桃山文化の特色とその背景を説明せよ.
武士や豪商を中心として新鮮味あふれる豪華・壮大な文化。寺院勢力が信長や秀吉によって弱められたため、仏教色が薄れ、現世的で力感ある絵画や彫刻などが多く制作された。南蛮貿易によるヨーロッパ文化との接触と受容により文化の多様化も進み、富と権力の集中した統一政権の下に各地の経済・文化が交流した。
中世の城と桃山文化期の城を比較しろ。
中世の山城は山の斜面を利用して土塁と空堀をつくり、戦時の防塞としての役割を果たしていた。一方で、桃山文化期の城は領国支配の利便をも考慮して、小高い丘の上に築く平山城や平地につくる平城となり、軍事施設としての機能とともに城主の居館・政庁としての機能をも合わせもつ。重層の天守(天守閣)をもつ本丸と、土塁や水沿で囲まれ、いくつかの石垣で築かれた郭がある。安土城や大坂城・伏見城などは、全国統一の勢威を示す雄大・華麗なもものである。
※書院造、金箔地に青、緑を彩色する濃絵の豪華な障壁画、欄間彫刻
狩野永徳が大成した装飾画の特徴を説明せよ。
室町時代に盛んになった水墨画と日本古来の大和絵とを融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図をもつ。
※『唐獅子図屏風』『檜図屏風』など
桃山文化における狩野派以外の絵画作品を挙げよ。
海北友松の『山水図屏風』『牡丹図梅花図屏風』。長谷川等伯の『松林図屏風』。
蒔絵とは何か説明せよ。
器物の表面に漆で文様を描き、金・銀などの金属粉や色粉を蒔きつけて付着させる、日本独自の漆工芸。
※高台寺蒔絵
慶長勅版を簡潔に説明せよ。
後陽成天皇の勅命で、朝鮮伝来の印刷法と木製の活字により開版(出版)された四書や『日本書紀』などの一連の書物で、日本最初の木版活字本。朝鮮侵略の際に朝鮮から伝えられた活字印刷術を使用した。
侘び茶の性格を説明せよ。
道具や調度の豪奢を排して、簡素静寂な境地を重んじた。
※村田珠光→武野紹鴎→千利休
山崎の戦いの際,千利休が豊臣秀吉のために茶をたてたといわれる、千利休作の茶室名を記せ。
妙喜庵待庵。
※織田有楽斎の茶室→如庵
秀吉の北野大茶湯を簡潔に説明せよ。
千利休・今井宗久・津田宗及らの茶人を中心に、貧富・身分の別なく民衆も参加させた無礼講の大茶会
※黄金の茶室
桃山文化期の人々の衣服や見た目の変化を説明せよ。
小袖が一般に用いられ、各階層によって模様や色彩に変化をつけたさまざまな服装が生まれた。男性は袴をつけることが多く、簡単な礼服としては室町時代以来の素襖に加え、肩衣・袴(裃)を多用した。女性の場合、武家の女性の間では打掛・腰巻などが殿中での表着として用いられたが、庶民の間では小袖の着流しがふつうになり、着物が成立した。男女ともに結髪するようになり、男性では頭上を広くそりあげる月代の風習が武士を中心に広まり、のち庶民にも普及した。
桃山文化のその他
阿国歌舞伎、女歌舞伎、囲碁棋士の本因坊算砂や将棋棋士の大橋宗桂、高三隆達が小歌に節づけをした隆達節、盆踊りなど。
灰吹法の内容とそれを朝鮮から伝来させた人物を説明せよ。
神屋寿禎。金や銀の含有量の高い鉛合金から金や銀を得る方法の一つ。
寛永期の文化(1624年~1644年)の特徴を説明せよ。
桃山文化を受け継ぎつつ、前時代の下剋上の終期となり幕藩体制が安定する中で成立した、京都の天皇家や江戸の武家など上流階級を中心とする文化で、元禄文化への過渡的役割を果たした。
寛永期の文化の代表的建築を説明せよ。
徳川家康を東照大権現として、幕府安泰を加護する神としてまつるにふさわしい霊廟の必要性から、 3 代将軍家光による豪華な装飾彫刻をほどこした権現造の日光東照宮。八条宮智仁親王の別邸であり、書院造に茶室の草庵風も合わせた数寄屋造と廻遊式庭園から成り、簡素で気品のある桂離宮。後水尾上皇が自らの洗練された計画をもとに完成させた修学院離宮。
寛永期の文化の建築以外で主なものを説明せよ。
上層文化人のサロン的な集いや、俵屋宗達、本阿弥光悦、茶道・造圏に秀でた小堀遠州や生花の池坊、還俗して朱子学の啓蒙をした藤原惺窩、家康に用いられた林羅山など。
朝鮮系の製陶を4つあげよ。
有田焼。唐津焼。萩焼。薩摩焼。
酒井田柿右衛門の功績を説明せよ。
上絵付の技法で赤絵を完成させた。
本阿弥光悦の功績を説明せよ。
