享保の改革

【享保の改革の社会経済的・政治的背景を説明せよ。】

→まずは社会経済的視点について。幕府財政は本来は約400万石の幕府領からの収入と石見銀山などの鉱山からの収入が大部分を占めていたが、元禄期になると明暦の大火の復興費や綱吉による多大な出費に加えて鉱山収入の減少により初めて財政赤字を経験した。さらに商品生産の発展・農業の発展による諸色高米価安も重要な背景であった。石高制の下で年貢を換金することで商品生活を営む武士たちひいては江戸幕府にとってこの物価体制は不利なものであったのである。また、政治的背景としては綱吉や白石の政治の失敗を挙げればよい。

A 全国的商品経済の発展が諸色高米価安などにより幕藩体制の変質を促し、幕政においても鉱山収入の減少や災害復興による財政の不健全化、支配機構の弛緩が表面化してきた。5代将軍綱吉はこの変質に対応すべく、儒教的理想主義を掲げて、将軍の権威を高め機構を振粛するに努めたが、かえって幕臣の気風を萎縮させ、側近政治の弊害を招き、また出目を目的とした経済政策により経済を混乱させ、寺社建造も行ったことで財政悪化を促進させた。また、新井白石は前代の弊政除去に努め、機構改革・通貨改良・貿易改正などに着手したが、貨幣改鋳も効果は少く,極端な文治主義に対する幕臣の反対も多く、白石らが諸幕臣から遊離孤立し政治は停滞していた。

徳川吉宗 引用元:Wikipedia

享保の改革における勘定所改革について、勘定所の職務内容を説明しながら述べよ。

幕府財務一般のほか,新田開発,訴訟取り扱いなどを担当した江戸幕府の役所である。責任分担を明確にするために1721年以降は財政担当の勝手方と訴訟担当の公事方に分かれ、その後、勘定奉行・勘定吟味役も双方に分かれた。23年には勘定組頭の地域別振り分けが廃止され、代わりに部門別振り分けが導入された。

享保の改革の時の経済政策を当時の社会経済的背景を交えて説明せよ。

江戸初期以来の新田開発や農業生産力の上昇にともなって市場への米供給が増大し,米価は低迷傾向にあった。それに加え,都市での消費生活の拡大にともなって諸物価が上昇傾向にあったため,年貢米の換金により財政をまかなう幕府にとって不利な物価動向となっていた 諸色高米価安に対処するため、物価引下げ令を出し、また良質な享保金銀への改鋳により貨幣流通量を収縮させ、ついで商人に株仲間を公認させて営業独占権を保証し,諸物価の引下げをはかった。さらに大坂堂島米市場を公認し、米価統制の核に据えようとした。その後良質貨幣の流通による諸物価の暴落による通用金銀の不足に対処するため、正徳金銀の品位を半分にした元文金銀を鋳造し、物価の安定に効果を上げた。

享保の改革の際の組織改革について説明せよ。

綱吉以来続いた柳沢吉保・間部詮房・新井白石らによる側近政治のため、幕政から排除された譜代大名らは、不満を強めていた。そこで、譜代大名からなる老中・若年寄を重視するとともに、新たに側近である御用取次を設け、老中らと側近を巧みに使った。さらに勘定所機構を大改革した。また、財政を専管する勝手掛老中を再置し、全国の耕地・人口を調査した。

享保の改革の際の江戸の都市政策と文教政策について説明せよ。

A延焼を防ぐための市街地用の広小路や江戸城用に火除明地を設け、町奉行大岡忠相の主導により火事対策として定火消に加えていろは組48組の町火消の整備を促すとともに,評定所門前に目安箱を設けて庶民の意見を聴取し、その意見の中から貧民の無料治療施設として小石川養生所を設けた。また綱吉や白石のように儒教を政治に利用しようとし、湯島聖堂にあった林家の塾の講義を広く庶民にまで聴講することを許可し、さらに儒教の徳目を説いた「六諭衍義大意」を板行し、儒教による民衆教化に努めた。また、郷学兼教諭所である深川教諭所を設け、武士・庶民の別なく漢学初歩を教え、日を定めて一般に講釈を聴講させた。

