5世紀の主な渡来人を説明せよ。
養蚕・機織りを伝えたとされる弓月君(秦氏の祖)
文書記録を担当する史部を管理したとされる阿知使主(東漢氏の祖)
「論語」「千字文」を伝えたとされる王仁(西文氏の祖)。
飛鳥寺の伽藍配置の特徴を説明せよ。
法隆寺や四天王寺では塔と金堂は各1であるが、飛鳥寺は塔の三方に金堂を置く一塔三金堂の伽藍配置。
飛鳥寺以外の伽藍配置を簡潔に説明せよ。
●法隆寺式●…塔と金堂が左右にならび,奥に講堂があり,中門から左右にのびる回廊がこれらをとりまく。
●薬師寺●…金堂の前に東西両塔が並ぶ。
●東大寺式●…中門から出る回廊が金堂にとりつき,南大門との間に双塔を配する。
●大安寺式●…南大門の南に双塔を配する。
飛鳥寺造営時点の文化に直接影響を与えた文化を説明せよ。
中国の南北朝時代や、朝鮮半島の百済・高句麗の文化。
法隆寺に関する論争を説明せよ。
法隆寺焼失の記事の存在から再建・非再建の論争が生じたが、若草伽藍の発掘から再建設が有力視されるようになった。
6世紀における仏教の受容過程を説明せよ。
皇円の「扶桑略記」によると、仏教は当初,司馬達等など一部の渡来人のあいだで信仰されていた。ヤマト政権のもとに公式に伝えられたのは6世紀前半,百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経論などを伝えたのが最初である。受容に積極的な蘇我氏(蘇我稲目など)と神祇信仰を尊重して反対する物部氏(物部尾輿)・中臣氏(中臣鎌子)との間で対立が生じたが、6世紀後半,蘇我馬子が対立する物部守屋を滅ぼして以降,朝廷が仏教興隆をはかった結果,蘇我馬子の飛鳥寺など,中央豪族による寺院の建立が進み,古くからの神祇信仰との併存が進んだ。
※戊午説(538年説):「上宮聖徳法王帝説」「元興寺縁起」
※壬申説(552年説):「日本書紀」
飛鳥文化の特徴を説明せよ。
当初は渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、最初の仏教文化である。
飛鳥文化の内容を説明せよ。
仏教興隆の詔が出され、仏教が政治の基本に据えられた。大王家や諸豪族は、古墳にかわってその権威を示し、氏の政治的結集の場とするための氏寺を建立した。
●氏寺●…
蘇我馬子が発願した飛鳥の飛鳥寺(法興寺、平城京に移転後は元興寺)
厩戸王の発願による四天王寺・斑鳩寺(法隆寺)・中宮寺、
秦河勝の発願による広隆寺など。
●建築様式●…これまでの倭国の建築様式であった従来の掘立柱(礎石を用いずに地面に穴を掘りくぼめ、そのまま柱を立てて地面を底床とする)とはかけ離れた規模と様式をもつ、礎石の上に丹塗の巨大な柱をおいた屋根を瓦で葺いた寺院
百済大寺…大王が造営した初めての寺院
・北魏様式…整った厳しい表情のなかに、古式微笑をたたえ、超現実的・象徴的な印象
→「飛鳥寺釈迦如来像=飛鳥大仏(鞍作鳥の作)法隆寺金堂釈迦三尊像(鞍作鳥の作)、法隆寺夢殿救世観像など」
・南梁様式…温かみがあって崇高な印象。
→「法隆寺百済観音像、中宮寺半跏思惟像、広隆寺半跏思惟像など」
曇徴…高句麗から紙・墨の製法、彩色の技法を伝えた、
観勒…暦法や天文地理学の書を伝えた
●絵画・工作●
法隆寺玉虫厨子の須弥座絵(捨身飼虎図などが描かれる)
法隆寺の玉虫厨子
聖徳太子の死後、橘大郎女(おおいらつめ)が作った中宮寺の天寿国繍帳
ペガサスの図柄が彫られた竜首水瓶
忍冬唐草文様
●その他…
厩戸王…「三経の義疏」である「法華経」・「維摩経」・「勝鬘経」の三つの教典の注釈書
歴代天皇の系譜や事績→「天皇記」
国家成立の沿革を述べた→「国記」
聖徳太子の思想を説明せよ。
「世間虚仮、唯物是信」として、この世は虚しく仮のものであり、ただ仏だけが真実であるとした。
白鳳文化の背景を説明せよ。
天武天皇は伊勢神宮を中心とする神祇制度の整備を進め、大嘗会の制を確立したが、同時に仏教も篤く保護し、国家による統制を強め、国家仏教の確立を目指していた。
白鷗文化の内容を具体的に説明せよ。
飛鳥文化と天平文化の中間で,初唐文化の影響を受けた律令国家建設期の文化である。前半は飛鳥文化の影響を受けながら,従来の大陸伝来のものを日本的に消化し,後半は初唐美術の影響を受け,天平文化へと続いた。中国都城制を模倣した藤原京が完成し、仏教は従来の私的信仰から国家仏教としての性格を強め,官立の大寺が創建されて造寺・造仏が増え,優れた仏教芸術が増えた。
●建築●
天武天皇が皇后の病気の平癒を祈って藤原京に建立した薬師寺(薬師寺東塔は白鷗様式を伝える)
大官大寺→平城京に移転後は大安寺
●彫刻や絵画●
興福寺仏頭(もとは蘇我石川麻呂の山田寺に合った)
薬師寺金堂薬師三尊像
法隆寺夢違観音像
法隆寺阿弥陀三尊像
アジャンター壁画に類似する法隆寺金堂壁画
男女の四神が描かれている高松塚古墳壁画
※その他…
歴代天皇の系譜→「帝紀」
神話や伝承→「旧辞」
★「帝紀」「旧辞」は、「古事記」や「日本書紀」の原史料となった。「古事記」は稗田阿礼の誦習した「帝紀」「旧辞」を太安麻侶が筆録したもの。
藤原京の特異点を説明せよ。
従来のように様々な職務を有力な王族や中央有力貴族の邸宅に分散させるのではなく、天皇の住む宮城の中に朝堂院、大極殿、様々な職務を担う官庁が整備された。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城である。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていたが、3 代の天皇に続けて使用されるなど宮都として一定期間固定されたことで氏族制から官僚制への転換を促進させた。
