社会経済史:近世

太閤検地および石高制の歴史的意義を説明せよ。

京枡を年貢収納の基準とし、全国的統一基準を定め、検地奉行が田畑・屋敷地などを実地調査した太閤検地が村ごとに実施され,1段当たりの生産力である石盛に面積を乗じた石高が決められ、村を単位として面積・等級・耕作者などが記載された検地帳が作成されたことにより村の境界が確定し、一地一作人の原則により田畑・屋敷地の所持を保障されて土地を実際に所持・耕作する百姓が一人に確定されたため,中世以来の国人・百姓・地侍などによる土地に対する重層的な権利関係が整理され,小百姓の自立および村の構成員が比較的に均質となる契機となった。また、 村の領域や村全体の石高である村高が定まり、村が行政の末端機構として把握され、村請制の基礎が整うとともに、兵農分離が進み、武士は統一的な石高制にもとづいて知行や軍役を与えられ,直接的な農業経営から切り離されて城下町居住を義務づけられると共に,統治者として支配身分に位置づけられて役人的性格を強める一方,百姓は同じく統一的な石高制によって,年貢・諸役の納入を義務づけられた被支配身分となった。つまり、太閤検地によって導入された石高制によって大名・家臣間の主従関係と武士による農民支配とが統一的に行われることになり、さらに改易が容易になるなど大名の在地性が弱められた。

検地の図(安藤博編『徳川幕府県治要略』より) 引用元:豊臣政権の政策 – 歴史まとめ.net (rekishi-memo.net)

関所の果たした役割を、古代・中世・近世で比較して説明せよ。

古代…主に中央で発生した謀叛の関係者が東国へ逃亡して兵力を結集させることを防ぐための固関を行い、また公民の浮浪阻止など主に防衛・治安維持の役割を果たした。

中世…財政補填の目的で関銭が徴収された。

近世…再び人や物資の移動の監視・取締りなど治安維持の役割を果たした。

中世と近世の一揆の相違点を説明せよ。

中世…国人が在地領主として自立的な支配力をもつ一方,百姓が自治村落である惣村を形成し,名主のなかには武士身分を獲得して地侍も存在。国人・地侍や百姓、さらには飢饉時に都市に流れ込んだ貧民に至るまでの様々な身分の人々が階層ごとや階層を超えて多様な一揆を結び,また、仏教をよりどころとし、浄土真宗本願寺派の門徒である国人・地侍や百姓らによる一向一揆や日蓮宗信者である京都の富裕な商工業者による法華一揆などの宗教一揆も存在した。

近世…兵農分離が進んで武士が城下町に集住し,寺院は統一権力の統制のもとで民衆支配の末端を担いキリスト教も鎖国などを通して排除されたため,武士や宗教勢力を担い手とする一揆は島原の乱を最後として消滅。また村請制が採用されて村々の自治は保証され,百姓による一揆だけが存続した。

近世初頭の農村の商品経済浸透の背景を、城下町形成についても触れながら説明せよ。

兵農分離によって各地に城下町が建設され、武士が移住を強制されて消費生活を送って,商工業者も集住した。このように拡大した都市の需要に対応するため農村では商品作物の栽培が行われた他、中世以来の代銭納も農村の商品経済浸透に寄与した。

江戸時代の貨幣の生産・流通の制度およびその実態を説明せよ。

幕府が貨幣鋳造権を握り、金銀銭の三貨体制をとった。小判・一分金などの金貨は後藤庄三郎家の請負で金座が、丁銀・豆板銀は大黒常是家の請負で銀座が発行し、銭座は民間の請負の形で全国に開かれた。しかし、東日本では計数貨幣の金が、西日本では秤量貨幣の銀が取引の中心となり、三貨の交換率も一定しないなど、統一的貨幣制度の確立には至らなかった。

※1609年…金1両=銀50匁=銭4貫(4000文)  

 1700年…金1両=銀60匁=銭4貫

●金貨●…1 =4=16 、計数貨幣

●銀貨●…貫・匁・分・厘・毛、秤量貨幣

● 銭貨●…貫・文

明暦の大火による復興過程およびその意義を説明せよ。また明暦の大火の経験により禁止された交通手段および明暦の大火によって巨利を得た人物についても言及せよ。

幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとり、都市計画が進み、定火消も置かれた。また、車長持が道をふさぎ混雑したため、それ以後禁止された。河村瑞賢は明暦の大火の木材高騰で巨利を得たとされる。

松前藩の知行のあり方の独自性を説明せよ。

松前藩では米が取れず、石高が設定できなかったため、石高に基づく土地の支配権ではなく、アイヌ民族との交易独占権が知行された。 藩士への知行制度は、 アイヌとの交易拠点である商場を家臣に分与し、そこからあがる収益を俸禄とする商場知行制が採用された。また、松前港に入港する商船からの入港税も主要な財源となった。

商場知行制と場所請負制を比較せよ。

商場知行制…アイヌとの交易拠点である商場を家臣に分与し、そこからあがる収益を直接俸禄とする制度

場所請負制…アイヌとの交易を近江商人などの上方商人に請け負わせ、あがった収益から間接的に運上金を上納させる制度である。

江戸時代初期に木材の需要が増えた理由を説明せよ。

江戸時代の初期は江戸城が築かれると共に、大名屋敷の造営や町人地の造成も進められていった。また、兵農分離により各大名の城下町も拡大したため、木材需要が急増した。(明暦の大火の際には復興のための木材需要もあった。)

※主な材木商……紀伊国屋文左衛門奈良屋茂左衛門

17世紀後半以降、どのような商人が台頭したのか。その背景も。

全国的な流通市場が確立して商品経済が発展する中、購買力をつけた都市の町人を対象に、特定の商品を専門に扱ったり、商品の生産地と消費地に拠点を設けて商売を行う商人が台頭した。

朱印船貿易家なども含む初期豪商が巨利を得た理由を説明。またその衰退について国外・国内的条件を踏まえ説明せよ

遠隔地間の価格差を利用して利益を上げるときに不可欠である「船」や、季節間の価格差を生むために商品を保存しておくのに必要である「蔵」を所有することで巨利を得ていた。

しかし、鎖国によって海外との交易が制限されると、彼らの国際的活動舞台は失われた。また、陸上・水上交通の整備による全国市場の形成に加えて、生産力の上昇は商品流通量を増加させ、国内の商品価格の地域差はあまり見られなくなった。つまり、中央も地方も価格が連動するようになり、初期豪商は巨利を得られなくなり、代わって城下町商人・御用商人などが商業の中心となった。

(「日本史研究 山川出版」 を参照)

※初期豪商…都市商人でありながら長距離を自力で輸送するために、牛馬・船などの輸送手段を有し、輸送路上の安全を保障する武力をも備えており、武士的な要素を濃厚にもつ。

【初期豪商の例】

角倉了以(京都)

茶屋四郎次郎(京都)

今井宗薫(堺)

末吉孫左衛門(摂津)

末次平蔵(博多)

豪商とは何か。明治初期までを視野に入れて具体例を挙げながら説明せよ。

近世初期の豪商は,海外貿易,軍事物資の調達・輸送,金融などで,権力と結びついて巨富を得た特権的商人で,角倉了以安井道頓(道頓堀川を開削)・淀屋辰五郎(中之島を開発)等が著名。その後,三都の繁栄を背景に,酒造の鴻池家,京呉服の三井家(越後屋),銅の精錬業の住友家などが財をなし,両替商を兼業し大名に巨額を貸し付けていた。多くは明治維新の転換期に没落したが,多角化に成功した三井・住友家などは財閥に成長した。