鷹ガ峰に芸術家を集めて芸術村をつくり、蒔絵・陶芸(楽焼)・書道・古典に通じた。
17世紀後半に歴史書の編纂が盛んになった理由を説明せよ。
幕藩体制が安定し、儒学に基づいて忠孝や礼儀による秩序を重視する文治政治となり、過去の政権の盛衰を示して武士に為政者としての自覚を求め、徳川家の支配の正当性を示そうとする風潮がおこった。
朱子学を説明せよ。
合理的思考と道徳主義を合わせ持ち,社会秩序を宇宙や自然と同じように定まったものとみる儒学の一派。
朱子学が幕府や藩に受容された理由を説明せよ。
君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため。
吉川神道の提唱者と内容を説明せよ。
吉川惟足。吉田神道を継承した道徳的な神道、天皇家を中心とする君臣関係を強調し、従来の神仏習合的神道を排して儒教的な考え方を付加した。上級武士層に重んじられ,幕藩体制成立期の一つの精神的支柱、山崎闇斎の垂加神道の成立の基盤となった。
日本で最初に鉄鉱石の採掘を行った鉱山名を記せ。
釜石鉄山。
※大島高任が1857年にそこに洋式高炉を建設した
木綿の人々への影響力を説明せよ。
麻織物に代わって綿織物が庶民の日常衣料として普及した。吸湿性・保温性に優れていたので夏でも冬でも快適な衣服であり、野山での作業に適していた。丈夫さを持ち合わせ、染色の容易さにより衣服の多様化も促進した。干鰯や油粕など即効性にとむ金肥を多量に投与することが必要だったため商品作物的な特徴があったことから農民の階層分化も助長した。栽培から紡績・織布などにいたる全ての生産工程においての分業の必要性から、社会的な分業関係の浸透に貢献、商品流通を促進させた。
百姓と農民の違いを説明せよ。
●百姓●…村の構成員として年貢・諸役を負担する人々に対する制度的な呼称で,農業だけでなく漁業・林業などにも従事した。
●農民●…従事する生業に即した呼称である。
近江商人の説明と、彼らの哲学を説明せよ。
特に江戸時代に,行商,出店で全国に進出した近江国出身の商人で、朱印船貿易やて大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地で場所請負人となる者もいた。「売り手よし、買い手よし、世間よし」(売り手の都合だけでなく、買い手の満足や、商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献すべき)の「三方よし」の思想であった。
※日本三大商人…大坂商人、伊勢商人、近江商人
17 世紀末に使用されていた暦の名前と,作成に関与した人物を記せ。
貞享暦。渋川春海。
上記の改暦の背景について説明せよ。
平安中期以来の宣明暦は誤差が大きくなっていたため、元の授時暦をもとに修正した。
※貞享暦→宝暦暦→寛政暦→天保暦→太陽暦
元禄文化の背景を説明せよ。
東アジアにおける清の樹立がもたらす平和と、幕政の安定と貨幣経済の発展の下で社会が成熟し、武士や有力町人のみならず、下層町人や地方の百姓に至る庶民にまで多彩な文化が受容された。
元禄文化(17世紀後半~18世紀前半)の特徴を説明せよ。
特に上方 (京都,大坂) を中心として展開した。 鎖国状態の確立により外国の影響が少なくなり、日本独自の文化が成熟し、政治的な平和と安定の中で、儒学のみならず天文・医学・本草学などの科学的な分野を含む学問が重視された。多様な文学を享受する広範な人々の存在と、これを媒介する紙の生産や出版業が発展していた。
元禄文化の内容を説明せよ。
●庭園●…後楽園(岡山)・後楽園(水戸藩邸)・柳沢吉保が将軍の命を受けて造り上げた六義園など
●絵画●…
土佐光起「春秋花鳥図屏風」
住吉如慶「東照宮縁起絵巻」、住吉具慶「洛中洛外図巻」
尾形光琳「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」
菱川師宣「見返り美人図」
●思想●…
朱子学の全盛期、南学、垂加神道、陽明学
●文学●…
仮名草子→浅井了意『東海道名所記』
浮世草子→
井原西鶴
『好色一代男』『好色五人女』(好色物)
『武家義理物語』『武道伝来記』(武家物)
『日本永代蔵』『世間胸算用』(町人物)
●俳諧●…
貞門派→松永貞徳『御傘』(古風、俳諧の規則を定める)
談林派→西山宗因『西翁十百韻』(新風、自由・軽快)
