政治法制史:近代【後半】

第2次山本内閣(1923~1924年)を説明せよ。

関東大震災中に成立し「地震内閣」と称された。普選実現、財政緊縮、陸軍軍縮、日ソ国交回復などを公約したが、当面は震災後の東京復興事業に追われた。戒厳令、支払猶予令、暴利取締令、帝都復興院官制などを公布した。この間、朝鮮人虐殺事件、大杉栄らの社会主義者暗殺事件が続発し、難波大助による摂政狙撃事件である虎の門事件も起こり、内閣は即日引責総辞職した。後継内閣は清浦奎吾によって組織された。

山本権兵衛内閣(第1次と第2次)のそれぞれの倒閣の理由

第1次…内閣の海軍拡張計画に反対して、営業税・織物消費税・通行税の撤廃を求める廃税運動が広がり、さらに海軍高官たちの汚職事件(ドイツ・イギリスの武器会社からの多額のリベート)であるジーメンス事件が起こった。

第2次…摂政宮裕仁親王が難波大助に狙撃された虎の門事件の責任を取った。

清浦奎吾内閣を説明せよ。

元老西園寺公望は、近く予定されている衆議院議員総選挙を党派に関係なく公平に行うこと、皇太子御成婚式を政争の具に供しないことの2点を考慮し、政党政治家を避けて、枢密院議長の清浦奎吾を後継首相に推薦した。閣僚は総理、外務、陸軍、海軍の4人を除けば、すべて貴族院議員であったため、憲政会と革新倶楽部はいち早く「時代錯誤の特権階級内閣」として清浦内閣打倒を唱え、立憲政友会は内閣支持の是非をめぐって党内が紛糾したものの高橋是清総裁の断により内閣反対の方針を明らかにし、護憲三派が形成され、清浦内閣打倒と政党内閣の樹立を目ざす第二次憲政擁護運動が高まった。衆議院における内閣支持勢力は立憲政友会脱党派により結成された政友本党など少数であり、苦境にたたされた清浦内閣は、1924年に衆議院を解散したが、同年の総選挙では、政友本党が大幅に議席を失い、憲政会が第一党になり護憲三派が過半数を制し、清浦内閣は総辞職し、護憲三派の加藤高明内閣が成立した。

1924年の総選挙で立憲政友会が前回の半分以下にまで議席数を減らした理由を説明せよ。また1924年の総選挙直後の政局も簡潔に説明せよ。

立憲政友会は、第二次護憲運動支持の立場をとる高橋是清総裁に反対するグループが床次竹二郎を中心とした政友本党を結成して清浦圭吾内閣支持に回ったため、勢力が弱まった。しかし、立憲政友会は憲政会・革新倶楽部とともに護憲三派を形成し、総選挙後に憲政会総裁の加藤高明を首班とする連立内閣を成立させた(戦前において、選挙結果を踏まえて首相が選ばれた唯一の事例)。

第二次護憲運動を説明せよ。

枢密院議長であった清浦奎吾が貴族院と官僚の勢力を背景に組閣すると、政友会・憲政会・革新倶楽部が、普選断行・貴族院改革(貴族院議員に学識経験者を多く選び、貴族院にも幅広い意見を反映させるべき)・行財政整理を掲げ、護憲三派を結成して護憲運動を展開した。その結果、総選挙で護憲三派が圧勝し、衆議院第一党の憲政会総裁である加藤高明の護憲三派連立内閣が成立した。

第一次護憲運動と比較した第二次護憲運動の特異点を説明せよ。

第二次護憲運動は、民衆の政治行動に支えられたものではなく、政党が中心となって政権獲得と階級闘争の防止を目指したものであり、普通選挙には政友会が、貴族院改革には憲政会が消極的姿勢を見せるなど、盛り上がりには欠けた。

第二次護憲運動の時の普通選挙に対する考え方を説明せよ。

労働組合・無産政党・学生団体などの多くは、普通選挙は改良主義の幻想を強めるものとしてあまり熱意を見せなかった。加藤内閣は社会革命を避ける安全弁と考え、普選の成立に踏み切ったものの、普選運動の民衆運動としての盛り上がりは弱くなっていた。

無産政党の変遷を略述せよ。

日本近代史上,明治後期から第2次世界大戦前までの間集散を繰返した共産党を除く各労働者,農民政党の総称として用いられる。共産主義政党・社会主義政党は存在自体が非合法とされていたので(治安警察法の規定により結社として届け出ると、即日禁止された)、これらの用語を避けるため「無産」の呼称が生まれた。  

社会民主党(1901年)に始まり、1910年の大逆事件により一時活動は沈滞したが,1925年の普通選挙法通過後,再び活発化した。同年に農民労働党 (即日禁止) ,翌 26年には労働農民党が結成されたが,まもなく内部対立が表面化し,右派の社会民衆党【日本労働総同盟が支持。全国大衆党と日本国家社会党へと別々に合流】,左派の労働農民党【日本労働組合評議会が支持。→労働者農民党→労農党→全国労農大衆党】,中間派の日本労農党【日本労働組合同盟や日本労働組合総連合が支持。→日本大衆党→全国大衆党→全国労農大衆党)】に分裂。

1928年の第1回普通選挙では無産諸政党全体で8名の議員が当選した。同年に労働農民党は解散させられた。のち無産政党はさらに離合集散を繰返したが,31年の全国労農大衆党を経て 32年に社会大衆党(日本無産党が一時的に分離)が結成されるに及び,一応無産政党の統一がなされた。 しかし、日中戦争開始後は受難と変節の時代を迎え、社会大衆党は戦争協力の態度を表明し、40年には解党して大政翼賛会に合流、ここに約15年にわたる無産政党運動はその幕を閉じた

第2次世界大戦後に各派が合同し日本社会党を結成するにいたり、1947年の労働運動の高揚を背景として行われた総選挙では第一党となり、片山哲を首班とする社会・民主・国民協同の3党連立内閣を組織した。

ファシズム期の財界人攻撃の先駆をなした人物を書け。またその内容を説明せよ。

朝日平吾。国粋主義団体や労働ホテルの設立を画策し、労働ホテルは都市貧窮労働者の救済を標榜し、資金は富豪の寄付で賄うとされた。しかし計画は相手にされず、「死ノ叫声」という斬奸状を用意して1921年に安田財閥の安田善次郎に面会し、これを刺殺すると同時に自殺を遂げた。