国家の安泰を願って導入された思想名とその役割を説明せよ。
鎮護国家思想。仏教が国家と緊密に結びついてその支配を支える宗教的背景となった。
7世紀後半から8世紀にかけて仏教が受容されていく過程を説明せよ。
●7世紀後半●……朝廷は都に官寺を建立、地方の郡司層による氏寺の建立
●8世紀半ば●……朝廷が諸国で国分寺・国分尼寺の建立,行基の協力を得て大仏造立事業を行い,神仏習合の風習がおこった。
行基の非難された点と称賛された点を説明せよ。
僧尼令で禁じられていた民間布教を行って非難されたが、民衆の支持を背景とした政府の要請に応じ、大仏の造立に協力して称賛され、大僧正の位を受けた。
天平文化の特色を説明せよ。
天皇・貴族たち為政者や一部の僧侶など限られた階層の人々が享受した。遣唐使などの影響により、盛唐の文化に強く影響を受け、また遠くシルクロードを経た西アジアや南アジアの影響を受けた品々など、国際色豊かな性格をもつ。国家仏教の影響も強く、寺院を中心とした仏教文化である。
天平文化を具体的に説明せよ。
●建築●
・瓦葺きの礎石建物
・法隆寺伝法堂、法隆寺夢殿
・東大寺法華堂(三月堂)、東大寺転害門(東大寺創建当時の現存する唯一の門)
・唐招提寺講堂(平城宮の朝集殿を移転)、唐招提寺金堂
・光明皇后が聖武天皇の遺品を納めた校倉造の倉庫の正倉院宝庫
●絵画・彫刻・工芸●
●塑像●……木を芯にして粘土で塗り固めた
(東大寺法華堂の日光・月光菩薩像、東大寺法華堂執金剛神像、東大寺戒壇四天王像、新薬師寺十二神将像)
●乾漆像●…原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固めて後で原型を抜き取る
(東大寺法華堂の不空羂索観音像、唐招提寺の鑑真像、興福寺阿修羅像、唐招提寺金堂盧舎那仏像、聖林寺十一面観音像など)
・「正倉院鳥毛立女屏風」の樹下美人図、「薬師寺吉祥天画像」、「過去現在絵因果経」など
・正倉院宝物…螺鈿紫檀五絃琵琶、白瑠璃碗、漆胡瓶など
・百万塔陀羅尼…年代の確実な現存印刷物として世界最古級。称徳天皇が恵美押勝の乱後に発願)
●「古事記」●…712年。古くから宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼に読みならわせた内容を太安万侶が文章化したもの、(天地創造、日本の国生み等)
●「日本書紀」●…720年。舎人親王を代表として中国の歴史書の体裁にならって編纂されたもの、(神話・伝承を含めて神代から持統天皇にいたるまでの歴史)
●「風土記」●…713年。郷土の産物、山川原野の名の由来、古老の伝承などの筆録(現在は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の 5 か国が伝えられる)
・「懐風藻」…751年。現存最古の漢詩集
・「万葉集」…天皇から庶民にいたるまで多くの人々によって広く詠まれた和歌を約 4500 首収録。万葉仮名。歌人は、山上憶良・山部赤人・大伴旅人・大伴家持
・淡海三船の「唐大和上東征伝」
中央の大学…五位以上の貴族の子弟などを優先
地方の国学…郡司の子弟を優先
●蔭位の制●…五位以上の貴族の子などに特権的な官人コース
●南都七大寺●…
・薬師寺(藤原京から平城京に移転)
・大安寺(藤原京の大官大寺から平城京に移転して改称)
・元興寺(もと法興寺(飛鳥寺))
・興福寺(藤原氏の氏寺)
・東大寺
・西大寺
・法隆寺
●南都六宗●…
三論・成実・法相(義淵)・倶舎・華厳(良弁)・律
●本朝三戒壇●…
東大寺戒壇院
筑紫観世音寺(玄昉が左遷)
下野薬師寺(道鏡が追放)
・光明皇后…悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療にあたらせた。
・石上宅嗣の芸亭
※六国史一覧:「書物」(成立年代)(撰者)
「日本書紀」(720年)(舎人親王ほか)
「続日本紀」(797年)(藤原継縄ほか)
「日本後紀」(840年)(藤原緒嗣ほか)
「続日本後紀」(869年)(藤原良房ほか)
「日本文徳天皇実録」(879年)(藤原基経ほか)
「日本三代実録」(901年)(藤原時平ほか)
芸亭を説明せよ。
石上宅嗣は自邸を寺とし、「仏典以外」の書物も蔵する今日の図書館のような施設をおいて芸亭と名付け、学問する人々に開放した。
奈良仏教の思想を最澄の思想と比較して説明せよ。
その人が受けた教えや素質によって、仏になれるかどうかに差別があるとし、法相宗の徳一は、人間を声聞乗、縁覚乗、大乗などに分け、大乗以外の人は成仏できないとする三乗思想を説いた。これは全ての人間が悟りを開き仏となる性質を持つとする最澄の一乗思想と対立するものである。
大学別曹を簡潔に説明せよ。
平安時代以降,貴族がその氏族出身の子弟のため設置した学問所。藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,和気氏の弘文院,在原氏の奨学院,大江・菅原氏の文章院など。
六国史を挙げろ。
『日本書紀』。『続日本紀』。『日本後紀』。『続日本後紀』。『日本文徳天皇実録』。『日本三代実録』。
和気広虫の功績を説明せよ。
藤原仲麻呂の乱の処刑者の減刑や乱後の捨て子の収容などを行った。
奈良から平安前期にかけて、神々への信仰への仏教による影響を説明せよ。
●奈良時代●…神仏習合思想が広まり、神宮寺が建立され、神前読経が行われるなど、神々への信仰に仏教が浸透し始めた。
●平安時代前期●…神々の偶像化が進み、神々と仏を同体とする考えが生じ、神々への信仰が仏教の教義を借りて体系化され始めた。
古代・中世の、日本の神やその信仰と仏教の関係性