蕉風→松尾芭蕉『俳諧七部集』(冬の日・春の日など)
俳文→松尾芭蕉『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥の細道』
●脚本●…
浄瑠璃→近松門左衛門『曽根崎心中』『心中天網島』『冥途の飛脚』(世話物)、『国性爺合戦』(時代物)
●古典●…
契沖『万葉代匠記』、北村季吟『源氏物語湖月抄』、林羅山・林鵞峰『本朝通鑑』、水戸の徳川光圀が始めた『大日本史』、新井白石『読史余論』
●自然科学●…
貝原益軒『大和本草』、稲生若水『庶物類纂』、宮崎安貞『農業全書』、吉田光由『塵劫記』、関孝和「発微算法」(和算の水準を飛躍的に高めた)
渋川春海は自ら計測した貞享暦をつくり、平安時代から用いられてきた宣明暦にかわって幕府に採用された。
●国文学●…
下河辺長流
「梨本集」を著した戸田茂睡(制の詞などを排斥し、自由な言葉使いを求めて歌学の刷新)
契沖「万葉代匠記」
北村季吟「源氏物語湖月抄」、「春曙抄」(「枕草子」の注釈書)
17 世紀後半から 18 世紀初期の,朱子学に対する批判を説明せよ。
朱子学や陽明学を排し、孔子や孟子の原典に直接立ち戻って研究することを主張し,当時の政治・社会の現状に適合した儒学をめざす古学派が出現した。古学を提唱した山鹿素行は朱子学を批判して『聖教要録』を著し,古義学を提唱した伊藤仁斎は政治から離れて個人の倫理を突き詰め,古文辞学を提唱した荻生徂徠は道徳から離れて政治・社会の統治法を追究した。
山鹿素行の活動を説明せよ。
著書「聖教要録」。「山鹿語類」。古学を提唱し、儒学の立場から士道の確立に努め、武士に農工商の三民を率いることや、その長として人の道を実現して人々の模範となることを求めた。また、実用の学を提唱して朱子学を批判し、自らの考えを聖学と呼んだ。そのため、赤穂へ配流された。
伊藤仁斎の活動を説明せよ。
「孔孟の本指」を明らかにすることを主張し、朱子などの後代の解釈的な注釈を排除し、「論語」「孟子」を熟読精思することを説いた。また、当時の朱子学者の説く理が形式的であると批判し、仁は愛、人間相互の愛を人倫の道と捉え、自分に対しても他人に対しても偽りのない純粋な心である「誠」を重要視し、自分を偽らず他人を欺かない「忠信」の実践を説いた。
古文辞学の提唱者と内容を説明せよ。
荻生徂徠。道徳論を中心とした日本儒学のあり方に疑問を持ち、古学や古義学をさらに進め、中国語自体が歴史的に変化していることを踏まえ、古典を成立当時の意味で正確に解釈すべきという古文辞学を主張した。そのうえで、先王之道とは、「安天下の道」であり、朱子学が言うような天地自然のあるがままの道では無くて人為的な「礼楽刑政」であるとし、学問の目的は経世済民でなければならないと主張し、治国・礼楽の制を整えようとした。
江戸時代の主な経世家を書け。また、経世論を、朱子学と荻生徂徠の学問と関連付けて説明せよ。
熊沢蕃山。荻生徂徠,太宰春台,安藤昌益。三浦梅園。工藤平助。大原幽学。本多利明。海保青陵。佐藤信淵。林子平。山片蟠桃。
「経世済民」の理論を根底に現実の社会問題を具体的に解決しようとするものであり、君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる朱子学を軸とした幕藩体制が、諸色高米価安などを背景として危機に直面し始めた際に本格的に展開した。特に古文辞学を提唱した荻生徂徠は経世論の理論的基礎を用意し、朱子学から脱却して治国・礼楽の制を整えようとした
伊藤仁斎の功績を説明せよ。
朱子らの注釈は孔孟の〈古義〉にそむくとしてしりぞけ,直接原典「論語」「孟子」について聖人の道を求めよと主張し,古義学を唱えた。
武士土着論の提唱者2人と内容を説明せよ。
熊沢蕃山。荻生徂徠。都市に住む武士たちがそれぞれの所領に戻り、自らも生産者として暮らすべきだとして、従来の半農半武士の時代に戻し、俸禄の負担を軽減させ、さらに都市での商業活動の活発化による物価高騰を抑制しようとした。
垂加神道の提唱者、性格とその影響を説明せよ。
山崎闇斎。日本生まれの吉田神道(唯一神道)と中国生まれの儒教である朱子学を根本的に結合していて道徳性が強い。その国粋主義的性格は、後の尊王運動に影響を与えた。
中江藤樹の著書と思想を説明せよ
