ヤマト政権の支配の仕組みを説明せよ。
血縁などを中心に豪族らを氏に編成し、氏を単位に家柄や職能によって、中央豪族らに臣・連、地方豪族に君・直などの姓を与え、ヤマト政権の職掌を分担させた。直轄領の屯倉や直轄民の名代・子代の部を各地に設け、服属した豪族を国造などに任じてそれらを管理させた。
★朝廷の直轄地は屯倉、耕作者は田部・名代・子代
★豪族の直轄地は田荘、耕作者は部曲
ヤマト政権において、渡来人に期待された役割とその管理方法を説明せよ。
渡来人は先進的な技術や文筆能力によって王権に奉仕することが期待され、職掌ごとに品部として管理され伴造に率いられた。
6 世紀における権力交代を簡潔に述べよ。
軍事に携わり旧来の鉄と技術を背景とする力の支配を維持しようとした大伴氏・物部氏から、崇仏論争を経て、財政に携わり、屯倉の設定に象徴される新しい地方支配の方式を標榜した蘇我氏への権力交代。蘇我馬子が587年に物部守屋を滅ぼし、また592年に崇峻天皇を殺害した。
※507年に大伴金村が継体天皇を擁立
倭国社会の変化を説明せよ。
●紀元前1世紀頃●…倭国には百余国もの小国が分立した。
『漢書地理志』-史料日本史(0001) (chushingura.biz) (編者:班固)
●1世紀頃●…奴国の王のように、後漢の皇帝に使者を派遣(57年)して称号を得る者もあった。光武帝より印綬を受けた(金印は、福岡県志賀島で1784年に発見された)。
●2世紀●…107年に、倭の国王の帥升等が生口160人を安帝に献じた。また、147~189年(桓霊の間)に争乱が生じた。
後漢書東夷伝 (main.jp) (編者:范曄、司馬彪)
●3世紀前半●…邪馬台国を中心とする約30国の小国連合が形成された。邪馬台国の女王卑弥呼も倭国内での立場を高めるため、239年に魏に使者を派遣した。また、266年に卑弥呼の宗女の壱与が西晋に遣使した。
魏志倭人伝の原文と日本語訳 | 古代日本まとめ (kodainippon.com) (編者:陳寿)
3世紀、5世紀、7世紀の国家のありかたを説明せよ。
●3世紀●…邪馬台国を中心に約 30 の小国の連合が生まれた。諸国から共同で争乱を収めるべく擁立された女王卑弥呼は呪術的な力で人々を支配し、その宗教的権威を背景に政治を行った。
●5 世紀●…ヤマト政権は世襲王権を確立していた大王家を中心に、関東から九州中部に及ぶ地方豪族を含みこんだ支配体制を形成し、氏姓制度という政治的身分秩序。ヤマト政権は、豪族を氏という組織に編成し、職務を分担させ、氏に応じた姓を授けた。
●7 世紀…東アジアの国際的緊張の中、冠位十二階制定など官僚制的な中央集権国家の建設が目指され、大化の改新では、唐の律令制を基にした中央集権化が進められた。そして壬申の乱(672年)の結果、有力豪族の多くが没落し、強大な権力を得た天武天皇により、八色の姓を制定するなど、天皇を中心にした中央集権的国家体制の形成が進み、律令編纂も着手され、持統天皇の時に飛鳥浄御原令が施行された。
倭の五王の権力や支配の特質を、その根拠と共に説明せよ。
「宋書」などにみえる倭の五王は、朝鮮半島や倭国での支配を有利にするため、5 世紀初めから中国南朝の宋に朝貢して倭王と認められた。渡来人の組織や支配制度の整備を進めつつその勢力を拡大し、倭王武は中国皇帝から「安東大将軍」の称号を得た。武の頃には関東地方から九州中部に至る地域を勢力範囲に置いていたことや、「大王」号が存在していたことが、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘や熊本県江田船山古墳出土鉄刀銘から知られる。
宋書倭国伝[倭の五王] (main.jp) 編者:沈約
国造の仕事内容を説明せよ。
各地域の優勢な豪族が任命され、自らの統治権を認められる代わりに、ヤマト政権に対して、子弟・子女の出仕、地方特産物や馬・兵士の貢上を行った。屯倉や部民を管理する伴造職を兼務したり国造軍を統率してヤマト政権の遠征に参加したりした。