日本共産党を結成した主な人物3人と、彼らの主張を説明せよ。

堺利彦。山川均。近藤栄蔵。君主制の廃止・大地主の土地没収とその国有化・8時間労働制の実現などを主張した。

治安維持法が出された歴史的背景を説明せよ。

日ソ基本条約の締結により共産主義の影響力が拡大していた。また、無政府主義者が摂政宮裕仁親王の暗殺を謀った事件である虎ノ門事件の発生など、無政府主義活動ないし社会主義運動が活発化していた。さらに、第二次護憲運動を背景として護憲三派内閣が成立し、普通選挙法制定により男子普通選挙が実現した結果、労働者階級の政治的影響力の増大が懸念されていた。

治安維持法の内容を説明せよ。また、それが本格的に発動された事件とその背景を説明せよ。

国体の変革・私有財産の否認を目的とする結社を禁止した。男子普通選挙が実施され、非合法の日本共産党が党員を労働農民党候補者として立候補させ,公然と選挙活動を展開したため、三・一五事件で本格的に発動した。

治安維持法全文→kbz_tnjh.pdf (fc2.com)

最初の治安維持法適用の学生運動弾圧事件の名称を記せ。またそれ以前に起こり、そのような弾圧の契機ともなった事件を簡潔に説明せよ。

学連事件。中央の左翼学生組織による軍事教練反対運動である小樽高商事件を発端として、東大をはじめ数多くの高等教育機関で抗議行動が起こされ、社会的にも反響を呼んでいた。

原理日本社による社会的影響を説明せよ。

国粋主義者の蓑田胸喜が創立した超国家主義団体である原理日本社は、自由主義的教授の思想・学説を論難し、著書の発禁、追放、処罰を要求した。これは、滝川事件、天皇機関説排撃の導火線となり、国体明徴運動を展開したほか、河上肇、津田左右吉、河合栄治郎、矢内原忠雄、西田幾多郎など、多くの教授が被害を受けた。

特高の普及の推移を説明せよ。

1911年に大逆事件が起こったことを受けてまず警視庁に設けられ、1928年に三・一五事件が起こったことを受けて全国の各道府県に設けられた。

治安維持法の改正について1928年・1941年に分けてそれぞれ説明し、さらに前者の改正の問題点も説明せよ。

1928年の改正では、運動参加者への威嚇を狙い、国体変革を目的とした結社の組織者・指導者に対して最高刑に死刑が導入され、さらに非合法の共産党への加入者の確定が困難であったことから目的遂行罪を新たに設けて支持者・協力者も取締りの対象とし、治安維持法は適用の対象を一挙に拡大した。しかし、その改正は緊急勅令を用いて行われたが、その発令権は議会の協賛なしに行使できる天皇大権のひとつであり,議会軽視と批判された

1941年の改正では予防拘禁制が導入され、治安維持法違反者のうち,当局が〈非転向〉または〈転向不十分〉とみなした者を刑期満了後も拘禁するようになり、また国体変革結社に対する刑も引き上げられた。

第1次加藤高明内閣を説明せよ。

加藤内閣は、普選法の成立と日ソ国交回復の代償として治安維持法を制定し、人民の運動の改良主義には普選法で、革命主義には治安維持法で対抗するという硬軟両面をもつ新しい人民支配の方式を確立した。さらに貴族院改革と陸軍4個師団廃止を実現するとともに、1925年から中等学校以上の学校で現役将校による軍事教練を実施したが、軍部や官僚のもつ諸特権の改革には成功せず、行財政整理も不十分に終わった。1925年の政友会と革新倶楽部犬養派の合同を契機に政友会と憲政会の対立が表面化し、税制改革問題をめぐって閣内不統一に陥り総辞職した。

※第2次は病死

日本における参政権の動向を説明せよ。

明治憲法とともに制定された衆議院議員選挙法では,直接国税 15 円以上納入の満 25歳以上の男性に限られた。納税資格は第2次山県内閣で10円以上原内閣で3円以上に引下げられ,護憲三派内閣で撤廃された。しかし、女性の参政権は実現しなかったため,婦人参政権獲得期成同盟会婦選獲得同盟と改称して運動を展開したが,日中戦争以降は翼賛体制下に組み込まれて抑圧された。敗戦とともに運動が再開し,GHQ の指令のもと,幣原内閣により婦人参政権が実現し,年齢は男女とも満 20 歳以上になった。

普通選挙法のマイナス点を説明せよ。

有権者が拡大したことによって、政党は必然的に多額の選挙資金を必要とするようになり、財界との結びつきをますます深くし、財閥から多額の政治資金の供給を仰ぎ、また、様々な利権をめぐってしばしば汚職問題を引き起こした。金権政治に毒されているというマイナスイメージも強くなり、国民の不信をかった。こうした事情を背景として、軍部・官僚・国家主義団体など反政党勢力による政党政治の腐敗に対する非難も盛んになった。

【「詳説 日本史研究 山川出版社」 を参照】

治安警察法の第5条および第17条の改正の背景を説明せよ。

普選運動を軸とした大正デモクラシーの高揚、大戦景気に伴う都市大衆化で激増した労働者による労働運動や新婦人協会による女性地位向上運動などの社会運動、およびILOの創設などを背景として、第5条や第17条規定を撤廃する運動が展開した。政府は治安警察法第5条の一部を改正して女子の政治集会参加禁止の規定を削除し、さらに第17条を改正して争議行為などを禁止する条項を削除した。

労働争議調停法(1926年)の意義と問題点を説明せよ。

労働組合を争議当事者としてその地位を認め、労使と第三者の調停制度を規定し、同法制定と同時に同盟罷業のための誘惑・扇動を禁じた治安警察法第17条が撤廃された。しかし、同法は鉄道運輸などの公益事業の争議を強制調停対象とし、また、調停期間中の当事者外の争議行為を禁止し、抱き合わせで暴力行為等処罰法が制定されるなど依然として労働運動の強権的抑圧政策は継続した。

田中義一内閣を説明せよ。

第一次若槻礼次郎内閣が台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院で否決され、総辞職した後を受けた政友会内閣。組閣後ただちに3週間の支払猶予令(モラトリアム)を施行し、金融恐慌の鎮静化に努めた。対中国積極外交を最大の使命とし、中国国民革命が華北、満州に波及する形勢となったのに対し、1927年に第一次山東出兵を行って北伐に干渉し、東方会議で対中国強硬政策を練った。1928年に第二次山東出兵を遂行、済南事件を引き起こし、激しい日貨排斥運動を招いた。爆殺された張作霖の後を継いだ張学良の東北政権が中国国民政府に合流(易幟)したため、積極外交は挫折した。第1回普通選挙への干渉、三・一五事件、労働農民党などの禁止、緊急勅令による治安維持法の死刑法への改正、1929年の四・一六事件など、共産主義運動、労農運動を厳しく抑圧し、「暗黒政治」という悪評を招いた。1929年、議会で張作霖爆殺事件を満州某重大事件として追及され、不戦条約批准問題でも苦境にたち、野党の攻撃は切り抜けたものの、田中が張爆殺の責任問題について天皇に食言をとがめられるに及んで、総辞職した。後継内閣は浜口雄幸によって組閣された。

