政治法制史:中世

延久の荘園整理令と一国平均役、宣旨枡との関係を説明せよ。

荘園・公領の境界が確定し、その田地面積を基準にして一国平均役が賦課された。それらを公平に徴収するために統一された宣旨枡が定められた。

大田文の内容と作成目的を説明せよ。

中世,特に鎌倉時代を中心に国ごとに作成され,国衙領・荘園などの田数を記載した帳簿。一国平均役の基礎資料、国衙の歳入・歳出の確定、地頭補任の確認および御家人役賦課のための台帳と考えられる。


延喜の荘園整理令と延久の荘園整理令の相違点を説明せよ。

●延喜の荘園整理令●…実施が国司に委ねられていて、さらに諸国の国務の妨げにならなければ例外とするような措置であったため不徹底に終わった。

●延久の荘園整理令●摂政・関白を外戚としない後三条天皇によって出され、記録所を設けて国司任せにはせず、さらに審査にあたる弁官寄人には天皇の側近をあて、審査に際しては荘園領主から証拠書類を提出させ、国司からも報告を取り寄せてその2つを合わせて審査した。年代の新しい荘園や書類不備のものなど基準に満たない荘園を停止して、摂関家の荘園も例外にはしなかった。それによりかなりの成果をあげ、石清水八幡宮寺領では34か所の荘園のうち、13か所では権利がすべて停止された。この整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になっていった

現地への使者と国の在庁官人とともに土地調査が行われ、荘園とそれ以外の国司の支配下にある公領との境に牓示が打たれ、荘園の田畠の量などを記載した報告書が作成され、正式に荘園として認められた(立券荘号)。国司も公領への支配を整えていき、公領に力を伸ばしてきた豪族や開発領主に対し、郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせたが、やがて国司が現地に赴任しなくなったことも相まって、郡司・郷司や在庁官人らは公領を彼らの共同領地のように管理したり、また荘園領主に寄進したりして、従来の律令制度のもとで国・郡・里(郷)の上下の行政区分で構成されていた一国の編成は、荘・郡・郷・保などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制である荘園公領制に移行した。これに伴って大田文が作成された。

※「詳説 日本史研究 山川出版社」を参照


平安~鎌倉までの記録所の役割の変遷を説明せよ。

設置当初は、寄人が国司と荘園領主から提出された荘園の書類審査にあたり、その結果を上申するのみであった。しかし、後に荘園の訴訟を裁く機関として重視されるようになり、荘園の整理ばかりではなく、訴訟機関としての機能が強まり、さらに鎌倉時代末期には訴訟機関として常設された。


公事・夫役を説明せよ。

●公事●…海産物・果物・手工業などの各地方の特産物を納めるもので税率は特に定まらず、銭納になることもあった。

●夫役●…人夫役のことで、土木工事や税の運搬などである。


摂関時代における、国司の役割の変化を説明せよ。

浮浪、偽籍により地方支配が行き詰まる中、10世紀はじめに政府は国司に一定の官物上納を条件に任国支配を一任する政策転換に踏み切った。国司は課税単位を人から土地に転換し、税率も一定の範囲内で裁量できたため私財の蓄積も可能になった。そのために国司職が利権視されるようになり、私財を寄進して国司職を得る成功や、同一の国の国司に再任される重任が盛行し、国司らはその費用調達のためにも任国での収奪を強化した。

10世紀以降の受領の地方支配の内容とその後の変化

負名体制の確立に伴い、受領は自らが率いる郎等らを指揮し、とよばれる徴税単位の田地を請け負わせた田堵に、官物や臨時雑役を課した。任国に対する権限と責任を負った受領は、税率を高めて過酷な徴税を行い、郡司や百姓らに訴えられて解任される受領もいた。11世紀には遙任が盛んになり、任国に赴かずに目代を留守所に派遣し、国内の有力者から登用した在庁官人を指揮させて政治を行わせた。


摂関政治の経済基盤を説明せよ。

摂関が叙位・除目に大きな権限をもっていたことに対する売官・売位による収入。また、経済的利権の大きい受領の地位を希望する者や、次の官職に推薦してもらったり受領功過定の審査を有利に進めてもらうために受領から受け取る貢納物など。


10世紀後半以降の摂関政治および摂関期の国政の審議を説明せよ。

安和の変以降は幼少の天皇の政務代行である摂政と、成人した天皇の後見・補佐である関白が常置の職となり、藤原氏の氏長者が就任した。天皇家と外戚関係を結んだ藤原氏が地位を独占し、道長・頼通の時に全盛を迎えた。天皇が太政官を統括して強い権力を握るとともに、官吏の人事権限は摂関にあり、摂政・関白のもと、天皇個人の能力に関わらずその権限を行使できる体制であったために摂政・関白は政治的な権力を握った。

天皇と摂関が一体となって太政官と連携しながら国政を主導し、公卿も受領の任命・審査など重要事項の合議に関与した。主な政務の重要事項については太政官の公卿による陣定で審議され、天皇や摂関の決裁を経て太政官符・宣旨などの文書で命令伝達された。


摂関政治と院政の共通点と相違点を説明せよ。

●共通点●…院政と摂関政治は、摂関や上皇が天皇の後見役として実権を握り、太政官機構を利用して国政を運営し、ともに荘園を基盤とする。

●相違点●…摂関政治では摂関が天皇の外戚という立場から天皇権限を補佐、代行したが、院政では上皇が天皇家の家長という立場で実権を握った。摂関政治では律令官人としての収入が大きな比重を占めていたのに対し、院政では知行国制が新たな財源になった。