仏と神は本来同一であるという神仏習合思想が生まれた。平安時代には、密教と旧来の山岳信仰が結びついた修験道が広く行われ、本地垂迹説も生まれた。
元寇を機に神国思想が高まると、鎌倉時代後期には反本地垂迹説を唱えた伊勢神道が成立し、室町時代には神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道が完成した。
綜芸種智院の創立者と大学・国学との違いを説明せよ。
空海。大学・国学は身分制限があり、儒教中心であるのに対して、より広い立場で儒教・仏教・道教を教えた。
密教の内容と貴族層の支持を得た理由を説明せよ。
教学研究中心の顕教に対し、秘密の呪法の伝授・習得により悟りを開こうとするもの。密教は加持祈祷をよく行い、国家・社会の安泰を祈ったため、現世利益の面から天皇や貴族たちの帰依を集めた。
弘仁・貞観文化の特色を説明せよ。
平安京で律令制を改革して文章経国が図られ、文人貴族が登用された。貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化した段階を迎え、宮廷で漢文学が発展した。仏教では新たに天台宗や真言宗が広まり、密教が盛んになった。 密教美術としては、彫刻様式である一木造、翻波式が流行した。
弘仁貞観文化を具体的に説明せよ。
●文芸●
★勅選漢詩文集★
・最初の勅選漢詩文集であり、嵯峨天皇の命で小野岑守が編者の「凌雲集」(814年)
・嵯峨天皇の命で藤原冬嗣が編者である「文華秀麗集」(818年)
・淳和天皇の命で良岑安世が編者である「経国集」(827年)
・空海の「性霊集」(弟子の真済が編集)、「文鏡秘府論」「三教指帰」
・日本最古の説話集であり、景戒の著作である「日本霊異記」
※陰陽道・明経道→清原氏
●建築●
室生寺(女人高野、自由な伽藍配置)
●彫刻●
観心寺如意輪観音像、神護寺薬師如来像、元興寺薬師如来像、新薬師寺薬師如来像、法華寺十一面観音像、薬師寺僧形八幡神像
●絵画●
密教の教えを絵画で表現し、金剛界と胎蔵界がある曼荼羅→(神護寺両界曼荼羅、教王護国寺両界曼荼羅など)
園城寺不動明王像…黄不動とも。園城寺は円珍派
※円仁…第3代天台座主。「入唐求法巡礼行記」、円仁派は「山門派」
※円珍…第5代天台座主。円珍派は園城寺=三井寺に移り、「寺門派」
※「顕戒論」「山家学生式」を著した最澄(伝教大師)の教えは一乗思想であり、全ての人が仏になることができるとする。
弘仁貞観文化の寺院の立地や伽藍配置の特徴を説明せよ。
密教は、山岳の地に伽藍を営み、山中を修行の場としたため、室生寺のような、形式に捉われない、地形に応じた伽藍配置の寺院が造られた。
物忌を説明せよ。
日取りや夢見が悪かった時などに、一定期間自宅など特定の建物の中で謹慎すること。
浄土教を密教と比較して簡潔に説明せよ。
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教えである。現世利益・貴族や僧侶中心の密教に対し、末法の世における救いを求め、全ての衆生の来世での救済を説いた。
10 世紀から浄土教の信仰が広がった社会的事情を説明せよ。
律令的支配の体制が崩れ、地方有力農民の成長を背景に反乱や武士団が台頭し、都の貴族・庶民が不安に陥った。阿弥陀仏による来世での救いへの期待が高まった。
本地垂迹説を簡潔に説明せよ。
本地である仏が衆生救済のために姿を変えて、仮に日本の神となって現れたと説く神仏習合思想。
本地垂迹説の具体的な例を説明せよ。
伊勢神宮の天照大神を、密教で最高の大日如来の化身とした。
密教・浄土教の受容のあり方を説明せよ。
律令体制が変質して社会秩序の動揺が進む中、災厄や疫病が相次いで社会不安が高まり、末法思想が広がった。密教や浄土教は広く受容され、密教は加持祈祷によって鎮護国家の法会を担い、「現世利益」にこたえて、寺院造営や荘園の寄進など朝廷、貴族からの保護を受けた。一方で、「来世での」幸福を説く浄土教は、空也など聖の活動を通して普及し、寄木造の技法が大量の仏像需要に応えたこともあり、貴族や地方の有力者によって阿弥陀堂が建立された。
醍醐天皇の文化事業を説明せよ。
三大格式の最後である「延喜格」、「延喜式」の編纂や、最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を撰集させた。
文章経国思想を簡潔に説明せよ。
文芸は国家の支柱で、国家の隆盛の鍵であるとする思想。
三筆を挙げよ。
嵯峨天皇。空海。橘逸勢。
空海の書を挙げよ。また、彼の思想を説明せよ。
「性霊集」。「文鏡秘府論」。「三教指帰」(儒教・道教・仏教のなかでの仏教の優位を説く)。「十住心論」(真言密教の境地に至る道筋を示す)。「風信帖」。
口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を観じる三密の行(身密・口密・意密)によって、宇宙の根本原理である大日如来の教えをそのまま会得し、大日如来と一体化して、生きた身のまま仏になることができるとする「即身成仏」を説いた。
※嵯峨天皇より教王護国寺(東寺)を下賜
※天台宗系→山王神道、真言宗系→両部神道
現存する日本最古の説話集と作者を記せ。
「日本霊異記」。景戒。
室生寺の性格を説明せよ。
女人禁制の高野山に対し女人高野と称し,女人の登山参詣を許した。
弘仁・貞観期から摂関期にかけての文化の展開と内容を説明せよ。
唐を中心とする国際秩序が解体し、国内では律令国家の再編成により貴族社会の編成原理が官僚制原理から天皇との私的関係へと変質、唐風文化の吸収の上に文化の国風化がおこった。
国風文化を説明せよ。
