第二次大戦終結直後の冷戦の概観(アメリカとソ連)を説明せよ。
●アメリカ…ヨーロッパにおける資本主義陣営の結束を目指して、共産主義勢力の封じ込めを宣言したトルーマン=ドクトリン、ヨーロッパ経済の復興に向けた援助計画のマーシャル=プラン、西側陣営による NATO 結成など。
●ソ連…国際共産主義運動の指導機関のコミンフォルム、東ヨーロッパの間でのコメコン設立など。
GHQの占領政策の転換の国際的背景を説明せよ。
米ソ冷戦が進展するなか,朝鮮半島に大韓民国,朝鮮民主主義人民共和国の2つの国家が成立し,中国では中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国が成立し,中国国民政府は台湾へ移った。こうした共産主義陣営の攻勢に直面したアメリカは,ロイヤル声明を機に日本を共産主義に対する防壁として重視し,民主化政策を後退させていた。朝鮮戦争が勃発すると,GHQは準軍隊組織として警察予備隊の創設を日本政府に命じた。
占領政策の転換時の賠償問題の変化を説明せよ。
●ポーレーを団長とする使節団は、日本の平和経済を維持するために、アジアの近隣諸国の水準を超える工業施設は賠償としてアジア諸国に引き渡し、日本人の生活水準をアジア諸国より高くない水準にするという厳しい賠償計画を提唱した。
●二度にわたって来日したストライク調査団は、賠償規模を縮小し、対象をおもに軍事施設に限定する報告書を作成した。(ストライク勧告)
●ドレーパー‐ジョンストン使節団は、賠償規模を第二次ストライク報告書の 3 分の 1 まで縮小することを提案した(ドレーパー報告→その他…日本経済自立のため輸出増大,インフレ抑制,経済力の集中排除緩和など)。
●一連の賠償政策の変化の背景には、ロイヤル演説にみられる経済自立による「全体主義」の防波堤づくりという認識が存在していた。
※その後、外交官ケナンの提言で、経済復興と再軍備を目指す対日政策が決定された。
ダレスの功績を説明せよ。
対日講和の促進役を引き受け,政府内の意見調整,連合国諸政府との交渉,日本政府との対話に精力的に働き,サンフランシスコ講和を実現させた。
サンフランシスコ講和会議に中国が招請されなかった理由を説明せよ。
アメリカは台湾政府を支持し、ソ連は中華人民共和国を支持したため、どちらが中国を代表する政府であるか国際的一致を見なかった。さらに米英でも意見対立があった。
※インドやビルマは参加しなかった
※ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは署名を拒否
サンフランシスコ講和条約が日本にとって寛大な講和である理由を説明せよ。
冷戦の激化や朝鮮戦争が勃発すると,日本占領を主導していたアメリカは日本を共産主義への防壁として自由に軍事利用する方針へ転換した。そのため,条約では再軍備・工業生産を制限せず,多くの国が賠償請求権を放棄した。日本は独立を回復したが、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は本土復帰までの間、米国の施政下に残った。
サンフランシスコ講和条約の締結をめぐる日本国内の講和論争を説明せよ。
政府はアメリカの意向である早期独立を実現するため、アメリカ主導の単独講和・アメリカ軍の駐留継続を認めた。一方で、社会党・総評などは中立堅持を掲げ,ソ連・中国を含む全面講和・アメリカヘの軍事基地提供反対を主張した。
サンフランシスコ講和条約の「賠償関連以外」の内容および当講和条約の問題点や外交的悪影響を説明せよ。