選挙粛清運動の背景ともなった普通選挙の実態を説明せよ。

政党政治下の選挙の実態は,買収などの不正行為の横行や選挙干渉、選挙の腐敗など政党による利益誘導型の政治手法が蔓延しており、政党政治への不信を増大させるものであった。

浜口雄幸内閣を説明せよ

張作霖爆殺事件の処理の不手際から総辞職を余儀なくされた田中義一政友会内閣にかわって成立した、浜口雄幸を首班とする民政党内閣。成立直後に協調外交、金解禁、財政緊縮、産業合理化などを主要な内容とする十大政綱を発表し、内閣の基本政策を明らかにした。長い不況の打開策として財界からの要請が高まっていた金解禁を実施するため、井上準之助蔵相のもとで財政緊縮、産業合理化を推進し、1930年に金解禁を断行した。だが金解禁の実施は、1929年アメリカに始まった世界大恐慌の影響をまともに受けて日本経済をさらに深刻な不況に追いやることになった。物価の暴落、国際収支の悪化、鉱工業生産の減少によって中小企業の倒産が続出し、大量の失業者が生み出され、国民生活は破綻に瀕した。なかでも農産物価格の異常な暴落による農民の窮乏は農村を悲惨な状況に追いやった。政府は恐慌対策として産業合理化をさらに推進し、カルテルの拡大・強化を進めた。この独占資本の強化拡大政策は社会的矛盾をいっそう拡大し、労働・農民運動を激化させた。他方ふたたび外相に就任した幣原喜重郎は、前内閣によって極度に悪化させられた対中国関係の改善とイギリス、アメリカとの協調を課題として第二次幣原外交を展開していった。1930年、補助艦制限協定の締結を目ざすロンドン海軍軍縮会議に若槻礼次郎を首席とする全権団を派遣し、対米7割を固執する海軍軍令部の強硬な主張のため、アメリカとの交渉は難航したが、財政的にも外交的にもあくまで協定成立を望む政府首脳は、海軍軍令部の反対を押し切り、日米妥協案を受け入れてロンドン海軍条約は調印された。条約調印後、政友会は兵力量の最終的な決定権は統帥部側にあるとして、いわゆる統帥権干犯論を主張し激しい政府攻撃を展開し、海軍内部にくすぶる不満に火をつけ、軍人・右翼の統帥権干犯論を勢いづけた。枢密院での条約批准は、民政党内閣に反感を抱く平沼騏一郎副議長、伊東巳代治顧問官らの反対によって難航したが、元老西園寺公望の強い後押しを受けてなんとか切り抜けた。その後、浜口首相は東京駅で統帥権干犯論に扇動された右翼青年の佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負った。幣原外相が首相臨時代理に就任し、続いて開かれた議会に臨んだが、首相の病状が悪化したため、1931年に浜口内閣は総辞職し、第二次若槻礼次郎内閣が発足した。

浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を強行に締結した理由を説明せよ。

もし会議が決裂すれば、東アジアの国際秩序の根幹たるワシントン体制に対する日本の挑戦と受け取られ、対英米関係の悪化を引き起こすことが予想された。さらに当時、日露戦争で得た外債の借り換えの時期に当たっており、その借り換えの条件として英米の銀行団が軍縮条約の締結を望んでいた。またロンドン海軍軍縮条約に締結することは当時の緊縮財政方針および不拡大方針に合致していたから。

統帥権干犯問題を説明せよ。

浜口雄幸立憲民政党内閣が、編制権に属する兵力量の決定は統帥権とは別であり内閣の輔弼事項であると解釈したのに対し,海軍軍令部や野党の立憲政友会は編制権にも統帥権が及び,軍令機関の輔弼が必要であると主張して対立し、枢密院も承認を渋ったが、内閣は元老西園寺公望や宮中勢力および昭和天皇の支持を背景としてロンドン海軍軍縮条約の批准を実現したものの,浜口首相が右翼の青年である佐郷屋留雄に狙撃される事件につながった。

※海軍部内はかねてから「対米7割」の保有量を主張していた。

ロンドン海軍軍縮条約締結の弊害を説明せよ。

政党自らの腐敗や激しい党利党略を生んで国民の政治不信が高まっていたことを背景として、政党内閣が「君主の意思を独占」したという現象への反動が起こり、条約反対派の運動が政党内閣制排撃・天皇側近攻撃という立憲君主制の変化を巡る政治的イデオロギーの対抗へと転化し、満蒙の危機の深刻化に対する陸軍の危機感と共鳴し、陸軍では桜会の結成、海軍では五・一五事件の中心となるグループの結集、右翼の急進化など国家改造を目指す強大な共同戦線を生み出すことになった。内閣は世論にも依存したが、満州事変勃発後の世論は豹変した。また、軍縮体制下での日米両海軍力の均衡という情勢を反対勢力に利用され、満州での早期の軍事行動を発動する根拠を与えた

※ワシントン海軍軍縮条約失効は1934年、ロンドン海軍軍縮条約失効は1936年

1920年代以降の海軍部内での内部対立と伝統の変容

伝統的に海軍部内の結束と融和は,海軍大臣の統率力によって保たれ,海軍省の枢要ポストを占めてきた軍政派が海軍の主流派を形成してきたが,1922年のワシントン海軍軍縮条約の締結をめぐって,海軍部内に亀裂が生じ,さらに30年のロンドン海軍軍縮条約締結をめぐり,軍令部は条約締結は統帥権干犯だとして、条約締結をやむなしとする海軍全権の財部彪海軍大臣に強く反対した(統帥権干犯問題)。以後,海軍部内では,条約派(軍政派)艦隊派(統帥派)と称される2派の対立が激化し,軍縮条約に敵意をもつ軍令部と中堅将校らのつきあげにより,海軍省首脳の統制力は減退していった。とくに32年と33年の制度改正により,海軍軍令部は軍令部に,海軍軍令部長は軍令部総長と改称され,兵力量の起案権を軍令部総長が握り,平時の海軍大臣の兵力指揮権が削除されるなど,それまでの海軍の伝統を破って,軍政に対する軍令の優位が確立されることになった。

※条約派(財部彪)vs艦隊派(加藤寛治)

