社会経済史:近現代

戦後の産業構造内の重工業部門と軽工業部門のアンバランスとは何かを説明せよ。また、それらの部門の後代への影響についても触れよ。

戦時下の民需工場から軍需工場への工場転用の結果、拡充された重化学工業分野では、空襲の被害を受けながらも、敗戦時に残存生産設備能力も大きく、賠償方針の緩和によって利用可能になり、一時的には兵器生産の消滅で後退するが、後の重工業が発展する基礎的な条件となった。

一方で民需品生産に必要な軽工業分野では大幅な生産能力の低下が生じ、戦後復興期の激しいインフレをもたらす物不足の主要な原因の一つであったが、この分野では激しい新規参入を伴う企業間競争が展開し、その間に産業発展の基礎がつくられることになり、重化学工業の基盤ともなった。

【日本経済史 武田晴人 著 を参照】

戦後復興期の民需と設備投資の特徴を説明せよ。

民需…戦時中に日々の消費が抑制された反動とも言える繰越需要により戦後復興期に強い需要圧力が発生した。

設備投資…石炭工業を典型として各産業部門の設備更新が遅れ、将来への見通しの不透明さ、企業収益の悪化に伴う資金調達の難しさなどから、復金融資などの政府の強いバックアップが無いと発生せず、投資需要拡大は全般的に遅れていた。

【日本経済史 武田晴人 著 を参照】

戦後において石炭生産の落ち込みが目立った理由を説明せよ。

朝鮮半島や中国か強制的に連行されたり、捕虜として連れてこられたり、半強制的に募集された人々が戦時の増産に従事していた。戦後には総司令部によりこれらの人々が本国に帰還させられ、従来の労働力のかなりの部分が失われ、石炭生産は減少した。

戦後の人々はどのように食糧を得ていたか。

食糧管理法に基づく配給制度であったが、米やそれに代わる雑穀やサツマイモなどの代用食の配給も不足しがちで遅配欠配が日常化した。そのため、都市部の人々は農村への買い出しや闇買によって飢えをしのいだ。

財閥が戦前に軍国主義に果たしていた役割を、低賃金構造にも着目しながら「資金提供以外」で説明せよ。

政治的な面…軍国主義に対抗する勢力としての中産階級の勃興をおさえる機能

経済的な面…労働運動の抑圧を背景として労働者に低賃金を強制して国内市場を狭隘にし、輸出の重要性を高めて帝国主義的支配への衝動をもたらした。

何故、寄生地主制は軍国主義の温床とされたのかを説明せよ。

背景として軍部と財閥が結託して侵略戦争を行ったとGHQは判断した。つまり軍部の資金源が三井・三菱といった財閥であり,財閥の用心棒的役割が軍部であった。金融恐慌や昭和恐慌を通じて政党と財閥が癒着し,政党や財閥への批判が高まっていき中で、軍部は、当初は日産や日窒などの新興財閥と結びついて朝鮮や満州への進出を試みるが,新興財閥は資金力が弱く,結局は三井や三菱といった大財閥が軍部と結びついていた。財閥は,株式会社という性格上株主が必要であったが,その株主の多くが寄生地主制で小作料を溜め込んだ地主であった。つまり,財閥を資金源で支えたのは農村の地主であり,彼らが財閥系の企業の株を購入することによって,財閥に資金を提供していた。また,貧富の差を固定した寄生地主制の下での貧しい農家では,長男であれば僅かな土地あるいは小作で何とか生活できるが,次男・三男となると東京や大阪などの都市の工場などへ出稼ぎに行かざるをえなかったが,深刻な恐慌の最中で都市にも仕事が無かったため、行き着く先は軍隊であった。ゆえに、寄生地主制は軍国主義の温床となっていた。

第一次農地改革の内容を説明せよ。

日中戦争下に制定されていた農地調整法の改正という形をとり、小作料は金納化され、不在地主の全貸付地、平均5町歩を超える在村地主の貸付地は開放の対象となったが、総司令部からはなお不十分と見なされた。

農地改革の目的と第二次農地改革の内容について、その際に制定・再改正された2つの法律名を交えながら説明せよ。またそれによる社会的影響も説明せよ。

軍国主義の温床とされた寄生地主制の解体を目的に、自作農創設特別措置法を制定し、山林・原野は除外されて山林地主は残存したもの、不在地主の全小作地、北海道を除く在村地主の1町歩を超える小作地を国家が強制的に買収し、小作人に売却した。

また、農地調整法を再改正して農地の買収と売却にあたる各市町村の農地委員会も小作人に有利な構成に変更(小作人5人・地主3人・自作農2人)した。これにより、農家の零細経営問題は未解決のまま残されたものの自作農が広範に創出され、地主は小作地を売却しなければならず、地価が元々低めに設定されていたことに加え、インフレの進行によりさらに安くなり、大地主たちは従来の経済力と社会的威信を失った。また、残った小作地については小作料は公定の定額金納とされた。農地改革の結果、大幅な収穫量増となり、農民の生活水準が上昇して購買力も上昇し、国内消費市場が拡大した。

財閥解体の過程を占領政策の転換まで説明せよ。また、それは日本経済にとってどのような影響を及ぼしたかも説明せよ。

GHQは持株会社解体指令を発し、三井・三菱・住友・安田をはじめとする15財閥の資産凍結を実施し,次いで財閥家族や持株会社が所有していた株式などの有価証券を持株会社整理委員会に譲渡させて一般に売却することで株式の民主化を進め,さらに財閥家族とその関係者を会社役員から追放することで財閥の人的支配の排除を進め、並行して公職追放により財界人を役員から退陣させ、諸企業の経営陣を一新した。そして,独占禁止法で持株会社やカルテルなどを禁止し、過度経済力集中排除法で巨大独占企業の分割をはかった。

しかし、冷戦の進行を背景としてGHQの対日占領政策が非軍事化から経済自立の促進に転換して賠償や集中排除政策の緩和の機運が高まったことから財閥解体は不徹底に終わり、独占禁止法もしばしば改正され,法人による株式保有などが認められて独占の制限が緩められた。これらのことにより、企業間競争が呼び起こされ、分割を免れた旧財閥系銀行を中核とする諸企業が株式持合などによって結びつき,企業集団が形成された。不徹底ではあったものの、財閥による人的・資本的な関係を除去した財閥解体は、経営者の若返りと競争的産業体制および系列企業の自立化を実現し、戦後の日本企業の革新的企業活動の前提条件をつくったといえる。

敗戦後の労働者への変革を、背景とともに簡潔に説明せよ。また、それによる社会的影響も説明せよ。

労働組合の結成奨励と労働基本権の確立とにより、戦前に国内市場を狭隘にしたことで日本の対外輸出・進出の原因となっていた低賃金構造を是正し、国民の所得水準の向上を図った

五大改革指令において労働者の団結権の確立を求め、民主化政策により労働組合法が制定されて労働組合が初めて公認されたことで,極度の物不足などにともなうインフレが国民生活を圧迫していたことを背景として,労働組合運動は急速に高揚し、戦前の労働総同盟の系譜をひく総同盟や産別会議などに組織されて活発な運動を展開した。また、労働関係の公正な調整をはかり,労働争議を予防・解決して,産業の平和を維持することを目的とした労働関係調整法、週48時間労働・女性及び年少者の深夜就業禁止など、労働条件の最低基準を規定した労働基準法が制定された。また、片山哲内閣のもとで労働省も設立された。