江戸時代の水上交通網の整備について説明せよ。また、そのような水上交通が当時の物資輸送における大きな役割を果たしたのはなぜかについても説明せよ。

角倉了以が富士川・高瀬川を開削するなど、内陸部の河川や湖沼で新たな水路が開かれた。海上でも、大坂・江戸間を菱垣廻船・樽廻船が定期的に運航するようになり、後には安治川を開いた河村瑞賢東廻り航路・西廻り航路を整備して、全国的な海上交通網が確立された。当時の幕府や各藩領主は、都市での消費生活や参勤交代のための経費を年貢米を換金して賄っていたために物資輸送の中心は蔵物であったが、陸上交通は大井川のように橋が架かっていない河川も存在し、 陸上交通は大量の物資輸送には適していなかった。

※大坂から江戸に向かう航路は「南海路」→菱垣廻船や樽廻船が就航した

「小早」と呼ばれ、灘などで生産された下り酒を運搬した樽廻船が、江戸後期にかけて菱垣廻船を圧倒するようになった理由を説明せよ。また、その後に両者とも衰退することになった理由も説明せよ。

腐敗しやすい酒を迅速に輸送するため、多様な荷を乗せるゆえに迅速性に欠ける菱垣廻船と異なり、単一の清酒のみを取り扱うこととし、積み込みの合理化を図ることによって輸送時間の短縮を実現した。酒樽が荷役に便利な積荷のため仕建て日数が短く、その迅速性が歓迎されて菱垣廻船の荷物の一部をも積むようになり、その船足の速さと低運賃により菱垣廻船を圧倒していった。1841年の株仲間の解散によって菱垣廻船の特権が失われたことで樽廻船が積荷範囲を拡大し、以後は江戸・上方間海運の主導権を握った。しかし、幕末になると蒸気船が出現して両廻船は打撃を受け、合併した。

五街道は江戸幕府によってどのように運営されていたか説明せよ。また、商品の輸送に関する陸路の限界を説明せよ。

江戸幕府は日本橋を起点とする五街道を整備して道中奉行に管轄させた。一里塚や橋・渡船場などの施設を整備するとともに,2~3里ごとに宿駅を整備し,武士の泊まる本陣・脇本陣のほかに庶民が利用する旅籠木賃宿があり、問屋場を設けて公用の文書や荷物の継送りのために人足や馬を常備した。さらに関所を設けて入鉄砲出女を取り締まるなど,治安維持もはかった。五街道を幹線として、伊勢路・中国路・佐渡路など多くの脇街道(脇往還)も開かれた。商品流通の面で陸上交通を支えたのは馬車や中馬のように、百姓が馬の背を使った駄賃稼ぎであったため、商品の大量輸送には不向きであり、この点は水上交通の方が適していた。

十組問屋が成立した理由せよ。

輸送中に難船となると、船頭や水主の中には荷物を横領するものが現れ、さらには難船を装って横領するものも現れたので、組ごとに行司を定めて、船問屋を通さずに、直接菱垣廻船を支配する十組問屋が結集した。

問屋の商品売買方法の転換を、元禄期を境にして説明せよ。

元禄期以前は、希少性のある高価な少量の商品を売買していたが、元禄期以後は大量の商品を多売する商法に切り替えた。

江戸時代の問屋の2種類を、利益を得る方法の違いに着目して述べよ。さらに元禄期に衰退したのはどちらか。

1つ目は、注文に応じて様々なものを扱い、商品の売買を仲介した手数料を利益とした問屋であり、2つ目は、特定の商品を専門に扱い、自らの才覚で地方の産地で商品を買い付け、商品経済の発展で台頭して購買力を付けた都市の町人を対象に販売して利益を得た問屋である。経済発展の中で、元禄期には受動的な前者の問屋は衰退し始めた。

北前船や内海船などの新興廻船と旧来の廻船の利益のあげ方に関する違いと、それによりある地域が受けた社会経済的影響を述べよ。

旧来の廻船が荷主との契約で荷物を輸送し、その運賃を収益とする「運賃積方式」であったのに対し、北前船は「買積方式」の廻船で、船主が自ら買い入れた商品を積み、輸送先で売却して利益を上げていた。これにより天下の台所として蔵物や商品の集積地であった大坂の商業的機能が低下していった。

※五街道…東海道,中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道

本陣→大名用、旅籠→食事を提供、木賃→自炊を提供

※関所…箱根・新居(東海道)、碓氷・木曽福島(中山道)、小仏(甲州道中)、栗橋(日光・奥州道中)

江戸時代の飛脚を3例説明せよ。

幕府公用の継飛脚。大名が江戸と国元間に置いた大名飛脚。民間営業の町飛脚(三度飛脚、定六)

※三都の商人が営業する飛脚問屋が成立し、月に東海道を3往復することから三度飛脚と呼ばれた。

宿駅制度(伝馬制度)の内容を説明せよ。

各宿場が人足と伝馬を一定数常備し、人馬を提供して公用の役人の荷物の運送にあたる制度で、各宿場は見返りとして宿場を経営し、一般の客の宿泊や荷物の輸送の権利を得て、屋敷地に課税される年貢が免除されたりもした。

(歌川広重筆『東海道五十三次』藤枝 :知足美術館ホームページより借用 藤枝 人馬継立|東海道五十三次|知足美術館 (chisoku.jp))

助郷役の内容を説明せよ。

宿場周辺の村に対して、伝馬役が抱える負担を軽減のために、臨時で割り当てられ、人足や馬の補充などの夫役をする人、またはその村を指し、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。村民(農民)たちの負担増により金銭での代納へと徐々に移行するなど、助郷役は農民生活を著しく圧迫すると共に、その階層分解を促進し、村財政の破綻の原因ともなった。

江戸時代の江戸が人口100万人を超える巨大都市となった理由を説明せよ。

参勤交代の義務を負っていた大名および家臣が将軍のお膝元であった江戸に集住して各大名の藩邸も多く建てられ、さらに将軍に直属していた旗本や御家人も居住していた。さらに彼らの需要を満たすために商工業者も集められて巨大都市となった。

※大名城下町が成立した背景では「兵農分離政策」が挙げられる。

※江戸:日本橋の魚市、神田の青物市

大阪が全国の物資の集散地となった社会経済的背景を説明せよ。

兵農分離策により、農民は土地に緊縛され剰余生産物を年貢米として収奪されたが、武士は城下町に集住し、生産から遊離して消費生活を送った。諸大名は収奪した年貢米を俸禄として家臣に支給する一方、年貢米など蔵物を売却・換金して財政基盤とするため大坂の蔵屋敷に送った。また、全国の商人が送る納屋物も大坂に集まり、江戸や各地に出荷されたので、大坂は全国の物資の集散地となった。