遣唐使廃止など大陸との関係が変化する中で、それまで吸収・消化された大陸文化を土台として日本の風土に適合した貴族中心の文化が形成された。浄土教美術においては定朝が開発した寄木造が流行した。
●建築●
醍醐寺五重塔(五重塔は醍醐寺創建の後に完成)
1020年に藤原道長が建立した法成寺
1051年に日野資業が建立した法界寺阿弥陀堂
1053年に藤原頼通が宇治に建立した平等院鳳凰堂、本尊は定朝作の阿弥陀如来像
●絵画・文芸・工芸●
・「藤原道長埋納経筒」…金峰山に埋納
漢詩文の教養が重視され、「和漢朗詠集」・「本朝文粋」などが作られた。
かな文字の確立を背景に和歌など、かな文学が隆盛し、日記(「土佐日記」・「蜻蛉日記」)や物語文学(「源氏物語」・「栄華物語」)も成立
・最初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の命(905年)で紀貫之が編集した「古今和歌集」
・六歌仙→在原業平・遍昭・喜撰・小野小町・文屋康秀・大友黒主
・「竹取物語」・「伊勢物語」・「落窪物語」・「宇津保物語」・「源氏物語」(紫式部の著)
・「土佐日記」(紀貫之著)・「蜻蛉日記」・「更級日記」(菅原孝標の女著)「紫式部日記」・「和泉式部日記」
・「枕草子」(清少納言著)
・大和絵(巨勢金岡)
・書道→和様
三蹟…小野道風(「秋萩帖」)・藤原佐理(「離洛帖」)・藤原行成(「白氏詩卷」)
・高野山聖衆来迎図…阿弥陀如来の来臨
・蒔絵
●宗教●…密教が現世利益をもとめる貴族に普及する一方、神仏習合が進み、さらに穢れ忌避意識が肥大化する中で新たに浄土信仰が広がった。社会不安の増大も重なって浄土教が独自の展開を見せ、空也の布教などにより貴族や庶民に広がった。
・源信の「往生要集」
・極楽に往生したと考えられた人物の往生伝の集成である慶滋保胤の「日本往生極楽記」
●生活●…生活では貴族の住宅が白木造・檜皮葺の和風の寝殿造へ変化し、服装や調度品などの和風化も生じた。貴族の服装では唐風の装束を日本風に改良した束帯が男子の公用服とされるなど、日本風のものが好まれた。一方で、輸入された絹織物などの唐物も珍重された。
※男子の正装→束帯、略式→衣冠、平常服→直衣・狩衣、成人式は元服
※女子の正装→女房装束=十二単、成人式は裳着
※武士→直垂、庶民→水干
※平安前期は妻問婚(別居で男が女の家に通う)、後期は婿入婚(男が妻側の家か新居で生活)
平等院鳳凰堂(国風文化)についての浄土教の影響を説明せよ。
極楽の蓮池をかたどった池に面し、寄木造を開発した定朝が作った阿弥陀像を本尊にする。扉や壁に来迎図を配して浄土そのものを具現している。
源信(恵心僧都)の思想を説明せよ。
著作「往生要集」により、「厭離穢土、欣求浄土」とし、極楽浄土に往生する方法として、称名念仏を認めながら、心に阿弥陀仏を思い描く観想念仏を重んじた。
10 世紀から 11 世紀前半の貴族社会において、日記が書かれた目的を説明せよ。
摂関政治期の宮廷社会では先例が重視され、重要行事を担う貴族は自らの備忘録として、また家の維持を図るために日常や朝廷に関する出来事を記録した。
平安時代中期の宮廷社会において、中宮や皇后はどのような女性であったか説明せよ。
摂関家である藤原氏の娘が中宮や皇后となり、外戚関係の維持のため、将来天皇となる皇子を生むことが期待された。
陣定を説明せよ。
内裏の近衛の陣で行われ、天皇の決裁の参考にするため、太政官に属する公卿たちが外交や地方行政などの重要な審議に関わり、その意見が求められた。
内裏はどのように用いられたか説明せよ。
天皇の居所で、天皇の生活の場や政務を行う場として用いられた。
10,11 世紀の貴族の食事の特質を説明せよ。
仏教の影響で貴族は獣肉を食べなかった。
5世紀から10世紀までの日本の文字の歴史
5世紀ころに渡来人によって漢字が伝来し、漢字の音を借りた人名や地名の表現が可能になった。ヤマト政権は渡来人を史部に組織して文書作成などにあたらせ、後には官人らに漢字文化受容が進み、歴史書や漢詩集が作られ、万葉仮名も生まれた。平仮名や片仮名によって日本人特有の感覚の、より豊かな表現が可能になり、10世紀にかけてかな文学も作られた。
★かな文字の成立とその歴史的意義を説明せよ。
唐を中心とした東アジア諸国の文化圏は、唐の衰退と滅亡によって共通性を失った。各国はそれぞれの風土や伝統にかなった独自の文化を形成したが、その最も顕著な例が漢字の表音文字による文字の成立であり、日本では万葉仮名を土台として 9~10 世紀に片仮名と平仮名がつくられた。仮名の使用は、日本人特有の感覚の、より豊かな表現を可能にし、国文学を中心とした国風文化が形成された。朝鮮ではハングル、西夏では西夏文字、金では女真文字がつくられた。
東アジア諸国の文化的共通性を説明せよ。
古代より中国王朝は冊封体制を外交の基本として周辺諸国に対応した。このため、東アジア諸国は年号・政治制度・文字などの面でも中国文化の影響を強く受けている。しかし、中国の冊封下に入ることに対する反発も多く、独自の民族文化の発展も見られた。
三大不如意を記せ。
鴨河の水。双六の賽。山法師。
六勝寺を説明せよ。
平安末期に京都の白河に建てられた寺。法勝(白河天皇)・尊勝(堀河天皇)・最勝(鳥羽天皇)・円勝(待賢門院)・成勝(崇徳天皇)・延勝(近衛天皇)の6寺。
※南都北嶺…
南都→興福寺、僧兵は春日神社の神木を利用
北嶺→延暦寺、僧兵は日吉神社の神興を利用
院政期の文化の特徴と、それを促進した人々を説明せよ。
貴族文化は、新たに台頭してきた武士や庶民の活動と共に、その背後にある地方文化を取り入れるようになり、新鮮で豊かなものを生み出した。聖と呼ばれた民間の布教者が地方と京都の文化の橋渡しをした。