屯倉の経営方法を説明せよ。
中央から監督者が派遣され、屯倉周辺の農民を田部として徴発し、その徭役労働によって耕作が行われた。
飛鳥時代の政治制度と新たな文化現象を説明せよ。
飛鳥時代には権力を握った蘇我氏を中心に朝廷の機構の整備や仏教の受容が進められた。隋の中国統一(589年)を契機に、推古朝では冠位十二階が定められ、氏姓制度を官僚制度へと転換して中央集権体制を確立する動きが起こった。また、王族や豪族が一族の繁栄を願って次々と氏寺を建立することにより、後の国家仏教の祖型がつくられた。
冠位十二階について:【冠位十二階とは】簡単にわかりやすく解説!!制度の目的&定めた人物・色の順番など | 日本史事典.com (nihonsi-jiten.com)
「十七条の憲法」全文: 聖徳太子『十七条の憲法』 全文(原文、読み下し、現代語訳) | 文系の雑学・豆知識 (culturebeanz.com)
6世紀前半以降の政治組織の整備について簡潔に説明せよ。
中央の有力貴族が大臣、大夫として政務を合議した。また、伴造が品部を率いて朝廷の職務を分担し、国造が地方支配をした。
大化の改新を説明せよ。
皇極天皇の皇居(飛鳥板蓋宮)において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変(645年)により始まる。同年内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、仏法興隆の詔の発布、高向玄理、旻の二人の国博士および内臣(中臣鎌足)・左大臣(阿部内麻呂)・右大臣(蘇我倉山田石川麻呂)の新設、私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など様々な改革が進められ、「改新の詔」も発布された。
※改新の詔…ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容。
「改新の詔」-史料日本史(0035) (chushingura.biz)
称制の内容と具体例を説明せよ。
天皇が在位していないとき、皇后、皇太子などが臨時に政務をとり行なうこと。斉明天皇の死後に中大兄皇子(天智天皇)が,天武の死後に皇后(持統天皇)が称制した。
※継体天皇→欽明天皇→…→崇峻天皇→推古天皇→舒明天皇(我が国初の勅願寺の百済大寺=吉備池廃寺を発願)→皇極天皇→孝徳天皇→斉明天皇(皇極天皇の重祚)→天智天皇→…
八色の姓の内容と狙いを説明せよ。
天皇を頂点とする身分秩序に豪族を再編成する政策であったが、実際には上位4姓しか授与されず、畿内の有力な氏族とそれ以外の豪族を区別し、前者を上級官人(貴族)の出身母体として確定して、令制下の支配層の階層構成を基礎づけるという意図があった。
古代律令国家の成立から終焉に至る過程を、その法典編纂にも触れて説明せよ。
日本では中央集権国家建設のため、唐を手本とした律令の導入が目指された。近江令(否定説もあり)、飛鳥浄御原令を経て701年の大宝律令(刑部親王・藤原不比等が編纂。文武天皇の時期)、718年に撰定、757年に施行の養老律令制定により律令国家が完成した。社会の変化に対応するため、補足修正の格や施行細則の式が制定された。しかし、公地公民の制の崩壊が明確になった9~10世紀にかけては、律令制再建のため弘仁・貞観・延喜の三大格式が編纂されたが、延喜式を最後に編纂されなくなり、律令国家は終焉した。
7世紀半ばから8世紀半ばにおける都の変遷を説明せよ。
乙巳の変の後に難波宮に移った孝徳天皇は大化の改新を進め、白村江の戦いの後に移された近江大津宮で天智天皇が即位した。壬申の乱の勝利後に飛鳥浄御原で即位した天武天皇や、最初の都城の藤原京に遷都した持統天皇のもとで律令体制が整備された。大宝律令の施行を経て、元明天皇が平城京に遷都し、聖武天皇は疫病の流行や740年の藤原広嗣の乱などを背景として、恭仁京(国分寺建立の詔)・難波・紫香楽宮(大仏造立の詔)を転々として平城京にもどった。
