擬洋風建築を具体例と共に簡潔に説明せよ。
明治初期に大工が西洋の建築に似せて建てた建築物で、松本市の旧開智学校などが代表的。
矢野玄道の活動を簡潔に説明せよ。
神祇官に出仕し、のち宮内省で皇室系譜の編纂に従事した。
福羽美静の活動を簡潔に説明せよ。
廃仏毀釈・神道政策の推進に尽力した。
日本救世軍の機関誌名、およびその創設に尽力した人物を書け。また、その活動内容を簡潔に説明せよ。
「ときのこえ」。山室軍平。免囚者保護や売春・公娼制度の廃止を要求する廃娼運動など社会改良事業に尽力した。
日本キリスト教婦人矯風会の設立者を述べよ。また、その活動内容を簡潔に説明せよ。
矢島楫子。キリスト教信仰による世界の平和、男女の性と人権の尊厳を守ることや未成年の禁酒・禁煙を目標とし、公娼制度廃止とその更生補導など、女性の地位向上と生活改善に尽力した。
巌本善治の功績を簡潔に説明せよ。
キリスト教の精神に基づいて女子教育に尽力し、日本最初の婦人雑誌「女学雑誌」を発行し、女性解放運動を推進した。
近代以降の廃娼運動について説明せよ。
日本の公娼制度は、江戸時代初期の江戸吉原遊廓の開設許可によって本格的に始まった。廃娼運動は売春を社会悪とみなすキリスト教者らを中心に始められ、日本では1872年のマリア・ルス号事件を機に「娼妓解放令」が出され,いったん公娼制は廃止されたが,すぐに復活し、「黴毒検査規則」が公布され、貸座敷渡世規則・娼妓渡世規則の公布によって、娼妓の「自由意志」の売春による新たな公娼制度=貸座敷制度が公然化し、強化された。
資本主義が急速に成長した近代日本における農村の貧困は、多数の娼妓を生み出し、遊廓や貸座敷、娼妓がアジア太平洋戦争の敗戦まで存在した。婦人矯風会や救世軍をはじめ多くの団体が廃娼運動を推進し、第一次大戦期には売春への国際的批判とデモクラシーの高まりなどから矯風会と廓清会が共同して講演や県会請願などの運動を進めた。しかし1931年以降,戦争態勢下では軍によって従軍慰安婦が動員され,廃娼運動は大きなつまずきをみせた。敗戦後も買売春に対する徹底した規制は行われなかったが,女性団体による抗議運動や世論の高まりにより,1956 年にようやく「売春防止法」が制定された。しかし、その後も買売春を根絶することはできず,買売春者の低年齢化やエイズなどの感染拡大が深刻な問題になっている。
小崎弘道の功績を簡潔に説明せよ。
各地に伝道後に上京し、霊南坂教会を開設。基督教青年会(YMCA)を創立し、機関誌「六合雑誌」を主宰。新島襄没後、同志社校長となった。
新島襄の功績
密出国して渡米。岩倉使節団に随行し欧米の教育制度を視察し、帰国後、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創立。キリスト教精神に基づく教育に専念した。
札幌バンド・横浜バンド・熊本バンドについて説明せよ。
札幌バンド…クラークの感化を受けてキリスト教に入信した札幌農学校の学生のグループで、新渡戸稲造・内村鑑三らが結成した。
横浜バンド…横浜でヘボンやブラウンら米国人宣教師の感化を受けてキリスト教に入信した青年のグループで、植村正久らが日本で最初のプロテスタント教会である日本基督公会を興した。
熊本バンド…熊本洋学校に学んでキリスト教に入信し,同志社英学校に学んだ人々で、ジェーンズの感化でキリスト教に入信した海老名弾正・徳富蘇峰らがキリスト教による人民の啓蒙教化を誓い合った。
新渡戸稲造の功績を説明せよ。
札幌農学校でキリスト教の洗礼を受け、「太平洋のかけ橋とならん」と志し、英文で「武士道」を紹介し、武士道はキリスト教を受け入れる基盤ともなると紹介した。国際連盟事務次長にも就任した。
内村鑑三の功績や行いを説明せよ。
札幌農学校で学び、イエスと日本の「二つのJ」に生涯をささげ、武士道精神がキリスト教の土台になると考えていた。第一高等中学校の講師時代に、教育勅語の奉読式で直後に敬礼しなかったとして批判を受けて辞職に追い込まれた不敬事件を起こした。日露戦争ではキリスト教信仰にもとづき非戦論を展開した。また、聖書の言葉に直接向き合うことを重視する、「無教会主義」を主張した。
オッペケペー節の「堅い上下角とれて」が象徴する社会風潮と、その具体的概要を説明せよ。
四民平等により武士身分が解体され、文明開化の風潮で洋装が官吏や巡査の制服から民間にも普及して武士の服装も変化した。「散髪脱刀令」が出て、ざんぎり頭などが流行し、帯刀も禁止された。銀座一帯の火災を機に、政府は防火・美観を考慮して銀座通りに煉瓦造の洋風建築物を建て並べさせた。街路にはガス灯やランプが灯り、人力車や・馬車などが走るようになった。食事の面では、肉食の習慣が西洋から伝播し、牛肉が喜ばれた。さらに、政府は西洋諸国の例に倣って従来の旧暦を廃止して太陽暦を採用し、日曜の休日制も採用された。
一方では、日本古来の伝統的な芸術や工芸品が見捨てられ、由緒ある寺社などが破壊されるなど、多くの貴重な文化財が失われそうになった。また、文明開化の風潮が拡大したのは主として東京・横浜などの大都会や開港場、学校・軍隊などであり、農村部にはあまり広まらず、生活文化の面では都会と農村の違いは大きかった。
本木昌造の功績を簡潔に説明せよ。
流込み鉛活字の量産に成功し、これまでの木版木刻活字印刷から近代活版印刷への転換の先駆となった。
大新聞と小新聞の具体例を2つずつ挙げよ。また、小新聞の説明と変容を説明せよ。
大新聞は「東京日日新聞」・「郵便報知新聞」。小新聞は「開知新報」・「読売新聞」。
明治の初期から中期にかけて庶民に人気のあった娯楽的な新聞の総称で、政論を主にして有識層に読まれた大新聞に比べて,紙幅が狭いので小新聞という。しかし、 次第に東京の小新聞は政党新聞化し,大阪では「朝日新聞」のように報道新聞への道を歩みはじめ、また大新聞がふりがなを取り入れたり値下げをしたりと小新聞の形態を取り入れる大衆化路線を歩むようになったために、日清戦争後には大新聞との区別は消えた。
※日本最初の本格的邦字日刊新聞→「横浜毎日新聞」
啓蒙思想とは何かを簡潔に説明せよ。
個人の理性の自立、人格の尊厳の実現を目指す思想。
壮士芝居の端緒となった組織およびその組織者を記せ。また壮士芝居を始めた主な目的とその演劇史的変遷について説明せよ。
大日本壮士改良演劇会。角藤定憲。自由民権運動が高揚する中、自由党の壮士や青年知識階級の書生が、自由民権思想を広め、また演劇改良のために始めた演劇。これらの動きがのちに新派劇に成長,発展した。
「団団珍聞」の創刊者を記せ。またその役割を説明せよ。
野村文夫。イギリスの漫画雑誌『パンチ』に範をとった週刊誌で、政治漫画と戯文で明治藩閥政府を風刺し,自由民権思想の鼓吹に努めた。
モレルの功績を説明せよ。
日本の鉄道創業に際し,パークスの推薦で来日。鉄道掛建築師長として新橋-横浜間の工事を指導し,また工部省の設置を伊藤博文に建言した。