【世界大百科事典 参照】

満州事変後に起こった、不拡大方針をとっていたにも関わらず関東軍の軍事行動の拡大を抑えられなかった第2次若槻内閣総辞職に直結する出来事2つを説明せよ。

橋本欣五郎を中心とする陸軍の秘密結社である桜会は満州事変に呼応して十月事件と呼ばれるクーデター計画で内閣を追い込んだ。さらに内務大臣の安達謙蔵が軍部独走を抑えるために協力内閣運動と称して軍部や野党の立憲政友会との連携を図り、これが受け入れられないとみるや辞職した。そのため、閣内不一致の事態が生み出され、第2次若槻内閣は総辞職を強いられた。

犬養毅内閣を説明せよ

第二次世界大戦前期の最後の政党内閣となった、犬養毅を首班とした政友会内閣。浜口雄幸、第二次若槻礼次郎内閣と2代続いた民政党内閣が、民政党内の「協力内閣運動」で瓦解した後を受けて成立した。浜口内閣における緊縮財政政策と幣原外交を大きく転換させていった。蔵相の高橋是清は内閣成立後ただちに金輸出再禁止を断行、金本位制を離脱し管理通貨制へ移行させ、さらに財政・金融政策の基調をインフレ政策に転換した。積極的に財政を膨張させて、膨大な公債発行を財源に巨額の軍事費を支出した。このため1932年度から軍事費は急増していった。軍部による中国侵略はさらに進み、1932年には上海にまで戦火を広げ、関東軍は着々と満州国建設を進め、満州国の成立を宣言するに至った。政府の外交政策は軍部と森恪書記官長によってリードされ、上海事変の拡大、満州国建設の承認など、次々に軍部の独走を追認していった。五・一五事件で犬養首相が暗殺され、内閣は崩壊し、満州事変に伴って軍部の発言力が強まるなか,元老西園寺公望は軍部の急進を抑制するために穏健派軍人を後継首相に推挙し、斎藤実内閣にかわった。このように犬養内閣は経済的にも政治的にも行き詰まりをみせていた民政党内閣の政策を大きく転換させたが、結果として軍部の政治的発言権を強化することになり政党内閣の終焉をもたらした。

挙国一致内閣を簡潔に説明せよ。

恐慌や戦争などの国家的危機が起こった際に、挙国一致のため対立政党も加えて構成される内閣。

斎藤実内閣を説明せよ。

五・一五事件後,軍部の圧力で中間的挙国一致内閣として成立。内田康哉外相の焦土外交で1932年に満州国承認,日満議定書調印。1933年に国際連盟を脱退した。国内ではインフレと農業恐慌の中で自力更生を奨励し,文部大臣鳩山一郎は滝川事件を起こした。また軍部の圧力で五相会議を開き政党の力を排除した。1934年に起こった、帝国人造絹糸 (帝人) の株式売買をめぐる疑獄事件である帝人事件で大蔵省高官が逮捕され総辞職した。

満州事変の際、新聞紙などのメディアが戦争に協力した理由

軍部が新聞の不買運動を広めようとし、また検閲も厳しさを増した。さらに、政府の不拡大方針・協調外交路線は世論の支持を失っていたため、新聞社は戦争に協力的な内容に変更せざるを得なかった。

満州事変以降、政党が力を失っていった理由を、明治憲法の性格に触れながら、その終焉まで説明せよ。

議院内閣制が規定されていない明治憲法下の政党は首相推挙権を握った元老に迎合せざるを得ず、さらに天皇に直属する枢密院や陸海軍の協力がなければ政党内閣は存続しなかった。その上、世界恐慌から波及した昭和恐慌、および欠食児童・娘の身売りも増加して惨状を呈した農業恐慌以降、政党内閣は効果的な政策をとれずに、物価の暴落、国際収支の悪化、鉱工業生産の減少によって中小企業の倒産が続出し、大量の失業者が生み出され、国民生活は破綻に瀕し、農産物価格の異常な暴落による農民の窮乏は農村を悲惨な状況に追いやった。その上に金輸出再禁止を見越した円売り・ドル買い事件が起こったことで財閥と癒着した政党への不信感が国民の間に広がると共に、経済への国家の積極的な介入が期待されて官僚の役割が高まり、さらに満州事変を契機として軍部が台頭すると、政党は次第にその力を失い、国民は軍部や官僚へ迎合するようになった。そして、五・一五事件によって犬養毅首相が殺害され、政党政治は終焉し、穏健派軍人を推挙することで軍の急進を抑制しようとした西園寺公望の意図で斎藤実が推挙され、海軍軍人である斎藤実を首相とする「挙国一致」内閣が成立した、

小日本主義の代表的論者を記せ。また、その内容を簡潔に説明せよ。

三浦銕太郎。石橋湛山。当時の国策の主流であった大日本主義の経済的無価値を説き、三・一独立運動などを背景として民族自決主義の性格を帯びながら、植民地を放棄して貿易関係・自由主義・個人主義に重点を置くことを主張するもの。

皇道派と統制派のそれぞれの主張を説明せよ。

●皇道派●…直接行動によって政党や元老・重臣などを排除して、天皇親政に基づく軍部政権を樹立することで“昭和維新”を断行しようと主張していた。

●統制派●…官僚・財界などとも提携して、政治・経済・文化・教育など広範な分野での新体制運動を通して実現する高度国防国家(実際は統制経済の強化・精神総動員の強化・軍備拡張を促すスローガンとして流布した)の建設を目指していた。

統制派の永田鉄山が斬殺されたことで皇道派と統制派の対立を激化させ、二・二六事件の遠因となった事件名を記せ。また二・二六事件の性格と関係者の処分および二・二六事件後の統制派の行動を説明せよ。

相沢事件。二・二六事件は国民的支持を欠いた陸軍青年将校の宮中革命であり、「君側の奸」を倒して天皇個人に訴えたものであったが、天皇からも排斥されてしまい、敗北は決定的だった。陸軍皇道派青年将校によるクーデタ事件当初は「蹶起部隊」と呼ばれたが,天皇が激怒して「反乱軍」と規定して鎮圧した。首謀17名とともに北一輝・西田税も処刑された。

統制派は粛軍を掲げ、事件の原因が政治にもあるとして、「粛軍人事」の名の下にその改革を要求した。具体的には、事件後の広田内閣の組閣の際に、吉田茂など一部の閣僚候補を親英米派、自由主義的であるとして排除し、予備役に追い込んだ皇道派将官の復権を防ぐためと称して軍部大臣現役武官制を復活させるなど、皇道派を一掃し、政治関与を強めた

※二・二六事件で、岡田啓介首相と誤認されて松尾伝蔵海軍大佐が射殺され、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。