※大坂:雑喉場の魚市、天満の青物市、堂島の米市場

※舶来物→長崎貿易の輸入品

江戸時代の大名は参勤交代に伴う出費をどこでどのように準備し、どうやって江戸まで送金したのか

諸藩は、大坂などに蔵屋敷と呼ばれる倉庫と取引所を兼ねた屋敷を置いて、蔵物と呼ばれる領内の年貢米や特産物を、蔵元と呼ばれる蔵物の取引に携わる商人に販売させ、掛屋と呼ばれる代金の出納にあたる商人を通じて貨幣を準備した。準備された貨幣は、大坂の両替商から江戸の両替商にあてて振り出した為替手形にかえ、江戸の両替商から支払いを受けた。

※大坂の十人両替→鴻池屋、天王寺屋、平野屋など

江戸時代になぜ米が商品として流通したか

幕藩領主は、石高制のもと、米納を原則とする年貢をおもな財源とする一方、兵農分離の下での都市における消費生活や参勤交代では多額の貨幣を必要としたため、年貢米を中央市場で販売した。さらに、農業の発達に伴う余剰米も民間商人を通じて販売された。

戦国時代と江戸時代に飢饉が頻発した理由を説明せよ。

戦国時代…戦乱が起こると、農村は戦力・軍事のための労働力として農民を提供しなければならず、たびたび生産のための労働力を奪われ、兵糧確保の手段、敵方に打撃を与えるための戦術として刈田が横行し、戦乱のたびに農村は打撃を受けた。

江戸時代…収穫した米が必ずしも生産地で消費されず、諸藩は年貢米を換金するために蔵屋敷を置いた江戸・大坂に送ってしまい、年貢米以外の収穫米も商人がより高い利益を求めてことごとく大消費地である江戸・大坂などの領外に売却することが多かった。

江戸時代初期の江戸の男女の人口比率を、その背景やその人口比率がもたらした文化的影響を説明せよ。また、その人口構成は後期に向かってどのように変化したか説明せよ。さらに、同時代の江戸における地方出身者の職についても説明せよ。

江戸時代初期には、参勤交代により多くの武士が単身赴任しており、さらに農家の次男、三男が出稼ぎのために諸国から江戸へやってきたため、女性に比べ圧倒的に男性が多かった。このような男性偏重の人口構成は風俗店である吉原や、春画という文化を生み出し、外食文化も発展した。しかし、江戸時代後期になると男女比はほぼ均等になっていった。地方出身者は江戸において奉公人や日雇いなどの生業に従事していた。

近世大名による、城下町での商工業者への扱いを説明せよ。

城下町に集住する家臣団に対する生活・軍事物資の供給を安定的に確保するため、城下町を身分ごとに区分した内の町人地に職種ごとに住まわせ、 インフラ整備などの土木作業を担う町人足役などを負担させながらも、 営業の自由や、屋敷地にかけられる年貢である地子を免除する特権を与えた。

 ※江戸…武家地 70%、寺社地 15%、町人地 15%

町人が町人身分として認められるための条件を説明せよ。

町人身分は,町屋敷をもつ家持であること、および上下水道の整備など都市機能を維持するための町人足役(代銭納の場合もある)を負担することが条件であった。

町の住民構成とその変容を説明せよ。

町の住民は商工業者が中心で、町屋敷を持つ家持、持たない地借店借・借家で構成され、家持のみが正式な町の構成員であった。しかし、江戸時代後期には大店を構える豪商が町屋敷を集積し、それに伴って家持が減少することで町は共同体としての機能は低下し、離農者が流入して日用に従事して裏長屋に住む貧民が増加した。貧民層は飢饉などを原因とする物価の騰貴に呼応する打ちこわしの担い手として地域秩序を動揺させた。

※江戸城を中心に武家地が約70%、寺社地が15%、町人地が約15%

※品川・千住・板橋・内藤新宿の四宿の内側が概ね江戸の範囲

暖簾分けを説明せよ。

商家の奉公人が本家から別家することであり、番頭,手代は長年にわたって本家に奉公することによって,その報奨として別家をもたせてもらうことができ、暖簾分けと称して本家の屋号を使うことを許されたり,仕入れや得意先を分けてもらうなどの特典があった。別家は本家に対して独立後も奉仕しなければならなかったが,危機に際しては本家から庇護や援助を受けることができた。


※丁稚→手代→番頭

辻番の内容とその変遷を説明せよ。

江戸時代,おもに城下町に設けられた治安維持のための施設。辻番所を設け,辻番人を置いた当初は武士が勤めたが、次第に町人の請負人に委ねられた。近世後期には、請負人が利益追求のために不適任者を置くことが多く、機能は低下していった。

灌漑・用水の利用の社会的影響を説明せよ。

その地域での水利慣行に基づいた強固な水利秩序で行われ、日本社会における共同体的性格の一側面を形成させた。

中世から近世にかけての農業の進歩および農民を取り巻く社会経済的環境の変化について説明せよ。

●中世●…名主が下人などを駆使して大農経営、犂を引かせる牛馬耕が普及し、また刈敷草木灰など自給肥料の使用によって農業生産力が向上した結果、小農民が成長し、共同作業や自衛の面から、有力名主・地侍層を中心としながら広い階層の百姓による惣村が形成された。


●近世●…太閤検地兵農分離による農村の重層的権利関係の均質化が生じ、椿海・有明海の干拓など幕藩領主によって奨励された新田開発が進んで小農民の自立が一般化した。幕藩領主に対して嘆願書による越訴として年貢減免などを求める代表越訴型一揆(17 世紀後半)も起こり、深耕に適した備中鍬扱箸に代わり、後家の仕事であった稲こきを取りあげて失職させたというところから「後家倒し」とも言われた千歯扱き、唐箕などの農具の改良、干鰯や油粕など商品作物栽培での即効性に富む金肥の普及、労働集約的な小農経営の本百姓を中心とする村落が形成され、小百姓なども田畑の所持や耕作権を確立させて家を形成して村政に参加、農業生産力上昇で力をつけ、逃亡や代表による訴願から強訴へと百姓の抵抗形態が変化し、村役人層を指導者として村民が結束し領主に対して広範囲な強訴が行われた。消費が拡大し、手習所が普及して識字率が上昇し、農書が豪農層を中心とする識字率の向上を背景として,新しい農業技術を広範に伝達して農業生産力向上に貢献し、小農経営に適応した集約型の農業技術を流布させ,さらに商品経済活発化に対応した農業経営への転換をはかるノウハウを提供した。兵農分離と参勤交代制による武士の都市集住が消費需要の増大をもたらし、全国的な流通網も整備され、また耕地面積の拡大・農業技術の発達による農業生産力の向上を背景として農村では商品作物の生産・流通が行われ、さらに文化活動を通して村の領域を超えた交流が生じた。商品経済が発展すると貨幣経済に侵食された農民の階層分化が起こり、農村の性格が刈敷・草木灰などの肥料や薪・炭などの燃料の供給源としての入会地の共同管理や結と呼ばれる田植えなどの共同作業を基盤とした共同体的性格から、都市での需要に対応した付加価値の高い綿花や菜種などの商品作物栽培、農間副業の拡大および油粕・〆粕・干鰯などの金肥購入を媒介とした競争的性格へと変容していき、金肥の価格上昇が農業経営の収益性を圧迫したりもした。困窮して年貢を納められない百姓に田畑を抵当にして貸し付けを行い、借金を返済できない質入れ人から質流れという形で田畑を村の内外から集め、その田畑を小作人に貸して小作料を取り立てる地主も出現し、小百姓たちは小作人となったり、年季奉公に従事したり、都市での日用稼ぎなどに従事して裏長屋に住む貧民として生活を維持するようになり、飢饉の際には都市における打ちこわしの主体ともなるなど貨幣経済に巻き込まれ、本百姓を中心としていた村は、百姓層の分解により構造が変化した。貸付地を所有する者が人を雇ってみずから耕作を行う地主手作では、労働力の賃金が農産物価格を上回り、また地主手作が他の小農経営より高い生産性を発揮できるような農業技術は無かったことで、地主手作は挫折して貸付地主が主流になっていった 。小作人は地主である豪農に対して小作料の引き下げを要求し、小百姓らは村役人でもある豪農の不正を追求し、村の民主的な運営を要求するなど、豪農と小百姓や小作人との間の対立が深まり、村方騒動が各地で多発し,また村々の百姓が幕藩領主に対して年貢減免などを求める強訴の形態の惣百姓一揆全藩一揆なども増加していった。幕末に開港されると、養蚕・製糸業は従来の手挽などに代わって座繰が発展し、マニュファクチュアも出現したが、生糸輸出による原料不足や価格騰貴によって絹織物業は壊滅的な打撃を受け、また外国からの綿布の輸入拡大は地域的分業体制による自給的生産が存在していた綿織物業に打撃を与えると共に農民の衣料品自給生産を縮小させ、商品経済の農村への浸透および農民の土地喪失を加速させた。階層分化が進む状況のなか,幕府への不満から貧農が主体となり村役人・豪農層に対して打ちこわしを行い,幕府崩壊により貸借関係も破棄されるという徳政意識も背景としながら施行や質地の返還などを求めて起こした世直し一揆も多発した。