労働三権→団結権,団体交渉権,争議権

労働三法→労働組合法・労働基準法・労働関係調整法

戦後の、全日本産業別労働組合会議(産別)と日本労働組合総同盟(総同盟)の相違点を2つ説明せよ。

産別は産業別に統合された労働組合の全国組織で、左翼系の主張・活動を行ったが、総同盟は都道府県ごとに連合した労働組合の全国組織で、産別に対抗して反共の立場をとった。

三・三物価体系(物価統制令)について目的とその影響を簡潔に説明せよ。

戦後インフレ対策として公布施行されたポツダム勅令で、第二次世界大戦中の価格等統制令にかわって、諸物価を統制し、暴利や不当取引を取り締まることを目的とした。これにより、戦前基準年に対して物価が10倍、賃金が5倍に算定されたため、都市勤労者は窮乏化し、農村への買い出しや公定ルートに乗らぬ闇物資を購入するため「たけのこ生活」を余儀なくされた。

金融緊急措置令の背景および内容と結果について説明せよ。

戦争終結とともに政府による軍需品の未払代金や軍人の退職金などの臨時軍事費での支払い分が決済されたことや、戦時に消費が抑制されていたことに起因する反動的需要の高まりにともなう預貯金引出による換物行動が激化したこと、さらには日銀の対民間貸出の増加に伴う日銀券の増発により市場への通貨供給量が急増し、さらに極度の物不足も相まって、生活物資を中心とする物価が急速に上昇する悪性のインフレが発生した。

そこで、金融緊急措置令により国民の手持ちの現金を全部預金させ、新円を発行して一世帯当たり500円だけを現金で渡すことにして引き出しを制限させ、貨幣流通量を抑制しようとしたが、効果は長続きしなかった。

傾斜生産方式を構想した機関名とその内容と副作用を説明せよ。

有沢広巳らから成る石炭小委員会。傾斜生産方式は第1次吉田内閣が採用し,片山・芦田内閣が継続した経済復興策で,生産力回復を目的として、復興金融金庫の融資などを手段として基幹産業部門である石炭・鉄鋼などに資金と資材を集中的に投下する政策であった。石炭増産には成功したが復金インフレを招いた。

占領政策の転換に伴う経済改革・労働改革の変化と新たな経済方策を説明せよ。

非軍事化・民主化から、西側陣営の一員として日本の経済自立を促す方針に転換した企業分割の緩和や、2.1ゼネストへの直接介入、官公労働組合の三月闘争への弾圧に加え公務員の争議権を否認する政令201号(後に国家公務員法改正によって国内法化)が実施され、また、経済安定九原則ドッジ=ラインシャウプ勧告による経済復興が図られた。

占領政策の転換を説明せよ。

1948年末、予算の均衡・徴税の強化・賃金の安定などの経済安定九原則を指令する一方、国家公務員法を改正し、官公庁労働者のスト権を剥奪し、1949年には超均衡予算の強行でインフレの進行を抑え、財閥解体を中止して独占的な大企業を中心に日本経済が再建される土台を固めた。1950年に朝鮮戦争のためにアメリカ軍が出動した後、警察予備隊を創設し、共産党幹部の公職追放と、官公庁や報道機関からの共産主義者のレッド=パージを進めて、日本を反共の基地とした。

二・一ゼネストの内容と意義

第 2 次世界大戦後の労働運動は高揚の頂点に達しており、インフレーションに悩む官公庁労働者は国鉄・全逓の二大単組を有する全官公庁労働組合共同闘争委員会を結成し、賃上げ,最低賃金制の確立などの要求を政府に提出したが,政府はこれを全面的に拒否した。吉田首相が労働者に対して「不逞の輩」と放言したため労働側を一層硬化させ全労働者階級の統一行動へと発展させ、全日本産業別労働組合会議 (産別会議) ,日本労働組合総同盟 (総同盟) ,官公庁労働組合の共同闘争体制ができあがり,ゼネスト宣言を発した。しかし、スト突入前日にマッカーサーの中止命令によって二・一ゼネストは中止された。連合国総司令部 GHQ が労働運動に正面から介入した初めての事例で,占領政策はこれを契機に労働運動の抑制に移った。また、この闘争を通じて総同盟、産別会議を含む全労連が結成され、労働戦線統一が一歩前進した。

頭を抱え込む伊井弥四郎 引用元:さとるの「日々彩々」 : 皇居目広場に40万人が集結「吉田閣打倒、危機突破国民大会」 (kyuki2013.blogspot.com)

伊井弥四郎→「一歩後退二歩前進,労働者農民ばんざい」
(ゼネスト中止指令の結びのことば)

生産管理闘争の内容と背景 を説明せよ。

労働者が使用者の指揮・監督を拒否し、工場施設・資材などを把握して生産を管理し、経営を続行する争議戦術。第二次大戦後の日本では、急激に進行するインフレで物価が騰貴したが、資本家は生産サボタージュを行って資材を隠匿し、その値上りによって利得を図ろうとしたので、労働者は単なるストライキでは大量解雇や工場閉鎖に対抗したり、物価に見合う賃金引上げを得て生活を防衛することができなかった。しかし、政府が生産管理闘争を違法・不当な行為として、争議に伴う暴行・脅迫などとともに取り締まることを明らかにすると、生産管理闘争には弾圧が加えられるようになり次第に下火になり、ストライキがこれに代わるようになった。

経済安定九原則の内容を説明せよ。

総合予算の真の均衡を図ること②徴税計画を促進強化すること、③信用拡張に限定を設けること、④賃金を安定すること、⑤物価統制を強化すること、⑥外国為替管理を強化すること、⑧輸出増加のための資材割当て、配給制度を能率的にすること、⑨重要国産原料、製品を増産すること、⑩食糧集荷計画の能率向上を図ること。

近代以降における三大デフレ政策を、それによる社会的影響も考慮して説明せよ。

松方デフレ●…19世紀後半、西南戦争の戦費のために不換紙幣が増発され、さらに国立銀行も不換紙幣を増発したことで激しいインフレが発生した。松方正義は増税によって歳入の増加を図り、軍事費以外の歳出を緊縮して歳入の余剰で不換紙幣を処分した。この結果、物価の下落と実質的な地租増大により自作農が土地を手放して寄生地主制が発展した。

井上財政●…1920年代の度重なる恐慌を政府は日銀券を増発して処理したため、インフレの傾向が強まっていた。そこで井上準之助は財政緊縮、産業合理化、旧平価による金解禁を行い経済界の抜本的整理を図った。しかし世界恐慌の影響もあり不況が深刻化し、昭和恐慌に陥った。この結果、労働争議や小作争議が激増し、政党や財閥への批判が高まり、テロも起こった。

ドッジ=ライン●…戦後行われた傾斜生産方式では赤字財政による巨額の資金投入が行われ、インフレが進行した。GHQによる占領政策の転換により、日本を東側陣営への防壁とするために日本を復興させようとする考えが起こり、インフレを抑えて国内経済を国際経済に結び付けるために経済安定九原則がアメリカで採択され、それを実現させるためにデトロイト銀行頭取のドッジが来日し、ドッジ=ラインに基づいた超均衡政策を行い、単一為替レートを設定して円の価値を安定させ、補助金廃止によって市場メカニズムを回復させて合理化を促進すること、政府貯蓄と対日援助で民間投資資金を供給して生産を拡大させ、復興金融公庫の廃止と見返り資金勘定の創設,傾斜生産方式から集中生産方式への転換,封鎖経済体制から開放経済体制への移行などの諸施策により日本経済をドル主導の国際経済と結び付け、国際競争のなかで輸出振興を図った。そして、1ドル=360円という単一為替レートが設定された。さらにコロンビア大学の財政学者であったシャウプを団長とする税制の専門家が来日し、シャウプ勧告により直接税中心主義を採用し、地方税を独立税とするなどの税制改革も実施され、ドッジ=ラインに基づく財政運営を税制面から裏付けた。しかしインフレは収束したものの不況が深刻化(安定恐慌)し、中小企業の倒産・失業者が増大し、下山定則国鉄総裁が怪死した下山事件、無人電車が暴走した三鷹事件、進行妨害により列車が転覆した松川事件が発生し、国鉄労働組合・日本共産党によるものと発表されて労働側が大きな打撃を受けた。その一方、大企業の再建の基礎がつくられ、日本経済を再建することができた。