※皇道派と統制派の人物

●皇道派●真崎甚三郎・荒木貞夫・相沢三郎 など

●統制派●…永田鉄山・東条英機 など

「二・二六事件」 日本を震撼させた日を写真で振り返る | ハフポスト (huffingtonpost.jp)

「日本改造法案大綱」の作者を記し、その内容と意義について説明せよ。

北一輝。日本の国際的孤立,国内の階級対立激化を打開するための国家改造として3年間の憲法停止,戒厳令施行,私有財産の制限,,華族制・貴族院の廃止などを構想した。青年将校に読まれ,のちの日本ファシズム運動の経典となり、また二・二六事件はこの著作内容の実現を目ざして起こされた。

粛軍演説と反軍演説を行った人物とその内容を説明せよ。

斎藤隆夫。粛軍演説は二・二六事件後の第69議会で軍部の政治関与を激しく批判したものであり、反軍演説は米内光政内閣時の第75議会で政府の日中戦争処理方針を強く批判したもので、後者は軍部の反発を招いた。

人民戦線事件を説明せよ。

ファシズムを阻止するために自由主義から無政府主義まで幅広く結集した人民戦線を企図したとして、治安維持法違反容疑で加藤勘十、山川均、鈴木茂三郎ら社会主義者およそ400名が検挙された事件。また翌年には、大内兵衛、有沢広巳ら労農派の教授グループも検挙された。

大学の学問自治が侵害された事件をあげて,教授名およびその著作を挙げながらその内容と影響を説明しなさい。

滝川事件。京都帝国大学教授で、自由主義的刑法学説を唱えて「刑法読本」「刑法講義」などを著した刑法学者の滝川幸辰が、斎藤実内閣の鳩山一郎文相の圧力によって休職処分を受けたのに対し,大学の自治を侵害するものとして法学部教授会が抵抗したものの敗北した。法学部スタッフの3分の2が大学を去り、学生運動も弾圧され,大学の自治,学問の自由は失われた。

三月事件と十月事件を説明せよ

三月事件では、政党内閣を倒し、宇垣一成の軍部内閣を構想した。十月事件では、桜会を中心に大川周明らが加わり、満州事変に呼応する形で若槻首相・幣原外相らを殺害しようとした。そして、陸軍中将荒木貞夫を首相、橋本欣五郎を内相、大川周明を蔵相にした軍部政権を構想した。しかし、どちらの構想も未然に終わった。

血盟団事件が勃発した社会背景とその内容、歴史的意義を説明せよ。

世界恐慌から連鎖した昭和恐慌・農業恐慌に起因する農村の荒廃、失業の増大と労働争議の激化、政党の腐敗などを背景として、国家革新主義者である日蓮宗の僧の井上日召を中心に組織された右翼民間グループである血盟団は「昭和維新」のための一人一殺主義を唱え,井上準之助前蔵相,三井合名会社理事長の団琢磨を暗殺した。犬養毅首相など十数人を暗殺する計画ももっていた。五・一五事件の発生に影響を与え,軍部台頭の契機となった。

神兵隊事件を簡潔に説明せよ。

斎藤実内閣に不満の愛国勤労党の天野辰夫ら右翼が企図したクーデタ計画で,大日本神兵隊を組織し,首相以下政・財界首脳を暗殺し,天皇親政の改造内閣樹立を目ざすというものであったが決行前日に発覚した。

財閥転向を説明せよ。

イギリスの金本位制離脱後のドルの思惑買いは財閥への民衆的反感を募らせ、右翼テロが財閥支配を動揺させたため、団琢磨とともに血盟団の暗殺リストに載った池田成彬は財閥危機を乗り切るための改革を断行し、各方面への寄付を行う三井報恩会を設立し、三井一族の引退さらに持株の公開も行うなど反感をそらすと同時に閉鎖的財閥の近代化を推進して資金動員の基盤を強化することで化学工業、軍需工業における日産、日窒など新興財閥に対する立ち後れを取り返そうとした。

岡田啓介内閣を説明せよ。

内閣は、日中問題の解決を目ざす広田三原則の提示と恐慌対策を内外政策の中枢に据えた。内閣補強策として重要政策の審議・調査のために内閣審議会、内閣調査局の設置を行ったが、これは新官僚の影響力の増大にいっそう拍車をかけることとなった。軍部もこの内閣の下で政治への関与を強化していき、「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットの公表により、「国防国家」の構想を打ち出した。そして、これらの延長線上に、美濃部達吉の天皇機関説を排撃する運動が軍部、右翼を中心としておこされた。議会第一党の野党立憲政友会はこの機をとらえて倒閣を策した。これに対し内閣は、美濃部達吉の著書を発禁とし、天皇機関説は国体に反するものであるという国体明徴声明を出した。こうした対応によって内閣はかろうじて事態を切り抜けたが、軍部の政治的比重はいっそう高まった。内閣は1936年の総選挙に際して、政党に打撃を与えるために選挙粛正運動を展開して内閣は議会内に安定的支持を得たものの、二・二六事件により内閣は総辞職した。後継内閣は難航のすえ、岡田内閣の外相広田弘毅によって組織された。

国体明徴声明の意義

君主権を制限する解釈であり政党政治の理論的支柱となっていた天皇機関説を否認したことで天皇の統治権が神権的・無制限なものと公認され、統帥権の独立を振りかざす軍部が台頭する契機となったばかりか、天皇統治の永遠性・他国への優越性を背景とした国家主義をも台頭させ、ファシズム的風潮が支配的になる嚆矢となった。

転向者の代表者2人を挙げよ。またその主張を説明せよ。

佐野学・鍋山貞親。天皇制打破・帝国主義戦争反対という日本共産党の方針と、モスクワに本部を置くコミンテルンの指導のありかたを一国社会主義の立場から批判して、天皇の下に一国社会主義革命を行い、満州事変を国民解放戦争に導く必要性を説いた。

明治時代の転向と考えられる者2人を挙げよ。

徳富蘇峰。加藤弘之。

満蒙開拓青少年義勇軍が発足した背景

日中戦争による国内労働力需要の高まりで満州移民が送り出せなくなったため、若年層を送り出した。

※内原訓練所

広義国防国家とは

総力戦を準備するためには軍備増強だけでなく、国民生活の向上や資本主義の修正も必要だという陸軍統制派の主張。

広田内閣の政策と、退陣に追い込まれた理由

軍の要求で軍部大臣現役武官制を復活させた。また、「国策の基準」を決定し、大陸における日本の地位を確保する一方で、南方へ漸進的に進出する方針を決定し、外交ではドイツと提携を強めてソ連に対抗し、国内では大規模な軍備拡張計画が推進された。しかし、軍備拡張による軍事インフレや、高橋是清前蔵相の公債漸減政策の放棄を表明して公債増発・低金利政策をとった馬場鍈一の財政による公債の増発による国際収支の悪化などから政党勢力が広田内閣に不満を抱き、さらに、高度国防国家を目指す軍部は国内改革が不徹底だとして、結局は両者の挟撃にあって退陣した。