森有礼の主張や功績を説明せよ。
旧来の婚姻風俗を否定して男女同権の一夫一婦制を主張した。幕末に英米に留学して、啓蒙思想家たちに呼びかけて明六社を創立した。
福沢諭吉の思想を説明せよ。
著書「文明論之概略」において、「古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」として、幕藩体制の基盤となっていた封建的身分制度と儒教精神を強く批判し、キリスト教ではなく実用的な西洋学問である「実学」を積極的に摂取することによって近代市民的で個人主義・自由主義である「独立自尊」を目指そうとした。文明論を進化論的に捉え、日本を半開とし、一定の成果は見られるが内面的には発達が遂げられていないとした。また、「脱亜論」を展開し、アジアの悪友を謝絶し、西洋文明国と同様の方法でアジアに進出すべきと論じ、アジアの諸国に対しては西洋諸国と同じ態度で接すべきであるとした。
西村茂樹の功績を説明せよ。
著書「日本道徳論」において、急激な欧化主義に対して日本の伝統的な文化や道徳を尊重すべきだとして、儒教を基礎に西洋哲学の長所を取り入れる「国民道徳」論を展開した。文部省に出仕し、修身化の設置に努め、民間においては日本弘道会を創設し、国民道徳の強化に努めた。
明六社の機関誌名を書け。またその結成者たちや活動内容・衰退を簡潔に説明せよ。
「明六雑誌」。日本最初の学術団体で、森有礼が、福沢諭吉・加藤弘之・中村正直・西周らと1873年に結成し、開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが、政府の「讒謗律」,「新聞紙条例」による言論弾圧で「明六雑誌」は廃刊となり、事実上解散した。
中江兆民の著作と功績を説明せよ。
「三酔人経綸問答」。「一年有半」。「続一年有半」。ルソーの「社会契約論」を翻訳した「民約訳解」を出版して東洋のルソーと呼ばれた。民権には上から恵み与えられた「恩賜的民権」と、下から人民が自由平等を獲得した「恢復的民権」があるとし、「恩賜的民権」から「恢復的民権」に変えていくことが日本の課題であるとした。
川路利良の功績について説明せよ。
司法権と警察権の分離を主張して警保寮の司法省から内務省への移管を建議し,実施される。東京警視庁の大警視となり、警察制度の整備に尽力した。
※警視庁設置と同時に、東京府内の治安にあたっていた邏卒は巡査と改称された・
ビゴーの功績を説明せよ。
漫画雑誌「トバエ」などで、日本の風習や時局を辛辣に風刺した。
穂積陳重の功績について説明せよ。
法典調査会委員として、旧民法の施行に際して延期を主張し,その後、梅謙次郎らとともに民法を起草。商法の起草にも参画した。英・独法を移入し,法進化論的立場から古今東西の法制史を幅広く研究した。
幕末・明治前期において、民衆が情報を得るメディアがどのように展開してきたか。
幕末期には別段風説書を通じて幕府が海外情報を独占したが、速報性に欠け、また民衆へは瓦版を通して風聞として洩れ伝えられるにすぎなかった。しかし、明治期には電信の整備が進むと共に「横浜毎日新聞」など活字メディアが発達し、海外情報の速報性と伝達量が拡大して情報の民衆への影響力が増加した。そのため、活字メディアが政論主張の場の性格を強めると、政府は「新聞紙条例」で統制した。
「東京市区改正条例」(1888年)を説明せよ。
日本最初の都市計画法である。道路・河川・上下水道の新設・改良に重点を置き、パリをモデルにして東京を帝都の体裁に整える事業であった。これをもとにして後に東京都市計画が作成された。
明治から大正にかけての都市計画の変遷を説明せよ。
1872年の大火で焼失した銀座煉瓦街の復興が都市改造事業の最初のものであった。次いで88年には「東京市区改正条例」が公布され,皇居周辺と下町の一部を対象として,道路の新設・拡張,河川・橋梁・公園の整備が行われたが,この間に日本の産業革命が進行し,東京,大阪をはじめとする大都市や港湾都市の都市化が急速に進んだため、1919年に「都市計画法」と「市街地建築物法」が公布された。東京をはじめ六大都市はこれらの法律に基づいて,都市計画区域,用途地域・防火地区の指定,幹線道路網等の計画を決定し,やがてその他の中小都市もこれに倣った。
丸の内オフィス街の成立過程とその意義を説明せよ。
三菱が陸軍用地を買収して、オフィス街建設を計画し、コンドルの指導でロンドンの煉瓦街をモデルに三菱1号館が完成し、13 号館をもって完成。一帯は「一丁ロンドン」と呼ばれ、以後の東京は鉄筋コンクリート造の高層ビルディング街に移った。
日本の近代建築において多大な貢献をした人物3人と、彼らのおもな作品を書け。
鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、旧岩崎邸を設計したコンドル。日本銀行本店旧館、東京駅を設計した辰野金吾。京都国立博物館特別展示館、旧東宮御所を設計した片山東熊。
東京都養育院の初代院長名と、その原資と内容を説明せよ。
渋沢栄一。江戸町会所の積み立てた資金を原資とした。東京都営の総合的社会事業施設であり、困窮者救済・迷子・捨て子などさまざまな種類の対象者の一括収容を行い、施設の専門化も行われた。
※渋沢栄一による、松平定信の伝記→「楽翁公伝」
電灯の普及と一般家庭での実態
1884年、上野駅で最初に点灯し、87年に東京電燈会社が鹿鳴館に点灯させた。明治末期から大正期に水力発電の電力供給によって普及し始めたが、一般家庭ではなお石油ランプが多かった。
兵式体操について説明せよ。
1885年に学校教育に取り入れられた軍隊式の体操で、忠君愛国の精神・肉体の育成を目指し、大正期には教練と改称、軍事的性格を強めた。
宮武外骨の創刊した雑誌名1つと彼の活動を簡潔に説明せよ。
「滑稽新聞」。大日本帝国憲法発布にあわせ,「大日本頓智研法」を骸骨が授与する戯画を掲載したため不敬罪に問われるなど、権力を風刺してしばしば筆禍を被った。
久米邦武の功績について説明せよ。
岩倉具視に従って欧米を視察。古代史の科学的研究に努めた。論文「神道は祭天の古俗」が神道家から攻撃されて東大教授を辞職。「米欧回覧実記」なども著した。
巌谷小波の功績を説明せよ。
尾崎紅葉らと硯友社を結成。「こがね丸」の成功を機に児童文学に専心し、雑誌「少年世界」の主筆を務めるなど近代児童文学に先駆的役割を果たした。また、おとぎ話の口演にも力を注いだ。
硯友社の結成者と性格を説明せよ。
尾崎紅葉。山田美妙。欧化主義に対し、伝統的江戸趣味と写実主義をもって明治文壇の中心となった。
明治の文学史を略述せよ。
明治初めに仮名垣魯文らの戯作文学(江戸後期の遊戯的文芸の総称で、勧善懲悪主義)や矢野竜溪や東海散士、末広鉄腸らの政治小説(政治思想の宣伝・啓蒙を目的とした)が流行したのに対し,坪内逍遥が「小説神髄」を著し,荒唐無稽なストーリー展開を排し,ありのままの人情や世相を描く写実主義を唱え,二葉亭四迷の「浮雲」などの言文一致の試みや,江戸文学の伝統をうけつぎながら写実的な描写を実現させた尾崎紅葉「金色夜叉」などにつながり、近代文学の基礎となった。