足高の制の内容とその役割について説明せよ。

幕府官僚制はもともと家格が重視され,役職就任者には役職に相応しい禄高を保障されて退任後もその禄高を維持されていたが、足高の制により役職の基準禄高に不足する分を在職中のみ支給することにしたことで幕府官僚制は能力主義的な傾向を強め、幕府の財政支出の軽減にもつながった。

享保の飢饉時の幕府の対応を説明せよ。

米の大凶作が起こり、米価が高騰したため、幕府領では 27万石の囲米を放出して米価の引き下げをはかり、また被害の大きい大名・旗本へは拝借金を認めたりした。

元禄金銀と元文金銀の鋳造の狙いの違いについて経済的視点から説明せよ。

元文金銀は、改鋳に伴う出目による財政収入の増加を企図した元禄金銀とは異なり、貨幣流通量を適切に確保して物価の調整を図るために鋳造・発行されたもので、正徳・享保金銀など良質貨幣の流通によって諸物価が暴落し通用金銀が不足したため,改鋳して質を落しその数をふやして、貨幣不足によるデフレを解消して経済活動を回復させ、物価を安定させる効果があった。また、米価の相対的な引き上げも企図されていた

「相対済令」の内容とその弊害について説明せよ。

幕府が、他の訴訟や政務に支障をきたさないように、金銭貸借などの訴訟を受理せずに当事者で解決するように命じた法であったが、悪用して借金を踏み倒す旗本らも続出した。

享保の改革の際の幕府の裁判への姿勢に関して、出入筋と吟味筋を比較しろ

民事裁判手続である出入筋においては,公事方御定書に基づいた公権的・法規的裁断である公正な裁許を重要視した刑事裁判手続きである吟味筋に対して,両当事者の譲歩によって合意を導く内済のほうが奨励された。

享保の改革の際の年貢に対する政策内容と、それを可能にした農業発展について説明せよ。

吉宗は、年貢率を年によって変動させる検見法から、一定期間同じ年貢率を続け、凶作以外には年貢率を変えない定免法を取り入れ、さらに現実の収穫量を基準にして年貢量を決める有毛検見法神尾春央により導入された。その背景として、肥料や農具の改良や、新田開発による耕地の拡大、農書の普及により生産力が向上する中で、貨幣経済が農村に浸透し、豪農・地主による商品作物の栽培や余剰米の商品化が広がっていたことが挙げられる。

上げ米の制の内容を説明し、その政策が幕府の財政の性格をどのように変えたか、またその政策をせざるを得なくなった政治的・社会的背景を説明せよ

明暦の大火後の復興や綱吉の護国寺・護持院などの寺社造営で支出が増大し、金銀産出量の激減や年貢徴収の限界に加え、諸色高米価安で収入の落ち込みも重なり、財政難が深刻化していた。諸大名の1年間の江戸在府期間を半年に縮減させることを見返りとして、諸大名に対して領知高1万石につき100石を献上させることで幕府の税収を増加させることを図った。それにより、直轄領への年貢の強制割り当てに依存した財政から、一定の譲歩と引き換えに多方面に財源を求める方向への変更の第一歩となった。

享保の改革内での政策について、上記に挙げたもの以外を説明せよ。

実学奨励にため漢訳洋書輸入の禁を緩和し、青木昆陽らに蘭学を学ばせた 。また、税収の増収策として勧農政策を進め、商人資本を利用し、鴻池新田や紫雲寺潟新田などの町人請負新田の開発(1687年以降禁止されていたが、解除)を奨励し、甘藷などの商品作物の栽培を奨励して畑地からの年貢増収を図った。さらに朝鮮人参の日光での栽培に成功し、国産化を進ませ、また幕府権威の回復のために日光社参を実施した。 また、小農経営維持のため質流地禁止令を発してそれを禁じたが,出羽長瀞や越後頸城などで百姓が質流地取戻しを求める質地騒動が起きたため,まもなく質流地禁止令を撤回し,質流れという形での土地移動を黙認した