「翁問答」。日本陽明学の祖であり、「父母の恩徳は天よりも高く海よりも深い」として「孝」をあらゆる道徳の根源と捉えた。「孝」は「愛敬」とも言い換えられ、主従・夫婦・兄弟・朋友などの全ての人間関係を成立させる根本原理であるとした。「致良知」すなわち全ての人に先天的に備わっている善悪を判断する能力である良知を働かせることを主張した。
主な農書を5つ挙げよ。
「清良記」。「会津農書」。「耕稼春秋」。「老農夜話」。「農業全書」。
和算の衰退を説明せよ。
流派による秘伝化と、算額に見られるような技巧化・趣味化のため、和算は実用から乖離していき、明治の近代学校で洋算が採用されると、そろばんを除いて和算は急速に廃れた。
貞門派の特徴を簡潔に説明せよ。
松永貞徳は、俳諧が和歌・連歌を詠むにあたっての基礎であると考え、俗語や漢語などのいわゆる俳言を使うことを主唱した。
談林派の特徴と衰退を説明せよ。
貞門に次いで現れ,西山宗因が盟主。貞門の保守的傾向の行きづまりを打破するため,字余り,奇抜な趣向などに走った。やがて漢詩文調の新風におされ,談林派から抜け出た芭蕉が蕉風を確立すると衰退した。
元禄期の歴史学の特徴を説明せよ。
確実な史料に基づいて歴史を叙述する実証的な姿勢という特徴。
元禄期の本草学の性格の変化を説明せよ。
植物・動物・鉱物の薬用効果について研究する本草学はしだいに博物学的色彩を帯び出した。
18 世紀後半の学問発達の性格を説明せよ。
朱子学の実証的・合理的研究の蓄積によって、広く資料を収集し、具体的な証拠に基づいて研究しようとする方法が共通していた。薬草を中心に動物・植物・鉱物などの薬効を研究したものである本草学では殖産興業政策とも結びついて、博物学として発展した。医学や地理学の分野ではオランダ語を介して西洋の科学的な研究方法が導入された。日本の古代精神探求のために古典の考証的研究を進める国学も発展した。
和学講談所とは、その設立者と彼の代表的著作を記して説明せよ。
塙保己一。「群書類従」。幕府の許可で設け、林家の監督の下に国史講習と史料編纂に従事した。
南学を説明せよ。
土佐に起こったとされる朱子学の一派で、谷時中が儒学を仏教から分離して確立し、現実の政治と結びつく実践的な儒学を形成した。
野中兼山の功績を説明せよ。
土佐藩の家老で、新田開発・殖産興業などの藩政改革を推進した。
契沖の功績を説明せよ。
「万葉集」を研究し、多くの実例によって戸田茂睡の説の正しさを説明し、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を批判して「万葉代匠記」を著し、国学の先駆となった。
賀茂真淵の著作と思想を説明せよ
「国意考」。「万葉考」。「歌意考」。「祝詞考」。古代日本人の、私欲を去り、素朴で高貴な心のことである「高く直き心」と、「万葉集」の中に示されている自然のままに感動を素直に表したものである「ますらをぶり」を重要視した。国学の基礎を築いた。
本居宣長の著作と功績を説明せよ。
「古事記伝」。「古事記」「源氏物語」などの研究を通じて,儒学・仏教が伝来する以前の日本精神を探究し,国学を大成した。ものに触れたときに自然に起こるしみじみとした感情の動きである「もののあはれ」を重んじ、また、儒仏に感化されてしまった「漢意」を取り除き、生まれながらの「真心」に従って生きることを説き、「惟神の道」を追求した。
※国学の先駆者は、「万葉代匠記」の著者の契沖
野々村仁清の功績を説明せよ。
上絵付法をもとに色絵を完成させて京焼の祖となった。
★★「九変五変論」を説明せよ。
新井白石は、政治権力を掌握主体で時代区分をし、公家政治から武家政治への転換という流れを示した。政治権力が、天皇や外戚・院・武家・鎌倉幕府成立から南北朝期に至る公武並立の時代・南北朝滅亡・武家の権威・権力の一体化した政治が復活したことを示し、徳川政権の正当性を歴史的に論証した。
古医方を説明せよ。
名古屋玄医の医説で、元・明代の学風を退け、実験を重んじて漢代の医方への復古を説いた。
寛政の三奇人を説明せよ。
海防の緊要性を説き『海国兵談』を著した林子平。
勤王を提唱し諸国を遊説した高山彦九郎。
歴代天皇陵の荒廃を嘆き『山陵志』を編纂した蒲生君平。
三浦梅園の功績を説明せよ。
儒教と洋学の知識を合わせた自然哲学である条理学を提唱した。
浮世草子と仮名草子の違いを説明せよ。