その後は感情の優位を強調し、空想・恋愛を重んじ、形式を打破するロマン主義(北村透谷や森鴎外、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥)が展開し、明治後期には人間生活の観察と共に実験的方法を重視する自然主義(国木田独歩や田山花袋、島崎藤村)が始まった。大正にかけては高踏派(夏目漱石や森鴎外)・耽美派(永井荷風ら)・白樺派(武者小路実篤ら)が現れた。
※坪内逍遥→演劇の改良も志した。「当世書生気質」など。
没理想論争について説明せよ。
坪内逍遥と森鴎外との間で行われた文学論争。「没理想」とは,理想や主観を直接表さず,事象を客観的に描く態度またはそのような作品の特質をいうが、坪内逍遥がシェークスピアの作品をそのように規定し,文学の没理想性と記述による帰納的批評を説いたのに対し,森鴎外は価値判断の基準の重要性と美の理想を主張した。
北村透谷の代表的著作1つと功績を簡潔に説明せよ。
「内部生命論」。自由民権運動に加わった後、島崎藤村らと「文学界」で活躍し、近代ロマン主義文学の中心となった。「実世界」を批判して「想世界」を重視し、肉体的な外部世界に対して、人間の根本となる精神的な内部生命の存在を主張し、内面的世界における自由と幸福を重んじ、それによって自我の確立を図ることを説き、恋愛を賛美した。
明治初期の歌舞伎を説明せよ。
江戸時代以来の伝統をもつ歌舞伎は、明治初期に幕末から活躍していた河竹黙阿弥が、文明開化の風俗を取り入れ、散切物や活歴劇を書いて人気を得た。また坪内逍遥は「桐ー葉」などの史劇を発表して、歌舞伎の革新をはかった。1889年には東京に歌舞伎座が落成し、1890年代に入ると伝統文化復活の風潮に乗って、市川団十郎・·市川左団次・·尾上菊五郎らが中心となって歌舞伎界は隆盛をきわめ、いわゆる団・菊・左の全盛時代が出現した。この時期の作者としては福地桜痴(源一郎)が名高い。
【日本史研究 山川出版社 参照】
伊沢修二の功績
音楽教育に尽力し、学校唱歌(旧来の三味線音楽・民謡・能楽などを排除)を創始。晩年には吃音矯正を目的とした楽石社を設立した。
演劇改良運動を説明せよ。
明治初期から 20 年代にかけて行われた、歌舞伎を近代化しようとする改革運動。末松謙澄らが演劇改良会を結成し、有職故実家による史実や時代考証の重視などいわゆる活歴劇を進め、女形の廃止なども行ったが、急激すぎて一般観客から遊離し、十分な成果は上がらなかった。
活歴とは何か説明せよ。
明治以降の歌舞伎劇の一様式で、従来の歌舞伎の卑俗・荒唐無稽な点を改め、忠実を重んじ、写真的に演出したもの。
岡倉天心の著作を2つ挙げろ。また彼の功績を説明せよ。
「東洋の理想」。「茶の本」。急激な西洋化が行われた明治において、日本の伝統美術の優れた価値を認め、東京美術学校開設に尽力し、のち校長となる。また、日本美術院を創立し、明治日本画家の指導者として活躍した。さらに、すぐれた国際感覚のうちに、日本及び東洋の文化の優秀性を内外に訴え、「アジアは一つ」と主張し、西洋に対抗するアジアの覚醒とアジアにおける日本の指導的役割を唱えた。
岡倉天心の新日本画運動を説明せよ。
西洋美術を吸収しつつ新たな伝統美術を創り出そうという試み。
明治政府による美術教育の変遷
当初は西洋美術の教育を重視し、工部美術学校を開設してフォンタネージに教授させたが、西南戦争後の財政事情の悪化やフェノロサによる日本美術の再評価の提言や国粋主義の台頭により閉鎖された。その後、フェノロサや岡倉天心の影響から西洋美術を排して東京美術学校を設立したが、明治美術会を結成した浅井忠やフランスで印象派を学んだ黒田清輝により西洋画が興隆すると、同校に洋画科を新設し、伝統美術との共栄を図った。
明治期の美術界はどのような動向を示したか。政府との関係も踏まえながら、日清戦争前までさかのぼって説明せよ。
当初は西洋美術の教育が重視され、工部美術学校を開設してフォンタネージに教授させたが、西南戦争後の財政事情の悪化やフェノロサによる日本美術の再評価の提言や国粋主義の台頭により閉鎖され、フェノロサや岡倉天心の影響から西洋美術を排して東京美術学校が設立された。岡倉天心はやがて反対派と対立して校長の職を辞し、日本美術院を創設(その門下からは横山大観・菱田春草・下村観山らが輩出)。岡倉らは院展を開いて日本の絵画の発展を図り、一方、政府もその後に文展を開いて岡倉らに協力した。
日本初の洋画美術団体である明治美術会を結成した浅井忠やフランスで印象派を学び白馬会を結成した黒田清輝(外光派)により西洋画が興隆すると、東京美術学校に洋画科を新設し、伝統美術との共栄を図った。浅井忠門下の満谷国四郎らは太平洋画会をつくって白馬会に対抗し、浅井忠は京都に移って関西美術院を始め、安井曽太郎・梅原竜三郎らを育てた。このほか、白馬会からでた青木繁は特異なロマン的作風で明治後期の画壇を飾った。
「天賦人権論」の内容と現代への影響を簡潔に説明せよ。
人間は生まれながらにして自由・平等であり、幸福を追求する権利があるという思想で明治前期の自由民権運動の理論的支柱であった。日本国憲法で基本的人権の尊重として受け継がれ,さらに自由権にとどまらず,生存権など社会権の保障へと拡大した。
福沢諭吉の著書を5つ書け。また、彼の思想を説明せよ。
「西洋事情」。「学問のすゝめ」。「文明論之概略」。「福翁自伝」。「世界国尽」。幕藩体制の基盤となっていた封建的な身分制度と儒教精神を強く批判し、西洋の実用的な学問を積極的に摂取し、キリスト教ではなく「実学」によって「独立自尊」を目指そうとしていた。また、西洋近代の文明によるアジアの後進性からの脱却,いわゆる脱亜論を説き,また個人の独立,自由,平等は天賦であるとして,儒学に代わる「実学」の必要を主張した。
脱亜論の内容およびその背景を説明せよ。
ヨーロッパを「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯は考えずに西欧近代文明を積極的に摂取し、西洋列強と同様の道を選択すべきだとする主張。1882年以後の軍備拡張、84年の清仏戦争における清国の敗北、同年の甲申事変による朝鮮開化派の敗退および清の朝鮮進出の強化、自由民権運動の衰退という内外情勢の急激な推移とともに国権拡張論が高まる状況のなかで強まっていった。
日本初の文化財保護法を書け。またその変遷を戦後まで簡潔に説明せよ。
古社寺保存法。古社寺の建造物や宝物の保存に関する事項を定めた法律であったが、国宝保存法(1929)の制定により廃止され、戦後の法隆寺金堂壁画焼失を契機に文化財保護法(国宝保存法なども文化財保護法に吸収されて廃止)が、それに代わって成立。