義民の例を 2 人挙げよ。

佐倉惣五郎(木内宗吾)。磔茂左衛門。


惣百姓一揆の具体例を挙げよ。

伝馬騒動。

全藩一揆を4つ挙げよ。

松木庄左衛門らの一揆。磔茂左衛門らの一揆。元文一揆・郡上宝暦騒動。

鍬下年季とは何か、説明せよ。

江戸時代、新田開発奨励のために、新田開発の地に対して一定の期間,年貢・諸役を免じること。

近世の村の担っていた社会的役割を、村役人の果たした役割を説明しながら述べよ。

近世の村では、村請制の下で、名主などの村役人が百姓に対して石高を基準にして年貢・諸役の割り当てを行い、村高に見合った年貢を村全体の責任で領主へ一括納入し、さらに領主から文書で指示される命令を村民に伝える役割を果たしたことから、幕府や藩は村を百姓支配の末端組織として位置付けていた。さらに薪や肥料の供給源としての入会地の管理や灌漑施設の管理、および相互扶助の意味の結などが行われる共同体的役割も果たしていた。

村請制の内容を説明せよ。

中世の惣村の地下請が近世でも継承され、検地によって確定された村全体の石高である村高を対象として幕藩領主によって年貢が賦課され,村役人の責任のもと,村全体で年貢が納入された。

農村における村入りを説明せよ。

慣習として行われ、他者からの来住者に対して厳しく、保証人の設定・村民の承認と披露・氏神社氏子資格の獲得・共有財産株の取得などが条件とされた。

百姓株を説明せよ。

江戸時代、一軒前の百姓として存在するための諸権利や、家産・家名などの総体が株として物件化されたもので、村の置かれた自然的・社会的条件に制約されて百姓数が抑制される場合、その権利が株として譲渡・売買の対象となり、株所持が村構成員の条件となった。

識字率の向上を背景として豪農が学問を用いた理由を説明せよ。

労働集約的な農業技術の進歩に対応するために農書を読み、さらに村請制の下で領主との折衝・百姓への法令の伝達や年貢の割り当てなどを行い、また貨幣経済の進展による百姓の階層分化から生じた小作人の発生・出稼ぎ農民や無宿人の発生などに起因する江戸後期の村秩序の動揺に対する村民教化を行うために儒学・国学が必要だった。また経済発展による商業的農業や手工業への経営拡大のためにも学問を必要とした。

百姓代の役割を簡潔に説明せよ。

百姓代は、一般の本百姓の中から世襲の多かった村役人の不正・監視役として選出された

江戸時代の綿織物業の発達について、その背景にも触れながら説明

木綿は吸湿性や保温性に優れ、かつ丈夫であることなどから庶民の衣料として普及し、江戸中期ごろから、近畿・東海地方を中心に綿織物業が盛んになった。当初は女性労働の地機による問屋制家内工業の形態がとられたが、江戸後期には高機の普及や工場制手工業による生産も行われた。

玉川上水を説明せよ、

江戸時代,飲料水として多摩川の水を引いた上水路であり、神田上水と並ぶ二大上水の一つ。近代水道整備後も淀橋浄水場への導水路として利用された。

札差の本来の業務と、巨利を得るようになった理由

浅草にあった幕府の米蔵から旗本、御家人の代理として俸禄米を受け取り、その売却までを請け負って手数料を収入とした。諸色高米価安によって旗本・御家人の困窮も進み、次第に札差は彼らを相手に俸禄米を担保とした金融を行い、それで莫大な利益を得るようになった。

古代から近代にかけての人々と油の歴史について簡潔に説明せよ。

延喜式に既に胡麻油が見え、貴族社会や寺社では荏胡麻油は灯用として欠かせないものとなっていた。中世で大山崎の神人が石清水八幡宮への灯明油貢進を名分として、原料荏胡麻の仕入れや販売の特権を得て、また様々な座も存在した。近世に入ると荏胡麻に代わって菜種と綿実とが主要原料となり、特に菜種は都市生活の発展と共に木綿と並ぶ大商品となった。しかし、明治維新後、石油の輸入によって菜種・綿実油生産は急激に衰退した。

寛永の飢饉(1641年~42年)の背景を説明せよ。

幕府や藩による過度な収奪に起因する慢性的な農民の疲弊による農地の荒廃現象がみられ,島原の乱による九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により,農村の疲弊状況がさらに深刻化した。さらに西日本を中心として全国的に牛疫病が流行して農耕に甚大な影響を与えた。また西日本では干ばつに見舞われ,さらには虫害の被害を受け,北陸・関東・東北地方では長雨と冷気による冷害に襲われ,全国的な大凶作となった。

※江戸四大飢饉…寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉

※寛永の飢饉による百姓の疲弊の中で、大名は百姓が生業を維持できるように「仁政」を施し、百姓はそれに応じて年貢を完済すべきであるという考え方が定着した。

田畑勝手作禁止令(1643年)の内容およびそれが出されてからの農家の実態を説明せよ。

江戸幕府は石高制の下での年貢米の生産を重視していたため、米を作るべき田畑において木綿・煙草・菜種等の商品作物の栽培を禁止する法令である田畑勝手作禁止令を出した。しかし、諸藩ではこの法令は藩の経済・産業政策に対する幕府からの干渉と見なされて不評であり、17世紀後半になると各地で商品作物の生産が盛んになり、この法令を無視して商品作物を生産してその売却益で年貢米を購入して納入する者も出始めていた。また、各地で米の生産量が増えて米価が低迷してきた事から諸藩も商品作物の栽培を奨励して農家の収入を増加させて、ひいては納税先である藩の財政を安定させようとする所も増加した。 この情勢に幕府も18世紀前半に田方勝手作仕法を発令して、年貢増徴を条件に商品作物栽培を黙認する政策に移行した。