広田三原則とは

①排日言動の徹底的取締り②満州国独立の黙認および満州国と華北との経済的文化的な融通提携③外モンゴルなどからくる赤化勢力の脅威に対する共同防共。華北分離工作を進めていたことで、交渉は行き詰まった。

林銑十郎内閣を説明せよ。

広田弘毅内閣総辞職ののち、宇垣内閣が流産したあと成立した。満州事変の勃発に際しては独断で朝鮮から兵力を派遣し,「越境将軍」とよばれた。生産力拡充計画(国家総力戦のため軍需産業を確立する計画→日満財政経済研究会(石原莞爾が後援))の実施のために陸軍の介入で成立し、軍の「ロボット」内閣といわれた。政党を排撃し,祭政一致を声明した。結城豊太郎蔵相は戦時経済確立のため軍部と協力し「軍財抱合財政」といわれた。総選挙で絶対多数をとった政友会・民政党の倒閣運動で4ヵ月で総辞職した。

昭和研究会を簡潔に説明せよ。

近衛文麿のブレーン・トラストとして成立し新体制運動に知的影響を与えた研究団体で、後藤隆之助によって設立され、アジア民族の運命共同性,東アジアのブロック経済化,東洋文化の保守など,いわゆる「東亜協同体」論を主張した。

第1次近衛文麿内閣の政策を説明せよ。

盧溝橋事件に際し、近衛内閣は陸軍内部の消極派をおさえて戦線の拡大を図った。一方、中国側は第二次国共合作により抗日民族統一戦線を形成し、徹底抗戦して、そして宣戦布告のないままに日中戦争を拡大した。戦争が長期化する中、中国の首都南京を占領すると、近衛声明を発して国民政府との和平交渉を打ち切り、中国に親日政権を樹立する方針をとって東亜新秩序建設をめざした。国内では総力戦体制の構築を図り、国民精神総動員運動を通じて国民の戦争協力を促し、後には郵便貯金や国債購入を促したり金属回収を行ったりもした。また企画院を発足させ、国家総動員法を制定して政府が議会を経ずに物資や労働力を動員する権限を握った。そして国策協力機関として産業報国会の結成を進めた。

※内閣調査局(1935年)→企画庁→1937年に資源局と合併して企画院

「基本国策要綱」の内容を簡潔に説明せよ。

第2次近衛内閣によって決定された国家の政策の基本方針であり、従来の東亜新秩序よりもさらに規模を拡大した大東亜新秩序の建設を日本の国是とし、そのための国民新組織、議会翼賛体制、計画経済と統制経済の強化などを掲げた。

作戦要務令について簡潔に説明せよ。

1938年に日本陸軍によって制定された部隊の教育で、必勝の信念や攻撃精神などの用兵思想が一貫して強調された。

企画院事件について簡潔に説明せよ。

企画院内の革新官僚グループが治安維持法違反の容疑で検挙された事件であり、企画院の立案した要綱が思想的に共産主義的色彩の濃いものであるという疑いをかけられたもの。

企画院と内閣情報局の違いを説明せよ。

企画院は主に戦争遂行のための物資動員を計画し、経済統制の中心機関であったが、内閣情報局は主に検閲・報道統制など思想統制の中心機関であった。

総力戦体制期の物資動員計画実施の基盤となった経験を説明せよ。

ソ連型「五ヵ年計画」、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアの計画経済に対する過大評価、第一次世界大戦の総力戦の経験、満州における経験。

大東亜省を説明せよ。

太平洋戦争による占領地域の拡大に伴い、「大東亜諸地域」の総力を戦争に動員することを目的に、拓務省の対満事務局、興亜院などを廃止、統合して創設され、満州・中国、東南アジア占領地における一元的行政を目ざした。

大日本国防婦人会の役割と帰結を説明せよ。

満州事変,上海事変の勃発後,傷病軍人の援護、軍人の慰問,国防思想の普及など軍に協力するために,陸海軍の後援で設立された愛国婦人団体。のちには総力戦体制の強力な一環として銃後活動に参加した。愛国婦人会,大日本連合婦人会と合同し,大日本婦人会を結成した。

大日本翼賛壮年団の役割と帰結を説明せよ。

大政翼賛運動の有力な実践部隊となり、闇取引の絶滅、食料増産、供米運動などを推進した。また,新体制運動にも積極的に協力した。東条内閣が統制を加えると衰退し、その後国民義勇隊に吸収された。

大政翼賛会の下部組織を挙げよ。

大日本翼賛壮年団。大日本産業報国会。農業報告連盟。商業報告会。大日本婦人会。日本海運報告団。大日本青少年団。都市部の町内会・隣組。農村部の部落会・隣組。

隣組の機能を説明せよ。

政府の宣伝,伝達を末端において受けとめる組織として防空,防火,防諜,防犯,国民貯蓄,物資配給を円滑に行うことが目ざされ、情報や指示を伝える回覧板が使用された。

商業報告会の目的を簡潔に説明せよ。

闇取引の根絶、奢侈品取引の廃止など。

賃金統制令の目的を説明せよ。

軍需インフレのもとで、物価統制と関連して、熟練工争奪に伴う賃金高騰の抑制と労務需給の調節を行うため。

国家総動員法の特徴とその弊害、およびその法律に基づいてうまれた勅令とその影響を説明せよ。

政府に対して勅令により経済や国民生活を統制運用する権限を認めたもので議会の立法協賛権を形骸化させる授権立法であり、議会の空洞化を促した。この法律に基づき勅令によって国民徴用令、価格等統制令,新聞紙掲載制限令などが生まれ、国民生活のすみずみにまで国家統制が及ぶことになり、職業選択の自由も奪われ、生活必需品の消費も制限された。

国民職業能力申告令の目的と内容を説明せよ。

戦局の拡大に伴う労働力不足を補うため、労働力の適正配置の前提として、戦時労務動員に緊要と認められる国民の職業能力を把握し、その者が職業紹介所に登録され、次第に未経験の可動労働者まで含まれるようになった。

※職業能力申告手帳・国民労務手帳

電力の国家管理について説明せよ。

戦時経済に対応したより一層の生産力拡充のため,発電力の急増と低電力料金政策が要請されて電力管理法が公布され,のちに電力会社の発電・送電設備の現物出資による日本発送電が発足し,電力国家管理へと移行した。配電も配電統制令に基づき全国に9社の配電会社が設立された。