10世紀後半~12世紀の朝廷の権力者が依存した関係の変遷を説明せよ。

●初期●…藤原氏の氏の長者が摂政・関白に就任、天皇との外戚関係を確保することで初めて権力を維持でき、摂政・関白も外戚の地位とともに移動した。


●後期●…上皇が天皇家の家長という私的な立場から権力を掌握・維持、摂政・関白は天皇との外戚関係に関わりなく道長の子孫に世襲され、官位と家柄が結びついた階層秩序が形成された(摂関家の成立)。


平安時代、中央政界で武士の力が必要だった理由を説明せよ。

荘園公領制が確立する中、荘園の境界や支配権をめぐる大寺社の僧兵による強訴が頻発し、天皇家や摂関家の内紛が激化したため。


白河院政期を説明せよ。

上皇は院庁を開き、受領層を院の近臣として重用し、制約に捉われない政治を行った。上皇は仏教を厚く信仰し、造寺・造仏に励み、熊野参詣を頻繁に行い、成功・重任が盛んになり政治は乱れた。南都北嶺の僧兵による強訴に悩まされ、直属の武力として北面の武士を組織し、武士が中央で成長していく契機になり、源平の武士を側近にすることで権力の強化を図った。院の権力が天皇・摂関家を凌ぐようになると、院に荘園の寄進が集中するようになり、知行国院分国の制度が広まり、公領は院や国司の私領のようになった。


承平・天慶の乱(939年~941年)の歴史的意義を説明せよ。

承平・天慶の乱は本格的な武士の反乱で、律令国家の地方支配の破綻とその軍事的無力を示した。平将門が新皇と称し、東国で独立国家の樹立を宣言したことは、後の鎌倉幕府の先駆になった。両乱が朝廷の命を受けた武家の棟梁により鎮圧されたことは、武士の中央政府への接近と、その勢力の台頭をもたらした。さらに、鎮圧者の家系が特別視され、その後武士の家柄はその乱の鎮圧者の子孫の家系に限定されていった。

●平将門の乱←平貞盛藤原秀郷の助力を得て平将門を討つ

●藤原純友の乱←源経基小野好古が平定

●平忠常の乱(1028~1031年)←源頼信が平定

●源義親の乱(1108年)←平正盛が義親を討伐。正盛は白河上皇に重任される。

平忠盛は瀬戸内海の海賊を討ち、鳥羽の信任を得た。

源経基は源姓を与えられたことで清和源氏の始まりとなった。経基王の一流が栄えた後、信濃源氏、美濃源氏、尾張源氏、三河源氏、河内源氏、摂津源氏、大和源氏、多田源氏、甲斐源氏など諸国に分かれた。特に平忠常の乱の鎮圧に功を挙げた源頼信を祖とし、また後に前九年・後三年合戦で武名を高めたその嫡子の源頼義、嫡孫の源義家と続く源家3代である河内源氏により、武勇の家という評価が定まった。

伊勢平氏…  平正盛→平忠盛→平清盛

 院政期の上皇… 白河→鳥羽→後白河

※平忠常は坂東平氏


惣領の役割を説明せよ。

一族を代表して御家人となり、先祖や氏神・氏寺の祭祀を行った。平時には番役や関東御公事などの御家人役を代表して引き受け、一族に配分して奉仕し、戦時には一族を率いた。


墾田地系荘園と寄進地形荘園を比較せよ。

●初期の荘園●…貴族や大寺院が自ら開墾した土地や、その近くから買収した墾田からなり、周辺の班田農民や浮浪人を使って経営。律令国家から租税の免除(不輸)を認められなかったこともあって、経営が不安定であり、また国家の支配機構に依存していた面もあったので、9世紀には衰退した。

●寄進地形荘園●…荘園領主の権威を背景として、やがて中央政府から不輸の権を承認してもらう荘園が登場して、次第に増加し、10 世紀半ばになって地方の支配が国司に委ねられるようになると、国司によって不輸が認められる荘園も生まれた。国司によって免除を受けた荘園を国免荘と呼び、太政官符や民部省符によって中央政府から税の免除を認められた荘園は官省符荘となった。大名田堵らの成長が進むにつれ、税の徴収をめぐって国司との対立が深まった。その結果、土地を中央の権力者に寄進し、権力者を領主とあおぐ荘園とすることが広く行われるようになり、盛んになった寄進によって不輸の範囲や対象は広がり、荘園領主の権威を利用して、不入の特権を得る荘園も多くなった。不輸・不入の制度の拡大によって荘園はようやく国家から離れ、土地や人民の私的支配が始まった。

大名田堵は開発を進めて開発領主と呼ばれ、一定の地域を支配するまでに成長すると、一方では在庁官人となって国衙の行政に進出し、他方で国司から圧力が加えられるのを避けて、所領を中央の権力者(権門勢家)に寄進して荘園領主から下司公文などの荘官に任じられ、所領の私的支配を今までより前進させた。寄進を受けた荘園の領主は領家と呼ばれ、この荘園がさらに上級の大貴族や天皇家などの有力者に重ねて寄進されたとき、上級の領主は本家と呼ばれた。領家・本家のうち実質的な支配権をもつ者は本所と呼ばれた。本所からは預所が任命され、現地を支配する下司公文などの荘官を指揮して荘園の支配を行った。

公領での開発領主の地位の変化を説明せよ。

国衙から税を免除されて耕地を開墾し、力を伸ばしていた開発領主らは、中央政府から国内統治を委任され公領への支配を整えていった国司によって郡司・郷司・保司に任命されて徴税を請け負わせられた。また、彼らは在庁官人となって国衙の行政に進出し、そして所領を中央の権力者に寄進して荘官に任じられ、私的支配を加速化させた。