夏目漱石の作品を4つ書け。また、彼の思想を説明せよ。
「吾輩は猫である」。「坊っちゃん」。「三四郎」。「こころ」。「私の個人主義」。西洋の開化を「内発的開化」、日本の開化を「外発的開化」とした。他者に迎合する「他人本位」を否定し、自然主義に対立し、徹底して自我の内面を追求して真の自我の確立を目指し、心理的手法で近代人の孤独やエゴイズムを超える倫理を追求する「自己本位」を提唱したが、自己本位が万人の立場として採用されると個人と個人の対立が起こることを指摘し、晩年には小さな私を去り、普遍的な大我の命ずるままに自分を任せる「則天去私」の境地を求めた。
森鴎外の作品を4つ書け。また彼の略歴と思想を簡潔に説明せよ。
「舞姫」。「阿部一族」。「雁」。「高瀬舟」。陸軍軍医としてドイツに留学し、軍医として昇進する一方で多彩な文学活動を展開して夏目漱石と並ぶ反自然主義の巨匠と目された。個人と社会との矛盾・葛藤を、自己の置かれた立場を見つめて甘受しながらも埋没しない態度である「諦念=レジグナチオン」によって克服しようとした。
徳富蘇峰の思想と功績を、彼の転向にも触れながら簡潔に説明せよ。
徳富は,政府の欧化主義を貴族的欧化主義と批判し,一般国民の生活向上と自由拡大を目指す平民的欧化主義の必要性を主張した。民友社を創立し「国民之友」「国民新聞」(山路愛山・竹越与三郎らも参画)を刊行。進歩的平民主義に立つ時論家として知られたが、日清戦争前後より国権主義に転じた。第二次大戦中は内閣情報局の指導監督下に結成運営され、大日本言論報国会会長や日本文学報告会会長となった。
※日本美術報国会の会長は横山大観
1890年頃の国民的自覚を促す言論活動を3つ説明せよ。
三宅雪嶺が杉浦重剛,志賀重昂らと設立した政教社は、雑誌「日本人」で国粋保存主義を主張し、明治政府の欧化政策に反対し,条約改正問題では欧米屈従の態度をきびしく批判した。
陸羯南は新聞「日本」で、偏狭な排外主義ではなく、ナショナリズムとデモクラシーの総合を目指す国民主義を唱え、国民的自覚を広めて一体感を確立し、国家の独立を保とうとした。
日清戦争の勝利と三国干渉により国家主義が台頭すると、「太陽」を主宰した高山樗牛や井上哲次郎は日本主義を主張し、欧化政策の反動として、日本古来の伝統を重視し、国民精神の発揚を唱え、海外進出も主張した。
※三宅雪嶺…代表的著作は「真善美日本人」「同時代史」など。高島炭鉱事件(納屋制度下の鉱夫の虐待・酷使の暴露に始まる社会問題)糾弾など鋭い社会批判を行った。
※陸羯南…日清戦争後の急激な軍拡政策では政府を批判した。しかし,列強,とくにロシアの中国侵出が進むと対露開戦を主張した。
※高山樗牛…東大在学中に小説「滝口入道」を発表。日本主義の主張後にはニーチェの思想を賛美して個人主義へ転換し、晩年は日蓮に傾倒した
西村茂樹の著作を書け。また、彼の功績を説明せよ。
「日本道徳論」。道徳教育家で明六社に参加した。また、東京修身学社を創設(のち日本弘道会と改称)し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳の高揚に努めた。
加藤弘之の代表的著書を2つ書け。また彼の転向について説明せよ。
「真政大意」。「人権新説」。初期は「真政大意」などで天賦人権論を広めていたが、後に生物進化論を社会的に解釈し、適者生存などの観点から社会有機体説を説き、「人権新説」を著わして天賦人権論を否定して国家の利益を優先する国権論をとり、民権論に反対した。
那珂通世の功績を説明せよ。
日本,中国,朝鮮の古代史を比較研究し,神武天皇即位紀元の作為性を指摘。高等師範学校に東洋史の科目を創設するなど,近代東洋史学に尽くした。
山本作兵衛の功績を説明せよ。
筑豊炭田の最盛期から閉山に至る半世紀にわたりヤマで働いた経験をもとに、坑内の作業や炭坑町の生活を描いた。絵画や日記、原稿などがユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に日本で初めて登録された。
中村正直の功績を著書を交えて説明せよ。
昌平坂学問所に学び、英国留学後、明六社の設立に参加し、啓蒙思想の普及につとめた。訳著は「西国立志編」(S.スマイルズの「自助論」の訳書で、西洋の歴史上の人物の成功談を述べ、個人主義的道徳を説き、明治初期の青年に大きな影響)や 「自由之理」(J=S=ミルの「On Liberty」の訳書で、当時の自由民権運動に影響を及ぼした)。
津田梅子の功績を簡潔に説明せよ。
8歳のとき日本最初の女子留学生として米国に渡り、帰国後,女子高等師範学校の教授などを経て,1900年女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立し、明治・大正期の女性教育,英語教育に大きな足跡を残した。
奈良原繁の功績を説明せよ。
沖縄の近代化を専制的に推し進め,〈琉球王〉といわれた。沖縄の土地整理事業,糖業の育成,教育を振興した。土地整理事業は農民からの土地収奪となり,謝花昇らの沖縄自由民権運動と対立し,これに弾圧を加えた。
謝花昇の功績を説明せよ。
沖縄の自由民権運動家で、「民権運動の父」と呼ばれた。開墾地問題などで奈良原繁知事と対立し辞職。その後、知事の暴政批判と参政権獲得運動を展開した。
山之口獏の功績を説明せよ。
沖縄の詩人で、様々な生活の場面を純朴な目線で書き、「生活の柄」などは後世に歌にもなった。
後藤新平の功績を簡潔に説明せよ。
第四代台湾総督である児玉源太郎のもとで台湾経営に顕著な働きをみせた。のち,南満州鉄道初代総裁や東京市長などを歴任し、関東大震災直後には被災した東京の復興のための「帝都復興院」を創設し、リーダーシップを発揮した。
八田與一の功績を説明せよ。
台湾総督府の技術者として水利事業に従事し、烏山頭ダムを中心とする大規模な灌漑施設を完成させ、当地の農業発展に寄与した。
愛国婦人会について簡潔に説明せよ。
近代日本の軍事援護事業を目的とした婦人団体で、北清事変に従軍した者の主唱で,傷病兵・遺族の援護を目的に1901年設立された。後に思想教化・社会事業にまで手をのばしたが,大政翼賛会下部の大日本婦人会に統合された。
東亜同文会の会長と活動内容を簡潔に説明せよ。
近衛篤麿。日清戦争後の東洋の将来を憂慮し,大アジア主義の見地から東亜の大同団結を図り,義和団事件に際して国策推進に協力した文化団体。 日清両国の留学生交換や日清両国の文化交流を目指すなど多彩な活動を行なった。
阿部亀治の功績を簡潔に説明せよ。
品種改良家で、冷害につよい水稲品種の「亀の尾」を育成。山形県をはじめ全国で作付けされ,「陸羽132号」「農林1号」などの母体となった。
対露同志会が果たした役割を、七博士事件にも触れながら説明せよ。