律令制機構を説明せよ。
律令の官制は、中央に祭祀をつかさどる神祇、国政を行う太政の二官、太政官のもとに中務(詔書作成)・式部(文官の人事)・治部(仏事・外交事務)・民部(民政・租税)・兵部(武官人事)・刑部・大蔵・宮内の八省があり、各省にはさらに多数の下級官司(被官)が従属し、それぞれ政務を分担した。官吏の綱紀を監督する弾正台、親衛軍である五衛府もあった。これらの各官司には、それぞれ長官・次官・判官・主典の四等官が置かれた。
地方は一般に国・郡・里(郷)に編成され、国司・郡司・里長がおかれた。国司は中央の官人が交替で赴任するのに対し、郡司には伝統的な在地支配者である国造などの地方豪族が任命された。主要交通路には駅馬・伝馬が置かれた。特定の地域には、都の京職、難波の津を管理する摂津職、九州地方の行政と辺防、外交事務にあたる大宰府などが置かれた。常備軍として全国に軍団が置かれ、成年男子を 1 戸につき 3 人に 1 人の割で徴兵し、交代で上京して宮門の警備をする衛士や北九州の警備である防人にあたらせた(兵士は庸・雑徭は免除で、食料・装備は自弁)。
刑罰には笞・杖・徒・流・死の五刑があり、さらに 20 等に細分された。日本律は、量刑が一般に軽減されているほかは、ほぼ唐律の規定を踏襲しており、国家および宗族の秩序を乱す罪は八虐として重いものとされた。杖罪以下の断決権は各官司が握り、地方では郡司が笞罪の断決権を握っていた。
※食封…律令制下において、皇族・高位高官者・寺社などに与えられた封禄の一つ。
※仕丁…50戸につき正丁2人を徴発し、中央政府の雑徭に使役
※出挙…春の稲を貸し出し、秋に利息(5割)とともに徴収
※戸籍は6年ごと、計帳(庸・調)は毎年
律令制における、官僚制の仕組みを説明せよ。
行政全般を管轄する太政官は、太政大臣・左右大臣・大納言などからなる公卿の合議によって進められ、その下で詔勅を起草する中務省などの八省は政務を分担した。四等官制に基づく諸官司の職には、官位相当制に従い任命された。
「令集解」の内容と、それを出した理由を説明せよ。
養老令の私撰注釈書である。「令義解」の完成後、諸家の私説が散逸することを恐れ、惟宗直本が編集した。
8 世紀半ばからから 9 世紀にかけての宮廷儀礼の変化の過程とその意義を説明せよ。
儀礼は当初日本固有の風習に基づくものであった。しかし、8 世紀半ばごろから唐の礼典の受容が進展し、宮廷における年中行事として整備された。宮廷儀礼における日本固有の風習は唐風に改められ、従来天皇の支配の正当性を支えていた神話的秩序は後退した。
律令制下の官職機構の変遷を説明せよ。
律令制下の官職は、諸官司内に四等官・品官として位置付けられ、それら諸官司が、全体として太政官を中心とする体系であった。
平安時代に入ると、様々な令外官が律令制官職を代替してゆき、特定の家による官司業務の請負も進んだ。院宮王臣家の家政機関も成長し、内部に多様な官職を生み出した。
やがて武家政権が伸長するにつれ、院宮王臣家の家政機関を原型とした官職が国家の諸機能を果たすようになり、律令制以来の官職は形骸化していった。
律令国家の地方制度の成立過程を説明せよ。
大化の改新で公地公民制が宣言され、国造の支配領域を再編して「評」が設置された。さらに天智朝に庚午年籍が作成されて人民の戸への編成が進み、天武朝には国・評・里の行政組織がすでに整っていた。大宝律令の施行により「評」が「郡」と改組され地方制度が整った。
律令の法典としての内容や特徴について説明せよ。
中国の律令は,刑罰などを定めた律,官制と人民負担など行政上の規則を定めた令の2つから成る。
律令制度の整備により、中央豪族はどのように律令官人へ編成されたか説明せよ。
中央豪族は、八色の姓によって天皇中心に格付けしなおされると共に、人民を個別に領有することを否定された。姓とは別に豪族一人ひとりが位階を与えられ、官位相当制のもとで位階にみあった官職につき、位階や官職に応じた封戸や禄を給付された。