保元の乱と平治の乱を説明せよ。

保元の乱(1156年)…藤原忠通藤原頼長兄弟の争いが崇徳上皇後白河天皇兄弟の対立と結びつき,鳥羽法皇の死を機に勃発。上皇側は敗れ,崇徳上皇は讃岐に配流,頼長は敗死し,天皇側を勝利に導いた源義朝,平清盛らの武士が政界に進出する契機となった。

平治の乱(1159年)…後白河院政開始後の藤原通憲=信西の専横に不満をもった藤原信頼,源義朝が起した争い。信西の武力的後援者の平清盛が熊野詣に出かけた留守をねらって挙兵したが,待賢門の戦いや六波羅の戦いなどを経て、清盛軍に敗れ、平氏の全盛期を迎えた。


平氏が権力を掌握する過程とその経済的基盤を説明せよ。

伊勢平氏は北面の武士として台頭し、保元・平治の乱で実権を掌握した清盛は、西国武士を家人化する一方、太政大臣となり、律令官職独占を進め、外孫の安徳天皇も即位させた。経済的基盤は多数の荘園・知行国と瀬戸内海航路掌握を通した日宋貿易であった。音戸の瀬戸を開き、大輪田泊を修築した。


平氏政権の「武士的性格」を説明せよ。

在地の武士を家人に組織し、彼らの一部を国司に任じるとともに、荘園・公領の現地支配者であった地頭に任命し、畿内・瀬戸内海・九州に至る西国の武士を組織化した。


平氏政権と鎌倉幕府の相違点を説明せよ。

●平氏政権●…朝廷において武家としての役割を果たしながら平治の乱以降、白河院と協調して地位を上昇させ、高位高官の多くを一門で占め、その後、後白河院の院政を停止して朝廷の主導権を掌握した。

●鎌倉幕府●…治承・寿永の乱の中で東国を実力で制圧し、朝廷から独立した政権を作り上げたうえで、朝廷の支配体制のもとに武家として組み込まれた。


平氏政権と異なり頼朝政権が最初の安定した幕府となった理由を説明せよ。

朝廷から距離を置き、東国制圧の過程で国司、領家を差し置いて武士の所領支配を保障して主従制を整えたうえで、朝廷に迫って公的な認可を得た。


鹿ヶ谷の陰謀で処罰された 3 人と内容を説明せよ。

俊寛。藤原成親。西光。院の近臣らが、京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒計画を立てたが露顕した。


11 世紀後半から治承・寿永の乱に至るまでの奥州の政治過程を説明せよ。

国司と争っていた安倍氏前九年合戦で源頼義・義家に滅ぼされ、この戦乱に関わった清原氏が陸奥・出羽で台頭した。清原氏一族に生じた内紛から起きた後三年合戦を経て義家の助けを得た藤原清衡が台頭して平泉を拠点に勢力を築き、基衡・秀衡の代までに陸奥・出羽両国の荘官・郡司らを服属させ、奥州藤原氏が繫栄した。治承・寿永の乱の発生後、源義経が奥州に逃亡すると、かくまったことを理由に源頼朝が藤原泰衡を滅ぼして陸奥・出羽を支配下においた。

頼朝が奥州藤原氏を滅ぼさなければならなかった理由を説明せよ。

後白河院が頼朝に対抗する動きをみせる一方、奥州藤原氏政権は頼朝に対抗できる軍事力を持ち、朝廷と独自に結びついていた。


奥州藤原氏の滅亡に至る経過と滅亡後の奥州支配のありかたを説明せよ。

藤原泰衡は頼朝の要求に屈服して義経を殺害したが、頼朝は義経をかくまったことを理由に泰衡を滅ぼした。その後、頼朝は奥州藤原氏の勢力圏を引き継いで幕府の直轄統治とし、陸奥・出羽には守護をおかず奥州総奉行を設置した。


治承・寿永の乱を説明せよ。

以仁王の令旨をうけて平氏討伐の兵をあげたが,石橋山の戦に敗れて安房へのがれた。

平広常上総介広常),千葉常胤らの来援を得て,相模に入り鎌倉に本拠を定めた。その後、富士川の戦い(武田信義が活躍)や源義仲による倶利伽羅峠の戦いにより平氏は都落ちしたものの、入京後の義仲軍による乱暴が朝廷・貴族の反発を招いたため、弟の範頼・義経を送って宇治川の戦いを経て源義仲を倒した。

一の谷の戦い屋島の戦いを経て 1185 年に平氏を長門壇ノ浦の戦で滅亡させ、この間義経は後白河法皇に接近,これを忌んだ頼朝は義経を追い,その追捕を理由に守護・地頭の設置を勅許され,幕府開設の基礎を固め、1192 年に征夷大将軍になった。


1183 年~1185 年の頼朝の動向を説明せよ。

1183 年には、源義仲との対立に苦しむ後白河法皇と交渉し、東海・東山両道諸国の支配権の公的な承認寿永二年十月宣旨)を手に入れた。

1185 年、法皇が源義経に頼朝追討を命じると軍勢を京都に送って強く抗議し、追討令を撤回させるとともに、諸国に守護、荘園や公領には地頭を任命する権利、戦時の際の軍費として田 1 段あたり 5 升の兵粮米を徴収する権利(貴族の反発ですぐ停止)、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。東国を中心に頼朝の支配権は広く全国に及ぶことになり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。


鎌倉幕府成立時の機構を簡潔に説明せよ。

鎌倉には侍所(別当は和田義盛)・政所(初めは公文所。別当は大江広元)・問注所(初代”執事”は三善康信)、地方には全国的に守護・地頭を置いたほか、京都守護・鎮西探題・奥州総奉行などを置いた。