平沼騏一郎内閣を説明せよ。

第一次近衛文麿内閣総辞職の後を受け、枢密院議長の平沼騏一郎が組織した内閣。官僚からの登用が目だち、平沼自身の官僚的性格もあって国民の人気を集められず、また元老・重臣に妥協したとして右翼陣営にも不評を買った。従来の国民精神総動員運動を強化するにとどまり、わずかに米穀配給統制法や国民徴用令の公布など国家総動員体制を強化するに終わった。ノモンハン事件で日ソ関係が険悪となり、また日本軍による天津イギリス租界封鎖問題で日英会談(有田=クレーギー会談)が行われ、さらにアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告するなど事態が急速に転回したうえ、ドイツは突如、独ソ不可侵条約を結んだ。世界情勢の急転回についていけなくなった平沼内閣は、「欧州情勢は複雑怪奇」の一語を残して総辞職した。後継内閣は阿部信行によって組閣された。

興亜奉公日の内容とその変遷を説明せよ。

国民精神総動員運動の一環として実施された生活規制である。1939 年 9 月 1 日から毎月 1 日を戦意高揚の日とし、料理飲食店での飲酒を禁止するなどした。太平洋戦争勃発後の 1942 年に大詔奉戴日になり、毎月8日をこの日と定め、戦時体制への国民の動員強化をはかった。

阿部信行内閣を説明せよ。

軍人内閣で、平沼騏一郎内閣の辞職後、陸軍の支持を受けて成立した。成立直後にヨーロッパで第二次世界大戦が始まったが、これへの不介入と日中戦争の自主的解決を声明した。しかし、日米通商航海条約の継続交渉に失敗し、対中国政策も進展させることができなかった。インフレの進行に直面し、九・一八物価停止令を発表しながらも、自ら米価引上げを行い、諸物価上昇と物資不足を促進して、国民の不満と政党の辞任要求を招いた。わずか5か月足らずの弱体無能内閣と評された。

米内光政内閣を説明せよ。

阿部信行内閣の総辞職後、内大臣の推薦で誕生した海軍大将米内光政を首班とする内閣。内閣はリベラルで親英米的であった。イギリス軍艦が日本郵船会社の浅間丸を臨検した浅間丸事件では、イギリスの妥協を引き出し反英運動を鎮静化させた。日中戦争処理に関しては、日本の傀儡である汪兆銘政権の樹立や重慶の蒋介石政権との和平交渉(「桐工作」と称されたが結局失敗した)が陸軍の主導によってなされ、内閣としては無策であった。ドイツの電撃戦が成功すると、近衛文麿は新体制運動に乗り出し、陸軍は日独同盟締結と新体制運動への善処を要求したが、首相がこれを拒否すると、畑陸相は辞職し、陸軍は後任陸相の推薦を拒否したため、内閣は総辞職し、第二次近衛内閣が成立した。

第2次近衛内閣成立の経緯を説明せよ。

第二次世界大戦勃発後、阿部・米内内閣は大戦不介入方針と、日中戦争の行き詰まり打開のために対米英宥和策をとったが、これに不満な軍部は日独伊提携強化による南進論を唱え、新体制運動を展開していた近衛文麿に期待し、米内内閣を倒した。

新体制運動とは。またその別の性格

ナチスのような一国一党の全体主義的国民組織をつくり上げようとする運動。財閥や地主など、既得権層を代弁しがちな政党では汲み上げられない利益や要求が日本社会に蓄積され、国民の議会政治・政党政治に対する不満が鬱積していたので、そうした利益や要求を政治に反映させ、国民を再統合しようとした。

第2次、第3次近衛内閣を説明せよ。

第2次…東亜新秩序建設をうたい,大政翼賛会を組織して新体制運動を推進した。また、北部仏印進駐を行い,日独伊三国同盟を締結,汪兆銘政権と日華基本条約を調印した。日ソ中立条約を調印,御前会議で南北両進路線を決定したが,独ソ開戦に応じ対ソ宣戦を主張する松岡洋右外相と対立して総辞職した。

第3次…松岡外相を豊田貞次郎に替え,日米交渉成立を意図したが南部仏印進駐で対米関係が悪化した。御前会議で10月末を目途に対米英蘭戦準備完成を決定した。しかし、米国の中国・仏印からの撤兵要求で内閣不統一となり総辞職

大政翼賛会の機能および、その従来の思惑との相違について説明せよ。

結成にさきだって全政党が解散し,全政治勢力を包含して結成されたため,議会の空洞化を促進させ,大日本産業報国会など各分野の諸団体を傘下におさめ,町内会・部落会・隣組を下部組織としたため,行政を補助する上意下達機関として役立った。しかし、一国一党を目指す陸軍、新体制へのなだれ込みを狙う既成政党、精神総動員化を主張する観念右翼など各勢力の思惑が交錯するなど、保守的な旧政治勢力と、互いに矛盾する目標をもった様々な革新勢力との寄せ集めとしかならず、近衛首相の思惑であった一元的な戦争指導体制の確立と、軍部を抑制できる政治力の結集を目的とした政治結社ではない公事結社となり、右翼からは「近衛幕府」と批判された。

大本営を説明し、大本営が首相の出席を拒否した理由を説明せよ。また、大本営の設置に伴う政府の措置およびその変遷を説明せよ。

大本営は戦時・事変に際して設置され、参謀本部と軍令部を統括する最高戦争指導機関である。天皇大権のうち、各国務大臣の干渉を許さない統帥権を事実上輔弼する機関であったため、大本営は文人ないし近衛首相の出席を拒否し、天皇のみが陸軍と海軍の対立を統制する機能を持った。統帥権の独立によって,国務と統帥=政略と戦略の分裂を危倶した日本政府は,やむなく大本営設置と同時に新たに内閣と大本営の連絡調整、国務と統帥を調整する必要のために大本営政府連絡会議を設けた。その後、小磯国昭内閣は大本営政府連絡会議を廃して,戦争指導における総理大臣の発言権の強化し、内閣の指導の下に国務と統帥との一元化を図るために最高戦争指導会議を設けたが、官制上の機関として設置されたわけではなく、目的とした大本営と政府との一元的な政治指導は実現せず,軍部と政府との連絡調整機関にとどまり、実質的に従来の大本営政府連絡会議の域を出るものではなかった。

日中戦争中に、近衛内閣が憲法改正をしようとした理由とその内容

内閣総理大臣を中心とする一元的な戦争指導体制を確立するため、天皇大権を各国務大臣が単独で輔弼するのではなく、首相に各国務大臣を指揮する権限を与えた上で、統帥権も参謀本部や軍令部が事実上輔弼するのではなく、内閣の統制下に置く必要があった。