ドッジ・ライン後の産業合理化を促進させた政策(資本蓄積促進的政策)を具体的に説明せよ。

復興金融金庫を改組して設立された日本開発銀行により、石炭業・電力業・海運業・鉄鋼業に重点的に資金を供給し、産業合理化を資金面から推進し、日本輸出銀行も輸出関連の企業向け融資を行い、輸出振興に貢献した。また、産業合理化審議会は企業合理化促進法を制定し、租税の特別免除、特別償却制度の新設による産業技術の向上と資本蓄積の推進が図られた(これは一方でシャウプ税制の課税の公平の原則を撤退させた)。また鉄鋼業・石炭業・電力業などの分野で3年から5年の近代化計画が作成され、各社が競い合うようにして技術導入を基礎に産業合理化が推進された。また、財界の要望に応えて独占禁止法が改正されて、株式の保有・役員の兼任や企業合併に関する制限を緩和し、不況カルテルと合理化カルテルを認めた

【日本経済史 武田晴人 著 参照】

戦後の海運業・造船業再建のための政策と電力再編成問題について説明せよ。

軍需の消滅と戦争による打撃を受けた海運業や造船業の窮乏を打開するため、計画造船が開始され、海運企業に長期低利の財政基金を供給し、船舶を発注させて造船業の操業を確保させた。また、過度経済力集中排除法の指定を受けた日本発送電や9配電会社の再編成問題は、ポツダム政令によって地域別9電力会社が発足したことで決着し、民有・民営化によって積極的に外国技術や外資を導入し、大規模水力発電所や大容量火力発電所を建設した。また、特殊法人の電源開発株式会社も大規模水力開発に成果を上げた。

【日本経済史 武田晴人 著 参照】

1946年~1950年にかけて、農家戸数が増加した理由を説明せよ。

戦後は軍需産業の停止により増加した失業者や引揚者の帰郷などで農家戸数は増加した。

1940年から1955年までの間の東京府(東京都)の人口の増減を説明せよ。

太平洋戦争勃発後には、戦況の悪化が進むにつれて軍隊動員による内地人口減少や本土空襲の激化に伴う軍需工場移転・疎開,空襲による焼死により人口が急減した。戦後には戦地や疎開先からの復員や引き揚げ、経済復興に伴う地方からの人口流入、後の高度経済成長の開始に伴う東京府への人口・企業集中、農村からの若年労働者の流入、ベビーブームに象徴される高い合計特殊出生率、衛生環境整備による死亡率低下などを背景として人口が増加した。

戦後の日本経済が、重化学工業製品の輸出によって必要な外貨を獲得する道を取らざるを得なかった理由を説明せよ。

アジア諸国の綿製品自給能力が高まり、生糸の代替品の合成繊維が普及して、繊維製品の輸出で多額の外貨を獲得するという戦前の方式は継続することが出来なくなった。また、原材料・燃料の資源地であった植民地も喪失した。

【概説日本経済史 三和良一 著 を参照】

経済安定本部を説明せよ。

戦後の経済安定のため、計画立案と関係行政機関の事務調整を目的として設置された臨時行政機関。経済復興計画基本方針などを立案し,傾斜生産方式の実施を推進したが、ドッジ・ラインによる統制解除で影響力は弱まった。1952 年に経済審議庁(経済企画庁)に移行した。

日本的経営を簡潔に説明せよ。

終身雇用制・年功序列賃金制・労使協調主義・法人資本主義(企業自体が法人株主として利益を追求)

朝鮮戦争による日本への経済・社会的影響を説明せよ。

ドッジラインの実施によって安定恐慌に陥っていたが、朝鮮戦争が勃発し,日本占領にあたっていたアメリカ軍が国連軍として朝鮮半島へ出動したのにともない,アメリカ軍は日本で繊維製品を含む軍需品を調達し,武器やトラックなどの修理を行ったことを背景として特需景気が生じた。特需がドルで支払われたことの意味は大きく、これまで外貨不足のために必要物資が十分に輸入できなかった時期だけに、ドル収入をもたらす特需の効果は絶大であった。また、この頃世界景気も好況に転じており、日本からの繊維品・金属・機械などの輸出が伸びていき、「糸へん景気」・「金へん景気」が生じた。このことは、1ドルワイシャツの対米大量輸出で、日米貿易摩擦の前哨ともいうべき状況が生じた一方で、工業生産が戦前水準を上回り、さらに合理化が促進されて設備が更新され,電力の安定供給をめざして水力発電所の建設が進み,中東での油田開発を背景に石油の貿易取引が増大して日本経済が高度成長へ向かう前提が整い始めた。

基地反対闘争の具体的な事件3つを書け。また基地反対闘争の性格を簡潔に説明せよ。

内灘事件。砂川事件。富士山麓基地反対闘争。朝鮮戦争期からこの基地拡張期にかけて,いわゆる基地問題が各分野にわたって表面化した。多くの場合,基地が耕地の接収により設置・拡張され,かつアジアでの戦争と結びついて利用されたため,土地取上げ反対運動と安保反対闘争・ベトナム反戦・核兵器反対・平和運動とが重なって基地反対闘争がおこった。

神武景気(1954年~57年)の背景と内容を、国際情勢と絡めて説明

世界景気の好転を背景として輸出が急激に伸び始め、国際収支の危機も解消した。スエズ戦争によって国際物価や海上運賃が高騰するという偶然にも支えられて、造船・鉄鋼・電気機械・石油化学など重化学工業を中心とした設備投資の時代を迎えた。「三種の神器」といわれた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の家庭電化ブームの端緒を開き、大衆消費社会形成の糸口ともなり、日本経済は神武景気以降に高度経済軌道に乗った。経済活動が戦前の水準を超えたことから,56年版の『経済白書』では「もはや戦後ではない」という記述がなされた。しかし、輸入急増によって外貨危機が生じ、国際商品相場と海上運賃の反落もあって国際収支は一挙に悪化して「なべ底不況」が訪れた。

「もはや戦後ではない」というフレーズが登場した年次経済報告の名称と作成した機関名を記せ。また、そのフレーズが意味する内容を説明せよ。

「経済白書」。経済企画庁。それまでの経済成長を牽引してきた戦後の復興需要・経済の回復による浮揚力が落ち着きを見せ、回復による成長は終焉したため、今後の経済成長は社会の近代化によって支えられるものであり、その近代化もまた経済の安定した成長によって成し遂げられることを宣言するものであった。戦前水準への復帰を果たした達成感だけでなく、今後は厳しい時代に突入するという不安感も入り混じっていた。

全文→昭和31年度 年次経済報告 (cao.go.jp)