天皇に対して対露開戦を要求する異例の請願上奏文を提出して受理された。この会の活動は,東京大学教授の戸水寛人ら7人の教授が桂太郎首相を訪問して,対露即時開戦を要求した「七博士事件」とともに,対露開戦へ世論を導くのに役立った。
戸水事件の意義をその内容と共に説明せよ。
対露強硬外交・即時開戦論を主張して日露開戦の世論喚起を行った東京帝大教授の戸水寛人ら七博士が、日露講和条約の締結反対を強く主張するなど積極的に政治活動を行ったため、政府は、その中心の戸水を、「文官分限令」の規定により休職処分にした。しかし、教授たちが結束して復職を求めてついに復職が実現して大学側が勝利した。これは、政府による人事干渉を排除し、大学自治の主内容を構成する教員の身分保障の要求が大学人によって初めて主張され、確立の契機となったという点で日本の大学自治の歴史上大きな意義をもつ。
三田育種場の役割を説明せよ。
官営種苗会社であり、農産物の優良な種苗の普及に努めるほか、牛馬や農機具の改良も行われた。
井上哲次郎の主張を説明せよ。
非国家主義・無差別な博愛主義を掲げるキリスト教が、教育勅語の精神に反していると主張し、教育勅語の精神である国家主義を教育の基礎とするべきであるという考えを示し、内村鑑三不敬事件ではキリスト教を批判した。また、ドイツ観念論哲学を紹介し、東西思想の融合、哲学の体系化に努めた。
内村鑑三不敬事件を説明せよ。
キリスト教徒の内村鑑三が第一高等中学校での教育勅語奉読式の際、教師であり
ながら教育勅語に拝礼しなかったことから非難をうけ,教壇を追われた。
近代の主なお雇い外国人の功績
マイエット:保険制度の設立などをたすけた。
モース:大森貝塚を発見。また、「日本その日その日」で日本文化を広め、ダーウィンの進化論を紹介。
ナウマン:全国地質図を作成し、フォッサ=マグナを指摘。
ミルン:工部大学校で地質学を教授し、日本地震学会の創立に尽力。
ダイアー:工部省工学寮・工部大学校でエンジニア育成の教育を実践。
ケーベル:日本哲学の基礎を築いた。
ワーグマン:「絵入ロンドン=ニューズ」の特派員として来日し、漫画・風俗画を描き、洋画技法も教えた。
マレー:女子教育に貢献した。
ホフマン:ドイツ医学を教授し、初めて病理解剖をした。
ジュ=ブスケ:フランス式軍制の導入に努めた。
グリフィス:開成学校で化学を教授した。
ベルツ:政府に招かれ生理学・内科を講義し、公衆衛生の向上や伝染病の予防に努め、日本の現代医学の基盤づくりに大いに貢献。文明開化期の日本の若い知識人による日本の伝統文化軽視を非難したりもした。
※「ベルツの日記」
キヨソネ:大蔵省紙幣寮で有価証券類の印刷原版を作成し、銅版画技術を指導した。
主な日本人による功績
河口慧海:日本人として初めてチベットのラサに至り、チベット仏教を紹介
大森房吉:地震学上の業績が多く,初期微動継続時間から震央を求める大森公式,大森式地震計など
木村栄:緯度変化の公式に Z 項(木村項)を付加すべきことを提唱
長岡半太郎:土星型原子模型を発表。また地震波の伝播などの研究に業績
田中館愛橘:緯度観測所、航空研究所の設立やローマ字・メートル法の普及に貢献
牧野富太郎:独学で植物学を研究。日本各地の植物を採集して歩き、多数の新種を発見・命名。すぐれた植物図を描き、植物採集会を指導。
桜井錠二:池田菊苗とともに溶液の沸点上昇測定法を改良(桜井=池田法)。理化学研究所設立に尽力し理論化学の基礎をつくる。
菊池大麓:日本の近代数学および数学教育の確立に貢献
藤沢利喜太郎:菊池大麓の指導を受けた。近代数学の確立に貢献
小金井良精:縄文時代の人骨研究を元に、日本石器時代人アイヌ説を提唱
石川千代松:モースの影響を受け、進化理論の研究を推進し、動物学の基礎を築いた 。
下瀬雅允:ピクリン酸を主体とした強力な火薬を発明し、「下瀬火薬」と呼ばれた。日露戦争で弾丸や水雷の爆発薬として大きな効果をあげた。
白瀬矗:日本人として初めて南極大陸に上陸、その地点を大和雪原と命名。
金井延:ドイツ社会政策学を紹介 。
重野安繹:実証主義に基づく史学の基礎を築いた。
成瀬仁蔵の功績を説明せよ。
雑誌「女子教育」を創刊するなど女子教育に尽力し、日本女子大学を創設した。
日露戦争後の日清戦争後とは異なった時代思潮を説明せよ。
日清戦争後は国家主義が主流であったが、日露戦争の勝利により維新以来の国家目標が達成されたとの意識が広まったことで,社会的矛盾と自我の問題に目を向ける白樺派などの文学潮流が生じた。
※白樺派…武者小路実篤,志賀直哉,有島武郎ら
浅川巧の活動を簡潔に説明せよ。
朝鮮総督府において植林事業を行いながら朝鮮語を学び、朝鮮の民芸を研究し、深く朝鮮を愛した。
北里柴三郎の功績を簡潔に説明せよ。
ドイツでは破傷風の血清療法を確立し、帰国後に伝染病研究所の所長となり、ペスト菌を発見した。
志賀潔の功績を簡潔に説明せよ。
伝染病研究所に入り、赤痢菌を発見した。
長与専斎の功績を簡潔に説明せよ。
岩倉使節団に随行して欧米医事制度を調査し、日本医事制度の基礎をつくった。また、牛痘種継所を設立し、伝染病予防,上下水道の改良などに貢献した。
高峰譲吉・鈴木梅太郎・秦佐八郎の薬学的功績を説明せよ。
高峰譲吉…アドレナリンを抽出し、消化薬であるタカジアスターゼを創製した。
鈴木梅太郎…脚気予防に有効なオリザニン(ビタミン B₁)を抽出した。
秦佐八郎…梅毒の化学療法剤サルバルサンを創製した。
俳句革新運動を進めた人物とその内容を説明せよ。
正岡子規。俳諧から発句を独立させて、俳句という呼び名を与え、江戸時代以来の陳腐な俳句を、月並み俳句と呼んで否定し、写生による現実密着型の俳句を確立させ、松尾芭蕉の神格化の否定と、与謝蕪村の再評価をした。
中世から近代に向けての文芸の変化
中世から近世にかけて、連歌から俳諧が独立して独自の文化となり、文学性が高められる一方で庶民に身近な文芸として広まった。明治・大正期には革新運動のなかで連句の排除が徹底され、発句のみの俳句として定着していった。
仁科芳雄の功績を説明せよ。
日本の物理学の発展に指導的な役割を果たし、日本初のサイクロトロンを建設した。
南方熊楠の功績を説明せよ。
十数か国語を読み、宗教学・考古学など様々な学問に博識を示し、柳田国男と共に日本民俗学を発展させ、70 種の新粘菌種を発見した。また、明治政府の行った神社合祀政策に反対した。
伊波普猷の功績を説明せよ。
沖縄学の創始者で「沖縄学の父」と呼ばれる。琉球の言語史,文化史の研究に貢献が多く,古謡集『おもろさうし』を中心に,琉球の古代史,古語,古俗を実証的に研究した。
高木貞治の功績を説明せよ。
「高木の類体論」が日本の数学を世界的なレベルに引上げた。
本多光太郎の功績を説明せよ。
KS 磁石鋼を発明した鉄鋼学の世界的権威。
八木秀次の功績を説明せよ。
宇田新太郎と現代のテレビ用アンテナの原型となる電波指向方式の「八木アンテナ」を発明した。第二次世界大戦中には電波兵器開発にあたった。
野口英世の功績を説明せよ。
