社会経済史:古代

縄文~弥生時代の葬法の変遷を説明せよ。

縄文時代は死者の霊を恐れ封じ込める呪術的信仰により屈葬が広く行われていたが、弥生時代には手足を伸ばして木棺や箱式石棺に納める伸展葬が一般化して葬法の多様化した。九州北部では副葬品を伴った甕棺墓や巨石を置く支石墓があり、そこでは集団内での身分差の発生が見受けられる。また、各地には周囲に堀をめぐらした方形周溝墓墳丘墓が造られ、そこでは家族墓や首長の出現が見受けられる。

縄文時代における採集・狩猟・漁猟について概観せよ。

気候の温暖化が植物相や動物相の変化と海進をもたらす中で、針葉樹林に代わる落葉広葉樹林・照葉樹林から採集された木の実は石皿・すり石で加工された。また、大型動物に代わって動きの速い中・小型動物が増加したため、石鏃を用いた弓矢落とし穴を利用した狩猟が行われた。日本列島が形成され、入江が増加したことから、釣り針などの骨角器石錘を備えた網、磨製石器の石斧を用いて作った丸木舟などを利用して、漁労が行われた。

※縄文時代…アニミズム、土偶、抜歯、土面、屈葬, 三内丸山遺跡

金属器は弥生時代!

黒曜石の産地…

北海道の十勝、長野県の和田峠、大分県の姫島、熊本県の阿蘇山

サヌカイト(讃岐石)の産地…奈良県の二上山

硬玉(ひすい)…新潟県の姫川

盟神探湯を簡潔に説明せよ。

熱湯に手を入れ,火傷の有無により真偽を判定する方法である。

太占を簡潔に説明せよ 。

鹿の肩の骨を焼き、その割れ目の形で吉凶を占うもの。

縄文時代の漁労を説明せよ。

釣針・銛・やすなどの骨角器丸木舟を利用した漁法、石錘・土錘をおもりとして用いた網漁。

縄文時代の貝塚の廃棄場以外の役割を簡潔に説明せよ。

死者を埋葬するための共同墓地。

遺跡まとめ

●縄文前期~中期●

三内丸山遺跡

●縄文晩期~弥生前期●

菜畑遺跡(佐賀)

板付遺跡(福岡)

砂沢遺跡(青森)

亀ヶ岡遺跡(青森)

大湯遺跡(秋田)

●弥生時代●

須玖岡本遺跡(福岡)

紫雲出山遺跡(香川)

登呂遺跡(静岡)→矢板のある水田跡

吉野ケ里遺跡(佐賀)→環濠集落遺跡

荒神谷遺跡(島根)

唐古・鍵遺跡(奈良)→大量の木製農具

田村遺跡(高知)

垂柳遺跡(青森)

●古墳時代●

纏向遺跡(奈良)

箸墓古墳(奈良)

大仙陵古墳(仁徳天皇)→大きさ1位、百舌鳥古墳群を構成

誉田御廟山古墳(応神天皇)→大きさ2位、古市古墳群を構成

三ッ寺Ⅰ遺跡→豪族の居館として最大

大神神社(奈良)

沖津宮(福岡県宗像大社)→沖ノ島を祀る、「海の正倉院」

江田船山古墳(熊本)→銀象嵌

稲荷山古墳(埼玉)→金象嵌

★西日本は前方後円墳、東日本は前方後方墳

古墳時代の豪族居館の特徴

民衆の集落から離れた場所に築かれた居館は、幅広い堀で周囲が囲まれ手織り、内部は竪穴式住居群や高床倉庫群、銅・鉄の精錬を行う工房などで構成され、導水橋により水が引かれ、石製の模造品を用いた祭祀が行われた。

古墳時代の被葬者の性格の変化を説明せよ。

●前期●…副葬品は銅鏡・玉など呪術的色彩が強く、被葬者は司祭者的性格をもつ首長であった。

●中期(5世紀頃)●…鉄製武器・武具の占める割合が高くなり、馬具なども加わって被葬者の武人的性格が強まった。

●後期(6世紀頃)●…家族墓的性格をもつ横穴式石室を伴う小円墳や、それらが密集する群集墳が山間や小島にまで見られること、土師器などの副葬品があることから、首長だけでなく農業生産力の向上などにより台頭した有力農民層が被葬者となったことがうかがえる。