春闘を中心的に展開した労働組合を書け。また春闘の内容を段階的な変遷を踏まえて説明せよ。

総評。企業ごとの賃上げ交渉の時期を春季に集中させ,業績がよい企業が高い賃金相場を確保し,それを他企業へ波及させようとするもので,労働者の所得水準向上に大きな役割を果たした。1964年には、池田首相と太田薫総評議長が公務員給与を民間に準じることに合意し、労働者の賃金上昇に貢献した。このことで、春闘は政治的にも認められ、日本的な賃金決定方式として制度化された。70年代からは賃上げのみでなく、退職後の所得保障など政策面の要求が登場し、また石油危機後の74年には、年金等受給者の所得維持が大きく掲げられ、以後の春闘は国民春闘と呼ばれた。

総評の内容と性格の変遷を説明せよ。

1950 年に、産別会議を脱退した組合,中立組合,総同盟などが結集して組織されたナショナル・センターである。穏健な立場として出発したが、のちに左派が主導権を握り平和四原則を採択,破壊活動防止法反対闘争などを行い,労働運動の中心的存在として急進化し右派が脱退(全労会議)し、以後は社会党と密接な連係を保った。政治主義的な傾向を強め、安保闘争、春闘,三池争議などを主導し,同盟と並ぶ2大組織をなしたが、三池争議の敗北後は経済闘争を運動の中心に据えた。そして、1989 年に解散して連合に合流した。

明治期~戦後期に至る、日本型独占資本の形成・発展の推移を説明せよ。

明治期においては、官営事業払い下げを受けた政商は、政府の保護の下、持株会社の傘下にコンツェルンを形成して財閥へと成長した。昭和期には、恐慌を通して五大銀行が金融界を支配し、三井財閥は立憲政友会、三菱財閥は立憲民政党と密接な関係をもち、新興財閥も軍と結んで植民地に進出した。敗戦後には、占領軍は、海外市場を求めてアジア侵略を推進した勢力と見なして財閥解体を進めたが、占領政策の転換により株式持合などが緩和され、分割を免れた財閥系銀行を中心に企業集団が形成された。

企業集団の特徴を説明せよ。

相互持ち合いによって安定株主を形成し、経営者が高い自律性を持つようになった。また、労働組合が企業別組合であり、従業員は終身雇用と年功賃金という制度の元で、大企業では比較的安定した地位を得て、生産性向上運動に協力するなど従業員の企業経営への参加意識が高く、生産現場のコスト意識が高く、技術革新に伴う配置転換の必要などにも柔軟に対応できた。また、下請け関係なども含めて緊密な企業間関係が比較的長期に維持される傾向にあり、一体となって最終製品のコスト削減を試みる面があった。さらにメインバンクと呼ばれる主取引金融機関があり、運転資金調達に関してメインバンクを中核とする協調融資が重要な役割を果たし、社長会などの人的結合の下で協調的取引を行った。

【高度成長 武田晴人 著 を参照】

スプロール化を簡潔に説明せよ。

電気・ガス・水道などのインフラ整備を伴わず、無秩序に郊外へ向けて宅地開発が進むこと。

文化財保護運動の背景を説明せよ。

高度経済成長や列島改造といった国家主導の大規模開発の進行に伴う埋蔵文化財の大量破壊に対処するため。

高度経済成長の弊害3つ 説明せよ。

●公害問題…スモッグなどの大気汚染、水銀やカドミウム、PCBによる汚染、騒音や振動などの環境破壊など。

●都市問題…都市への企業と人口の集中によって引き起こされた生産力と生活水準の大きな格差、生活環境の劣悪さ、住宅難、交通戦争などの交通事故の激増、通勤地獄など。

●過疎問題…都市への人口集中をもたらした産業構造の転換に伴う、若年労働力の農村からの流出、人口減少と高齢化の急速な進行、共同体の崩壊など。

高度経済成長期の公害問題に対する政府の政策を説明せよ。

急速な工業化で大気汚染・水質汚濁・騒音・地盤沈下などが続発しており、1960年代には被害者が企業を告発した四大公害訴訟(水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく)が行われ、原告側勝利の判決が相次いでいた。 1967年に公害対策基本法を公布し、大気汚染・水質汚濁など7種の公害を規制して事業者・国・自治体の責任を明らかにし、1971年に環境庁を発足させて公害行政と環境保全施策の一本化を図った。

高度経済成長による国民生活の変化を簡潔に説明せよ。

大衆消費社会が形成され、耐久消費財の普及、中流意識の広まりなど生活様式と生活意識の均質化が進み、高等教育への進学率が上昇した。一方、公害問題が深刻化すると共に、大都市圏への大規模な人口集中が生じ、都市の過密化・農山漁村の過疎化が進んだ。

高度経済成長期の教育において起きた変化を説明せよ。

敗戦後は高等学校や大学への進学率は低かったが、高度経済成長にともない、国民の所得水準上昇も背景として中流意識が広がった。教育熱が高揚して高等学校への進学が一般化し、大学への進学率も上昇して高等教育の大衆化が生起した。

高度経済成長によって、労働者の意識はどのように変化したか 説明せよ。

労働運動を通じて労働環境の改善や賃金上昇や生活の安定など、政治変革というよりもよる生活向上を求めるようになった。

スト権ストの内容と背景と帰結を説明せよ。

法律で争議行為を禁止されている公務員および公共企業体職員の争議権を回復するための労働組合の闘争である。1945 年制定の労働組合法においては公務員にも争議権が認められていたが,政令 201 号はすべての公務員の争議行為を禁止し,続いて改正施行された国家公務員法は,職員団体の結成は認めたが,その構成員を職員に限定し,団体交渉権を制限し,かつ争議行為を全面一律に禁止していた。1970年代に入りスト権回復運動が高まり、国鉄が全面ストップするなど国民生活に大きな影響を与えたが、労働側に成果は得られず、その後は守勢に転じた。

戦後の市民運動の例を1つ挙げよ。また、そのような戦後の市民運動の特徴およびそれが生じた社会的背景を説明せよ。

べ平連による反戦運動。高度経済成長が進み、中流意識も広がった一方で、生活環境の悪化、自然環境の破壊、過密化・過疎化、廃棄物の著増、資源・エネルギーの乱用、人間疎外・個人解体などの、多くの深刻な問題が現出していた。これを背景として、市民運動は展開されるが、特定の職種や職場で働いている人々を基盤に展開される労働運動とは区別され、民主主義を基礎として個人の自主的な参加を前提に、階層の相違を超えて流動的で柔軟な組織を通して非政治的な市民による非党派的な運動であった。

1950年代以降に農業人口が減少した背景を説明せよ。

高度経済成長に伴い第2・3次産業が発達し、農村から都市へと若年労働力が流出した。さらに政府が農工間格差の是正を目的に,零細農家の離農を促進するとともに,経営規模が大きく生産性の高い自立農家の育成をめざした農業基本法を制定して農業構造改善を進めるなどしたため農業の生産力は向上したものの,農業の効率化により兼業農家の増加が進み,農業就業人口が激減した。

マイホーム主義を戦前の市民意識と比較しながらその弊害も含めて説明せよ。

大正期の都市社会に現われた「滅私奉公」の市民意識とは異なり、「滅公奉私」という私生活優先の生活意識と生活様式のことで、個と社会との関係性の希薄化を示すものとして危惧されもした。

岩戸景気(1958 年 7 月から 1961 年 12 月)の背景を説明せよ。

日ソ国交回復と国連への加入が実現し,国際社会に日本が正式に復帰したことにより,貿易が拡大した。さらに、活発な技術革新により「投資が投資を呼ぶ」という設備投資主導の景気拡大が起こり、皇太子明仁の成婚を機に白黒テレビが爆発的に売れて,「三種の神器」と呼ばれた家庭用電気機器(テレビジョン,電気冷蔵庫,電気洗濯機)が急速に普及した。また、1960 年に国民所得倍増計画が発表され,本格的な高度経済成長の時代に突入することになった。