※大江広元、三善康信は、もともとは朝廷に使えた官人であった

※鎌倉幕府の経済的基盤→関東御領,関東御分国,関東御公事

公武二元体制を説明せよ。

幕府の首長たる征夷大将軍は朝廷が任命する一方、幕府は守護・地頭を通じて全国の治安維持にあたるなど、朝廷と幕府は相互の存在を支え合う側面を持っていた。


鎌倉時代の東国と西国の、地頭の荘園支配権限の違いを説明せよ。

東国は幕府の支配領域で、本領も多く下地支配権を認められた。西国は新恩が多く、本所の支配が尊重され、権限は抑制された。


源頼朝の死後~執権政治の確立・強化までの過程を説明せよ。

源頼朝の死後、頼家の親裁を停止し、実朝の暗殺後には幼い九条頼経が迎えられ、有力御家人が合議で統治した。

その過程で、北条時政は将軍親裁派の梶原景時や頼家を後見する比企能員を討って政所別当に就任し、執権として実朝を補佐した。

北条義時和田義盛畠山重忠を滅ぼして、政所と侍所の別当を兼任した。

承久の乱後、幕府は西国に勢力を拡大して公武二元支配において優位に立ち、北条泰時連署を置いて執権を補佐させ、評定衆を任じて御家人合議体制を確立した。幕府は、将軍と御家人の本領安堵と軍役の御恩と奉公の主従関係を基盤としたので、摂家将軍を迎え、執権は将軍を補佐して権力を強めた。

北条時頼引付衆を置いて御家人たちの所領訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立に努める一方で、宝治合戦三浦氏一族を滅ぼして北条氏の地位を安定させ、初めて皇族将軍を迎えることで幕府権威の向上にも成功し、次第に北条氏嫡流の得宗による専制という傾向を強めた。

※実朝暗殺後、はじめ幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが、上皇に拒否された。


北条氏は貴種ではないため、将軍にはなれないから摂家将軍を迎えた。


御成敗式目の背景・意義を説明せよ。

鎌倉幕府で御家人の合議制が整備され、政治についての共通の認識が必要とされていた。また、鎌倉幕府成立の当初は東国中心であった地頭の補任が、承久の乱以降では畿内・西国に幕府の支配地域が拡大したことにより地頭御家人の在地に対する支配力が拡大して紛争が頻発していた。寛喜の飢饉が発生して社会が混乱していたことも背景として、幕府政治の規範を示して武家社会を秩序付け、朝廷や公家・寺社との共存を図り、武家社会の慣習である道理の統一性を示した。


※養和の大飢饉(1181年)→寛喜の大飢饉(1231年)→正嘉の大飢饉(1258 年前後)→寛正の大飢饉(1461年)→明応の地震(1498年)


御成敗式目(貞永式目)の立法趣旨や内容,効力をもつ範囲を説明せよ。

源頼朝以来の幕府の先例を軸とし、さらに武家社会の慣習である道理を取捨選択して法文化した。守護の権限を大犯三カ条御家人の大番役催促,謀反人・殺害人の追捕の3つ。貞永式目制定の際に、夜討・強盗・山賊・海賊等の検断を追加。)に限定し,親の悔い返し権を認めて親の意思を幕府の決定よりも優先し、さらに知行年紀法なども規定され,鎌倉幕府と御家人の果たすべき役割と限界を明示することにより紛争を公正に裁く基準を示すとともに,御家人社会を秩序づけようとした

逐次発布された幕府の単独の法令は,この式目を補充する意味で「式目追加」などと呼ばれ,ともに尊重された。古代や近代の成文法典と性格を異にし,網羅的ではなく、幕府の支配下にある御家人社会が対象であり,従来の貴族社会は公家の法下として対象から除かれたように効力は鎌倉幕府の支配領域に限られたが、やがてその影響は全国的に拡大した。次の室町幕府にも基本法典として継承され,「建武以来追加」以降,式目を本条として前代同様,それを補充追加する形で単独の法令が制定された。

全文:『御成敗式目(貞永式目)』一覧 (xrea.com)

知行年紀法(二十箇年年紀法)を説明せよ。

土地やその他の不動産物権を、実際に支配していない状態で20年以上経過すると物権上の権利が時効により消滅するという規定。


鎌倉時代における荘園支配の変遷を説明せよ。

鎌倉幕府は御家人を地頭に補任し、荘園領主への年貢納入や治安維持などにあたらせた。承久の乱後、新補地頭補任など幕府勢力の拡大を背景に、地頭は年貢横領などの非法を行い、荘園領主との紛争が増大したが、地頭請下地中分が実施されると、地頭の荘園支配は強化された。元寇に際し、幕府は本所一円地からの物資徴発権を獲得し、荘園支配を強めた。鎌倉末期には幕府や荘園領主に反抗する悪党が横行して荘園支配は動揺した。


1274 年に、北条泰時が京都にいた理由を説明せよ。

泰時は、承久の乱が勃発すると、幕府軍を率いて京都へ出撃した。乱後、幕府が京都に新設した六波羅探題に就任し、朝廷の監視と京都周辺の警備、西国の統轄をしていた。


承久の乱の影響を説明せよ。

幕府は公武二元支配の状況の下で優位に立ち、皇位継承や朝廷の政治に介入すると共に、六波羅探題を設置して朝廷を監視した。没収した所領には東国御家人を地頭として任じ、勢力を西国まで拡大したが、荘園領主と地頭の紛争は増加した。天皇権威の無条件の絶対性が動揺し、天皇や治天の君にも徳を修めることを求める徳治主義が強まった。


錦の御旗を説明せよ。

鎌倉時代以後、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いた。


加徴米を説明せよ。

兵糧米と同じ分量の米を徴収したもの。承久の乱後の新補地頭の収入として認められた。


新補立法の内容と、新補地頭の意義を説明せよ。

鎌倉幕府は,承久の乱後に院方の所領を没収し,勲功のあった御家人を地頭職に補任し,田畑 11 町ごとに 1 町の給田反別 5 升の加徴米など地頭職に対する得分率法を定めた。地頭はこの権利を利用し荘園内部で不当な検断権を行使するようになった。新補地頭の設置により,幕府の権力が全国に及ぶことになり,全国的政権に成長発展した。


