17世紀後半の各藩の代表的な藩政改革について説明せよ。
会津藩の保科正之は山崎闇斎に朱子学を学び、岡山藩の池田光政は熊沢蕃山を用いて、蕃山は私塾花畠教場を、光政は郷学閑谷学校を設けた。水戸藩の徳川光圀は朱舜水を招いて江戸の藩邸内に彰考館をおき、「大日本史」の編纂を始めた。加賀藩の前田綱紀は朱子学者木下順庵らの意見を入れて、藩政に取り組んだ。
17世紀後半の藩政改革と18世紀後半の藩政改革の性格の違いを簡潔に説明せよ。
17世紀後半の藩政改革では、元和偃武のもとで儒者を招くなど主に藩政の確立を重視していた。一方、18世紀後半になって諸色高米価安などを背景として領主財政の悪化が深刻になると、藩校設立など文教政策の他にも殖産興業の推進や藩専売制、本百姓体制の維持など経済的政策の比重も高まった。
18世紀後半における各藩の藩政改革の代表例を説明せよ。
熊本藩主の細川重賢は有能な人材を登用し、財政の緊縮、治水・殖産興業・租税軽減などによる農村の復興、藩校時習館の設立による文武の奨励などの宝暦の改革を断行して藩政改革の模範となった。
松江藩主の松平治郷は、徹底した勧農抑商政策の下で農村の復興と財政の緊縮の御立派の改革および、人参・陶器・紙・蠟の生産を奨励し、殖産興業政策に目覚ましい成果を上げた。
米沢藩主の上杉治憲は藩校興譲館を開設し、譜代門閥勢力を排除して有能な人材を登用し、とくに養蚕・製糸業を奨励して家内工業を興し、藩及び藩士の財政難を救った。さらに、儒学者である細井平洲を招き、藩士・農民の文教教化を盛んにした。
秋田藩主の佐竹義和は、養蚕・織物・銅山その他の国産品の生産を奨励し、藩政を整備し、藩校明徳館を設立した。
19世紀の諸藩の藩政改革の代表例を説明せよ。
薩摩藩では、調所広郷が膨大な借金を無利息・250年賦返済という事実上の棚上げにより処理し、奄美3島特産の黒砂糖の専売制を強化した。また、幕府が独占的に集荷していた俵物を、松前から長崎に向かう途中の船から買い上げ、これを琉球を通して清国に売るという密貿易を行うなどして藩財政を立て直した。島津斉彬の代になると、積極的な殖産興業政策が進められ、反射炉の築造に成功し、造船所やガラス製造所などの洋式工場を建設し、集成館と命名した。また島津忠義はイギリス人技師の指導で鹿児島紡績工場という日本初の洋式紡績工場を建設するとともに、長崎のイギリス人貿易商グラヴァーらから洋式武器を購入し、軍事力の強化もはかった。
防長大一揆と呼ばれる大規模な一揆の洗礼を受けた長州藩では、村田清風を登用し、借金を37年賦返済という棚上げのような方法で整理し、一揆勢から要求された紙・蝋の専売制を改正した。さらに、下関に越荷方という役所を設け、他国廻船のもたらす物産という意味の越荷を抵当に、廻船業者などに資金の貸し付けを行うほか、その越荷を買い取って委託販売するなどして利益をあげて藩財政の財源とし、洋式武器の購入などにより軍事力の強化が図られた。
肥前藩では、鍋島直正が均田制を実施し、小作地を地主からいったん没収し、一部を地主に返して他を小作人に与えるなどして本百姓体制の再建をはかった。また特産の陶磁器の専売を進めて藩財政の財源とし、日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど、藩権力の強化に努めた。
土佐藩では、おこぜ組と呼ばれる改革派が登用され、財政緊縮による藩財政の再建が進められ、藩主山内豊重の代には、開成館をつくり、大砲の鋳造や砲台の築造など、軍事力の強化をはかった。
他にも宇和島藩の伊達宗城、越前藩の松平慶永なども、有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びついて積極的に藩営貿易などを行い、藩権力を強化した。徳川斉昭が主導した水戸藩もあったが、藩内の抗争によって改革がうまくいかなかった藩もあったが、これらの藩はのち雄藩として、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになった。
藩政改革で専売制度を強化しても結局は自立できない理由を説明せよ。
諸藩が元々、蔵屋敷を設けて蔵物を販売していた大坂・江戸は幕府の直轄都市であり、問屋が幕府から株仲間結成を公認され、流通を掌握していたため、専売制度を実施したとしても藩外への販売では幕府主導の市場構造に依存せざるを得なかった。
※当ページは、(「日本史研究 山川出版社」を参照)