浮世草子は享楽的現世、特に好色生活を写した風俗小説である。一方で、仮名草子は、現世否定的で教訓を主とする。
江戸三大火事を記せ。
文化 3 年の大火。明暦の大火。明和の大火。
桂川甫周の功績を説明せよ。
幕府の奥医師で、「解体新書」の訳述に参加した。また、「魯西亜誌」を著し、漂流後にロシアより帰国した大黒屋光太夫の供述をもとに、「北槎聞略」を著してロシアの風俗・言語などを編述した。
寺西封元の功績を説明せよ。
天明の飢饉後、子育て支援の小児養育料の支給など人口増加策を行った。
江戸における小説本の一般的な流布の仕方を説明せよ。
版元が作者から作品を買い上げて出版し、主に貸本屋(当時、草子類が高価であったために人気があった)を利用する形で庶民の間に流行させた。
江戸時代の代表的な出版業者であり、1791年に山東京伝の洒落本を出版した科で身代半減の刑を受けた人物名と、その人物が開業した本屋名を記せ。
蔦屋重三郎。耕書堂。
七去と三従と三行半を説明せよ。
七去とは、妻を離婚できる事由とされた七つの事由のことで、江戸時代に「女大学」などの書物によって一般化した。三従とは、 女性が従うべきとされた三つの道で、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだ後は子に従うという女性としての心がまえを教えたもの。三行半とは、離婚に際して,夫から妻へ交付される離縁状であり、その交付によって,男女双方とも再婚が可能となる。
宝暦・天明期の文化の背景を説明せよ。
商品経済の発展により裕福になった百姓や町人たち、都市生活者となった武家の中から、学問や思想、芸術など、幅広い分野で文化の担い手が登場した。武士から百姓・町人に至るまで、学校を通じた教育が盛んとなり、民衆の識字率も高まって読書をする人々が全国に広がり、書籍や印刷物が多様に制作・出版され、人と物の移動の活発化とともに様々な知識や情報が全国的に流通した。一方で、幕藩体制社会の矛盾が深まると共に、現実を直視して幕府と藩の政治のありかたを批判するような思想も生まれた。
折衷学派と考証学派を説明せよ。
●折衷学派●…古学派やいずれの学派にも与せず、先行の諸学説を選択・折衷して正しい解釈にいたろうとする。
●考証学派●…儒学の古典を確実な典拠に基づいて実証的・客観的に解釈しようとする。
宝暦・天明期の文化(1751年~1789年)の具体例を説明せよ。
●初等教育が普及し、識字率が上昇
★藩校、郷学、私塾、寺子屋★
長州藩…明倫館(毛利吉元)
薩摩藩…造士館(島津重豪)
熊本藩…時習館(細川重賢)
福岡藩…修猷館(黒田斉隆)
秋田藩…明徳館(佐竹義和)
仙台藩…養賢堂(伊達吉村)
米沢藩…興譲館(上杉治憲)
会津藩…日新館(松平容頌)
水戸藩…弘道館(徳川斉昭)
郷学(庶民教育)→池田光政が創設した閑谷学校、摂津平野郷の含翠堂
懐徳堂…富永仲基『出定後語』、山片蟠桃『夢の代』
石田梅岩『都鄙問答』
●文学●…
江戸の風俗をうがち諷刺した黄表紙や、江戸の遊里の生活を描いた洒落本など
山東京伝『仕懸文庫』『江戸生艶気樺焼』
大田南畝・石川雅望らの狂歌
●演劇●…
人形浄瑠璃…竹田出雲(2 世)『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』、近松半二『本朝廿四孝』
唄浄瑠璃→ 一中節・常磐津節・新内節・清元節
歌舞伎→中村座・市村座・森田座の江戸三座
●俳諧●…
蕪村『蕪村七部集』
●絵画●…
喜多川歌麿『婦女人相十品』
東洲斎写楽の大首絵の手法
文人画…池大雅と蕪村の合作『十便十宜図』
円山応挙「雪松図屏風」「保津川図屏風」
西洋画…
平賀源内「西洋婦人図」
司馬江漢「不忍池図」
亜欧堂田善「浅間山図屏風」
小田野直武 秋田蘭画の租。「不忍池図」や「解体新書」の挿絵など
●蘭学●…
山脇東洋の日本最初の解剖図録『蔵志』
前野良沢・杉田玄白(「蘭学事始」・「後見草」)が『解体新書』を出版
大槻玄沢『蘭学階梯』
宇田川玄随『西説内科撰要』
稲村三伯の日本最初の蘭日辞書『ハルマ和解』
●国学●…
荷田春満『創学校啓』
賀茂真淵『国意考』『万葉考』
本居宣長「古事記伝」
塙保己一『群書類従』
伴信友「長等の山風」(大友皇子に関して記述した)
円山派の特徴を説明せよ。