鎌倉時代の御家人の所領の経営方法を説明せよ。

御家人は散在する所領を一門の惣領と庶子で分割相続して経営し、借上に経営を請け負わせることもあった。世代を重ねると所領は細分化が進み、庶子が惣領の統制から自立傾向を見せる一方で御家人の借上への金銭的な依存が深まり所領の質入れ、売却が増えた。


「御成敗式目」の特徴を,「律令」と対比させて説明せよ。

律令が中国の法典にならった統治のための法典である一方で、御成敗式目は武家社会の慣習などに基づいた裁判の規範である。


御成敗式目での女性の地位の確保を説明せよ。

女性は所領相続権を認められていて、地頭や御家人になることもできた。


鎌倉時代の武士社会の特質を説明せよ。

血縁的結合に基づく惣領制が存在し、惣領が一族庶子を統率して将軍と主従関係を結んだ。幕府は惣領の統率権を認め、一族の相互扶助関係を保障し、幕府の軍事動員体制や政治体制の運用を確保するために一族内部には干渉せず、また御成敗式目での親の悔い返し権を認めるなど、それぞれの家での親権の絶対性を認めていた。


なぜ下地中分などをしなくてはならなかったのか説明せよ。

承久の乱以降、幕府の権威が朝廷よりも増したことで、地頭の非法(年貢横領など)が横行したから。


下地中分の絵に執権と連署の花押がある意味を説明せよ。

紛争の解決が幕府の手に委ねられていたことを意味し、下地中分を幕府が公的に保障して、地頭のさらなる荘園侵略が抑制される実効を持たせようとした。


鎌倉時代の荘園・公領領主と地頭との間の紛争解決方法を2つ説明せよ。

●地頭請●…領主は、地頭に荘園の管理一切を任せて一定額の年貢納入だけを請け負わせる地頭請を行い、地頭は一定の請料さえ領家に払えば、他の荘園の収益はすべて自己の収入とすることができ、幕府も奨励した。

●中分●…話し合いによる和与中分と、領主からの申請を受けた幕府により決裁した強制的な下地中分によって、土地自体を折半し、地頭と領主とが土地・住民を分けて、完全な支配権を認め合う取り決めをした。地頭は荘園領主と同等の立場において土地・農民を支配し、次第に荘園の支配権は地頭の手に移っていった。


宮騒動を簡潔に説明せよ。

頼嗣に将軍職を譲って後も頼経は隠然たる勢力を持ち,北条時頼が執権となると,北条一門の名越光時が頼経に接近し,執権の地位を奪おうとする事件がおこり,頼経は京都に追放された。この事件に座して,頼経の父道家も関東申次を罷免されて失脚した。


得宗が将軍になれなかった、ならなかった理由を説明せよ。

官位と家柄の結びついた身分意識の下で将軍は、天皇や摂関に並ぶ貴種と意識されたが、得宗は在庁官人という出目を根拠として低い家柄と意識され、将軍に任じられるには障害であった。また、御成敗式目を規範とする独自の法秩序が武家社会に存在し、得宗が将軍になる必要はなかった。


得宗専制はどのような事情から生まれてきたか。またその帰結も説明せよ。

執権の北条時頼の代に北条氏の覇権が確立していたが、蒙古襲来に伴う軍事的緊張の高まりを背景に本所一円地への影響力が強まり、幕府政治の集権化が進んで有力御家人の合議制は形骸化し、家督を継ぐ得宗・内管領・御内人による寄合へと代替していった。蒙古襲来による過重な軍役や異国警固番役の継続は御家人の窮乏を促進し、惣領制の解体、地縁的結合を重視する傾向を招いたことで、守護の果たす役割が大きくなり、北条一門による守護職の独占が進み、幕府政治は北条得宗家による独裁政治の傾向を強め、御家人と御内人との対立が激化する中、霜月騒動によって御内人勢力が勝利し、得宗専制政治が確立した。しかし、その極端な専制が諸勢力の反発を招き、幕府は間もなく滅亡した。


佃を説明せよ。

荘園領主の直営田である。

門田を説明せよ。

中世における、武士・土豪の直営田である。


文永の役が幕府の支配促進に寄与した理由を説明せよ。

従来、貴族や寺社など荘園に住む本所一円地の住人は幕府の命令が及ばない存在であったが、強大な外敵との戦いという緊急事態を迎え、本所一円地の住人は守護の指揮下に配置され、本所に上納されるべき年貢は兵糧米として徴収され、さらに御家人・非御家人の区別なく守護の指揮のもとに異国防御にあたることが指令され、異国降伏の祈祷命令を朝廷に代わって幕府が全国に出した。これらは、幕府が全国の統治者へと成長していくうえで大きな画期となった。


鎮西探題を簡潔に説明せよ 。

職務は九州の御家人を異国警固番役に専念させるため,鎌倉への参訴を禁じ,幕府にかわって現地において訴訟を裁決した。


御内人と御家人の違いを説明せよ。

御内人は得宗家に仕えた家臣(得宗被官)であり、将軍直臣の御家人と異なり、将軍から見ると陪臣に過ぎないが、得宗の権力増大に伴って幕府の実権を握ることになった。


弘安徳政を行った人物とその目的、それが挫折した理由を説明せよ。

安達泰盛。再度の蒙古襲来に備えての将軍権力の立て直しや異国警固番役を広範な武士に課すため非御家人の御家人化が図られた。しかし、得宗専制政治の傾向が強まる中、霜月騒動で内管領の平頼綱によって泰盛が滅ぼされたため改革は挫折した。