江戸時代に多くの百姓が後に非農業部門に進出していった税制の特徴を説明せよ。

土地に賦課する年貢の比重が圧倒的であったため、農業以外の生業に従事するほうが税制上有利であった。

田畑永代売買禁止令(1643年)および分地制限令(1673年)の目的と背景を説明せよ。

新田開発の発達などで17世紀を通じて小百姓の自立が進んだが、江戸幕府による、戦乱の終結の中での主従関係の確立のための手伝い普請(江戸城の拡張、市街地の造成、築城工事など)の命令により、それへの動員の結果、その負担が領内の百姓へ転嫁され、寛永の飢饉とも相まって百姓経営が動揺し、逃亡も相次いだ。そこで、江戸幕府は本百姓の経営を安定させ、彼らが貨幣経済に巻き込まれて没落して年貢米の確保が減少することを防ぐために田畑永代売買禁止令を出した。さらに田畑の分割相続による経営の零細化による本百姓の没落を防ぐために分地制限令も出した。

近世前期において、新田開発が活発化した背景

戦乱の時代が終わって農業に専念できたことや、1本の河川を上流から下流まで一円的に支配するような藩などの権力が各地に成立し、利害の調停がしやすくなったこと、幕府や藩が自ら新田開発に乗り出したり、奨励したこと、治水・土木技術が発達したことなど。

竜骨車と踏車を比較せよ

竜骨車が大型で多くの労力を必要とし、故障も多かったのに比べ、踏車は小型で持ち運ぶこともでき、労力も少なくてすみ、かつ丈夫であるなどの利点があった。

商品経済発達の地域間格差

瀬戸内・近畿・東海地方など先進地帯では村落内部に多様な職業分化が生じたが、東北・北陸・山陰・九州などでは自給的経済の色彩が強かった。

【概説日本経済史 近現代 三和良一 著 を参照】

江戸時代の識字率上昇の要因を紙の技術の発展に即して

流漉という技法により大量に栽培できる楮を紙原料にすることが可能になり、雁皮を原料とする中世以来の斐紙に代わって楮を原料とする楮紙の生産が増加し、専売制が採られて藩も生産を奨励したため、その結果、安価な紙が庶民にまで大量に普及した。

【日本史研究 山川出版 を参照】

18世紀前半において、国内の消費生活においてどのような動きがあったのか。条件として,それぞれの産物の用途に留意せよ。

商品経済の発展に伴い,武士だけでなく上層町人や豪農の生活水準が上昇したのに応じ,生糸を原料とする高級な絹織物や朝鮮人参などの薬種,砂糖を使った菓子など奢侈品の消費が増大していた。

四木三草を説明せよ。

江戸時代,特有農作物として重視された桑,楮,漆、茶の4木,麻、藍、紅花の3草の呼称。

江戸時代の特産物を挙げよ。

出羽村山(最上)地方の紅花。宇治・駿河の茶。備後の藺草。阿波の藍。薩摩(琉球)の黒砂糖。甲斐のぶどう。紀伊のみかん。

※その他

●織物●

・絹…西陣織・桐生絹・足利絹・伊勢崎絹・丹後縮緬・上田紬

・木綿…小倉織・久留米絣・有松絞・尾張木綿・河内木綿

・麻…奈良晒・越後縮・近江麻・薩摩上布

●陶磁器●

有田焼・京焼・九谷焼・瀬戸焼・備前焼

※豊臣政権期に強制的に移入させたものを含めて、朝鮮の陶工の技術に負う部分が多かった。

●漆器●

南部塗・会津塗・輪島塗・春慶塗

●製紙●

・日用品…美濃・土佐・駿河・石見・伊予

・高級紙…越前の鳥の子紙と奉書紙・美濃紙・播磨の杉原紙

●醸造●

・酒…伏見・灘・伊丹・池田

・醤油…野田・銚子・京都・龍野

江戸時代の林業を説明せよ。

飛騨や紀伊の材木商人の中から陸奥・出羽・蝦夷地において山林の伐採を請け負うものが出て、木材を江戸や京都で販売して巨額の利益を得た。熊野や伊豆・下総などでは高級な炭が作られ、幕府や大名への貢納品や商品となった。さらに、木地師と呼ばれる木工職人が日用品など木製品の生産に携わった。

江戸時代の漁業を説明せよ。

網漁では上総の九十九里浜の地曳網によるイワシ漁、肥前五島の鮪漁、松前の鰊漁が盛んであった。釣漁としては、土佐の鰹や瀬戸内海の鯛、紀伊・土佐・肥前・長門などの鯨漁が行われた。蝦夷地では豊かな漁場や和人の参入で鰊漁だけでなく昆布やいりこ・ほしあわび・ふかのひれを詰めた俵物の生産が行われた。漁場では、網主(網元)や船主が多数の網子・船子を使役したが、漁民が対等に入会漁業を行う場所もあった。

江戸時代の塩業を説明せよ。

高度な土木技術と資金を必要とする入浜塩田が、播磨の赤穂などの、干満差が大きく遠浅の瀬戸内海沿岸部を中心に展開した。一方で、小規模塩業は衰退した。

※入浜式塩田は、近世から昭和年代にいたるまで長く日本における製塩の中心をなしたが、1950年代に流下式塩田に転換した。

藩札を最初に発行した藩を記せ。また、藩札の目的と影響を説明せよ。

福井藩。金札、銀札、銭札、米札などと称された。諸藩が財政窮乏救済のため発行したもので,発行には幕府の許可を必要とし,領国内の流通と幕府貨幣との兌換を原則とした。しかし、兌換準備を欠く発行が多く,兌換要求の増加に対してその停止処置をしたことで一揆が起ったり、不換紙幣化して藩札の市中価格が暴落して経済が混乱状態に陥る場合もみられた。また物価騰貴の原因となったりして,幕府の金融政策としばしば衝突した。

御救普請とは何か説明せよ。

江戸時代に飢饉、米価高騰、自然災害などに際し、領主が貧窮者に就業の機会を与えることで救済を目指した事業。

御用金とは何か説明しろ。

江戸時代に幕府・諸藩が財政上の不足を補うために御用商人をはじめとする町人や百姓に課した臨時賦課金である。

御用商人を説明せよ。

江戸時代に幕府・諸藩の年貢米・国産品の販売などを独占し金融なども行った特権商人で、領主は彼らに扶持米・屋敷地の給付、営業上の便宜などの特権を与え保護を加える代りに御用金を課した。

大名貸を説明せよ。

江戸時代,商人が大名を相手に行なった金融。江戸時代初期から藩財政が窮迫してきたため,諸藩では,領内や三都 の有力商人からの借財で藩の経営を維持した。当初は素貸であったが,元禄以降,踏倒す大名が多くなったため,米や藩の産物を抵当に貸付けた。踏倒しで倒産する者もいたが,藩財政を掌握して利益を得る者もいた。


拝借金を説明せよ。

江戸幕府が財政支援のために、大名・旗本などに無利子に貸与した金銭であり、居城の罹災や領内の災害・凶作、勅使や朝鮮通信使への接待などの幕命による御用遂行、転封、幕府の役職就任などに拝借金が貸与された。拝借金は幕藩体制維持のためには必要な措置であったが、同時に幕府財政を悪化させる要因になった。