戦争状態が終結し、日本は個別的および集団的自衛権をもち集団的安全保障条約に参加できることになるなど主権を回復した。また、日本は朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島を放棄し、また琉球諸島と小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれた。単独講和であるサンフランシスコ講和条約では、日本の最初の交戦国である中国が、中華民国・中華人民共和国のいずれの代表も会議に招聘されず日中間の講和は後回しとなり、ソ連は、会議には参加したが、条約に中国代表が参加していないことや日本独立後もアメリカ軍が駐留することに反対して署名せず、そのため、日ソ国交回復ができなかったために領土問題や漁業権問題などの解決の道が遠のき、国連への加盟など国際機関への参加も容易には進捗しなかった。さらに、インド・ビルマという、日本と交戦したアジアの諸国が、中国の不参加を理由に会議に参加せず条約にも署名しなかった。そして、ソ連が加わっていなかったことと千島の定義が不明確であったところから北方領土問題が残り、また韓国との間には竹島問題、中国との間には尖閣問題が残った。
占領軍の撤収問題の、サンフランシスコ講和条約以後の処理を説明せよ。
サンフランシスコ平和条約の発効で連合国軍による占領は終了したが,同時に締結された日米安全保障条約により米軍の駐留は継続した。
アメリカが信託統治制度を国連に提案しなかった理由を説明せよ。
朝鮮戦争が勃発するなど、米ソを盟主とする冷戦が激化した。そのため、常任理事会で米国の提案がソ連の拒否権によって否決される可能性が高く、仮に承認されても、国連の査察を受けるのを避けたかった。
信託統治の内容を、委任統治と比較しながら説明せよ。
委任統治は施政国の統治が恣意的であり、統治された地域は事実上の植民地となる。一方で、信託統治は住民の福祉向上、自治・独立の促進を目的として設けられたものであり、国際連盟の委任統治制度を受け継ぎ、強化するものであったが、信託統治領となるか否かは国際連合の安保理での採択を必要としており、信託統治が実現した場合には、施政国は国連に年報を提出する義務を負い、信託統治理事会は年報の検討や住民の請願の受理・検討、地域の定期的視察を行うものとした。
沖縄・小笠原地域のアメリカの実際の支配の形式を説明せよ。
サンフランシスコ平和条約ではアメリカの信託統治が予定されていたが、アメリカはこれを国際連合には提案せず、領有権がなくただ立法・司法・行政の権利のみを保有する施政権下に置いた。
奄美諸島が戦後に、早期に本国に返還された理由を説明せよ。
復帰運動が沖縄よりも活発であったことに加え、軍事的・戦略的価値が沖縄などに比べ格段に低かったことがあった。また、奄美諸島を返還することによって日本の要求を部分的に満たすことと引き換えに、沖縄などの長期保有を認めさせようという思惑もあった。
吉田ドクトリンを説明せよ。
安全保障の確保を米国に依存することで軽武装を維持しながら、経済の復興・発展を最優先させることによって、国際的地位の回復を目指した戦後日本の外交の基本原則。
戦後処理問題について、政府のアプローチの変更を説明せよ。
当初、政府は米国の資金・日本の潜在工業能力・東南アジアの資源を相互補完的に結合した地域経済統合構想を表明していた。しかし、米国の消極的態度と、対日不信感が根強く残る中で東南アジア諸国の抵抗に直面したことにより、岸信介内閣期までにこうした多角的な地域主義アプローチは後退し、賠償問題の解決による二国間関係の再構築という個別的アプローチへ移行した。
プライス勧告の背景・内容・結末を説明せよ。
沖縄戦で沖縄を占領したアメリカ軍は、ハーグ陸戦法規(戦時国際法)に基づき、必要とする土地を占有した。サンフランシスコ講和条約が発効され、戦時から平時に移行したため、土地使用について法的処置が必要になり、また、軍用地の地主から地代支払いの要求も高まった。それに並行して、これまで占有していなかった土地についても新規に大規模な土地収用を開始して軍用地を拡張していったため、地主を中心に反対運動が激化した。米国民政府の軍用地料 10 年分一括払いの提示に反対が起こり、「土地を守る四原則」(一括払い反対 ・適正補償・損害賠償・新規接収反対 )を決議したが、これは非現実的だとして認めず、プライス勧告を公表した。