院政期の文化を具体的に説明せよ。
田楽などの庶民的芸能は貴族の間に流行し、猿楽も盛んになり、上皇や貴族による高野山・熊野三山・観音霊場などの霊場参詣も行われた。また、地方の豪族が京都の文化を積極的に取り入れており、各地に宗教文化が伝播した。
藤原明衡『新猿楽記』…さまざまな階層の人々の生態
大江匡房『傀儡子記』『永長田楽記』…芸能に関わる人々の動き
大江匡房『江家次第』…年中行事や公事の実際
・説話集…『今昔物語集』(天竺・震旦・本朝(インド・中国・日本)に分類)
・軍記物…『将門記』、前九年合戦を描いた『陸奥話記』など
今様や催馬楽を修正した、後白河法皇の『梁塵秘抄』
催馬楽、朗詠
●絵巻●…
『伴大納言絵巻』
『信貴山縁起絵巻』
『年中行事絵巻』
『鳥獣戯画』
『源氏物語絵巻』
『扇面古写経』、『平家納経』
奥州藤原氏…平泉の中尊寺金色堂(藤原清衡)、平泉の毛越寺(藤原基衡)
●その他の地方豪族のつくった阿弥陀堂や浄土教美術…
富貴寺大堂(大分県豊後高田市)、臼杵の石仏、岩城氏の白水阿弥陀堂(福島県いわき市)、三仏寺投入堂(鳥取県三朝町)
平安末・鎌倉時代の宗教家の出現と背景を説明せよ。
●荘園公領制の成立・展開期●…顕密寺院(旧仏教)は荘園を集積し、荘園・公領の秩序維持を宗教面から担った。そのため各地で聖が布教に努め、また法相宗の貞慶(解脱)や華厳宗の明恵(高弁)のように戒律の復興を掲げ、世俗化し堕落した仏教のありかたを批判し、律宗の叡尊(思円)や忍性(良観)のように非人救済など社会事業を通して民衆への戒律の普及に努めた。
※貞慶→戒律復興、法然の念仏批判である「興福寺奏状」、笠置寺
※明恵→「摧邪輪」で法然批判。京都の栂尾(とがのお)に高山寺
※叡尊→西大寺
※忍性→北山十八間戸
※俊芿→泉涌寺
●武家政権の成立・発展期●…武士による在地支配が強まり、農業や経済流通の発展を背景として各地で農民や商人、職人が成長した。法然・親鸞や日蓮のような易行・選択・専修という特色をもった新仏教は、顕密仏教の宗教的な呪縛から自立しようとする武士や民衆の期待に応えた。
東大寺の歴史を、再建を軸に説明せよ。
南都七大寺の一つであり、聖武天皇の発願により総国分寺として創建された。行基が勧進し、良弁が開山。本尊の盧舎那仏(奈良の大仏)の開眼供養は752年に行われ、後に鑑真が来日して戒壇院を創設して、三大戒壇の中心となった。
治承・寿永の乱の際、東大寺は興福寺と共に反平氏勢力となったため、平重衡によって南都焼打ちを受けた。後白河法皇の命令を受けて勧進上人として復興に着手した重源は、朝廷や頼朝からの援助のほか、貴賤を問わず広く人々から寄付を集めて、資金を調達した。頼朝は奥州藤原氏との対抗上協力し、封建的主従関係を背景として、地頭として荘園・公領に配置した御家人に奉公として造営作業を命じた。建築様式では宋の工人陳和卿の協力を得て、日宋間の私貿易が活発化していたことを背景として、南宋の寺院建築を模範とする大仏様が採用された。東大寺南大門を代表的な遺構とする大仏様は、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色とした。
戦国時代には松永久秀と三好三人衆との争いに巻き込まれて大仏殿が炎上し、江戸中期まで露座の大仏と化したが、江戸時代に公慶上人が大勧進職となり、江戸幕府の援助のもとに諸国に勧進を始め、徳川綱吉やその生母の桂昌院らの援助を得て大仏殿再建が進められ、現存する大仏殿が1709年に完成した。建造物の多くが国宝で、奈良時代の遺構として転害門、法華堂、正倉院などとともに創建当時の不空絹索観音、日光・月光菩薩像をはじめ、各時代の美術品・文化財を多数残している。
東大寺再建における中国の職人の技術の導入を説明せよ。
宋から招いた陳和卿の協力を得て大仏様の建築様式を導入し、東大寺大仏殿の再建を行った。東大寺南大門はその代表的遺構である。
鎌倉文化の特色を説明せよ。
平安時代の国風文化の伝統を基盤として、新興の武士層や農民層の価値観がつけ加えられて成立した文化。武士や農民の勢力が伸張した、庶民の文化である。難解な教養を必要としない新仏教の台頭、文字が読めない武士・農民にも親しみやすい語りの文学としての軍記物語の流行、物語を図解した絵巻物の発達し、さらに宋や元など大陸の文化がもたらされた。
鎌倉文化の具体例を説明せよ。
●建築●
・大仏様…豪放で変化に富み、美しい構造(東大寺南大門など)
※運慶・快慶・湛慶らと、その一派の慶派
・禅宗様…宋の中央様式を移したものであり、急勾配の屋根、反りの強い軒をもつ。細かな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表す(円覚寺舎利殿など)
・和様…平安時代以来の伝統的な建築様式で、細かい木割り、ゆるい勾配の桧皮葺の屋根、全体から受ける繊細な感覚(蓮華王院(三十三間堂)本堂など)
・折衷様…大仏様・禅宗様の細部の手法を和様に取り入れたもの(観心寺本堂など)
・武家造…公家の寝殿造をもとにしながら、武家の生活に適するように改造された、実用的で簡素な建築様式
●絵画●
・似絵…個人の特徴を前面におし出す→藤原隆信・信実父子
(平安時代の大和絵は、人物の顔は一様に引目・鉤鼻の没個性的)
・頂相…禅宗の僧侶の間で始まった絵で、弟子が人の師になるまでに成長したときに、師が自分の肖像画に賛(漢文の教訓的・宗教的な文章)を書き、弟子に与えたもの
・絵巻物…文字を読めない武士や民衆に歓迎された。
『春日権現験記』(高階隆兼)
『北野天神縁起絵巻』
『法然上人行状絵図』
『一遍上人絵伝』
『平治物語絵巻』