男性工業労働者の実質賃金が、1930 年代に下降、1960 年代に上昇した要因を説明せよ。

●1930 年代…昭和恐慌下の産業合理化や、日中戦争期の産業報国会の編成により労働組合が後退し、賃金が抑制されたうえ、広田内閣以降の軍事インフレのため実質賃金は下降した。

●1960 年代…高度経済成長に伴い男性労働者が不足し、春闘を通じて所得配分が進んだことで実質賃金は急上昇した。

高度成長時代における景気循環の特徴について、前期と後期を分けて説明せよ。

●第一次高度経済成長…主に重化学工業を中心とする技術革新投資を基盤とした設備投資主導型の景気循環を特徴としており、民間設備投資・内需も活発であった。しかし、貿易収支は赤字基調であり、「国際収支の天井」ともいわれる外貨保有高の上限の問題で、「なべ底不況」などのように、定期的に生産減少を伴わざるを得なかった。

●1965年以降の第二次高度経済成長…開放経済体制に移行し、輸出の急伸長による経済収支黒字が定着したことで「国際収支の天井」が取り除かれてベトナム特需など外需=輸出が主導し、また公共投資などの政府財政支出も増加すると共に、国民の所得水準向上および中流意識の高揚を背景とした個人消費の拡大を背景として、主に民間設備投資の拡大を基盤とした景気循環が生じた。

明治時代から高度経済成長期における20歳男子の身長推移を説明せよ。

●明治初期…文明開化の風潮の下で牛鍋の流行を端緒に肉食の習慣が始まり、徴兵制度を通じて米食が全国に広まった。

●第一次世界大戦期…経済の発展は、工業労働者の増加と人口の都市集中を通じて米の消費量を増大させた。また、保健衛生の進展、社会環境の改善に伴って、大正末期から昭和初期にかけて身長が高くなった。

●第二次世界大戦中及び終戦直後…食糧事情の窮迫と生活環境の悪化の影響を受けて身長は急速に低下した。

●農地改革後…米の収穫量が増加し、高度経済成長によって食生活も豊かになり、肉類や乳製品などが普及したこともあり、身長は著しく高くなった。


高度成長期の重化学工業と 1930 年代の重化学工業を比較せよ。

●1930 年代…満州事変以降の軍事費増額を中心とする積極財政と低為替による保護貿易策のもと,主に軍需産業を中心として進展した。

●高度経済成長期…国内消費市場の拡大と安価な石油輸入を背景として主に耐久消費財産業,石油化学工業など民需部門を中心に発展し,技術革新・設備投資が進んで国際競争力が強化され,輸出を拡大した。

戦後改革の、後の高度成長への好影響を説明せよ。

農地改革において多くの自作農が創設され,農家所得水準が向上し、さらに労働改革において労働者の権利が保証されたことは,戦前の国内市場を狭隘にしていた低賃金構造が改善されて国内消費市場の拡大をもたらした。また。財閥解体により財閥家族・財閥本社による支配が排除されたことは,系列企業の自立化が進み,企業間の自由競争を生む前提条件になった。

高度成長期の就業構造の変化の特徴を説明せよ。

農林漁業など第一次産業従事者が激減する一方。製造業など第二次産業やサービスなど第三次産業従事者の割合が増大した。

日本生産性本部を簡潔に説明せよ。

QCサークル運動などの生産性向上運動を推進する中心機関で、「労使協調・失業防止・成果の公正配分」という生産性3原則を掲げる。

QCサークル運動(TQC)の内容及びそれが果たした意義を説明せよ。

同じ職場の中で、品質管理活動を自主的に進める少人数集団により行われ、全員がサークルリーダー、書記などの役割を分担し、職場の問題点の改善や、よい状態を維持するための管理活動を、QC手法を活用して自主的に実践するもの。これは労働者の企業への帰属意識を高める機能を果たし、日本経済の国際競争力の源泉の1つとなるとともに、第二次石油危機の際などには高品質で安価な製品を経済的に低迷する各国に提供することを可能にして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称されたように日本をものづくり大国、経済大国へと押し上げた。

※概念はアメリカからの輸入だが、日本的経営に適するように併用していった。

※バブル崩壊後にはTQCをさらに発展させ、経営戦略としての性格も持つTQMも浸透し始めた。

1964 年に結成された「同盟」を説明せよ。

全労会議と総同盟とが統合して結成された労働組合の全国組織であり、総評に対抗し、民間産業が中心となった。労使協調・反共主義をとり,生産性向上運動に積極的に協力する新潮流が形成されたが、連合の発足により解散した。

新産業都市とは何か説明せよ。

1962年制定の「新産業都市建設促進法」によって指定された区域で、地域格差の是正、大都市への人口や産業の集中化防止、都市機能の地方への分散などを目的とする。

全国総合開発計画 について説明せよ。

自民党がかねてから重視し続けてきた政策であり、全国総合開発法に基づき,経済成長の結果生じる地域間格差,過疎と過密の進展や東京一極集中を是正し、国土の均衡ある開発のために策定された国の計画。

「全総」…新工業地帯形成に重点をおいた拠点開発方式を採用。
「新全総」…新幹線交通ネットワークや大規模産業開発プロジェクト。
「三全総」…生活環境整備に重点をおいた定住圏構想。
「四全総」…多極分散型国土形成と地域間の交流ネットワークを目指した。
「五全総」…6 つの海峡横断道路事業とリニアモータカーの早期実現を盛込んだ。

オリンピック景気及びその後の証券不況の内容を説明せよ。また、証券不況が及ぼした経済的影響を説明せよ。

高度経済成長期において、東京オリンピックや新幹線の整備などによる総需要の増加(オリンピック景気)で、日本経済は高い経済成長を達成していた。企業業績の好調が続き、これを反映して株価が上昇した。この株式市場の活況に刺激されて、株式投資や投資信託が関心を集めた。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。

しかし、東京オリンピックが終了し、金融引き締めも重なると、企業業績の悪化が顕在化し、日銀は公定歩合を1%以上も下げたが効果は薄く、政府は不況拡大を防ぐために、山一證券への日銀特融を決め、さらに戦後初である赤字国債の発行を決めた。これにより高度経済成長は持続したものの、大蔵省は証券行政に強い権限を持つようになり、金融界全体への影響力を強め、護送船団方式と呼ばれる保護主義的な金融行政が強化された。また、戦時の赤字国債発行による財政膨張の反省からできた財政上の規律が、証券不況時の赤字公債発行によって失われ、後の不況対策として赤字公債の発行を求める声が高まり、膨大な赤字国債の累積を招く遠因となった。また、恐慌によってようやく証券市場に顔を出し始めていた個人投資家を市場から退出されることになり、資本自由化の見通しから企業の株式持ち合い比率が高まり、再び法人株主の地位が上昇した。

【高度成長 武田晴人 著 を参照】

日本の開放経済体制への移行について説明

IMF8条国に移行して国際収支上の理由で為替管理が,GATT11条国に移行して国際収支上の理由で輸入制限ができない国となり、さらにOECDに加盟して資本の自由化を義務づけられた。

「第二の黒船」は何を意味するかを説明せよ。また、それに対応した企業の動きおよび鉄鋼業界再編の動きについて説明せよ。

開放経済体制への移行が進められる中、日本のOECD加盟によって資本の自由化が義務付けられ、競争力の強い外国資本の日本進出が、危機感を伴って「第二の黒船」と意識された。証券不況によって株価が低落していたのを好機として、外国投資家から経営権を守るため、および買収の予防措置として相互の株式持ち合いが進み、株価を回復し市場の不動株を少なくさせようとし、企業集団の持ち合い比率が上昇し、六大企業集団(三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧)が形成された。鉄鋼業界では、国際競争力の強化を図るため、八幡製鉄会社と富士製鉄会社が合併して、新日本製鉄会社が誕生し、三菱重工業も再発足した。これらのことは、日本企業の国際競争力を強め、世界市場への進出を可能とする基礎的な条件となった。