奈良時代から平安時代初期の、公卿のありかたの変化を説明せよ。
当初、有力な氏から一人ずつ公卿が任じられた。律令政治が展開する中、公卿には行政能力や儒教的な学識求められて官僚政治家が氏の枠に関係なく任じられ、天皇権力が強化されると、天皇から個別に信任を得た皇族・貴族が公卿を占めた。
律令制では国政はどのように審議されたのか説明せよ。
太政官の公卿が国政を審議し、天皇の裁可を受けた。公卿には当初、有力氏族の氏上が就いたが、次第に官僚政治家が任じられた。
古代日本において、地方から中央政府へ上申された文書を説明せよ。
太政官への戸籍や計帳、郡司らが国司の罷免を要求した解など。
※「尾張国郡司百姓等解文」(988年)(藤原元命の悪政を訴えた)
律令制度化における地方支配を大化以前と対比せよ。
大化の改新以前の氏姓制度では、地域支配を担う国造が任じられる一方、部民を指揮・統一する伴造が任じられて中央豪族の個別的な管轄下におかれるなど、地方支配が多元的であった。
一方で、律令制度では、国・郡・里という統一的な地方支配組織が設けられた。
律令制的な租税・労役制度の特徴を,賦課の対象と内容に留意して説明せよ。
律令制のもとでは人民は戸籍・計帳への登録を通じて戸に編制され,戸ごとに租税・労役を賦課された。田地を対象とした租の比重が低く,正丁など良民男子を対象とする人頭税が中心,内容面では布などの現物や労働力の貢納を中心とする。
租と調・庸の性格の違いを説明せよ。
人身課税である庸・調・雑徭と違い、口分田・位田・功田などに課され、田1段につき稲2束2把(のち1束5把で課税率は約3%)を納める「租」は中央政府に送らず、諸国の正倉に納められて地方(国衙)の財源になった。一方で、絹布などの特産物を納めさせる「調」、京での労役の代わりに麻布を納めさせる「庸」は、国司が郡司らを指揮して、戸籍の作成を通じて組織された戸を通じて、正丁など成年男子から調や庸を徴収し、運脚により運ばれ京に納入させ、中央の財源となった。
奈良時代と平安中期で、「調」の課税の方式や納入を説明せよ。
奈良時代は、令の規定に従い、計帳に基づいて成年男子を対象として賦課され、郡司の下、戸ごとにまとめて徴収され、人民の運脚により納入された。しかし、平安時代中期には、課税単位として新たに名が編成され、名の広さを基準に賦課されるようになり、受領が税率・調達方法ともにある程度の裁量を認められ、定額納入を請け負った。
雑徭と仕丁の仕事内容を説明せよ。
●雑徭●…国司が男子を年間のうち一定日数労役につかせるもので、国郡内の水利工事、道路修築、官衙造営などに用いられた。
●仕丁●…50戸ごとに 2 人の正丁を徴発し、3 年間中央の諸役所で雑役に従わせるものであった。
※文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇(藤原四子の台頭、橘諸兄の政権を含む)→孝謙天皇→淳仁天皇(淡路廃帝)→称徳天皇(孝謙天皇の重祚。道教を寵愛)→光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇(823年に大宰府管内に公営田制を実施)→任明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇(879年に畿内に官田をおく)→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→…
律令制の時代、中央の大寺院や貴族などが、所有すると得をしたものを説明せよ。
賤民。賤民は戸籍に登録されず、課役納入の義務をもたなかったことから国家による収奪の対象外に置かれていたので、彼らを所有すると経済的に大きな特権となった。
浮浪人を簡潔に説明せよ。
本籍地を離れているが所在がわかり、庸・調を納めていた者。
三世一身の法(723年)の内容を説明せよ。