客観的な写生を重んじ、洋画の遠近法を取り入れて、日本的な写生画の様式をつくりあげた。
小田野直武の秋田蘭画の代表的作品を記せ。また、秋田蘭画の成立と特徴について説明せよ。
「不忍池図」。秋田藩の鉱山開発の指導のために秋田を訪れた本草学者の平賀源内が秋田藩士であった小田野直武の画才を見つけ、遠近法や陰影法など洋画法の知識を伝えたことで、のちに「解体新書」の挿絵を描いた小田野直武は和洋折衷の秋田蘭画の租となった。
司馬江漢の著作を記し、功績を説明せよ。
「春波楼筆記」。平賀源内の影響を受けて小田野直武より西洋画法を学び、腐蝕銅版画の製法を修得して日本最初の銅版画(エッチング)を創始した。また、地動説を日本に紹介し、随筆にも優れた。
江戸後期の浄瑠璃の変化を説明せよ。
人形浄瑠璃が歌舞伎に圧倒され、浄瑠璃は人形操りから離れて、一中節・常磐津節・新内節・清元節などの座敷で唄われる唄浄瑠璃の方面に移った。
心学の開祖と内容を説明せよ。
石田梅岩。儒教・神道・仏教・老荘思想を折衷して石門心学を提唱した。そこにおいて、「知足安分」で士農工商を肯定し、営利・商売の正当性と商人の存在意義を主張し、「倹約・正直」などの町人道徳を説いた。
鈴木正三の思想を説明せよ。
著書「万民徳用」において、どんな職業でもそれを励むことが仏教の教えを実践することになるとして、世俗の職業の営利活動を肯定した。
平賀源内の功績を説明せよ。
本草学・蘭学・物産学・国学を学び、物産会を開催した。火浣布・エレキテル・寒暖計などを発明した。戯作や「神霊矢口渡」など浄瑠璃にも才能を発揮し、洋画にも優れ、「西洋婦人図」を描いた。
長久保赤水の功績を説明せよ。
日本最初の経緯度をいれた地図「改正日本輿地路程全図」を刊行した。
近世後期(化政期)の民間信仰を説明せよ。
民衆は娯楽的性格を強めつつも、現世利益を求めて各地の寺社を訪れた。近隣の寺社の縁日や開帳、遠方の寺社へ講を結んで交代で参詣し、霊場への巡礼も行った。
中世と近世の巡礼の違いを説明せよ。
中世では浄土信仰を背景に、熊野詣などの信仰心に基づいた巡礼が主に行われた。一方で、近世では大衆的・娯楽的性格が強かった。
化政文化(1804年~1830年)の背景を説明せよ。
全国的な流通の活発化は交通の発展を伴い、人と物の全国的な交流を生み出した。商人が形成した全国的商品流通網は都市と地方を文化の面でも結び付け、学者・文人の全国的な交流を促し、教育の普及、出版の発展、神仏信仰に基づく寺社参詣の流行により、中央の文化は全国各地に伝えられた。大御所時代での品位を落とした文政小判の大量鋳造も経済活動を活発化させ、錦絵の風景画や名所図会で紹介されることにより人々の旅への関心が高まった。江戸を中心として展開し、同じ町人文化でも元禄文化が上方を中心としたのと対比される。
江戸において文化・文政期に出版が盛んになった理由を説明せよ。
江戸地廻り経済圏の発達に伴い、江戸の人口の多くを占める中下層の庶民の生活も安定し、手習い塾が普及して識字率が向上した。幕府の風俗取り締まりが緩んだため、物見遊山など娯楽が盛んになり、木版印刷技術や貸本屋の発達に支えられ、絵草紙や名所図会など庶民的な出版物が盛んに流通した。
※ 「江戸名所図会」…斎藤幸雄が編集に着手,その子の幸孝,孫の斎藤月岑を経て完成
化政文化の内容を具体的に説明せよ。
鶴屋南北『東海道四谷怪談』、河竹黙阿弥『白浪五人男』
●民族・地理●…
鈴木牧之『北越雪譜』、菅江真澄『菅江真澄遊覧記』
●呉春の四条派、小林一茶『おらが春』、柄井川柳『誹風柳多留』
●滑稽本●…
式亭三馬『浮世風呂』『浮世床』
十返舎一九『東海道中膝栗毛』
●人情本●…
為永春水『春色梅児誉美』
●合巻●…
柳亭種彦『偐紫田舎源氏』
●読本●…
上田秋成『雨月物語』、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』
●錦絵の風景版画…
葛飾北斎『富嶽三十六景』(全46図)、歌川広重『東海道五十三次』
●和歌●…香川景樹らの桂園派、良寛
●天文学●…
高橋至時の寛政暦、志筑忠雄『暦象新書』、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』
●科学技術●…
『厚生新編』、宇田川榕菴『舎密開宗』
●その他…