その内容は、沖縄県民の期待に反し、現地民政府の政策を全面的に肯定し、地代の一括払い・土地買い上げの必要を勧告したものであったので、反対集会が各地で開かれ、「島ぐるみ闘争」に発展した。これに対し、米国民政府は、中部地域に軍関係者の民間地域への無期限立ち入り禁止(オフ・リミッツ)を採った。これは米軍人を顧客とする事業にとっては一種の経済封鎖となり、沖縄住民の側は譲歩を迫られる結果になった。その結果、琉球政府は米軍基地として土地を使用することを認め、米国民政府は適正価格での補償を約束して、最終的に決着した。これは、一定の譲歩を引き出すことに成功したことで、後の祖国復帰運動に多大な影響を与えた。
日米行政協定の内容と問題点を説明せよ。
安保条約の細目協定。アメリカ駐留軍施設の無償提供・分担金の負担・米軍人及びその家族の犯罪についての日本側の裁判権が認められない、国民の権利・義務に関連する重要な内容を含みながら、国会承認の手続きを経ない行政府間の取り決めとされるなど、問題点を含む条項もあった。
池田・ロバートソン会談(1953 年)の内容と意義を説明せよ。
MSA 協定締結にあたり日本とアメリカの意見の違いを調整するために開かれた会談。アメリカは同協定締結により日本が急速かつ本格的な再軍備を行うこと、完成兵器援助という形で中古品を押し付けることを主張し、日本は「なし崩しの再軍備」を主張し、同協定を経済援助的なものにすること、自主的な軍需生産を主張した。しかし、両者の対立点は解消されず、逆に教育による防衛精神の育成を約束させられ、さらにアメリカの余剰小麦買い付けを取り決めるなど、アメリカペースの会談となり、日本の再軍備と教育の反動化を推進していく契機になった。
MSA 協定の内容と、その結果としての軍事機構の改編を説明せよ。
日本は、アメリカからの軍事・経済援助を受ける代わりに、防衛力強化を義務付けられた。政府は、保安隊を陸上自衛隊、海上警備隊を海上自衛隊に改組し、新設の航空自衛隊を加え、防衛庁が管轄する自衛隊を発足させた。
余剰農産物処理法の内容を説明せよ。
アメリカの余剰生産物を輸入させ、代金をその国の通貨で支払わせ、それを積み立てて軍事・経済援助に振り向けた。
岸内閣のアジアへの経済協力を説明せよ。
アジア開発基金構想によって鉄道施設や発電施設などを対象とした対インド円借款が図られ、また海外経済協力基金が設置された。
日米地位協定の内容と問題点を説明せよ。
日米行政協定を修正・継承したものであるが、日米行政協定とは異なり,本協定は日本国憲法に基づく条約である。施設および区域の特定方法、実施機関である日米合同委員会の設置などについて規定した。基地内に日本の法律は適用されず、被疑者である米軍人の身柄は日本の検察が起訴をした後に引き渡されると規定されているため、日本側で十分な捜査ができないとの問題点があった。米軍人による少女暴行事件により、日本側の捜査権と米国側の身柄拘束権のかねあいなど,協定の見直しが要求されたが、日米両国政府は、協定の見直しには踏み込まず、重大犯罪の場合は起訴前に被疑者の身柄を日本側に引き渡すことで合意された。
ストックホルム・アピールの背景と内容を説明せよ。
ソ連の原爆保有声明と、これに対抗したトルーマン大統領の水爆製造命令など、当時の米ソを中心とした核軍備競争の拡大と、国際緊張の高まりが背景にあった。原子兵器の無条件使用禁止などを定め、全世界から 5 億の署名が集まり、日本でも,朝鮮戦争反対の運動と結んで取り組まれた。
1954 年から 1955 年にかけての原水爆問題の国際的動きを説明せよ。
1954 年にビキニ環礁で第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被ばく(久保山愛吉が死去)すると、各地で原水爆反対運動が起こり、翌年広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催された。
朝鮮戦争休戦後の1950年代の国際情勢と日本の動向を説明せよ。