開墾奨励のために出された法で、用水路を開いて開墾した者には本人から3代、既設の用水を利用して開墾した者には本人1代に限ってその土地の私有を許した。
聖武天皇(在位724〜749)による事業を、背景とともに説明せよ。
律令国家確立期である7世紀以降、仏教への国家統一が進む一方、官寺の建立や護国経典の尊重など、仏教に対して鎮護国家の使命を果たすことへの期待が高まった。聖武天皇の頃には飢饉や疫病の流行、藤原広嗣の乱など、社会・政治の矛盾が表面化して律令国家が激しく動揺しており、聖武天皇は恭仁京以降の遷都を行うと共に、仏教の鎮護国家思想によって社会、政治の不安を鎮めようと考え、国分寺造立の事業に着手した。また、紫香楽宮で大仏造立の詔(743年)を出し、752年に奈良の毘盧遮那仏が完成した。
吉備真備が蔭位の制にも関わらず政界で活躍し、昇進できた理由を説明せよ。
貴重な人材であった。さらに、その学識をもとに孝謙天皇(重祚により称徳天皇)には皇太子時代から個人的信任を得ていた。
長屋王の変(729年)に関連する策謀を説明せよ。
政権を握った皇族勢力の長屋王に危機を感じた藤原四子は、彼を自殺させ、光明子を人臣から初の皇后にした。
★南家→武智麻呂、北家→房前、式家→宇合、京家→麻呂
藤原広嗣の乱(740年)の内容と歴史的意義を説明せよ。
大宰少弐の藤原広嗣が、左大臣の橘諸兄の政権を構成する吉備真備 ,僧正の玄昉を除こうとして,北九州で反乱を起した。鎮圧されたものの、大宰府が一時停止され,また、聖武天皇が動揺して同年に恭仁京に都が移され,後の遷都の背景となった。そして、天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺造営の直接の契機となった。
墾田永年私財法(743年)の内容と歴史的意義を、その内容における「制限」を踏まえて説明せよ。
三世一身の法を改め、位階・身分による制限面積を超えぬこと,国司の許可を得ること,許可後3年以内に開墾し終わることなどの一定の制限のもとで,墾田の永久占有を許した。墾田は急増したが,やがて荘園を発生させて荘園制の契機となり,律令制の土地公有の原則が崩壊した。
7 世紀後半~8世紀後半にかけての神祇と仏教に対する国家の姿勢を説明せよ。
天武・持統天皇…国家の安定のために神祇制度の整備や国家仏教の推進を図り、神祇と仏教は並列関係であった。
聖武天皇…仏教に鎮護国家や社会秩序の安定を期待し、天皇が災害・政情不安などを背景に出家して仏に臣従する姿勢をとるなど、仏教を神祇より上位に位置付けた。
称徳天皇…その方針が受け継がれ、神仏習合の影響が強まる中で、神を仏法を守護する存在と見なすようになった。
藤原仲麻呂の政権の特徴を説明せよ。
叔母の光明皇太后の信任を得て台頭し、自身の政治を批判した橘奈良麻呂の変(757年)も鎮圧した。さらに淳仁天皇を擁立するなど、皇太后や天皇を後ろ盾として政権を掌握した。
藤原仲麻呂が滅ぼされた、朝廷内での権力闘争を説明せよ。
後ろ盾となっていた光明皇太后が死ぬと、藤原仲麻呂は自らが擁立した淳仁天皇と確執し、道鏡を寵愛する孝謙上皇と対立して挙兵した(764年の恵美押勝の乱)が敗死した。
宇佐八幡信託事件(769年)を簡潔に説明せよ。
和気清麻呂が勅使として派遣され道鏡の弟らの謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命し,道鏡の企てを破った。
道鏡の権力掌握過程とその結末を説明せよ。
孝謙上皇の信任を得て台頭し、764年の恵美押勝の乱に勝利したのち、重祚した称徳天皇の下で法王となった。しかし皇位にはつけず、天皇の死後失脚した。
加墾禁止令の背景と内容を説明せよ。
荘園領主の拡大に伴う貧農の増加を恐れ、また仏教擁護のため、寺院・現地百姓を除き、新規の開墾を禁止した。
律令によって規定された土地・人民支配制度の特徴と崩壊と変質を説明せよ。
戸籍・計帳による人民把握を基礎に,戸を単位として口分田を支給して最低生活を保障し,成年男子を対象として人頭税を賦課した。