『蒙古襲来絵巻』など
●書道●
・青蓮院流…尊円入道親王が藤原行成の流れである世尊寺流にこの新しい書風を加味した
●工芸●
・刀剣…京都の粟田口吉光、鎌倉の岡崎正宗、備前の長船長光
・陶器…白磁・青磁の輸入の影響、釉を用いた瀬戸焼の加藤景正
●学問・文学●
・『日本書紀』『万葉集』『源氏物語』の注釈書
・金沢文庫…北条実時が称名寺に文庫をつくり、和漢の書を集めて学問の便をはかった
・隠者の文学…西行『山家集』、鴨長明『方丈記』
慈円『愚管抄』、後鳥羽上皇が選ばせた『新古今和歌集』、源実朝『金槐和歌集』、『吾妻鏡』、虎関師錬『元亨釈書』(日本最初の仏教通史)、後白河法皇の命で藤原俊成が編纂した「千載和歌集」
日記・紀行文学…『東関紀行』『海道記』『十六夜日記』
説話文学…『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』
随筆…卜部兼好の『徒然草』
軍記物語…『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』など
古典研究…卜部兼方『釈日本紀』、仙覚『万葉集註釈』
有職故実(朝廷の儀式や作法について研究)…順徳天皇『禁秘抄』、後鳥羽天皇『世俗浅深秘抄』
●反本地垂迹説●…度会家行『類聚神祇本源』、伊勢神道(国家意識の高揚が生んだ思想)
北条時頼の帰依を受けた蘭渓道隆は建長寺を開山した。
北条時宗の帰依を受けた無学祖元は円覚寺を開山した。
★「大鏡」→平安末
「今鏡」→1170年
「水鏡」→鎌倉初頭
「増鏡」→南北朝期
律宗を代表する二人とその活動を説明せよ。
叡尊。忍性。朝廷や幕府の保護を受けて、元寇の際の異国降伏の祈祷や、非人や病気の人々の救済などの社会事業をおこなった。
忍性→北山十八間戸
法然・親鸞と旧仏教側の違いを説明せよ。
●法然や親鸞●…日常生活のままで信心に基づいて平等に救済される道を説いた。
●旧仏教側●…戒律を重視する立場に立ち、朝廷に法然らへの弾圧を求めるとともに、幕府の支持の下で広く民衆への勧進を行い、戒律の遵守や社会事業への参加による功徳を進めた。
鎌倉新仏教を具体的に説明せよ。
「選択本願念仏集」を著した、浄土宗の法然(源空)…
自力によって修行を乗り越え悟りを得る難行に対し、称名念仏により阿弥陀仏にすがることによって極楽往生に往生できる易行を主張し、専修念仏を唱えたが、弾圧により讃岐へ配流された。
「興禅護国論」「喫茶養生記」を著した、臨済宗の栄西…
禅こそが末法の教えであるとして禅による天台宗の復興を目指した。師が門弟に与える本質的な問題である「公案」に取り組み、師弟で禅問答を行い工夫させる。
「教行信証」を著した、浄土真宗の親鸞…
「絶対他力」の思想であり、法然と同様に信心は阿弥陀仏から賜ったものとし、称名念仏により救われることに感謝して唱える「報恩感謝の念仏」を説いた。また、修行をして善行を積むことで悟りを開こうとする人を「善人」、煩悩具足で欲望に囚われた凡夫であるという自覚を持つ人を「悪人」とし、「善人」よりも、凡夫の自覚を持ち、自分の非力さや罪深さに苦しむ「悪人」こそ救いの対象として相応しいとする「悪人正機説」を説いた。自然法爾。
「正法眼蔵」を著した、曹洞宗の道元…
法然や親鸞が唱えていた他力本願のような、自力では悟れないとする末法思想を否定し、坐禅による悟りを主張し、坐禅の修行である「修」と悟りである「証」を一体のものとみなす、つまり、坐禅の修行は悟りそのものであるとする「修証一等」を説いた。一切の執着を離れて悟りの境地に入る「身心脱落」や、「只管打坐」を説いた。
「立正安国論」を著した、日蓮宗の日蓮…
「四箇格言」と呼ばれる他宗への批判を行い、天災や騒乱の原因は法華経の軽視によると主張し、浄土系の宗派、禅宗、真言宗、律宗を排撃した。また、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える「唱題」によって現世における仏国土の建設を目指した。「立正安国論」を北条時頼に送ったことで、佐渡へ配流された。久遠実成の仏。「開目抄」「観心本尊抄」。「念仏」を唱える浄土宗などは批判。
時宗の一遍…「南無阿弥陀仏」の名号こそが真の実在であるとし、ただ一度だけでも名号を唱えれば往生できると説き、踊念仏を行った。また、念仏勧進に必要なもの以外の所持物を持たずに遊行したため「捨聖」とも呼ばれた。
※総本山
浄土宗→京都の知恩院、浄土真宗→京都の本願寺、時宗→神奈川の清浄光寺、日蓮宗→山梨の久遠寺、臨済宗→京都の建仁寺、曹洞宗→福井の永平寺
勧進の理念を説明せよ。
寺院造営、社会事業などを実現することで民衆を含めた広い階層の人々の抱く社会的・心理的な不安感を仏教により和らげ、人々の意識を秩序づけること。
鎌倉時代から江戸時代にかけて低身長化が進んだ理由を説明せよ。
●中世●…殺生を戒める思想を持つ仏教の影響で牛馬などの獣の肉は穢れとして忌避され、肉食を避けた精進料理も広まった。
●江戸時代●…原則として米が本年貢として納められるものとして幕藩体制の経済的基盤となり、特別視されるようになったため、人口の大部分を占める多くの百姓は、日常の主食として米に比べると栄養価の落ちる麦・粟・稗などの雑穀を日常の主食とした。
頂相と似絵の違いを説明せよ。
頂相は、禅宗において、師が自らの法を伝えた証に、弟子に与えた、自らの賛を加えた自身の肖像画であるが、似絵は肖像画一般のことである。
百王説を説明せよ 。
平安時代末期・鎌倉時代に広まった、天皇は神武即位から数えて百代で尽きるという説。神国思想の下で影響力は弱まった。
徳政の意味の変容を説明せよ。