永仁の徳政令の具体的内容を説明せよ。

所領の売却・質入れを禁止すると共に、地頭・御家人に売却した土地で売却後20年未満のものと、非御家人・庶民に売却した土地の全てを無償で売り手である御家人のもとに返却させた。越訴の禁止や、金銭訴訟は受理しないことなども定められた。

全文:「永仁の徳政令」-史料日本史(0351) (chushingura.biz)


永仁の徳政令の歴史的意義を説明せよ。

御家人所領の売却や質入れを禁止し、以前に売却したり質入れした所領の無償取戻しを認めた。御家人保護には効果がなかったが、徳政を無償取戻しとする思想は室町期の徳政一揆に大きな影響を与えた


永仁の徳政令で対象とされなかった人々を説明せよ。

非御家人や一般庶民。


永仁の徳政令が御家人の反発を招いた理由を説明せよ。

御家人は土地を取り戻せる反面、重要な裁判の機会の放棄を命じられた。


悪党の起源と定義を説明せよ。

鎌倉時代末期、蒙古襲来の頃から、畿内を中心にして農村経済の発達によって生まれた余剰生産物を手にした荘官や名主の中から、近隣と横の連携を保って反荘園・反幕府の実力行使を行うものが現れ、年貢納入を拒絶したりもした。


悪党の意味の変遷を説明せよ。

夜討・強盗などの一般的な犯罪者の意味で使われていたが、年貢抑留などを理由に罷免された元荘官らが武装して荘園に乱入し、荘園領主に対する敵対行動をとった場合にも彼らは悪党と位置付けられた。


両統迭立を簡潔に説明せよ。

鎌倉時代後半,後嵯峨天皇の嫡子の後深草天皇の子孫 (持明院統 ) と次子の亀山天皇の子孫 (大覚寺統 ) の 2 系統が並び立ち,交互に皇位についたこと。


持明院統と大覚寺統の双方が鎌倉に使者を派遣した理由を説明せよ。

両統は皇位をめぐって抗争し,承久の乱以後に皇位に関して重大な影響力を有した幕府に盛んに働きかけ、治天の君の地位を確保するために自らに有利な皇位継承をねらい,幕府による推戴を得ようとしたため。


後醍醐天皇が建武の新政で目指したものを説明せよ。

武家政権を否定しただけでなく、伝統的な家格に基づく公家政治の慣習を打破し、摂政・関白を廃止し、太政官ではなく記録所で国政を審議し、さらに天皇の意志を蔵人が承って伝える形式の文書である綸旨で自らに権力を集中させた専制政治を目指した。


建武の新政を説明せよ。

記録所・鎌倉幕府の引付を継承した雑訴決断所を設置し、国司・守護を併置し、大内裏造営乾坤通宝の鋳造の計画も立て、さらに地頭への20分の1税の賦課の提案をした。さらに関所停止など復古的な天皇親政を行い、延喜・天暦の治を理想とした。京都の治安維持のための軍事・警察機関である武者所(長官は新田義貞)や恩賞の事務をする恩賞方もおかれた。


※陸奥将軍府→義良親王(北畠顕家が補佐)
※鎌倉将軍府→成良親王(足利直義が補佐)

後醍醐天皇への不満を説明せよ。

専制政治で、公家を優遇して武家を冷遇し、綸旨による土地所有権の確認に際して、20 年の時効にあたる年紀法など武家社会の慣習を無視したので、所領安堵の不手際で混乱した。また、天皇の命令が頻繁に改まるなど一貫性に欠け、大内裏造営のための武家への負担も重かった。足利尊氏が反旗を翻して京都を制圧し、新政は 3 年足らずで崩壊した。


建武の新政において、謀綸旨が横行した理由を説明せよ。

土地所有権の確認に綸旨が必要とされ、20 年土地を支配すれば所有権が承認されるという武士社会の慣習が無視されたから。


中先代の乱(1335 年)を簡潔に説明せよ。

北条高時の遺子の北条時行が鎌倉幕府再興を企て,足利直義を破って鎌倉を占拠したが,足利尊氏に鎮圧された事件。足利尊氏はこれを機に建武政府と離反した


足利尊氏の建武の新政への離反の過程を説明せよ。

後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、新田義貞軍を破って入京したが、まもなく北畠顕家に追われて九州へ走った。

尊氏は筑前多々良浜で九州最大の後醍醐方である菊池武敏を破り、勢力を挽回して博多を出発、海路を東進して兵庫に向かった。足利尊氏・直義の軍は、湊川新田義貞・楠木正成らの軍を破った。尊氏は入京し,やがて光明院を擁立,室町幕府を開き、一方 で後醍醐天皇は吉野へ移って南北朝の対立が生じることとなった。


建武式目が生まれた政治状況を説明せよ。

大覚寺統の後醍醐天皇によって推進された建武の新政に反発して入京し、持明院統の光明天皇を擁立した足利尊氏のもとで、中原章賢らが尊氏の諮問に対して出した答申により定められた。


建武式目と御成敗式目の相違点を説明せよ。

●建武式目●…幕府を開く目的のもと、政治方針を明らかにするために発表された。

●御成敗式目●…先例や道理に基づき紛争を公平に裁く基準などを明らかにした最初の武家法である。


室町幕府は御成敗式目をどのように扱ったか説明せよ。

室町幕府は、御成敗式目を基本法典として扱い、必要に応じて建武以来追加と呼ばれる追加法を出した。


室町幕府の職制を説明せよ。

鎌倉幕府にならい中央に評定衆・引付方・侍所・政所・問注所を置いた。各国においても鎌倉幕府に倣って守護を置くとともに、鎌倉には尊氏の息子義詮、ついで基氏とその子孫を置いて鎌倉公方とした。陸奥には奥州探題、出羽に羽州探題、九州に九州探題を置いた