休戦と共に米ソ2大陣営の緊張が緩和し、ベトナム・ラオス・カンボジアのフランスからの独立戦争であるインドシナ戦争が休戦し、ジュネーブ四巨頭会談が実現し、第三勢力も台頭し、バンドン会議が開かれるなど、平和共存を目指す動きが進んだ。日本はアメリカとの MSA 協定に基づいて自衛隊を創設し、在日アメリカ軍の負担の一部と地域防衛を分担、ソ連との国交が正常化し、国際連合への加盟が実現した。
日ソ共同宣言の背景と内容と問題点を説明せよ。
朝鮮戦争後,平和共存の時代に入り,ソ連における対日国交正常化の機運が高まった。戦争状態の終結、日本の国連加入の支持、日本人抑留者の送還、賠償請求権の放棄などが規定され、ソ連との国交回復を果たし,国際連合への加盟が実現した。領土問題では平和条約締結後の歯舞・色丹2島返還が規定されたものの,いまだ解決していない。
全文:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19561019.D1J.html
ILO87 号条約の内容および、その批准の経緯を説明せよ。
ILO が,労働条件の改善に関する国際的規制の見地から加盟国に批准を求めている条約の一つで, 結社の自由と団結権の保護に関するもの。日本の労働代表は,日本の公共企業体をきびしく制約した法が 87 号条約に抵触するとして ILO に提訴した。ドライヤー調査団を派遣し調査の結果,日本における官公労働者の罷業権の一律禁止の緩和などを求めた勧告を発表した。労働側の ILO提訴以来,自由民主党は終始同条約批准に消極的だったが,内外世論の高まりに直面して佐藤内閣の手で批准された。
日韓基本条約締結へのアメリカの介入と賠償問題を説明せよ。
ベトナム戦争への本格的介入によって財政が悪化したアメリカは、経済成長が著しい日本に韓国への経済援助を肩代わりさせるため、両国に対して国交樹立を働きかけた。賠償問題については日本が韓国に巨額の借款供与を含む経済協力を行う一方、韓国は国家として対日賠償請求権を放棄した。
全文:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19650622.T1J.html
朝鮮との間の国交正常化問題を説明せよ。
日本政府はポツダム宣言受諾により朝鮮の将来的な独立を認め,さらにサンフランシスコ講和条約で朝鮮の独立を承認した。朝鮮では冷戦を背景として韓国・北朝鮮の2つの政府が分立しており,佐藤内閣のもとで韓国と日韓基本条約を結んで朝鮮にある唯一の合法的な政府と認めたが,それは北朝鮮の反発を招いた。その後、北朝鮮とは国交の正常化をみていない。
李承晩ラインの内容を説明せよ。
1952 年に大韓民国の李承晩大統領が発した宣言に基づいて,朝鮮半島周辺の広大な水域に画された線で、韓国政府はこの線内において,大陸棚の天然資源の保護,利用のために一方的に主権を留保し,乱獲を防ぐために監督権を行使する意図を表明した。李承晩ラインの設定によって西日本の漁業は大きな打撃を受け,日韓間に竹島の領有権をめぐる紛争を招来した。(竹島帰属問題)1965 年に締結された日韓漁業協定などにより,李承晩ラインは実質的に消滅し,漁業紛争は決着したが,竹島問題は解決しなかった。
戦後の日中間の貿易のありかたの変遷について 1960 年代まで説明せよ。
1952 年の第一次貿易協定以来、民間貿易として行われていたが、第二次池田内閣は「政経分離」の方針で準政府間の方式とした。
池田内閣が政経分離を掲げた国と内容を説明せよ。
中華人民共和国との貿易を拡大し、一連の貿易自由化を推進した。この頃、台湾を唯一正当な中国政府と認めていたために困難が予想されたが、LT 貿易を開始した。
1960 年代~1970 年代の日本の対中国・台湾関係を説明せよ。