元来、為政者が天変地異などが起こる原因を自らの不徳と認識し、受刑者の減刑や困窮者の債務免除などを実施することであった。しかし、永仁の徳政令以降は、債務破棄を意味すると理解され、高利貸資本の社会への浸透が進む中で、あらゆる階層の人々から徳政を求める声が強まっていった。
同朋衆を説明せよ。
室町時代、将軍に芸能・技能をもって仕えた者で、出家姿で時宗僧として阿弥号を名乗ることにより、身分差を超えて近侍できた。
有徳人を説明せよ。
優れた徳行を積む者、または借上などの経済的富裕者のこと。宗教儀式を通して社会に経済的還元を行うことが期待された。その背景には功徳を施すことで富の平準化を図る中世の「有徳」観があった。
初期の茶の湯において流行した方式を一つあげ説明せよ。
闘茶。茶を飲み比べ,茶の産地をあてあう賭け事。
南北朝の動乱を背景とした室町時代の文化の特徴を説明せよ。
近畿地方やその周辺部で農業や商工業の発展を背景として惣村や町という地縁的な自治組織が成長した。それを基礎として猿能楽・喫茶・盆踊り・連歌など集団で営まれ、参加し楽しむ、寄合の芸能が盛んになり、これら民衆は京都において融合した公家・武家文化を受容して次第に洗練され、さらに公家・武家に摂取されると共に都と地方の文化交流が広がるなど、身分や地域を超えた文化の融合が生じた。また、日明貿易の推進により唐物や唐絵が流入し、大陸文化と伝統文化の融合も生じた。
※興福寺を本所とする大和猿楽四座
→観世座(結崎座)・宝生座(外山座)・金春座(円満井座)・金剛座(坂戸座)
→結崎座からは,観阿弥,世阿弥の父子が現れた。
安国寺建立の目的を説明せよ。
足利尊氏・直義の兄弟が、夢窓疎石の勧めによって国家安穏を祈願し、元弘の変以来、南北両朝の戦没者供養のため、日本の各国ごとに建立させた。塔も建立され、利生塔と称した。
天龍寺建立の目的を説明せよ。
足利尊氏・直義の兄弟が、後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した。
唯一神道(吉田神道)を説明せよ。
吉田兼倶が大成した。本地垂迹説に基づく両部神道に対し、反本地垂迹説の立場で一切の現象を体系づけた、儒教・仏教をも取り入れた総合的な神道説である。
古今伝授を説明し、またその始祖を記せ。
「古今和歌集」の故実・解釈などの秘事を弟子に口承伝授すること。初めは東常縁から宗祇に伝えられた。
鎌倉から室町の、朝廷側における和歌と連歌の関係を説明せよ。
●鎌倉初期●…後鳥羽上皇の勅で「新古今和歌集」(1205年)が成立した。
●鎌倉後期●…和歌を母胎に連歌が生まれ、二条良基の編纂した准勅撰の連歌集である「菟玖波集」(1356年)が成立し、その後は宗祇らによる准勅撰の「新撰菟玖波集」(1495年)が成立した。
正風連歌と俳諧連歌の違いとそれぞれの代表者を挙げて説明せよ。
●正風連歌●…和歌の伝統を生かした深みのある芸術的な連歌で、代表は宗祇の「新撰菟玖波集」や宗祇を中心とする 3 人による「水無瀬三吟百韻」などが代表的。
●俳諧連歌●…娯楽的・庶民的に発達した連歌で、代表は宗鑑の「犬筑波集」(16C初め)。
バサラの内容と、それが生じた背景を説明せよ。
従来の秩序の崩壊や貴賤・都鄙・僧俗の文化交流を背景として、華美で人目を引く風俗が流行した。伝統的権威を無視し、傍若無人なふるまいをする大名をバサラ大名といい、佐々木導誉がその例である。
村田珠光の功績を説明せよ。
豪華・華麗な書院の茶に対して、茶と禅の精神の統一をめざして簡素・静寂の侘茶を創出した。
生け花の発展を説明せよ。
室町幕府の同朋,僧侶らの間に多くの名手が出て,足利義政に仕えた立阿弥、相阿弥,文阿弥などの同朋衆や,なかでも後世の生け花発展の基礎となった池坊の僧専慶の活躍もあった。次いで池坊専応,専栄の代には伝書もでき,時代と共に造形性を重視し、儒教や仏教の思想による構成法の理論化も進められて芸術性を高めた。江戸時代初期には 2 代専好が出て立花を確立し画期的発展をとげた。
薩南学派を簡潔に説明せよ。
応仁・文明の乱で地方に下った僧の桂庵玄樹(最初は菊池氏の肥後へ)が薩摩国に移り,この玄樹を始祖とし、朱子学を講じながら新しい漢文訓読法の基礎を築いた儒学の学統である。
室町幕府において禅僧が起用されたのはなぜか説明せよ。
漢文での外交文書の作成や漢詩文を交わすことを通じた意思の疎通にたけており、東アジアの外交において貴重な人材であった。
五山の禅僧の役割を簡潔に説明せよ。
室町幕府の政治・外交顧問として活躍しただけでなく、幕府の保護の下で手広く金融活動を行い、荘園経営者としても優れた能力を発揮した。
回遊式庭園を説明せよ。
池を中心に築山・中島・橋・遣水などを配し、建物そのものも庭園の要素とする。
初代僧録を記し、僧録を説明せよ。
春屋妙葩。五山・十刹以下の禅宗寺院の管理と、その人事をつかさどった僧職である。足利義満により相国寺の春屋妙葩が任じられて以来、代々鹿苑院の院主が任じられた。
南北朝・室町時代の禅宗の、幕府との関係や文化への影響 幕府との関係を説明せよ。
足利尊氏が夢窓疎石に帰依し、足利義満が五山・十刹の制を整備し、臨済宗五山派は室町幕府の保護・統制を受けて発展した。国家的な祈祷に従事するなど五山僧は幕府の外交・政治顧問として重用された。幕府は、祠堂銭を元本に金融業を営むなど豊かな経済力をもった五山寺院に対し住持任命にあたって五山官銭を賦課したり、将軍の参詣にあたって献物・献銭を徴収したり、五山が領有する土地への段銭免除、守護不入特権などへの見返りとしての五山献上銭など五山寺院は幕府財政を支える側面もあった。経典などを五山版として出版し、絶海中津・義堂周信が五山文学の全盛期を現出させ、漢詩文や水墨画など中国風の文化を発展させる一方、禅の精神を取り入れた書院造・枯山水・侘茶などの新たな生活文化を形成し、大陸文化を浸透させる媒体となった。戦国期には幕府の衰退とともに五山派は衰えたが、五山に属さない禅宗諸派の林家の僧が地方の武士や民衆の間に広まった。