借り上げを説明せよ。

江戸時代、各藩で財政に困窮して、家臣から借りる形式で、俸禄を減らしたこと。


米価政策としての買米令と御用金令を比較せよ。

米穀の流通量を減少させることで米価の引上げをはかる点が共通点であるが、前者は富裕町人らが幕府から指示された量の米を購入・保有するもので,後者は町人・農民から徴収した御用金を使って幕府みずからが米の買上げを行うものである点が相違点である。

農民への主な税を簡潔に説明せよ。

年貢としての本途物成、種類・税率・課税方法が様々であった小物成、幕府が河川の修築や日光社参などの経費として特定の国を指定して臨時に徴発した国役、付加税として様々な名称があった高掛物

若者組を説明せよ。

村落ごとに組織されていた青年男子の集団で、村落の警備・消防・祭礼・労働奉仕などに当たった。明治に入って青年会・青年団に改組されていった。

潰れ百姓を説明せよ。

江戸時代、年貢増徴や凶作、商品経済の浸透などによって破産した百姓のこと。江戸中期以降多く発生し、その多くは都市に流入し、農村荒廃や都市の社会問題の原因となった。

郡中惣代を説明せよ。

江戸時代の天領における村役人の代表であり、代官所の行財政の補完的役割を担うものとして江戸時代後半から置かれ、村方騒動の際の地域間の調停にもあたった。

領主が財政的に困窮した社会経済的理由と、その困窮への対策を説明せよ。

商品経済の進展は都市での消費生活を活発にし,さらに農書の普及や農業技術の発展、新田開発の拡大は米の供給過剰を生みだして諸色高米価安を生じさせた。幕藩領主は米納年貢を経済基盤としていたため,年貢米換金による貨幣収入が減少する一方で消費支出が増加し,財政難に陥った。そこで大名貸などに依存したが、他にも俸禄の一部を借り上げたり、半分に削減する半知を行うなどの措置もとったため、その影響は家臣にも及び、武士の困窮は対処しきれないほどになった。

酒造制限令は江戸時代の社会においてどのような効果をもたらすものと期待されたのか

石高制を基盤とする幕藩体制下では、酒造に必要な米が食糧であるだけでなく、領主層が換金する年貢でもあったため、米価を調節する効果が期待された。

18 世紀以降に西陣や桐生の絹織物生産が飛躍的に発展した理由 を説明せよ。

都市の発達に伴って消費生活が拡大で絹織物の需要が増加し、北関東を中心に養蚕が盛んとなり生糸生産が拡大した。

縁切寺を説明せよ。

江戸時代、妻がそこに駆け込み、一時在住すると離婚できた尼寺で、中期以降は鎌倉の東慶寺、上州の満徳寺に限定された。


※三従の教・七去  ※三行半(離縁状)(夫から妻へ)

ちょぼくれを説明せよ。

江戸時代の大道芸で、願人坊主などが鈴などを振りながら歌をうたって米銭をこうたもの。


御救小屋を説明せよ。

近世に飢饉,火災などの災害時,貧窮の罹災者を収容する目的で建てられた仮小屋で、貧窮者の市街浮浪を抑止するためにその全生活を管理する御救小屋と,飯米の一時的施与のみを目的とする炊出し小屋に分化した。

田沼時代~幕末までの三都における幕府の仲間政策を説明せよ。

田沼意次は仲間を広く公認し、運上・冥加の増収と流通統制を図った。

化政期において在郷商人が地方市場を結ぶ新たな流通網を形成する中、流通の自由を求める国訴が起こると幕府は仲間の独占を緩和した。天保期においては仲間の集荷力の低下で物価が上昇したが、仲間を解散させて逆効果となり、後に再興された。幕末期には開港で在郷商人が商品を横浜に直送し流通が混乱すると、幕府は仲間の保護と物価統制ならびに貿易統制のために五品江戸廻送令を出したが効果はなかった。

18 世紀半ば以降の幕府の財政難とその対策を説明せよ。

財政難の原因は、農民の階層分化による本百姓体制の動揺や諸色高米価安

田沼時代…銅座・人参座などの座を設けたことによる専売制の強化や株仲間の積極的公認で運上・冥加を増長するなど、「年貢増徴だけに頼らず」、商品生産やその流通に新たな財源を見出した。

寛政の改革…出稼ぎ制限や帰村を奨励する旧里帰農令を出し、農村人口の回復を目指した。

17 世紀半ばの政策と、寛政・天保の改革の飢饉対策の性格の違いを説明せよ。

17 世紀半…田畑永代売買禁止令など、本百姓体制の維持が図られた。

寛政・天保の改革期…貨幣経済が浸透して農民層の分解が顕著となっており、江戸に流入した農民の帰農が促されるなど荒廃した農村の復興が目指された。


産物会所の内容と設置の背景を説明せよ。

江戸時代中期以降に殖産興業政策や各地の特産を専売するために設けられた諸藩の機関で、貢租収入を中心とする藩財政は,商品経済の発展に対応できず窮乏状態に陥ることが多く,その打開策として,各地で生産される米以外の特産物を藩や御用商人が一手に集荷して藩外への販売を行い,その利潤で財政の建直しを企図した。藩営専売制度を設けて流通独占による利益を得ようとしたために百姓一揆の対象にもなり,価格騰貴を引起して市場を攪乱したりもした。

防長大一揆を説明せよ。

長州藩領内で起きた百姓一揆で同藩の天保改革の契機となった。藩は産物会所を開設して百姓の商品作物を藩の統制下に置く施策をとっていたが,特権的な御用達商人と百姓の紛争を発端に一揆が起きた。一揆勢は,紙・蝋などの商品流通の統制排除,年貢の軽減,村方行政の改革などを要求し,これに対して村田清風は産物会所および専売制の廃止などを回答して切り抜けた。

江戸時代後期における、魚市などの専門市の特徴や役割を説明せよ。

問屋・仲買と小売商人との売買の場である卸売市場でもあり、都市と農村を結ぶ経済の中心としての役割を果たした。

19世紀初頭以降、大坂への木綿の入荷量が減少した理由を説明せよ。

江戸地廻経済圏など地方市場の成立と在郷商人の台頭、藩専売の強化により大坂の中央市場としての機能が低下し、さらに開港以降は綿織物、綿糸が大量に輸入されたため、綿花需要が減退してさらに激減した。

江戸地廻り経済圏の形成過程を説明せよ。

成立当初の江戸は、その消費を支えるだけの近郊地帯を持たず、下り荷は関東の生産品に対して比較的高度の技術を要する加工品が多かったために、幕府の市場政策も初めは大坂に依存する度合いが強かった。

近世中期以降になると関東やその周辺では、江戸市場目あての生産が高まり、下り荷への依存度は低下し、銚子・野田の醤油や八王子・秩父の絹織物などが生産された。江戸地廻り経済圏の形成過程で、江戸送りのために生産物を集荷し、江戸からの商品を配給する機能をもつ在方町が圏内の各地に成立し、在郷商人も圏内の農村に成立。在方町の問屋も在郷商人も、江戸との取引が盛んになるに伴って、江戸の問屋との結合を強めたが、既成の流通組織から離脱して、直接江戸との取引を試みる者もあり、幕藩体制の商品流通組織を変質させていった。


