期…朝廷が賦課権を持ち、国司を通して徴収された。

鎌倉期…徴税に抵抗する御家人も現れたため、徴収には鎌倉幕府の協力が求められた。

南北朝期…朝廷が幕府に徴収を命じるようになり、幕府は守護を通じて徴収した。

足利義満期…賦課権が幕府へ移ると共に、室町中期には守護も独自に賦課するようになった。


十三湊の交易上の意義を説明せよ。

朝鮮や中国の船も出入りした津軽の十三湊は、蝦夷地や沿海州にも開かれ、日本海沿岸と蝦夷地を結ぶ交易ルートを通じ、畿内に多くの産物をもたらした。


門前町と寺内町の違いを説明せよ。

室町末期に浄土真宗の寺院や道場から興った寺内町は、寺と町とが一体となり周囲を堀や塁で囲んだもので、寺は人々と交わる場であった。一方で、門前町では寺は修行する場として町とは区別された。


※寺内町…吉崎(越前)・山科(山城)・石山(摂津)・金沢・富田林(河内)・貝塚・今井
※門前町…宇治(伊勢内宮)・山田(伊勢外宮)、善光寺、坂本(延暦寺、馬借の拠点)

※港町…大湊、草戸千軒町(広島県福山市の芦田川の洪水で水没)、十三湊、坊津(薩摩)、敦賀(越前)、小浜(若狭)、淀(京都)、大津(琵琶湖南岸)