いざなぎ景気(1965年~70年)の背景及び特徴を説明せよ。

造船・鉄鋼・石油化学工業を中軸とする全国への工場立地・コンビナート化と、「3C」 (自動車,カラーテレビ,クーラー) 急速普及、家庭電化製品・自動車等の対米輸出拡大、さらにベトナム戦争の深化による東南アジア諸国への輸出拡大などを背景とした大型景気である。以前の高度成長が輸出と民間設備投資主導であったのに対し、建設国債を原資とした公共事業すなわち財政投資が新たに生じた。資本自由化措置が行われ、「第二の開国」ともいう事態に対応し、流入してくる海外巨大資本に対抗して、企業規模拡大、競争力強化を目ざした大企業は大型合併を行った。日本経済はこの5年間にGNPが2倍以上となり,1968年には西ドイツを抜き,自由世界第2位となった。

高度経済成長が生じた要因を6つ説明せよ。

国民の貯蓄傾向の高さを背景に、政府が郵便貯蓄などを原資とする財政資金を、社会資本の充実・景気調整の手段などに活用する財政投融資を行い、さらに間接金融方式に基づく民間設備投資が活発であった。

②高い教育水準が労働力の生産性を高め、技術革新を容易にした。

③中東の大油田の開発により、安い原油が日本にも入ってくるようになり、原油価格が著しく下落し、エネルギー革命が起こって石油を低廉価でかつ大量に輸入できた。

④国民全体の所得が伸びつつあり、家電製品や自動車などの国内市場が拡大した。所得の伸びの背景には、農業基本法の制定などによる農業経営の大規模化や、米価引き上げ策により、農家の収入増を図ったことがあった。

固定相場制が実質的には円安を進行させ、日本の輸出拡大に資するところがあった。

⑥年功序列型賃金制・終身雇用制・企業別労働組合の三大雇用慣行が、社員の企業への帰属意識を高めた。

【日本史研究 山川出版社 を参照】

耐久消費財の普及を支えた条件を説明せよ。

投資主導型の経済発展が持続し、国内市場の順調な拡大に起因する鉄鋼業などの素材産業の発展および、組み立て型の機械工業の発展が実現していた。また国内市場に依存した新興の石油化学がプラスチックなどの新素材を提供した。さらに量産化により価格が低下し、割賦販売制度の普及および勤労者世帯の所得がボーナスを含めて安定的に増加していた。また都市部での人工集中や核家族化による世帯数の増加は市場拡大の水準を押し上げた。

【高度成長 武田晴人 著 を参照】

高度経済成長期における農業部門の発展

化学肥料や農薬・農業機械の普及による農業生産力の上昇、食料管理制度と農協の圧力による米価の政策的引き上げ、さらには農外所得の増加などもあって、農家所得が増加した。また、農業基本法が制定されて、農業構造改善事業に多額の補助金が支給された。

三井三池炭鉱争議の内容と歴史的意義を説明せよ。

石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景として、三井鉱山三池鉱業所の大量人員整理に反対して展開され、「総資本対総労働の対決」とも呼ばれた。安保反対闘争と結びついて大争議となったが、組合側が指名解雇を認める形で終結した。これにより、組合側の敗北でエネルギー転換が定着しただけでなく、敗戦後の民主化政策の中で生活防衛のための労働組合運動が時代の役割を終え、「総評型労働運動の上り坂と下り坂を分ける分水嶺」(「三池争議小論」より引用)となった。

警官隊と衝突する組合員(1960年5月12日に撮影)引用元:1959–60 Mitsui-Miike Labor Dispute 02 – 三井三池争議 – Wikipedia

戦後の労働運動を概観せよ。

戦後におけるGHQの民主化政策で労働組合が初めて公認され,インフレにより運動は急速に高揚したが、占領政策の転換も背景として二・一ゼネストの禁止など、徐々に制限がかかっていった。高度経済成長に伴い労働者は政治変革よりも生活向上を求めるようになっていたが、安保闘争とも連動した三井三池争議の敗北が転換点となって労働組合運動が時代の役割を終え、「終身雇用制・年功序列賃金制・企業別労働組合」を特徴とする日本的経営生産性向上運動の浸透、同盟の結成により労使協調的な風潮が拡大し、労働組合組織率も低下していった。

IMF体制をアメリカがつくることができた理由を説明せよ。

第二次世界大戦によりアメリカには世界の約70%もの金が集まったため、米ドルのみが金と交換可能で、他国の通貨は米ドルと交換できるという金為替本位制が採られるようになった。他国はアメリカの通貨当局でしかドルと金を交換できないため、アメリカの権限は増した。また、アメリカが一国拒否権をもつIMFを設立し、各国の中央銀行を支配下に置くことで金融を通じて世界支配を行う体制を確立させた。

IMF・GATT体制の内容と目的を説明せよ。

ドルを基軸通貨とし、各国通貨とドルとの交換比率を固定した固定相場制を採用し、為替が安定していることで資本移動や貿易の活性化が図られた。

IMF・GATT体制が崩壊した理由を簡潔に説明せよ。

アメリカのインフレと経済の弱体化でドルが流出し、海外にドルが蓄積された結果、ドルと金との交換が困難となった。

70年代初期に狂乱物価が起こった背景およびその日本経済への影響を説明せよ。

太平洋ベルト地帯に集中した産業を地方へ分散させ,それらを新幹線と高速道路で結ぶ,という公共土木工事を中心とした経済成長促進政策である列島改造政策に刺激されて土地投機が生じたため,地価を中心として激しいインフレがもたらされた。また、国際収支の黒字を背景とした通貨供給量の増大による過剰流動性、ソ連の大量穀物買い付けによる世界的な食糧不足による物価高、投機的な商品取引、水不足による製鉄所の停止や石油化学コンビナートでの事故多発による供給不足、さらに石油危機が生じると,日本経済はエネルギー資源を石油に依存し,その大半を中東からの輸入に依存していたため原油価格が高騰し、便乗値上げも加わって狂乱物価が生じた。

政府は石油 2法(国民生活安定緊急措置法,石油需給適正化法)を策定し,アラブ諸国との外交関係強化などの対策を講じ、また、このインフレに対して政府が総需要を抑制したことでスタグレーションに陥り、戦後初のマイナス成長となり、高度経済成長も終焉した。

1970年代の貿易収支の悪化について説明せよ。

変動相場制に伴う円高と、第四次中東戦争に伴う第一次石油危機、イラン革命に伴う第二次石油危機で原油が暴騰し、不況となった。

三無主義の内容および背景を説明せよ。

オイルショックが起きて高度経済成長が終わり、浅間山荘事件が起きて学生運動が急速に衰えると、一つの時代の終わった無力感と学生運動への失望を背景に「シラケ」という言葉が若者の間で流行し、「無気力・無感動・無関心」三無主義を中心とする風潮が見られるようになった。