しかし、口分田が不足し,浮浪・逃亡や偽籍によって戸籍・計帳が形骸化すると変質した。10 世紀以降,公田が新たに名に編成され,名を単位とした支配制度が成立し、田堵に名の経営・納税を請け負わせ,名の広さに応じて土地税を賦課された。田堵は名の請負人としての立場から権利を次第に強めて、名主に成長した。
荘園制下の収取の特徴を説明せよ。
平安時代中期に班田制が終焉し,戸籍・計帳が形骸化するのにともない,租税・労役制度は名を単位とする土地税方式に転換し,名の広さに応じて官物・臨時雑役が賦課された。それを前提として,荘園制のもとでも名を単位として年貢・公事・夫役が賦課され,名を割り当てられた有力農民らが納入した。
律令制度と中世荘園制の下の地方の生産物の中央への集中を説明せよ。
律令制度では、調・庸として徴収され、人民の運脚によって中央政府に納入された。中世荘園制では、年貢・公事として徴収され、荘官などにより中央の領主へ納められる一方、年貢の代銭納が進むと、商品として中央市場に運ばれることが一般化した。
奈良時代から平安時代初期における班田制の変質を説明せよ。
口分田の不足や墾田永年私財法による初期荘園の増加により、班田の実施は次第に困難になった。桓武天皇は班田を十二年ごとに改めることによって、その再建を図ったが、その後勅旨田などの直営田が増加するなど、班田制は衰退した。10世紀初頭の延喜の治に行われた班田を最後として廃絶した。
律令制度下における天皇と太上天皇の関係を説明せよ。
太上天皇は共同統治者として天皇と同等の政治的権限をもち、天皇と太上天皇の間で確執が生じると政権分裂に発展した。平城上皇の寵愛をうけた藤原薬子が兄の仲成とと共に上皇の復位と平城京復都を実現しようと図ったが鎮圧されて式家は没落し、藤原冬嗣が蔵人頭となって,北家が台頭する契機となった平城太上天皇の変=薬子の変(810年)以降、天皇に権限が集中し、太上天皇は公的には政治的権限をもたない私的な地位へと変化して太政官組織への権限を行使しなくなった。
勘解由使の内容を簡潔に説明せよ。
令外官で、役人交代の際に前任者から後任者への引継ぎ書類の解由状を審査した職。
健児の制について説明し、それが適用されなかった地域を説明せよ。
律令に基づく軍団制は、正丁3~4人に 1 人の割合で兵士を徴発して軍団で訓練させるものであった。しかし、農民に大きな負担となり、また対外的緊張の緩みもあって兵士の質が低下し、役立たなくなっていた。蝦夷や諸外国という脅威が身近に迫る東北や九州などの地域を除いて軍団制を廃止して健児の制を設け、郡司の子弟や有力農民からの志願により少数精鋭の健児を採用した。
桓武天皇の政策と嵯峨天皇への流れを説明せよ。
浮浪・逃亡や偽籍、私度僧の増加などによって班田収授の実施が困難になるなど律令制度が実態と合わなくなっていた。仏教勢力を抑制して改革を推進した桓武天皇は、国司交代時の事務引継ぎを監督する令外官の勘解由使を設置し、班田の期間を 6 年から 12 年1班に変更。公民の疲弊に対応するため、公出挙の利息や雑徭日数の軽減を行って公民の維持を図った。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて蝦夷の征討を進め、784年の長岡京遷都、藤原種継暗殺事件を経て遷都した平安京の造営にも努めたが、善政に関する徳政論争(藤原緒嗣と菅野真道)において、蝦夷との戦争や平安京造営の二大事業が公民を苦しめているとする藤原緒嗣の意見をいれ、その中止を決定した。
徳政論争 史料 「徳政論議ー二大事業」(『日本後紀』)-史料日本史(0122) (chushingura.biz)
改革は平城・嵯峨両天皇にも引き継がれ、平城太上天皇の変に勝利した嵯峨天皇は、その過程で秘書長官にあたる蔵人頭を置き、その後平安京内の警察にあたる検非違使を設けた。弘仁格式を編纂するなど法制面での整備も進め、東北地方には文屋綿麻呂を派遣した。