祠堂銭の内容と運用方法を説明せよ。
おもに禅宗寺院で,死者の冥福を祈るため,祠堂へ供養料,修理料として信者が寄進した銭貨などの財物であり、中世には貸付銭として運用され,寺社金融の中心であった。元来,貸付けの目的が寺内困窮者の救済にあったため,低利で,徳政の適用を受けなかったが、徳政一揆では土倉・酒屋と共に寺院も襲撃された。
五山・十刹の制を説明せよ。
南宋の官寺の制に倣って禅宗寺院の寺格をさだめ、官寺として最上位の寺格を有する五つの寺院を五山、五山に次ぐ官寺を十刹として保護・統制した。五山の上位で別格としたのは南禅寺である。
※京都五山…
①天竜寺(足利尊氏建立、夢窓疎石開山)
②相国寺(足利義満建立、夢窓疎石開山)
③建仁寺(栄西)
④東福寺
⑤万寿寺
鎌倉五山…
①建長寺(北条時頼建立、蘭渓道隆開山)
②円覚寺(北条時宗建立、無学祖元開山)
③寿福寺(栄西)
④浄智寺
⑤浄妙寺
金閣と銀閣の特色を、それぞれの文化を踏まえて説明せよ。
●鹿苑寺金閣●…伝統的な公家文化と大陸文化の禅宗文化などの融合が進んだ北山文化を代表し、伝統的な寝殿造りと禅宗寺院の禅宗様を折衷した建築物である。3階には花頭窓がある。
●慈照寺銀閣●…公家文化・禅宗文化など諸文化の融合の上に生活に根付いた独自の文化が形成された東山文化を代表し、和洋の新住宅建築様式の原型である書院造を下層に採用した建築物である。
※足利義政の書斎→東求堂同仁斎
金閣・銀閣以外の、室町文化を具体的に説明せよ。
●庭園●
西芳寺庭園…夢窓疎石の作庭。苔寺。
竜安寺石庭、大徳寺大仙院庭園
●絵画●
可翁→「寒山図」
明兆(兆殿司)→「五百羅漢図」
如拙→「瓢鮎図」
周文→「寒山拾得図」
雪舟→「四季山水図巻」、水墨画の大成者
土佐光信→土佐派の確立
狩野正信→「周茂叔愛蓮図」「布袋図」「山水人物図」、狩野派の始祖
狩野元信→「大仙院花鳥図」
東山文化の背景を説明せよ。
応仁の乱後の大名在国化に伴って貴族・連歌師等を媒介とする文化の地方伝播が本格化した。乱による典籍焼失により、貴族たちの古典研究活動が高揚した。
15 世紀の地方文化や学問の動向を説明せよ。
守護大名が京都の文化を学んで地方に普及させただけでなく、五山禅僧が各地の寺院に居住して中国文化の普及に貢献した。
応仁の乱以後、多くの公家や五山禅僧が荒廃した京都を離れて戦国大名の下に集まり、地方で文化・学問が発達し、東国では関東管領である上杉憲実が再興した足利学校に各地の禅僧や武士が集まり、「坂東の大学」と称された。西国では大内氏の城下町山口に連歌師宗祇や画僧雪舟らが寄宿し、大内版の出版も行われた。
足利学校での教育を説明せよ。
禅僧・武士らによって、漢籍をもとに儒学・易学が学ばれていた。
室町・戦国時代における民衆を担い手とする文化を説明せよ。
民衆の生活を題材とし、せりふにも日常会話が用いられた風刺性の強い喜劇である狂言や、絵の余白に当時の話し言葉で物語が書かれ、仏教思想の影響が強い御伽草子、和歌を上の句と下の句で読み分ける連歌などは民衆の間に広く流行した。
室町・戦国時代における鎌倉新仏教の広まりを説明せよ。
●臨済宗の五山派●…室町幕府や守護大名の庇護を受け、上層武士に浸透し、政治・外交の場で活躍する一方、五山版や水墨画などの文化を生み出した。
●禅宗の林下●…戦国大名・地方武士・民衆の支持を得て各地に広まった。
●浄土真宗●…蓮如が出て、畿内・北陸・東海地方の惣村農民に浸透し、一向一揆の基盤となった。
●日蓮宗●…日親により京都の商工業者を中心に西日本に広まり、戦国期には京都で自治的組織の法華一揆が形成された。
法華一揆(1532年~1536年)を説明せよ。
京都町衆の法華宗徒による日蓮宗信仰を基盤とした団結であり、対立していた一向宗徒の山科本願寺を焼打ちして石山へ追い立て、年貢・地子の免除・自検断など京都市政を自治的に運営した。
天文法華の乱(1536年)の背景と内容を説明せよ。
京都町衆を中心とする日蓮宗徒は一向一揆や土一揆に対抗して法華一揆を起こし、京都で大きな影響力をもって、対立・葛藤が続いていたが、これが宗門論争を機に爆発し武力衝突にまで発展した。
天文法華の乱は、延暦寺の宗徒が、六角定頼の支援を得て法華一揆を破り、京都の日蓮宗寺院二一寺を襲撃破却した事件であり、この乱により 1542 年まで日蓮宗は京都で禁教になった。
戦国時代の浄土真宗の地方的展開を説明せよ。
応仁の乱ころ,本願寺の蓮如は教えを平易に説いた御文を使って布教し,信者を講に組織し,北陸・近畿・東海地方に教線を拡大し、越前に吉崎御坊,山科に本願寺,大坂に石山本願寺(大坂御坊)を建立して,教団組織を確立した。加賀国では門徒の国人・地侍らが一向一揆を起こして守護富樫政親を滅ぼし,16 世紀半ば以降,本願寺の統制のもとでしばしば門徒たちが一向一揆を起こし,16 世紀後半には織田信長政権と戦ったものの屈服した。
ヴァリニャーニの功績を説明せよ。
イエズス会の東洋巡察使として来日し、大友宗麟ほか九州諸大名を教化した。活字印刷機をもたらし、キリシタン版を出版した。
キリシタン大名がキリスト教を保護した目的と入信した人物の具体例を説明せよ。
イエズス会宣教師は,まず大名を入信させ,次いで家臣領民を改宗させた。大名も貿易上の利益,欧風思想への好奇心などから相次いで入信してキリスト教を保護した。大村純忠・大友宗麟・有馬晴信・高山右近・細川ガラシャ など。