「新都市計画法」(1968年)について簡潔に説明せよ。

都市の再開発を調整するため、都市計画手続きの決定権を地方公共団体に移し、開発地域を制限する権限も強めた。

1960年前後の「工場等制限法」の目的と内容、および変遷を説明せよ。

首都圏と関西圏の都市部への産業・人口の過度の集中を防止して都市環境を改善するため、既存の都市区域内での大規模工場や大学の新設・増設を制限した。後に、1972年に工場の地方への移転を促進させる「工業再配置促進法」が、1973年に生産設備の面積制限・環境配慮を求める「工場立地法」が制定された(合わせて「工場三法」)。しかし、工場の海外移転や地方流出に起因する大都市圏の空洞化が深刻化した。そこで、国際競争に対応するため、高度な技術開発や先端製品の生産に関与する工場を大都市圏に呼び戻す意図で「工場三法」は廃止・緩和された。

革新自治体の例を1つ挙げ、登場した背景および彼らの政策内容、また彼らの弱みについて説明せよ。

美濃部亮吉知事時代の東京都。高度成長がもたらした都市問題の解決を求める住民運動の高揚の中で、地域住民の期待の中で誕生し、開発優先から福祉優先へと転換し、国の法整備に先行して老人医療の無償化、福祉行政を積極的に行い、政府よりも厳しい公害規則を設定した。しかし、政党間の対立を背景とした支持基盤の不安定さ、低成長時代に対応した地域産業政策の未熟さなどの弱点もあり、特にオイルショック後の不況では財政問題に苦しんだ。

全共闘の性格と、従来の学生運動との相違点を説明

全学共闘会議の略で、大学紛争の中心的組織であり、大学解体・自己否定といった理念の下、政治闘争とともに思想運動としての側面を持っていた。従来の学生運動とは異なり、自治会や政治的党派を母体とせず、ノン・セクトの学生を中心とする自然発生的な闘争組織であった。

大学紛争の主体とその国際・国内的背景

自治会や党派を核とせず、全共闘とよばれるノン・セクトの学生組織が中心となって闘われたのを特徴とする。背景としては、国際的にはフランスの5月革命などの学生反乱の波、国内的には授業料の値上げ・マスプロ教育・学生管理体制強化への反発、さらにはベトナム反戦運動に象徴される反米・反帝国主義のエネルギーなどがあった。しかし、大学臨時措置法制定や機動隊の導入などで次第に終息した。

大学紛争の記事 引用元:東大紛争、安田講堂事件とは 真相と原因をわかりやすく3分で説明します | お先にご無礼しました (uitanlog.com)

全学連(全日本学生自治会総連合)の立場の変化

当初、全学連は日本共産党の下部組織として戦後の学生運動を指導し、朝鮮戦争反対闘争や全面講和運動を闘った。

しかし、スターリン批判やハンガリー動乱を機に、日本共産党に批判的な立場をとるようになっていった。やがて日本共産党を除名された全学連の指導者を中心にブントが結成され、学生運動を指導するようになると、全学連はブントの指導する主流派と日本共産党の指導する反主流派に分裂し、安保闘争を迎えた。70年安保闘争はベトナム反戦運動や全共闘運動と連動する形で激化し、三派全学連先頭に立った。

べ平連は何の略か。またそれを結成した主要人物3人とそのグループの活動内容

「ベトナムに平和を!市民連合」の略。作家の小田実、開高健、哲学者の鶴見俊輔らが結成したベトナム反戦運動グループで、規約や会員制度を持たず、ポスターやバッジ、米国主要紙への意見広告の掲載、反戦脱走米兵への援助といった独自の活動を展開した。

第二次石油危機を乗り切れた理由を説明せよ。

危機感を募らせた企業が人員整理などの減量経営に努め、省エネルギーへの指向をいち早く固め、コンピュータやロボットの技術を導入し、工場やオフィスの自動化を進めた。また先端部門の海外需要の増大に伴う輸出拡大、さらに官公庁労働者のスト権ストの敗北を契機として日本の労働運動が下火になっていたこと、春闘でも労働者の大幅賃上げの要求が低く抑えられていたことにより高物価と高賃金の悪循環が断ち切られていたこともあり不況からの早い脱出が可能であった。

※2度の石油危機により、

●素材産業(石油依存型)→加工組立産業(非石油依存型)、

●資本集約型産業(大量の原材料を投入する)→知識集約型産業(コンピュータのソフト開発など)

●重厚長大→軽薄短小

への移行が生じた。

【日本史研究 山川出版社 参照】

70年代以降の原子力発電の拡大の背景とそれへの反対運動

石油危機による原油価格高騰への対応策として70年代以降急速に規模を拡大し、原子力発電の供給実績が火力発電のそれを上回る「原主火従の時代」へ突入する電力会社も現れた。しかし、高速増殖炉「もんじゅ」の事故や災害事故なども相次ぎ、その安全性に対しては強い異論が存在し、各地で原発反対運動が活発に展開された。

マイクロエレクトロニクス革命を説明せよ。

二度にわたる石油危機を転機に企業が減量経営を目指し、MEを工場に導入し、半導体電子素子に制御ソフトウェアを組み合わせ、各種機器に応用されることにより小型、軽量化、知能化が大幅に進んだことで技術革新を達成した革命。ロボットが普及し、78年は「ロボット元年」と称された。この革命により、電子回路の記憶容量が2倍になり、トヨタのかんばん方式、日産のジャスト・イン・タイム、バーコードによる在庫管理のPOSシステムなどがもたらされ、テレビやラジオ・テープレコーダーなどの耐久消費財を普及させ、コンピュータの性能を高め、オートメーション化と情報化社会を進行させた。

アメリカとの貿易摩擦の背景と内容を説明せよ。

日本は高品質の自動車・電機製品を開発し、半導体など先端技術分野でも国際競争力を高めた。一方、米国では減税による消費拡大とドル高基調下での輸出減・輸入増が進んだ。日米貿易摩擦は、1960年代の繊維・鉄鋼、1970年代のカラーテレビ、1980~1990年代の自動車や半導体のように摩擦となる製品を変えながら断続的に生じた。

1980年代後半の経済動向に即した日本企業の行動とその弊害を説明せよ。

株価の暴落や円高を背景に、企業はコンピュータの利用やME技術の導入など経営の合理化を進め、先端技術産業に重点を移した。強い円を背景に海外直接投資を増加させ、アメリカ企業のM&Aを行い、また、事業整理や人員削減、生産拠点の海外移転オフショアリング逆輸入などを図ったが、それは生産の空洞化や失業者の増大日米投資摩擦を惹起させた。

前川レポート(1986年)の内容を、それを取りまとめた研究会名およびその座長名を記したうえで説明せよ。

経済構造調整研究会。前川春雄。プラザ合意後、円高が急速に進行したにもかかわらず、日本は依然として巨額の貿易黒字を計上し、欧米諸国との間で経済摩擦が生じていた。そこで、日本に市場開放と内需拡大を迫る米国など諸外国の外圧に対応するために、内需主導型の経済成長、輸出入・産業構造の抜本的転換などを提言した。内需を刺激するための金融緩和策がバブル経済を生む結果となった。

「連合」を説明せよ。

支持政党が異なっていた総評・同盟・中立労連・新産別の四つの中央組織が1989年に大同団結して結成された。労働条件の改善や国民生活の向上を実現することを綱領に掲げ、労働政策の分野に限らず、国の政策形成にも発言力を行使した。

※連合以外の労組ナショナルセンターとしては、連合の方針を労使協調主義と批判し共産党色の強い全労連のほか、同じく左派系の全労協もあった。

バブル経済の内容・発生した背景・その崩壊を説明せよ

プラザ合意によって円高ドル安が急激に進み、日本は円高不況に見舞われた。政府はこの円高不況対策として超低金利政策を実施するとともに、法人税減税を行い、内需拡大を図った結果、金融機関や輸入関連企業に余剰資金が生じるようになり、金余り現象が起こった。そして経済発展に伴い、金融機関や企業でだぶついた余剰資金が国内外の不動産市場や株式市場に流入して財テクブームが生じて資産インフレが生じ、地価や株価が投機的高騰を始め、値上がりの利益=キャピタルゲインを期待して土地と株を買う多くの投資家によりさらに値上がりし、利得を得た人々が心理的に消費を拡大させる資産効果も生じた。