シーボルトの鳴滝塾、緒方洪庵の適塾、咸宜園、松下村塾
・海保青陵『稽古談』
・本多利明『西域物語』『経世秘策』
・佐藤信淵『農政本論』『経済要録』
藤田幽谷、会沢安『新論』、藤田東湖『弘道館記述義』
平田篤胤の復古神道、
※瓦版…庶民の情報伝達の手段として災害・世相などの項目が載せられ、天保の改革以降に大量出版
※湯治…病気治療のため温泉に赴くこと
※芝居小屋・見世物小屋・寄席
※連…和歌などを嗜むために熟練した師である宗匠を中心に組織された文化的結社
主な私塾を挙げよ 。
咸宜園(豊後日田)(広瀬淡窓)
古義堂(京都堀川)(伊藤仁斎)
国学の鈴屋塾(伊勢松坂)(本居宣長)
洋学の適塾(大坂)(緒方洪庵)
鳴滝塾(長崎)(シーボルト)
慶応義塾(福沢諭吉)
松下村塾(吉田松陰)
蘐園塾(江戸)(荻生徂徠)
芝蘭堂(江戸)(大槻玄沢)
心学舎(京都)(石田梅岩)
★海保青陵、本多利明、佐藤信淵の主張と著作を説明せよ。
●海保青陵●…「稽古談」を著し、藩財政の立て直しには消極的な倹約政策ではなく発展してきた商品経済に対応した藩営専売などを積極的に行うべきであると主張した。
※その他の著作…「経済話」、『善中談』、『天王談』、『万屋談』など、
●本多利明●…「西域物語」「経世秘策」などで属島・蝦夷地の開発と西洋諸国との交易による富国策を論じた。
「年貢増徴」(『西域物語』)-史料日本史(0686) (chushingura.biz)
「苛税」(『西域物語』)-史料日本史(0744) (chushingura.biz)
●佐藤信淵●…宇田川玄随に本草学・蘭学を学び,国学を平田篤胤に学んだ。「農政本論」「経済要録」「宇内混同秘策」「垂統秘録」などを書き、農政改革、産業の振興、流通の国家的統制、海外への進出・侵略などを説いた。強固な民衆支配も含め絶対主義的な「統一国家像」を提示したことは明治国家を先取りするものとされる。
江戸時代における歌舞伎の変遷を説明せよ。
出雲阿国のかぶき踊りをもとにした女歌舞伎、美少年の若衆歌舞伎の禁止を経て、成年男子のみの野郎歌舞伎となり、江戸で勇壮な演技である荒事に市川団十郎が、上方で恋愛劇である和事に坂田藤十郎が、女性を演じる女形に芳沢あやめが現れた。
読本を簡潔に説明せよ。
仮名草子の流れを引き、勧善懲悪・因果応報の趣旨で書かれた歴史的伝奇小説。
合巻を簡潔に説明せよ。
黄表紙の数冊分を綴じ合わせたもの。
桂園派とは何か説明せよ。
香川景樹及びその門下の歌人の一派で、「古今集」の優雅で平明な調べを基調とする古今調を理想としたが、一般庶民にはあまり浸透しなかった。
良寛の歌風を説明せよ。
万葉調の童心あふれた独特の歌風。
狂歌を簡潔に説明せよ。
和歌に言葉のもじりなどの滑稽味を取り入れた短歌。
文人画=南画を簡潔に説明せよ。
文人・学者が余技として描いた絵で、水墨淡彩で枯淡清純な気品を重んじた。
講談を簡潔に説明せよ。
寄席演芸の一種。軍書講談・実録などを、抑揚をつけて口演する。
宮地芝居を簡潔に説明せよ。
寺社の境内や門前に小屋掛けする小芝居であり、江戸三座のような恒常的な大芝居とは違い、寺社奉行が統轄した。天保の改革で統制を受けた。
開帳の意味の変遷を説明せよ。
本来は仏法と縁を結ぶ目的であったが、江戸後期に隆盛し、開帳詣など物見遊山的になった。
四条派を始めた人物と内容を説明せよ。
呉春。文人画と円山派の長所を取り入れて始めた四条派は、温雅な筆致で風景を描き、幕末の上方豪商に歓迎された。
高島秋帆の功績を説明せよ。
近代的西洋流砲術の先駆者で進取的精神の持主であった。江川太郎左衛門(韮山に反射炉を築造)に砲術を伝え、その後幕府に招かれて、江戸郊外の徳丸ガ原で練兵を行った。
寺子屋と藩校を対比せよ。
●藩校●…諸藩が民政を担う人材を育成するために設立した教育機関で,武士を対象とし,授業は朱子学など漢学が中心。
●寺子屋●…村役人や僧侶・神職などによって経営された教育機関で,身分を問わず一般庶民の子女を対象とし,授業では儒学教育も行われたが,実用的な「読み・書き・そろばん」が中心であり、教科書には『庭訓往来』『実語教』『童子教』などが使用された。画一的・一方的ではなく、個別的・主体的な教育がなされていた。
参考サイト→寺子屋とは? 現代の学校との違いや歴史、意味について解説 – さくマガ (sakura.ad.jp)