※江戸に入荷する商品➡京都・大坂方面からの下り荷、江戸に近い近国から送られてくる地廻り荷

近世から近代初期における米の大坂への年間入荷量の変化を説明せよ。

江戸時代、諸藩には石高制の下、米納年貢を経済基盤としており、大坂には多くの諸藩が年貢米換金のために蔵屋敷を設置していたため、18 世紀前半から 19 世紀前半ではほぼ一定の米が入荷されていた。しかし、廃藩置県で蔵屋敷が撤去され地租改正で金納地租が導入されて農民が地方市場で米を換金するようになり、19 世紀末では激減した。


江戸時代の綿花の大坂への年間入荷量の変化を説明せよ。

18 世紀初期から木綿が庶民衣料として普及して綿花栽培が広がり、大坂の問屋商人が綿花を集荷したため 19 世紀初期では激増した。しかし、地方市場の成立と在郷商人の台頭、藩専売の強化により大坂の中央市場としての機能が低下し、19 世紀半ばでは激減し、開港以降、綿織物、綿糸が大量に輸入されたため、綿花需要が減退し、19 世紀末ではさらに激減した。

在郷商人が生まれ、活発化していった背景

近世社会では、農商分離政策により在方と町方が明確に区分されていたにもかかわらず、農民による農間余業稼ぎへの従事、商品生産の発展により徐々に農民の商人化が進み、さらに、農民の全剰余労働部分を収奪しようとする領主側の目論みが、百姓一揆などの農民側の抵抗によって後退させられ、次第に領主側も在方商業を認め、在方株承認や国産奨励政策の実施などにより体制内に取り込もうとする政策へ転換していき、農村部でも在郷商人が活動するようになった。

18~19世紀に仲間の集荷力の低下を引き起こした要因を説明せよ。

江戸の仲間商人を介さずに独自の流通経路を開いた在方の在郷商人が台頭し、江戸の株仲間外商人である素人らも彼らと協力するなど、三都を介さない江戸地廻り経済圏が発展した。また摂津・河内の1007カ村の農民・在郷商人らの国訴により幕府が仲間による独占を緩和し、さらに藩専売が増加して藩が直接消費地に売買する産物が増加した。また、新興廻船が各寄港地で特産物の買い入れと積荷の販売を活発に行うようになった。

19世紀になり、江戸と地方が直接結びつくようになった経済的背景を説明しろ。

商品経済が発達した結果、各地に地域市場が形成され、農村では在郷商人と呼ばれる新興商人が台頭した。彼らは大坂の特権的な株仲間商人を介さず、内海船のような新興の廻船業者と結びついて、江戸をはじめとする消費地と直接取引するようになった。その結果、江戸と地方が経済的に結びつくようになった。

関東取締出役の目的と内容を説明しろ。

江戸地廻り経済圏の成長により、関東において無宿や博徒が横行したうえ,関東では幕領と私領が混在して治安維持が難しかったことから,勘定奉行に直属した関東取締出役を設けて幕領・私領の区別なく関八州を巡回して警察機能を担当させ,無宿や博徒を取り締まらせた。さらに,近隣の村々で組合を作って小惣代をおき、それをいくつかまとめて大惣代をおくなど、広域な村々をまとめて寄場組合を編成させ,「下部組織」として治安の維持や風俗の取締りにあたらせた。

文政の改革について説明せよ。

江戸幕府は関東地方における治安取締りのため関東取締出役を設置したが、さらに取締りを強化するために、「文政の改革」を発令し、その中心に組合村の設定を置いた。この組合村は、関東一円に領主の異同に関係なく近隣3~5か村からの小組合と、さらに10近い小組合を結集して大組合を編成し、これを改革組合村の一単位とした。この大・小組合村にそれぞれ組合村役人を名主のなかから任命し、警察的取締りのほか、農間余業や職人の手間賃などの統制を行った。

錦絵を、その大成者を記して説明せよ。

鈴木春信。多色摺りの木版画であり、版元・絵師・彫師・摺師の分業体制により成立した。以後浮世絵版画はすべて錦絵の名で呼ばれるとともに、その安価さにより庶民にも浸透し、文化・文政時代に花開くことになった。

国訴の内容を簡潔に説明せよ。

大坂の問屋商人が幕府へ株仲間の公認をもとめて販売・流通の独占確保をはかると,木綿や菜種などの自由販売が阻害されたため,商品経済の浸透に伴う地域市場の拡大および人々の交流が活発になる中で利害を共有する村々が「在郷商人」の指導のもとで広範囲に結集し、木綿や菜種などの自由販売を合法的手段により幕府へ要求したものである。畿内を中心に各地にも伝播したこのような広域的訴願は幕藩制的流通機構を破壊する役割を担った

世直し一揆と従来の百姓一揆との相違点を説明せよ。

従来の代表越訴型一揆や惣百姓一揆…村々の百姓が幕藩領主に対して年貢減免などを求めるために起こした。

世直し一揆…階層分化が進む状況のなか,「貧農」が主体となり村役人・豪農層に対して打ちこわしを行い,施行や質地の返還などを求めた。世直し一揆の背景には、幕府崩壊により貸借関係も破棄されるという「徳政意識」が存在した。


主な世直し一揆を挙げよ。

郡内一揆。加茂一揆。三閉伊一揆。信夫・伊達郡の一揆。武州一揆。

草莽の国学とは何かを説明せよ。

在野の国学を意味し、江戸後期から幕末にかけて国学が広範に展開すると共に、農村部の豪農・豪商に国学に傾倒する者が多く現れ、村落指導者として農村復興を行ったり、尊王攘夷運動の基盤をなした。

開国後に民衆運動が増加した政治・経済的背景を説明せよ。

開国に伴う原料不足および在郷商人の台頭による流通機構の混乱による物価上昇や商品経済の一層の浸透により促進された農村の階層分化、政局をめぐる抗争は社会不安を増大させ、支配権威の低下をもたらした。さらに金銀比価の問題による大量の金流出に対し,幕府が著しく軽量化した万延金を発行して対処したため,物価騰貴に拍車がかかった。その結果、没落した貧農らが世直し一揆をおこし、大阪や江戸では町衆による打ちこわしが発生するなど、為政者への不信が明確に示され、また外国貿易に対する反感が高まって攘夷運動が激化した。

「五品江戸廻送令」を出した理由およびその結果を説明せよ。

輸出商品の生産地と直接結びついた在郷商人問屋を通さずに直接商品を開港場に送ったので、江戸をはじめとする大都市の問屋商人を中心とする特権的な流通機構は次第に崩壊し、さらに急速に増大する輸出に生産が追い付かないため物価が高騰した。そこで幕府は、従来の流通機構を維持して物価を抑制するために五品江戸廻送令を出し、五品(雑穀・蝋・呉服・水油・生糸)横浜直送を禁止して必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じたが、結局は在郷商人や列国の反対でほとんど効果はなく、糸問屋の生糸買取停止を命じ、事実上廃止された。