四職・三管領を簡潔に説明せよ。

●四職●…侍所の長官(所司)を交替で勤めた、山名・一色・赤松・京極
●三管領●…将軍を補佐し、政務を統轄した、斯波・細川・畠山


観応の擾乱の内容と意義を説明せよ。

室町幕府草創期は「軍事の長」の足利尊氏と弟で「政事の長」の足利直義による二頭政治が行われたが,秩序を重んじ、伝統的権威との協調を模索する漸進的な足利直義と尊氏の執事で伝統的な権威や荘園制の枠組みを否定する急進的な高師直との対立をはじめ、双方を囲む支持者の対立から内部抗争が生じた。南朝軍との対立も複雑に絡み戦乱は全国に拡大し、南北朝の動乱の長期化の背景ともなった。


室町時代の守護と鎌倉時代の守護の相違点を説明せよ。

鎌倉時代の守護は軍事指揮権に過ぎないが、室町時代の守護は国人を統括し、荘園・公領を侵略するなどして領国支配を形成した。


奉公衆の内容と役割を説明せよ。

将軍の直臣で、室町幕府の直轄軍である。平時は在京して御所警固や将軍の護衛にあたる。一方、全国の御料所を預かり、守護の動向を牽制する役割も果たした


観応・応安の半済令の相違点を説明せよ。

観応の半済令●…期限を1年限り、対象地は近江・美濃・尾張で、本所領の年貢半分を徴収し、軍勢に分配することを許可した。

応安の半済令●…期限は無期限で、対象地は全国、年貢だけでなく下地の半分も対象とした。しかし、天皇家領・寺社一円領・殿下渡領などは対象外としたため、守護への特権というよりも天皇・上層の公家・大社寺の荘園を保護するためという性格が強かった


14 世紀以降、守護が世襲されるようになった(交代が難しくなった)事情を説明せよ。

長期化する動乱の中で、幕府は守護に所領紛争の際の処断権限や一定の所領を国内の武士たちに恩賞などとして与える権限を新たに与え、国内の武士も職権を拡大した守護と結ぶことで在地支配の強化や新たな所領の確保をした。このことにより守護と武士の間に主従関係が結ばれていき、守護の改替は難しくなった。(武士たちの被官化を進めていった。)


南北朝時代にかけて拡大した守護の機能と限界を説明せよ。

守護は従来の大犯三カ条に加えて、刈田狼藉取り締まり権・幕府の判決を強制執行する使節遵行権半済宛行権守護請段銭の賦課権などを獲得した。守護はこれらの権限を使って、国人の被官化、国衙機構の吸収などを推進し、守護領国制を確立した。しかし、室町幕府からの規制と、国内の反対勢力が国人一揆を結んで対抗したことで、安定した支配は構築できず、その諸国支配の完成は国人一揆を克服した戦国大名の登場を待たねばならなかった。


14 世紀後半の九州地方の権力の推移を説明せよ。

後醍醐天皇の子である懐良親王が征西将軍として 1361 年に大宰府を占拠し、一時九州全土を制圧したが、1371 年に幕府方の今川了俊が九州探題に就任すると、九州の南朝勢力は衰退した。強大化を嫌った足利義満により了俊は解任された。


今川・上杉・大内の各氏が在京を免除されることが多かった理由を説明せよ。

鎌倉府、九州探題の管轄地域との境界に任国をもち、今川・上杉は鎌倉公方の監視、大内は弱体な九州探題の代替を期待された。


上杉禅秀の乱(1416 年) を簡潔に説明せよ。

上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方の足利持氏に対して起こした反乱。関東管領の上杉氏憲は足利持氏と不和となり辞職し、将軍の足利義持や足利持氏に不満の関東の豪族とともに挙兵したが,幕府による足利持氏の支援によって敗れた。

永享の乱(1438年)を説明せよ。

鎌倉公方の足利持氏が室町幕府にそむいた事件。足利持氏は次期将軍の地位を期待していたが、管領の畠山満家らが引いた足利義持の後継を決めるためのくじ(義持は後継者を定めずに没した)によって天台座主青蓮院義円 =義教が次期将軍に決定したため、持氏は次第に反幕府的行動をとるようになり、不満として将軍足利義教に反抗し,これをいさめた関東管領の上杉憲実とも不和となったため、義教は今川氏,武田氏,小笠原氏らに持氏追討を命じた。この乱は後の結城合戦へと展開する。


結城合戦(1440 年)を簡潔に説明せよ。

下総の結城氏朝が鎌倉公方の足利持氏の遺子を擁して室町幕府に抗した戦い。結城氏朝は永享の乱後に上杉憲実が関東で実権を握ると,持氏の遺子の春王丸・安王丸を結城城に迎えて挙兵したが、幕府追討軍のため敗れた。


嘉吉の徳政一揆(1441年)の意義を説明せよ。

将軍足利義教赤松満祐に暗殺されるという事件(嘉吉の乱)が起こり,世情騒然としていたところ京都近郊の農民が一斉に蜂起した。幕府軍は赤松満祐追討のために播磨国にとどまっていたのに加え、一揆は諸社寺に立てこもり徳政を求めたため,幕府もついに屈服し,室町幕府の認める最初の徳政令が発布された