渡米してロックフェラー研究所所員となり、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功した。
山本鼎の功績を説明せよ。
日本創作版画協会を結成し、創作版画の発展に尽力した。児童のための自由画運動の推進、日本農民美術研究所の設立など、多方面で活躍した。
自由教育運動を説明せよ。
従来の画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動。大正デモクラシーの風潮を追い風にして広まった。具体的には、鈴木三重吉らの『赤い鳥』、ドルトンプラン、生活綴方教育などがある。
綴方教育運動を説明せよ。
子どもたち自身に、生活上の出来事や、それに関わる思考や感情を作文に素直に綴らせるもで、その作品をみんなで検討する作文指導を通じて、生活現実のリアルな認識や文章表現力、主体性などを育てることをめざす教育法。
浅草六区の歴史的意義とそのシンボルを説明せよ。
「喜劇王」のエノケン(榎本健一)や声帯模写で人気が出たコメディアンの古川ロッパら多くのスターを生み出した。シンボルは日本初の煉瓦造で高層建築物の凌雲閣。
沢柳事件を説明せよ。
京大における教授の任免権をめぐる抗争事件。沢柳総長が学内刷新を唱えて 7 教授を罷免したのに対して,教授会の同意が必要だとして教授団が抗議運動を行った。
沢田正二郎の功績を説明せよ。
新国劇を設立し、殺陣で構成する剣劇を含めた大衆演劇を切り開いた。
松方幸次郎の活動を簡潔に説明せよ。
川崎造船所社長に就任。ヨーロッパ絵画,彫刻,浮世絵など膨大な美術品を収集した。
三木清の活動を簡潔に説明せよ。
マルクス主義革命運動に大きな影響を与えた。治安維持法違反のかどで投獄され,第 2次世界大戦直後に獄死。
時代小説と歴史小説の違いを簡潔に説明せよ。
歴史小説は忠実に基づくが、時代小説は人物設定などが自由。
※時代小説→ 中里介山「大菩薩峠」・白井喬二・直木三十五・ 古川英治「宮本武蔵」・江戸川乱歩「怪人二十面相」(探偵小 説)・大佛次郎「鞍馬天狗」・吉屋信子
森戸辰男への弾圧を簡潔に説明せよ。
「経済学研究」に載せた無政府主義者であるクロポトキンに関する論文が危険思想であるとして休職処分にされた。
田中館愛橘の功績を説明せよ。
日本物理学の基礎を築いた。地磁気測定・メートル法・ローマ字の普及・航空物理学の発達に寄与した。
長谷川如是閑の功績を説明せよ。
大阪朝日新聞社に入社。大正デモクラシーをリードする言論活動を展開したが白虹事件で退社した。
水平社宣言を簡潔に説明せよ。
西光万吉が起草し、被差別部落出身者が自主的な運動で部落差別からの解放を目指すことを宣言した。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という結びの言葉で知られ、日本初の人権宣言。
日本最初の社会主義的婦人団体名と活動内容を説明せよ。
赤瀾会。伊藤野枝,堺真柄,山川菊栄らによって結成され、官憲の弾圧下で独自に活動を行うことはきわめて困難であったが,研究会や講演会を開いて,社会主義の宣伝普及,婦人の地位向上のために努めた。
帝都復興院の総裁名と活動
後藤新平。関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京・横浜の都市復興事業を行った。
学校給食の変遷を説明せよ。
関東大震災の被災児童に給食を実施したことを契機に貧困児への給食の関心が高まり、1932年、欠食児童の増加に対し、文部省は学校給食実施を奨励して国庫から支出した。後には、貧困児の養護から強兵政策を背景とした栄養改善・体位向上へと変化したが、戦争の激化と学童疎開で廃止された。戦後には「学校給食法」が制定され、輸入脱脂粉乳やガリオア資金によるパン給食などで完全給食が普及し、学習指導要領によって教育活動となった。
同潤会を説明せよ。
関東大震災の直後に義援金を基に設立され、罹災者の救済を住宅団地の経営により行った。その事業のなかで最も有名なのがアパートメントの建設で,日本最初の本格的な公共賃貸共同住宅となった。
杉本京太の功績を説明せよ。
画期的な和文タイプライターを発明した。
九鬼周造の著作と功績を説明せよ。
『「いき」の構造』。日本固有の精神構造あるいは美意識を分析した。ヨーロッパ留学において体得した現象学的方法により、日本の「いき」という民族的分化現象の構造を分析した。「いき」を、男女の「媚態」と武士道などにおける「意気地」と仏教などに由来する「諦め」の3つの契機によって完成されるものと捉え、それが自然現象や芸術作品においてどのように表現されているかを分析した。
和辻哲郎の思想を説明せよ。
著書「倫理学」で、社会を否定して個として自己を自覚すること、および自己を再び否定して社会のために生きようとすることを「二重性格の弁証法的統一」とした。人間とは人と人との間柄であると同時に、その間柄における我と汝でもあるとし、「間柄的存在」とは人を他者や社会との関わりの中で捉え、人間は決して孤立した個人的存在ではなく、また、倫理も単に個人だけの問題、社会だけの問題ではなく、個人と社会との相互作用において成立するものであり、この作用が無くなると個人主義的な利己主義や個々人を抑圧する全体主義を招くとした。また、風土と人間存在の在り方の関連を追求して、世界の風土を「モンスーン・砂漠・牧場」に分け、モンスーンにおいては受容的忍従的態度が、砂漠においては対抗的戦闘的態度が、牧場では合理的精神が育まれたとした。
アナーキズムを簡潔に説明せよ。
一切の権威,特に国家の権威を否定して,諸個人の自由を重視し,その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想。
平塚らいてうの功績を説明せよ。
エレン・ケイの思想と禅の影響を強く受け,1911年に青鞜社をつくり,日本で初めての婦人雑誌「青鞜」を刊行し,婦人解放への道を開いた。また 1920年には,婦人の政治的自由を要求する団体である新婦人協会を市川房枝らと発足させた。
「青鞜」発刊に際して 全文:元始女性は太陽であつた。 (hanaha-hannari.jp)
平塚らいてうの著書を1つ記し、彼女が世間から非難を浴びた理由を簡潔に説明せよ。
「円窓より」。自由恋愛や自由結婚は日本の伝統的なモラルに反すると考えられたから。
※平塚らいてう➡後に無政府主義へ傾倒
「新しい女」を説明せよ 。
雑誌「青鞜」を出した女流文学者のグループが中心となって主張した、封建的で古い因習から自己を解放して自由で自立的な生き方をしていこうとする、従来の良妻賢母主義を否定する女性像。
母性保護論争を説明せよ。
大正期に生じた母性保護をめぐる論争。与謝野晶子は、女性の経済的自立を掲げ,国家による母性の保護を依頼主義として批判したが、平塚らいてうは、母は社会的な使命をもち,妊娠・出産・育児期にある女性は国家によって保護・尊重されるべきと提唱して激しく対立した。