近衛上奏文の内容を簡潔に説明せよ。

近衛文麿が天皇へ意見上奏をしたもので、敗戦の必至、日本の共産化の危機を訴え、戦争終結を主張した。

全文:近衛上奏文 (xrea.com)

東条英機内閣を説明せよ。

第三次近衛文麿内閣が対英米開戦方針をめぐる閣内不統一のため総辞職したあと、木戸幸一内大臣の推挙で組織した。木戸は、主戦論者の東条でなければ陸軍を抑えて戦争を回避することができないと判断した。東条は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁的権力をもった。御前会議で、交渉最終案である「甲乙両案」を決定し、対米英蘭開戦を12月初旬とすることを決定し、他方で来栖三郎を特派大使として米国との交渉を続けた。しかし米側がハル・ノートを提出すると、ハワイの真珠湾に奇襲をかけて開戦に踏み切った。緒戦の勝利で戦争を太平洋全域に拡大、そのため戦争指導体制と国民統制の強化が必要となった。1942年翼賛総選挙を実施し、翼賛政治会を結成して政党の御用化を図るとともに、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団などによって院内外の政治活動を統制した。1941年には「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」を公布して、言論及び政治活動の制限を強化し、政治結社や集会、新聞雑誌発行が届出制から許可制となり、言論の自由が失われるなど、国民の自由を極端に制限し、1942年に大東亜省を設置、東郷外相はこれに反対して辞職した。1943年、商工省、企画院などを統合し、軍需省を新設して航空機生産の急増を図った。また、大東亜会議を開催した。戦局の悪化、サイパン陥落とともに重臣層の反東条機運が高まり、倒閣運動が展開されて総辞職し、小磯国昭内閣が成立した。

※「甲乙両案」の詳細→ column-64.pdf (goyuren.jp)

翼賛選挙について簡潔に説明せよ。

政府の援助を受けた推薦候補者が多数当選して衆議院の大半を占め、さらに事実上の一国一党的な唯一の政治結社として翼賛政治体制評議会の後身となる翼賛政治会が結成されたため、議会は政府の提案を承認するだけの翼賛機関となり議会の空洞化が進んだ。

※政府が候補者を推薦することは違法な選挙干渉につながるため、代わりに翼賛政治体制協議会を結成して候補者の推薦にあたらせていた。

内閣情報局(1940 年)を簡潔に説明せよ。

内閣直属の国家機関で,言論,思想統制の中枢となる。

「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941 年)の内容を簡潔に説明せよ。

言論報道機関の全面的な戦争協力体制をつくるための法。同時に施行の「映画法」や「新聞紙等掲載制限令」と並び,政府統制下に表現の自由を抑圧した。

企業整備令(1942年)の目的を説明せよ。

中小企業の整理統合と下請企業化を法的拘束力の下で推し進めるため。

軍需省について、それの新設のために軍需生産の査察を行った人物名を記せ。また軍需省新設の目的とその結果について説明せよ。

藤原銀次郎。戦局の悪化に伴う原材料不足や、増産をめぐる陸海軍の対立などを調整し、軍需品、とりわけ決戦兵力とされた航空機の大増産を図るため、原材料、資金、労働力、動力などの重点的投入と生産の一元化を目的として、従来の商工省,企画院を廃止し,陸海軍の民間航空工業監督部門を統合して新設した省。しかし、本土空襲の開始や外地からの資源輸送の途絶、陸海軍の対立などによって、期待された成果をあげることはできなかった。

軍需会社法(1943年)の内容を説明せよ。

太平洋戦争下,軍需省の設置に伴い,軍需生産の責任制を明確にするため公布された法律で、軍需会社の政府による指定、命令権、損失補償,利益保証などを規定した。

「南方占領地行政実施要領」の内容を説明せよ。

占領地に軍政を実施し,軍政実施の目的は重要国防資源の獲得,治安維持および作戦軍の自活確保とした。

大東亜共栄圏構造の前提となっていた明治以降からの思想を記せ。またその思想が果たした役割を説明せよ。

大アジア主義。欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。大アジア主義は政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになり、多くの右翼団体の主要なスローガンとされ,これに基づいて満蒙獲得を企図する政府,軍部の政策が推進された。

八紘一宇とは

天皇が全世界を一つの家にすることをいい、日本の海外侵略を正当化する言葉。

「国民勤労動員令」とは何か。

太平洋戦争末期、労働力根こそぎ動員と空襲時の要員確保のための勅令で、国民徴用令・労務調整令・女子挺身勤労令など五勅令を廃止・統合し内容を強化した。

国民義勇隊を説明せよ。

小磯国昭内閣の際に、本土決戦に備えるため、国民総武装・一億玉砕のスローガンの下、防空、警防などの準軍事的活動を目的として編成が決定された。大政翼賛会、大日本婦人会などを解散のうえ統合し、さらにその組織的強化のため同月公布の義勇兵役法により、国民義勇戦闘隊が編成されたが、間もなく終戦で解散した。

鈴木貫太郎内閣を説明せよ。

太平洋戦争の敗戦を決定した内閣で、小磯国昭内閣総辞職後、戦争継続内閣として成立した。本土空襲で都市の焦土化が進み、沖縄戦の敗北が決定的になるなかで、御前会議で今後採るべき戦争指導の基本大綱を決定し、本土決戦の方針を定めた。国民義勇隊の結成が進み、大政翼賛会やその傘下の諸団体が解散した。内閣に独裁権を付与する全面的な委任立法である戦時緊急措置法が公布された。ポツダム宣言が発表されたが、対ソ工作に期待して、首相鈴木貫太郎は宣言を黙殺し、戦争完遂に努めるとの談話を発表した。この宣言拒否を理由として、アメリカは8月6日、9日に原爆を投下し、ソ連は8日に対日宣戦布告を行った。この結果御前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定され、鈴木内閣は総辞職し、東久邇宮稔彦内閣が成立した。

決戦非常措置要綱(1944年)の内容と弊害を説明せよ。

最高戦争指導会議で承認された本土決戦のための国力・戦力の急速造成方針である。本土決戦準備として、航空機などの増産、学徒動員や女子挺身隊の強化、地方への疎開の推進などの空襲対策など国民生活に多大な影響を及ぼした。電力開発などの公共事業が停止され、設備の修繕も最小限にとどめられたため、空襲も相まってインフラが荒廃し戦後の復興の足かせとなった。

全文:決戦非常措置要綱 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)

   決戦非常措置要綱 | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)