江戸時代後期の蘭学の展開と幕府の対応を説明せよ。
医学などの実学として蘭学が広まると、幕府は蛮書和解御用などで蘭学を保護したが、一方で蛮社の獄など幕政の批判につながると抑圧した。
江戸時代後期における専門市の特徴や役割を説明せよ。
問屋・仲買と小売商人との売買の場である卸売市場でもあり、都市と農村を結ぶ経済の中心としての役割をもった。
水戸学の前期と後期を説明せよ。
前期は徳川光圀の下に、朱子学の大義名分論に基づき尊王論を展開し、後期は徳川斉昭を中心に、天皇を尊び、覇者を排斥する尊王斥覇の理論から攘夷論を展開した。
平田篤胤の復古神道を説明せよ。
儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、神意のままに行う「惟神の道」の復活を説く。尊王論とつながり明治維新の指導理念の1つになった。
※平田篤胤は「霊能真柱」で死後安心論も唱えた。
賀茂真淵の著作と思想を説明せよ
草莽を説明せよ。
体制の解体や対外的な侵略の危機意識によって政治に参加した、浪人・郷士・豪商・豪農ら幕末の民間の運動家で、武士身分に属さない臣のこと。
安藤昌益の思想を説明せよ
江戸幕府の封建社会を人為的な法や制度により上下の身分が定められている差別社会である「法世」と呼んで批判し、それに対して、全ての人が直接に農業生産活動に関わる「直耕」による平等な社会である「自然世」への復帰を主張した。
報徳仕法の具体的内容と、その提唱者を説明せよ。
二宮尊徳。財力に見合った合理的生活設計をする分度と今あるものを将来あるいは他者へ譲り渡す推譲、勤倹貯蓄などによって、農村の困窮を救い、農民に安全な生活を営ませることがめざされた。
大原幽学の功績を説明せよ。
神道・仏教・儒教を学び、下総国香取郡長部村で村民を指導して村の建て直しを図り、神道、儒教、仏教を一体とした独自の実践道徳である「性学」を説いた。また、先祖株組合という農業協同組合を世界で初めて創設した。
富永仲基の主張を説明せよ。
儒教・仏教・神道を歴史的立場から否定し、人の当たり前を基本とする「誠の道」を提唱。また、加上説により古代神話を解釈しようとした。
農兵隊を説明せよ。
幕末に組織された農民の兵隊で、代官江川家の支配地において、村方の治安を維持した。
御蔭参りが起こった背景を説明せよ。
上位の階層に従っていた子・妻・奉公人などが、商品経済の発展に伴う社会の動揺の中で、日常の様々な束縛や規制からの解放を願い、宗教的な形態をもちながら富裕者に施しを求めながら参加した。多くは親や主人の許可を得ず、旅行手形も用意せずに家を出た抜参りであった。
庚申講とは何か。
招福除災のため、庚申の夜に集会し、眠らずにいる庚申待の行事を行う民間信仰の組織。
遊び日を説明せよ。
農村において、正月・節句・祭りなどの年中行事や特別の日に設けられた遊休日。
横井小楠の思想を説明せよ
実学的観点から西洋の議会主義を高く評価し、積極的な開国論を主張した。
開港後の洋学の摂取組織と関与した人物 2 人 を記せ。
開成所。西周。津田真道。
西周の著書と功績、及び津田真道の功績を説明せよ。また、彼らが明治以降どのように活躍したかも説明せよ。
「百一新論」(「百学連関」の序論)を著した西周は、実証主義・功利主義の影響を受けながら西洋哲学を紹介し、「哲学」・「理性」など多くの西洋哲学用語の日本語訳を考案した。津田真道は、日本初の西洋法学書である「泰西国法論」を翻訳した。両者は、明治初年には明六社の同人として啓蒙活動を行った。
ヘボンの功績を説明せよ。
神奈川で医療と伝道に従事し、和英辞典「和英語林集成」を編集、ヘボン式ローマ字を創始した。
フルベッキの功績を説明せよ。
明治維新後、政府顧問となり、岩倉使節団の派遣、ドイツ医学の採用などを進言した。
近世の宗教の多様性を説明せよ。
古代以来の神仏習合のもとで近世の信仰は神仏一体となった。幕府の禁教政策により、民衆は仏教によって幕府に統制された。寺社の祭礼・彼岸会・盂蘭盆などの年中行事の浸透、湯治や物見遊山の旅、伊勢神宮・善光寺・金毘羅宮などへの寺社参詣、御蔭参り、西国三十三カ所・四国八十八か所などの聖地や霊場をめぐる巡礼、富士講が行われ、神道・修験道・陰陽道もあった。幕末の黒住教(黒住宗忠)・天理教(中山みき)・金光教(川手文治郎)などの教派神道もあった。