鎌倉府の内容と展開過程を説明せよ。

室町幕府は,伊豆・甲斐を含む関東 10 カ国を支配する地方機関として鎌倉府を設置した。長官の鎌倉公方は足利尊氏の子足利基氏の子孫,補佐する関東管領上杉氏が世襲し,京都の幕府同様の組織をもった。鎌倉公方が京都の将軍権力から自立する動きをみせたため,京都との関係を重視する関東管領としばしば対立し,京都の幕府とも緊張関係になった。15 世紀前半,永享の乱では鎌倉公方の足利持氏が関東管領上杉氏と対立して幕府に滅ぼされ,15 世紀後半,享徳の乱で鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分裂し、鎌倉府は事実上消滅した。


※関東管領→扇谷上杉家・山内上杉家

※堀越公方は北条早雲によって滅ぼされた(1493年)

鎌倉府の構成と室町幕府との関係を説明せよ。

東国支配を担った機関で、長官の鎌倉公方には足利基氏の子孫、その補佐役の関東管領には上杉氏が就任した。自立的・独立的な性格を持ち、永享の乱では足利持氏が将軍足利義教に討伐されるなど、しばしば京都の幕府と衝突した。


室町幕府の京都支配を概観せよ。

室町幕府は、京都市中の警察・裁判権を朝廷組織である検非違使庁から侍所の管轄に移行し、諸国に対する段銭の賦課・徴収権を掌握した。准三后の宣下を受け、将軍を辞した後には太政大臣に任じられるなど、摂関家を超え、天皇家に準ずる家格を獲得し、公家を近臣として私的に編成しながら所領相続をするなどして公家社会に君臨した。金融・商工業者に対する寺社や官衙による個別的な支配を抑制し、その支配秩序を利用して土倉役酒屋役などを納銭方に徴収させ、祇園社や北野社も個別に幕府の統制下にくり入れようと した。有力寺社による祈祷も統制下に置き、禅宗寺院に関しては五山・十刹の制を整えて保護・統制した。このように、武家・公家・寺社をまたぐ一元的な支配を作り上げた。


鎌倉~室町幕府における政所の職務の変化を説明せよ。

鎌倉幕府においては、幕府財政・鎌倉市政・訴訟処理をはじめとする庶務一般であった。しかし、室町幕府においては財政事務の管掌のみとなり、組織も縮小した。


足利義持の時代における安定のレールを築いた足利義満の施策3つを説明せよ。

南北朝の合体の斡旋や様々な権限の吸収、明徳の乱などの守護勢力削減策。


花の御所や北山殿を拠点とした足利義満の政策を説明せよ。

成人後に管領の細川頼之を廃し(康暦の政変)親政を開始した。京都の市政権や段銭の徴収権、大寺社の僧侶の任命権など、朝廷が保持していた権限を幕府に吸収した。南北朝合体や土岐康行山名氏清(明徳の乱)・大内義弘(応永の乱)の弾圧を行い、さらに外交権を掌握して倭寇禁圧要求に応じて朝鮮との国交を開き、明には正使である祖阿や副使の肥富を派遣して国交を求め、その結果、明から日本国王に任じられ、勘合貿易を開始するなど明との国交回復に成功して、幕府権力を確立した。朝儀にも精通し、太政大臣として朝廷内でも権力を奮い、公武の両権を握ったが、それも辞して出家し、法皇に準する扱いを受けて政治を行った。出家後は京都北山に金閣を建て、いわゆる北山文化を開花させた。

足利義満は室町幕府3代将軍として全盛期を現出しました
引用元:https://www.guidoor.jp/media/ashikaga-yoshinori/


応仁・文明の乱の背景と内容と影響を説明せよ。

室町時代の武士社会は単独相続が中心であったため家督争いが多発していたが、守護大名家などの家督継承は惣領の判断に加え一族や家臣の支持が尊重された一方で将軍の意向が強く反映されていたために安定的に継承されていた。しかし、嘉吉の変を契機に将軍の権力が弱体化したことで、武力抗争や有力家臣の意向などによって家督が決まる傾向が強まり、守護が将軍の判断を覆したりすることもあり、多くの守護大名家で家督争いが複雑化・激化して応仁・文明の乱が誘発された。

畠山・斯波の両管領家、将軍足利義政の弟義視と、子の義尚を推す妻の日野富子の間に生じた家督争い、細川勝元と山名持豊の争いが結びついて発生し、戦場となった京都が荒廃し、幕府の権威は失墜して在地武士層の勢力が拡大し、戦国大名の領国制が大きく展開されることになった。

※足利義教→籤引きの結果、将軍の後継になった。


応仁の乱後、戦国大名が文化人を保護した背景を説明せよ。

戦国大名は戦乱で荒廃した京都から流出する文化を吸収することで領国の文化を発展させ、同時に朝廷や幕府といった中央集権との政治的な交流を保つために仲介者として文化人を保護した。


戦国大名は、どのような論理で両国の支配者としての地位を確立したか。

守護出身の戦国大名は、任命権を持つ室町幕府の権威を利用して領国支配を始めたが、戦乱の中で公権力として租税や軍役負担を賦課するために領民の生活を安定させて支持を得る必要もあった。


戦国大名が城下町に家臣を住まわせた理由とその背景を説明せよ。

検地を通して武士・百姓関係を確定し直して兵農分離を進めた。武士身分として家臣に編成した人々を城下町に集住させ、直接監視下に置いて統制を強化しつつ迅速な軍事動員を確保するとともに、在地から彼らを切り離すことで百姓の直接的支配を志向した。


一乗谷遺跡の性格を説明せよ。

一乗谷遺跡は越前の戦国大名である朝倉氏の城下町として建設が進められた。家臣団の屋敷群・商工業者の屋敷や多くの生活遺物が発掘され、外部からの侵入を防ぐ城壁や戸口なども発掘され、防御機能も高かった。

※城下町…

小田原:北条氏

山口:大内氏

鹿児島:島津氏

府中(甲斐):武田氏

府中(駿河):今川氏

府内(豊後):大友氏

春日山(越後):上杉氏