一方で山川菊栄は与謝野の主張を女権主義,平塚の主張を母性主義として整理し,いずれも資本主義社会を前提とした議論であるとして批判し,女性にとっては自立も保護も必要であると主張。この出来事は後のフェミニズム運動に大きな影響を与えた。
高群逸枝の功績を簡潔に説明せよ。
平塚らいてうと無産婦人芸術連盟を結成し、アナーキズム系の雑誌「婦人戦線」の編集に携わった。のちに女性史研究を確立。
明治末期から大正期の新劇運動 を説明せよ。
西洋近代劇の移植の先駆者は坪内逍遥で、1906 年に島村抱月らとともに文芸協会をおこして、シェークスピアやイプセンの作品を上演した、さらに 1909 年には、小山内薫・市川左団次が中心となって自由劇場を創立し、新劇運動を展開した。大正初期、島村抱月が芸術座を結成し、帝国劇場で演じられ、松井須磨子が人気スターとして世の注目を集め、新劇の普及に大きく貢献した。そして、小山内薫が土方与志と協力して築地小劇場を創立して新劇をほぼ確立した。また、沢田正二郎によって始められた新国劇が大衆演劇としてしだいに広まっていった。
日本美術院の再興の経緯 を説明せよ。
資金の欠乏、院の内紛、綱紀の乱れなどが原因で徐々に沈滞し、岡倉天心が渡米したことにより、同院は事実上の解散状態になった。1914 年、文展に不満を持つ横山大観や下村観山らは、前年に岡倉が没したことを契機にその意志を引き継ぐ動きを見せ、日本美術院を再興した。
フューザン会を説明せよ 。
文展系の絵画に反発した高村光太郎,岸田劉生らが組織。当時の青年画家に大きな影響を及ぼした
二科会を説明せよ。
梅原竜三郎らによって結成された。新傾向をめざしていたために保守化した文展の審査で不利な立場にあり,在野として独立した。常に新傾向の作家を入れ、洋画界の革新に貢献した。
春陽会を説明せよ 。
日本美術院洋画部を脱退した山本鼎らが中心となり,草土社系の岸田劉生や梅原竜三郎を加えて,日本的な絵画を目ざす団体として創立した。
※安井曽太郎「金蓉」・梅原龍三郎「紫禁城」・岸田劉生「麗子像」
杉浦非水の功績 を簡潔に説明せよ。
日本初のグラフィックデザイナーで、地下鉄や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がけるなど、日本のグラフィック・デザイン界で先駆的役割を果たした。
プロレタリア文学運動の統一組織の変遷を説明せよ。
『種蒔く人』(1921)が創刊され、社会主義的な知識人・文学者が結集して、労働者階級の解放運動と結び付いた運動が展開されたが、関東大震災に際して大杉栄、平沢計七らが殺されたのをはじめとして、激しい弾圧によって社会主義運動は壊滅的打撃を受けた。
自然発生的な労働文学を目的意識的な革命文学へ組織することを目指し、まずは日本プロレタリア文芸連盟が結成され、『文芸戦線』はその機関誌となった。翌年には活動方針の対立から日本プロレタリア芸術連盟となり、プロレタリア文学は組織的な文学運動として発展させられることになったが、文学組織の分裂抗争も始まり、弾圧と徹底的な政治性への志向による内部矛盾のためしだいに衰退していった。
分裂を繰り返してプロ芸、労芸、前芸の三派鼎立時代が出現し、三・一五の大弾圧の直後にナップが結成されたが、指導的メンバーが相次いで検挙され、機関誌もほとんど毎号発禁となるなど弾圧が激化し、1931 年の満州事変以後はファッショ化、反動化の傾向が一段と強まった。その後、コップが結成され機関誌『プロレタリア文化』を創刊されたが、弾圧はいっそう激化し、指導的メンバーは根こそぎ検挙され、合法活動の可能性を奪われ、結局、戦争の波に飲み込まれていった。
※小林多喜二「蟹工船」・徳永直「太陽のない街」・葉山嘉樹「海に生くる人々」中野重治・宮本百合子
河東碧梧桐の功績 を簡潔に説明せよ。
正岡子規に師事し、高浜虚子と並んで子規門の双璧をなして俳句革新運動に参加した。正岡子規の没後は新傾向運動を展開して自由律を主張した。
山田耕筰の功績 せよ。
東京フィルハーモニー管弦楽団を組織,日本に交響楽を定着させるために活動した。日本の歌劇運動を推進するため,日本楽劇協会を組織した。
近衛秀麿の功績を簡潔に説明せよ。
山田耕筰とともに日本交響楽協会を創立、のち新交響楽団(現 NHK 交響楽団)を結成するなど、日本の交響楽団の育成に努めた。
三浦環の功績を簡潔に説明せよ。
ロンドンでオペラ「蝶々夫人」に主演して成功し、以後オペラ歌手として世界的名声を得た。
童謡運動を簡潔に説明せよ。
教育勅語によって普通教育の根本方針がすえられ,天長節,紀元節など国家の祝祭日の儀式での歌の指導が重視され,日清戦争以来,軍歌がしばしば学校に持ち込まれた。しかし、20世紀に入り唱歌教育への批判が強まり,「赤い鳥」などを舞台に北原白秋らによって童謡運動がおこされた。これらは学校の音楽教育を子どもの興味,関心に近づけるものであった。
1920 年代後半から 30 年代前半における思想・文化状況を説明せよ。
20 年代後半には治安維持法下にも関わらずマルクス主義が知識人に巨大な影響力を持ち、社会主義理論に基づくプロレタリア文学運動が隆盛した。30 年代前半には共産党員の大量転向が進行し、国家社会主義の主張が高まった。
小林秀雄の功績を説明せよ。
批評を文学のジャンルとして確立し、当時のプロレタリア文学を政治的「意匠」をまとったものとして批判した。評論は単なる文芸作品の感想や解説を述べるものではなく、「批評」の形を取りながら、自己の思想を語るものであるとして日本近代批評を確立した。
加藤周一の主張を説明せよ。
日本の文化の特色は、他国の文化を積極的に吸収して成立した雑種文化にあると主張した。
国家社会主義の代表政党とその結成者と内容を説明せよ。
日本国家社会党。赤松克麿。日本の国家と社会とを改造して、全体主義的に平等な国民生活の実現を目指すもので、そのためには日本の海外進出もやむを得ないとする考え。
武者小路実篤の功績を説明せよ。
「お目出たき人」、「友情」などで楽天的な人生肯定の態度を批判し、戯曲「その妹」では封建制を批判した。また、理想主義、人道主義の実践の場として、人間が個性を発揮しながら社会の調和も実現できる場として「新しき村」という共同生活を行う農場を建設した。
違星北斗の功績を説明せよ。
昭和時代前期のアイヌ民族解放運動家・歌人で、差別と貧困にくるしむアイヌ民族の復権を説き,雑誌「コタン」を創刊した。
日本の近代以降の映画の展開を説明せよ。
1890 年代末に英・仏から輸入され、神戸・大阪・東京などで公開された。1899 年に国産映画を初制作し、のちに浅草の電気館が活動写真の常設館になった。1912 年に日活が創立され、20 年に松竹が映画制作に乗り出した。昭和初期までは無声映画で、活動弁士が説明したが、1931 年に画面と音声が一体となったトーキーが始まり、51 年にカラー映画が登場した。