土師器→弥生土器の流れをくむ。

須恵器→朝鮮半島から製作技術が伝わる。

※古墳時代…禊・祓、祈年祭・新嘗祭

古墳時代後期に現れた群集墳が示すことを説明せよ。

農業生産力の向上を背景とした有力農民の対等による 6 世紀における動揺。

神々への信仰と仏教の共存が可能となった理由。

神々への信仰はアニミズムに由来して元来融通無碍である一方、仏教の持つ祖先供養の機能が、氏寺として古墳での死者への祭祀を代替した。

律令制下で整備された公用のための陸上交通のありかたについて説明せよ。

国ごとに中央から国司を派遣し,中央政府の監督の下で行政にあたらせた律令制下の交通路としては主に駅路伝路に大別できる。

駅路●…中央と地方との直接の情報連絡を目的とした幅広い路線で、各地方拠点を最短経路で直線的に結ぶ幹線道路的な性格で、一律ではないものの30里ごとに駅家が置かれ、国司の管轄下におかれた。駅路はその重要度から、大路・中路・小路に区分され、当時、国内最重要路線だった中央と大宰府を結ぶ 山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道・東山道が中路、それ以外が小路とされていた。緊急連絡や公文書の伝達のために駅家におく駅馬は各区分で数が定められており、さらに使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。また駅路では、特定の使者が最終目的地まで赴く専使方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使方式からなる駅制と呼ばれる情報伝達システムが存在した。

伝路…旧来の地域拠点である郡家間を結ぶ地域道路としての性格が強く、以前からの自然発生的なルートなどが改良されて整備されたもので、使者が宿泊・食事などの提供を受ける郡家には伝馬が常備されて、中央から地方へ派遣される使者を迎送する伝馬制が敷かれていた。

五畿七道 引用元:五畿七道 (catv296.ne.jp)

※近江は「東山道」!!

※畿内→山城・大和・河内・和泉・摂津

畜銭叙位令の目的と内容、その結果について説明せよ。

唐を模倣して律令国家の体裁を整える目的に加え,和同開珎が当時の物品経済に容易に浸透していなかったために流通促進を図り、さらに歳入不足を補って都の造営費などの経費を調達するために、畜銭の額により位階を与える蓄銭叙位令を出したが,京・畿内以外ではあまり流通しなかっただけでなく、かえって地方の有力者に銭貨が死蔵される結果となった。

史料 →奈良時代の法令と政策 – 大学受験日本史対策 (55waseda.com)

※政府は、この後も銅銭の鋳造をつづけ、958年の乾元大宝の発行まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造は行われた。→皇朝十二銭

結局、銭貨の流通範囲は東西市を中心とした畿内に限られ、日本各地には広がらなかった。平安時代初期に銭貨が流通し始め、800年に蓄銭叙位令は廃止。乾元大宝が発行された後、日本では貨幣の鋳造は行なわれなかったが、平安時代末期になると、当時世界最大の経済大国だった宋との貿易で、宋銭が大量に流入した。