嵯峨天皇の時期の意義を述べよ。
律令国家の再編、唐風化政策を進展させた時期である。文章経国思想のもと漢文学が隆盛し、漢字文化の習熟が進み勅選漢詩文集も成立した。律令を補足・修正した格や施行細則である式を分類・整理し、弘仁格式が編纂され、貞観・延喜年間に続く格式編纂の足掛かりとなり律令法の円滑な運用が可能になり、実情に即した官僚制の整備・充実が進み、天皇直属の令外官を中心とした官庁の再編、唐風を取り入れた儀礼の整備が進み、天皇の権威の強化が図られた。奈良時代ではヤマト政権以来の畿内有力氏族の系譜を引く貴族が世襲的に権力を握り、天皇家を代々支えていたが、儀礼の唐風化が進展した平安初期では、貴族・官人には 文章経国思想 の下で行政実務能力と唐風の教養が求められるようになった。
検非違使庁と蔵人所の形成過程と職務内容、その変遷を説明せよ。
検非違使庁…嵯峨天皇が設置し、京内の治安維持にあたったが、後には弾正台などの職務を吸収した。
蔵人所…平城上皇と嵯峨天皇の対立に伴う朝廷の分裂に対処するために嵯峨天皇が設置し、機密文書を扱ったが、後には朝廷内の様々な実務に関与した。
令外官が形成される歴史的背景を説明せよ。
律令制が動揺する中、桓武天皇以降、律令政治の再編成が進行した。嵯峨天皇は検非違使庁や蔵人所といった新しい天皇直属の令外官(様々な職を兼ねている)を設置し、そのもとで律令官制の統廃合を進めることで、天皇の政治的主導権を確保するとともに、財政負担の軽減を図った。
賃租を簡潔に説明せよ 。
乗田や初期荘園、位田、賜田などを賃料を取って期限付きで貸すこと。
院宮王臣家を簡潔に説明せよ。
8 世紀末~9 世紀頃、天皇と結びついて勢いを強めた少数の皇族・貴族の総称である。
承和の変(842 年)を簡潔に説明せよ。
伴健岑・橘逸勢らが謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子の恒貞親王が廃された。藤原良房の陰謀といわれる。
応天門の変(866 年)の内容と意義を簡潔に説明せよ。
応天門の炎上をめぐる事件。大納言の伴善男は左大臣の源信の仕業と唱えて処罰を主張したが、藤原良房らによってかえって伴善男の子の伴中庸の放火とされ、善男父子は遠流となり、関連した紀豊城・紀夏井も流罪された。藤原良房が正式に清和天皇の摂政になり、藤原氏の摂関政治確立へとつながった。
阿衡の紛議(887 年)の内容と意義を簡潔に説明せよ。
宇多天皇が藤原基経に与えた勅書のなかの文字「阿衡」をめぐる事件で、「阿衡」が名誉官であったところから,基経に政治から手をひかせる意味と解する説が出現し,基経は一切の政務からあえて手をひき,天皇は困惑。勅書の草稿をつくった橘広相に責任をとらせて落着した。藤原基経は関白としての政治的立場を強化した。
9世紀後半になると皇位継承をめぐるクーデターや争いが見られなくなった理由
兄弟での皇位継承から直系による安定した皇位継承に変化し、藤原北家の他氏排斥により、平安初期の文章経国思想を背景として天皇の親政を補佐した文人官僚が勢力を失い、官僚機構・大学別曹など教育設備の整備を経て、上級官僚が北家らで占められ、太政官の中枢に上る家格が固定化された。藤原氏が天皇の政務を代行し、摂関政治の基盤が整う一方、儀式書や法典編纂が進む中、公卿会議が主導していた朝廷政治が先例を踏襲する年中行事となり、政務遂行が円滑になり、争いの中心にいた天皇の存在感も薄まった。
意見十二箇条(914年)の提出者と内容を説明せよ。
三善清行。律令国家財政の衰退ぶりを具体的に指摘し地方行政上の現実的な障害除去を主張し、また、貴族の華美抑制,中級・下級官人の待遇改善および定員是正なども訴え、醍醐天皇に密封提出した。
安和の変(969年)の内容と意義を簡潔に説明せよ。
藤原氏が企てた他氏排斥の謀略事件で、右大臣の藤原師尹らが、源満仲の密告を利用して左大臣の源高明らに皇太子廃立の陰謀があるとして追放した。藤原氏を圧倒する氏族はなくなり,摂関政治が定着した。