西田幾多郎の功績を説明せよ。
「善の研究」を発表し、西洋哲学に東洋思想を持ち込んだ独自の哲学を展開した。「純粋経験」を主客未分の具体的経験とし、自己と対象の対立・分離以前の根本的な経験とし、この「純粋経験」にこそ真の実在があると主張した。主客の対立の根底にある物を探求し、単なる有無を超え、相対的な有無の対立を越えて、全ての者の存在の根拠となる絶対的なものである絶対無の「場所」があるとする「場所の論理」を展開し、真実在は絶対無であり、現実の世界を成り立たせているとした。そして、主客合一が人格実現を生じ、自己完成へと至るとし、また、多なるものと1つの世界が相互に矛盾的に対立しつつ同一であることを「絶対矛盾的自己同一」とした。
京都学派を簡潔に説明せよ。
西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループ。
鈴木大拙の功績を説明せよ。
仏教、特に禅の思想や日本文化の海外紹介に努めた。著書「日本的霊性」において、日本人の真の宗教意識である日本的霊性は、鎌倉時代に禅と浄土系思想によって顕現し、その霊性的自覚が後世にまで及んでいるとした。
石原莞爾の活動を簡潔に説明せよ。
板垣征四郎らと満州事変をおこし,満州国建国を推進した。持説の「世界最終戦争」にもとづく日米決戦を想定し,全満州の植民地化を構想した。対中戦不拡大を主張して東条英機と対立
※東亜連盟…日中戦争の長期化と日本の国力消耗を憂慮した石原が,中国民族運動の高揚に触発されて石原構想の実現を目ざした理念及び団体
河上肇の著作と功績を簡潔に説明せよ。
「貧乏物語」。奢侈の根絶による貧乏廃絶を説いた。さらにマルクス主義経済学へ進み、その最高権威となった。
内藤湖南の主張を簡潔に説明せよ。
邪馬台国の大和説を主張した。
白鳥庫吉の功績 を簡潔に説明せよ。
日本古代史における邪馬台国北九州説の先駆者。
転向文学者 と著作を3 例挙げろ。
中野重治の「村の家」。島木健作の「生活の探求」。亀井勝一郎の「日本浪漫派」。
日本浪漫派 2 人とその立場を簡潔に説明せよ。
保田与重郎。亀井勝一郎。転向と左翼文学運動の壊滅、急激なファッショ化という時代状況において、一切の政治的なものを排除して美的感覚の世界に自由を求め、日本の美的伝統に回帰した。
戦争文学者 2 人とその著作を挙げろ。
火野葦平の「麦と兵隊」。石川達三の「生きてゐる兵隊」。
古賀政男の作品と功績 を簡潔に説明せよ。
「酒は涙か溜息か」。歌謡曲を多数作曲し。昭和初期の不景気と不安の時代を反映した哀調が大衆に受けた。
矢内原事件を説明せよ。
矢内原忠雄は「中央公論」に日本の軍国主義に対する婉曲な批判を内容とした「国家の理想」を発表し,当局により全面削除処分となった。
河合栄治郎事件を説明せよ。
「ファシズム批判」で反軍・反戦思想の宣伝をして政府の政策を批判したことにより、著書の発禁と休職処分となった事件。
津田左右吉の弾圧について説明せよ。
早稲田大学教授の津田左右吉は、記紀神話の合理的な文献批判が皇室の尊厳を侵したとされ、著書が発禁となった。
宗教団体法を説明せよ。また新興宗教2つとその創始者を挙げよ。
宗教法規の整備統一を図り,宗教団体の地位を明確とし,保護・監督を強化することで,国家の統制下に宗教団体を置くことを目的とした。ものみの塔の日本支部を設立した明石順三。ひとのみち教団を回教した御木徳一・徳近父子。
1930年代以降の文学界・演劇界を説明し、そのような諸芸術が日中戦争長期化によりどのような影響を受けたかを説明せよ。
文学界では、弾圧の強化や時代の風潮を反映してプロレタリア文学作家の多くが転向して衰退した一方、プロレタリア文学に対抗して感覚的な表現の中に文学の実体を求めようとした新感覚派の中からは、横光利一や川端康成らが出た。日中戦争下では火野葦平の「麦と兵隊」、石川達三の「生きてゐる兵隊」などの、戦争と兵士を描いた文学作品も現れたが、後者は戦場における残虐行為を描写したため、発売禁止となった。
演劇界では、プロレタリア劇場同盟とその後を継いだ新協劇団・新築地劇団が中心となって新劇活動が行われたが、統制厳格化によって一時衰退した。その後にやや息を吹き返し、新生新派が結成されて、時局物などを上演した。優遇されていた伝統的な歌舞伎では、歌舞伎革新を目指して前進座が創立された。また、大衆演劇として軽演劇や少女歌劇が人気を集め、映画はトーキーが採用されて飛躍的発展を遂げ、文芸映画が生み出された。しかし、日中戦争の長期化によって、これらの諸芸術に軍国調の波が押し寄せ、国策に沿って戦争に協力する体制が整えられ、あるいは従軍作家・従軍画家として動員され、芸術活動の自主性はほとんど失われた。
戦争記録画の目的とその代表者を説明せよ。
戦意高揚のため。鶴田吾郎の「神兵パレンバンに降下す」。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」・「血戦ガダルカナル」
文化やスポーツは戦時体制にどのように適応させられたか。
戦時体制の確立のための人的資源の確保には、文化・スポーツによって国民の心身を鍛錬することが必要であるとされた。
横浜事件(1942)の内容を説明せよ。
「改造」に掲載された、細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」を、特高は共産主義の偽装宣伝であるとして発禁に処して細川を検挙し、戦争に批判的なジャーナリズムへの弾圧に拡大した。厳しい取調べで出版関係者に多くの犠牲者が出て、「中央公論」・「改造」は廃刊となった。
杉原千畝の功績を説明せよ。
第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、日本政府の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約 6 千人もの命を救った。
角田柳作の功績を説明せよ。
日本文化の研究と教育のためコロンビア大に日本文化研究所を設立した。
清沢冽の功績を説明せよ。
ジャーナリストで、朝日新聞・東洋経済新報などを舞台に、軍国主義に同調せず、自由主義者として外交・政治評論に活躍した。
朝河貫一の功績を説明せよ。
日本の荘園史と西洋の荘園の比較などを行った歴史学者で、第 2 次大戦中には日米開戦を阻止するため大統領書簡を天皇に送ろうと奔走するなど、一貫して平和や協調外交を訴えた。
正木ひろしの功績を説明せよ。
弁護士であり、軍国主義を批判し、戦争反対を訴え続けた。
桐生悠々の功績を説明せよ。
新聞記者であり、軍国主義やファシズムに傾斜する社会に警鐘を鳴らし続けた。
横田喜三郎の功績を説明せよ。
法学者であり、国際法学の立場から満州事変や真珠湾攻撃の違法性を主張した。