7世紀以降、古墳が姿を消した理由を説明せよ。

仏教の影響で火葬が普及し始めたことや大化の薄葬令の影響、および豪族が自らの権力を示す象徴が巨大な墳墓から寺院造営に代わっていったから。

奈良時代の貨幣製作工程を簡潔に説明せよ。

貨幣の元型を粘土板ではさんだもので鋳型を作成して溶かした銅を流し込み、銅が冷えて固まったのちに鋳型から外し、1枚ずつ切り離して形を整えた。

奈良時代における鉱産資源の開発のありかたについて、資源名と地名を挙げつつ述べよ。

陸奥の金、周防・長門・武蔵の銅など、開発は国家の主導によって行われ、鉱山には官衙や工房が置かれて生産が管理され、鉱物は平城京などに送られた。

平城京の区画や施設を概観せよ。

左京と右京に二分する朱雀大路を中心に、碁盤の目状に東西・南北に走る道路で区画される条坊制をもち、東側には外京とよばれる張り出し部があった。北部中央には、天皇の生活の場である内裏、政務・儀礼の場である大極殿朝堂院、二官・八省などの官庁などを含む平城宮が配され、平城宮近くに貴族らの大邸宅、遠くに下級官吏らの小規模な住宅が分布した。また、左京・右京にはそれぞれ東市・西市が設けられ、大寺院が建立された。

平城京条坊図 引用元:平城宮跡 | AONIYOSHI (eich516.com)

律令国家形成期の都城の貴族・官人の生活を支えていたものを説明せよ。

戸籍に登録された人民の負担する調庸によって支えられた。

律令制下で、地方から京都に上がってきた人々を説明せよ。

公民や郡司子弟から徴発された衛士や兵衛が宮城の警備をし、また公民から徴発された仕丁が官司の雑役に従事した。


国司と郡司の相違点を説明せよ。

国司●…中央から一定の任期で交代派遣されて中央政府の監督下で任国の行政下で地方行政を統括し、律令制度を地方に浸透させる役割を果たした。

郡司●…旧国造などの農民に対する実質的な支配力をもつ伝統的な在地豪族から任用される終身官で、官位相当制の対象でもなく、世襲も許され、国司の指揮下で戸籍・計帳の作成や調・庸を都に運ぶ人夫の監督、正倉の管理など行政実務を担い、かつ職田の支給額が国司に比べて多いことなど、郡司がもつ地域社会への影響力に依拠する中央政府から大幅な既得権益を認められ、貧しい人々や飢えに苦しむ人々の保護など在地の相互扶助活動において指導的役割を果たした。


古代の三関とその役割を説明せよ。

伊勢の鈴鹿関。美濃の不破関。越前の愛発関。平安時代中期に愛発に代り近江の逢坂関。奈良,平安時代に都を守るため設置され、反乱や譲位,天皇,上皇,皇后の崩御など国家の大事に際しては,特に中央から固関使を派遣して守備した。


平安宮が大規模に発掘調査をされてこなかった理由を説明せよ。

京都では景観を守るために都市計画法などで建築が制限されており、平安宮がある市街地では都市の再開発が行われず、それに伴う発掘調査も無かったから。


「現地の役人」の役職としての性格を奈良と平安後期とで比較せよ。

●奈良時代●…中央政府から旧国造など在地の豪族が郡司に任命され、郡を管轄対象として戸籍作成、班田収授、徴税など地方の実務を担当した。

●平安時代後期●…郡司・郷司・保司は中央政府から国内統治を委任された国司により、大名田堵や在地に土着した中央貴族などからなる開発領主が任命され、再編成された郡・郷・保を管轄対象として、耕地の開発、徴税を請け負った。


体制の変化に伴う,地方支配における郡司の役割や地位の変化を説明せよ。

受領が国内統治をゆだねられたため,従来の郡司の徴税などの地方行政の実務が国衙の諸機構に集中した。そのため郡司の地位は低下し,郡家が衰退した


10世紀初めの、政府の国司と郡司についての政策転換を説明せよ。

従来は、中央政府の監督の下で国司が行政にあたり、税などの徴収や文書の作成は郡司が行ってきた。しかし、政府は方針を転換し、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、一国内の統治をゆだねる方針をとり始めたため、郡司の地位は低下した。


8世紀の城柵が担った役割を説明せよ。

東北地方の城柵は、蝦夷に対する侵攻、防御の基地としての軍事的機能とともに、周辺地域の統治の中枢となる行政的機能も果たした。柵戸を配置することで周辺の開発を進め、律令国家の支配領域を安定させるとともに、朝貢してきた蝦夷に対し位階や姓を与え懐柔するなど、蝦夷の服属儀礼の場としての役割を果たした。