しかし、日本銀行が高金利政策に転じ、公定歩合の引き上げ、地価抑制政策をし、さらに証券不祥事が起こった時期に値上がりは止まり、やがて価格は下落し大部分の投資家は損失を受けた。そして1991年頃から地価が下がり始めると高値に近いところで土地や株を買った企業や個人が相当に大きな損失を出した。このような企業や個人に融資した金融機関が大量の不良債権を抱えるようになり経営が悪化することになった。これにより金融逼迫が生じ、不良債権を抱えた金融機関の貸し渋りが消費と投資を減退させ、また超円高と消費不況により。経済全体に悪影響を及ぼす複合不況となった。

【日本史研究 山川出版社 を参照】

土地基本法(1989年)を説明せよ。

社会資本整備のための土地取得がバブル期の地価高騰で困難になったことなどを背景として制定され、公共の福祉の優先、適正計画での利用、投機対象とすることの抑制、土地価格が上昇した際には道路や鉄道など利益に応じた適切な負担を求められることなどを明記した。

1990 年代に起きた日本経済の出来事を説明せよ 。

日銀の金融引き締め、政府の規制強化が行われ、株価が急落し始め、株価・地価が下落してバブル崩壊となり、資産の減少や不良債権の増加が日本経済を圧迫して平成不況に陥った。1997 年には橋本内閣が消費税引き上げを実施した(3%から5%へ)が、アジア通貨危機が重なって経済は悪化し、不良債権の処理に苦しむ金融機関が破綻する金融危機が発生した。

失われた10年を説明せよ。

1990年代初頭にバブル経済が崩壊すると、それまで金融機関が行ってきた過剰融資は不良債権となってしまい、経営危機に陥った金融機関は一気に貸し渋りや貸しはがしへと転じ、信用収縮を起こしてしまった。また、企業は雇用・設備・債務という3つの過剰を抱え込むとともに、金融機関の不良債権が肥大化するなど循環的不況とは異なる構造的課題に直面した。さらに1997年には消費税の引き上げアジア通貨危機が重なり、いっそう景気を冷え込ませた。

都心回帰現象を、ニュータウンにおいて進行した社会現象を踏まえて説明せよ。

バブル経済の進展が都心の地価高騰に拍車をかけ、郊外への人口流出が顕著に進んだ。しかし、1990年代初めにバブル経済が崩壊すると、地価は下落して都心の再開発が進行し、再び人口が都心に流入する都心回帰現象が起こった。一方で、郊外の新興住宅地では若年層の転入が急減する一方、域内の第二次ベビーブーム世代は独立して転出し、従来から入居していた第一次ベビーブーム世代の世帯は年齢構成に偏りがあるために時が経って一斉に高齢化した。

橋本内閣における経済政策を説明せよ。

長期不況により税収が落ち込み、かつ景気対策として所得税や法人税の減税も行ったために歳入は減少したが、一方で、景気対策としての公共事業追加や高齢化による社会保障関係費の増大により歳出が増加したことで財政赤字が拡大していた。直接金融の重要性が指摘されたことで、金融制度、金融業務などに関する規制を緩和する日本版金融ビッグバンと呼ばれる改革を行い、また、財政構造改革法を制定し、2003年までに国および地方の単年度当たりの財政赤字を対GDP比3%以下とし、赤字国債=特例国債の発行をゼロにする目標を掲げ、中央省庁のスリム化とあわせて財政再建を図った。

金融ビッグバンを説明せよ。

「フリー,フェア,グローバル」の改革3原則の下で、護送船団方式の撤廃金融市場の規制緩和および規制の撤廃を行うことで金融市場の活性化証券業界の国際化を目指すという目的で、銀行、信託、証券、保険の相互参入・外国為替関連業務の自由化・持株会社の解禁・証券取引手数料の自由化などを行った。これにより、業態間の競争激化ばかりでなく,ビジネスチャンスとみる外国銀行・証券・保険などの日本市場参入も相次いだ。日銀が各市中銀行の設定する金利を決定する規制金利が廃止されて自由金利になるとともに、日銀や大蔵省が金融機関を保護する護送船団方式が事実上廃止された。また、持株会社が解禁され、それによるグループ化で金融再編が進んだことで、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が合併してみずほ銀行、住友銀行とさくら銀行が合併して三井住友銀行、UFJホールディングスと三菱東京フィナンシャルグループが合併して、三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)が生まれるなど、三大メガバンク・グループが形成された。

小渕恵三内閣による代表的経済政策を説明せよ。

山一證券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などが相次いで破綻するという情勢下、長期不況の要因となっていた銀行の貸し渋りに対処するために3年間の時限立法である金融再生関連法を制定し、金融機関に公的資金を投入することで不良債権の処理を進めた。金融再生関連法では、国際決済銀行(BIS)規制の自己資本比率8%を下回る不健全銀行に対して、リストラを条件に公的資金投入することを定め、破綻銀行は一時的に国営企業であるブリッジバンクを設立して経営再建を図り、営業譲渡先を探すことになった。この金融再生関連法の内容は預金保険法第102条に引き継いで恒久化された。また、財政構造改革法による橋本内閣の経済政策路線を転換させ、赤字国債の濫発による財政支出拡大路線に転じ、財政構造改革法を凍結した。

京都議定書(1997年)の内容と問題点を説明せよ。

温室効果ガスの排出削減に関する法的な枠組みを定めた国際ルール。国外で対策をとった削減分を自国分にカウントできるクリーン開発メカニズム共同実施(JI)、二酸化炭素などを排出する権利を売買する仕組みである排出権取引などの京都メカニズムも定められ、日本が6%、米国が7%、EUが8%などの具体的な数値目標を示した。しかし、主要なCO2排出国である米国は議定書に署名したものの、後に不参加に転じ、また中国などの発展途上国に対してガス排出削減義務が課されていないことなどが問題点である。

安倍晋三内閣の経済政策を説明せよ。

「大胆な金融政策・機動的な財政政策・民間投資を喚起する成長戦略」の「三本の矢」からなるアベノミクスを掲げ、また、日銀との政策において消費者物価を年率2%上昇させるというインフレターゲットを実施して、デフレからの脱却と日本経済再生を企図した。また、従来の構造改革特区を国家戦略特区とし、例えば東京圏を「国際ビジネス、イノベーションの拠点」というように指定した。また、産業競争力強化法を施行して、財政支出及び税制優遇によって企業の先端的な設備投資や赤字不採算部門の整理などを促し、ベンチャーファンドへの投資を支援した。このような経済政策によって、最長のいざなみ景気には及ばなかったものの長期的なアベノミクス景気を生じさせ、実感なき景気回復で所得や個人消費はあまり伸長しなかったものの、雇用状況が改善して失業率は低下し、日銀やGPIFによる株式購入は結果として大企業や大口投資家の利益に偏り、格差が拡大したものの、株価上昇は続いた。

また、のちにアベノミクスの第2ステージとして「希望を生み出す強い経済・夢をつむぐ子育て支援・安心につながる社会保障」という「新三本の矢」を発表し、最大600兆円の名目GDPを目標にして希望出生率1.8%、介護離職ゼロ、一億総活躍社会実現などを図った。