江戸幕末期において、横浜港が開国後の貿易の中心となった理由を説明せよ。

横浜は幕府所在地かつ一大消費地の江戸に近く、主要輸出品である生糸や茶の産地を周辺に有していたことから、開国後の貿易の中心地となった。

蚕卵紙も重要な輸出品

江戸時代のマニュファクチュア経営を説明せよ。

17 世紀からの伊丹・灘の酒造業、19 世紀からの大坂周辺や尾張の綿織物業、西陣・桐生・足利の絹織物業、川口の鋳物業など。

絹業・綿業の開港による影響を説明せよ。

絹業:【繭生産の養蚕・生糸生産の製糸・絹織物生産】の3つの工程による地域的分業

●絹織物業…京都西陣(織屋が高機を用いて女性労働者の分業で高級織物を生産)の技術を受容して地方でも発達し、とくに桐生や足利ではマニュファクチュア経営も成立したが、開港による生糸輸出の開始で絹織物部門では原料糸不足、価格騰貴などで破壊的な打撃をうけた。


●養蚕・製糸業…発展の好機をつかみ、開国により従来の手挽・胴繰に代わって座繰が中心となり、長野・山梨などで一部にマニュファクチュア経営が出現した。

綿業:【綿花生産・綿糸生産・綿織物生産】の3基本工程による、地域的分業関係


●綿織物生産…大坂周辺や尾張などでマニュファクチュア経営が発生していた。開国による綿織物輸入で打撃を受けたが、輸入綿糸を原料に転換することで新たな発展を模索した。しかし、綿糸の輸入は急増した。


●綿糸生産…紡績機械制の綿織糸が、糸車による手紡糸を圧倒して大きな打撃を受けた。


●綿花生産…南北戦争期に日本綿花が輸出品となったこともあり、雑用綿市場も拡大して綿糸生産よりは打撃は軽微であった。

※綿糸布の輸入→賃機や手紡・綿打ちなどの副業や綿作によって現金収入を得て生活を維持してきた農民たちは没落の道へみ、土地を手放したり賃金労働者や小作農にならざるを得ない人々が増加した。

※綿製品輸入は農民の衣料品自給生産を縮小させ、商品経済を農村に浸透させ、農民層の分解を促進させた→自給的経営の解体と農民の土地喪失が促進し、封建制社会の経済基盤が崩壊しつつあった。

※資本制社会の形成に不可欠な原始的蓄積である「資金、賃金労働者」の蓄積、特に後者の蓄積が開港を機に急速に展開。

1860 年頃から西陣や桐生での絹織物生産が急減し、明治初期以降に回復した理由を説明せよ。

貿易開始で、生糸が生産地から開港場へ直送されて大量に輸出されたため、国内の絹織物業地は原料の生糸不足に陥った。しかし、 1870 年代になると手織機の改良に伴って生産能力が著しく向上し、また文明開化の風潮とインフレ下で製糸業が発達し、豪農層が成長したことなどを理由として生産は回復した。

貿易当初の日本の生糸の世界的重要性を説明せよ。

最大の生糸消費地であったヨーロッパでは蚕の病気が長期間蔓延していたため生産量が落ち込み、最大の輸出国であった清からの輸出量がアヘン戦争や太平天国の乱の影響により減少していたため、開国したばかりの日本の生糸は注目された。

1865 年~1867 年にかけての日本の貿易のありかたの変化を説明せよ。

輸出の大半が生糸であったため、国内に品不足が生じ、日本の生糸価格が高騰した。また、ヨーロッパの養蚕業が復活して需要が減少したことにより輸出が激減し、改税約書により輸入関税が大幅に引き下げられて輸入が増加した。第二次長州征伐での幕府の敗退による政治不安を背景として長崎港から諸藩が武器や艦船を輸入したことも相まって、貿易は急激に輸出超過から輸入超過に転じた。

攘夷が激しくなった理由を説明せよ。

安政の五ヵ国条約に基づいて貿易が開始されると,輸出が拡大して国内で物資不足が生じ,在郷商人の台頭により流通機構が混乱したため,物価騰貴が生じた。大量の金流出に対し,幕府が著しく軽量化した万延金を発行して対処したため,物価騰貴に拍車がかかった。そのため、下級武士や庶民の生活が圧迫され,外国貿易に対する反感が高まって攘夷運動が激化した。

第2次の長州藩征討が行われた年に民衆運動が激化した理由を説明せよ。

開国に伴う物価上昇やその経済変動により促進された農村の階層分化、政局をめぐる抗争は社会不安を増大させ、支配権威の低下をもたらした。没落した貧農や半プロレタリア―トが「世直し」を期待して世直し一揆をおこし、大阪や江戸では町衆による打ちこわしが発生するなど、為政者への不信が明確に示された。

直輸出を説明せよ。

居留地貿易で生じる不利益に対抗して貿易の実権を取り戻すことを目的として、内国商が輸出取引上の基本的な責任を負い、輸出品を直接外国に輸送・販売する貿易形態である。1897年には「生糸直輸出奨励法」が公布されたが、米英をはじめ内外の反対が強く、廃止された。

居留地の内容および文化的意義を説明せよ。さらに、居留地貿易の実態とその役割を説明せよ。

外国人の居住・営業を認めた地域のことで、神奈川(横浜)・長崎・箱館・神戸・大阪・江戸(東京築地)などに設けられ、外国人は借家や永代借地権を得た。居留地では遊歩の条項により行動範囲は制限されたが、一方で洋風文化流入の窓口になった。

居留地貿易では外商と取引する内国商は売込商と引取商にほぼ限定され、言葉の障壁や取引上の知識の不足、外国商人側の治外法権の存在により外商優位の取引慣行が形成されていた。このため、居留地貿易は商権回復運動の面から非難されたが、外国勢力の国内進出を最小限に食い止め、国内産業を保護する役割を果たしたともいえる。

※進出した主な海外商社・銀行

ジャーディン=マセソン商会(イギリス)

・ギルマン商会(イギリス)

・バターフィールド=スワィアー商会(イギリス)

・オリエンタル=バンク(イギリス)

・チャータード=マーカンタイル銀行(イギリス)

・香港上海銀行(イギリス)

P&O汽船会社(イギリス)

・ウォルシュ=ホール商会(アメリカ)

・太平洋郵船会社(アメリカ)

・帝国郵船会社(フランス)

改税約書=江戸協約(1866年)の内容を、経緯とともに説明せよ。

1865年に連合艦隊は大坂湾に入り,上京していた将軍の徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに,「修好通商条約の勅許,兵庫開港,輸入税率を5%にすること」の3ヵ条の実現を要求した。この武力の威嚇の下で開かれた朝議は,兵庫開港は認めないが条約は勅許することを決定したため、関税率の低減受諾は必至の成り行きとなった。このため、幕府は兵庫開港延期の代償として関税率を一律20%から5%まで引き下げた。また、物価上昇による関税の上昇が抑えられるようにするために、従価税から、過去数年間の平均をとる従量税に変更され、さらに無税倉庫の設置や,貿易制限の撤去などがあわせて規定された。これにより、以後は安価な外国商品が日本市場に流入し,産業経済の自立は著しく圧迫されることになった

ええじゃないかを説明せよ。

東海地方から起こって各地に波及した大衆乱舞で、伊勢神宮のお札などが空から降ったことを契機に、人々が「ええじゃないか」と歌い踊りながら町や村を巡り歩いた。民衆の世直し要求を一種の宗教的熱狂の形で表現したものといわれ、討幕運動を推進する機能を果たし、討幕派は封建的社会秩序の攪乱にこれを利用した。

1867年、名古屋のええじゃないか (「青窓紀聞」:ええじゃないか150年|名古屋市博物館 (city.nagoya.jp))