1960 年代、日本は日華平和条約により台湾・国民党政府と国交を開いており、中国・共産党政府とは正式な国交は無かった。しかし、池田内閣の政経分離の方針に基づき開始された LT 貿易が 60年代の経済発展に寄与した。70 年代に入ると、ベトナム戦争の長期化で社会主義陣営との関係改善を迫られたアメリカが中国と国交を結び、これを受けて田中内閣は日中共同声明に調印して中国との国交を正常化し、同時に台湾との国交は断絶した。福田内閣期の 78 年に日中平和友好条約が締結され、両国間の戦争状態は終結した。
中国と日本との間の戦後処理を説明せよ。
中国では国共内戦の結果,中華人民共和国が成立したが,蒋介石政権が台湾に移って対抗しており,日本はアメリカの意向に基づき,サンフランシスコ講和条約締結の直後,蒋介石政権と日華平和条約を結んだ。しかし、ベトナム戦争が進展するなかでアメリカの対中国政策が転換して米中接近が進むと日中共同声明で中華人民共和国と国交を正常化し,その後日中平和友好条約が締結された。
中国残留孤児・婦人問題の取り組みが遅れた理由を説明せよ。
サンフランシスコ講和会議に中国と中華民国の代表は招請されず、52 年の日華平和条約の調印後、日本は中国への敵視を続けた。53 年に未帰還者留守家族等援護法を施行すると、58 年には集団引き上げも打ち切った。そのため、72 年のニクソン訪中後の日中共同声明で国交回復を実現するまで、取り組みが遅れた。
中ソ対立の原因と意義を説明せよ。
フルシチョフによる平和共存提唱とスターリン批判を機に、中国はソ連を修正主義と非難し、社会主義の路線などをめぐって中国とソ連との間に緊張が生じた。財政が悪化するアメリカと中国の接近を促し、さらに中ソ対立はイデオロギーの違いに加え,国境問題や核実験停止問題などさまざまな要因が絡んで拡大した。1982 年から両国の接触が始まり,中国の実利外交,ソ連の新思考外交のもと,1989 年のゴルバチョフ書記長の訪中により両党,両国の関係は正常化した。
日中共同声明の前提となった日本側の言及を説明せよ。
日本側は、過去の戦争責任を痛感・反省する。
日中共同声明の内容と、その締結の背景を説明せよ。
日本と中華人民共和国との戦争状態を終結させ,国交を正常化した。日本側が戦争における加害責任を認めて反省する態度を表明したうえで、日本は中華人民共和国を「中国で唯一の合法政府」と認めるとともに、台湾を中国の不可分な領土であることを宣言した。これらを受けて中国側は日本に対する賠償請求権を放棄するとともに、日本側が多額の無償援助と円借款を約束することで妥協した。一方で、摩擦を避けるために尖閣諸島問題を解決しておかなかったことが、後の深刻な対立を引き起こす原因となった。中ソ対立が激化し、米ソ両大国と敵対するという危機的な状況に陥った中華人民共和国は、より切迫した危険であるソ連に対処するためにアメリカとの関係改善を図っており、一方でベトナム戦争で敗勢に立つアメリカが和平を模索して北ベトナムを支援している中華人民共和国に接近し、ニクソン大統領の訪中が実現したこと、加えて中華人民共和国が台湾の中華民国に代わって国連代表権を獲得したことが背景。
全文:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19720929.D1J.html
ベトナム戦争時に沖縄の軍事拠点化を認めたのはなぜか説明せよ。
新安保や日米地位協定を結んでいたから。
1968 年に核爆弾を搭載可能な 戦略爆撃機であるB52 がベトナムに出撃するために離陸したのちに墜落し、爆発・炎上した事故が起こったアメリカ空軍基地の名称を記せ。
嘉手納基地。
1940年頃から70年頃にかけてのベトナムと日本の関係を説明せよ。
1940年に日本はベトナム北部、翌年には南部に進駐し、敗戦後に日本は1959年
に南ベトナムと賠償協定を締結した。1965年からベトナム戦争が激化したが、日本国内の米軍基地は北爆の拠点となり、ベトナム反戦運動が激化した。
日韓基本条約、沖縄返還協定・日中共同声明のベトナム戦争との関わりを説明せよ。
北爆開始などベトナム戦争に本格介入すると、アメリカが日韓の連携強化を求めたため、日本は韓国と国交を樹立した。ベトナム戦争に在日米軍基地が利用されると、沖縄では基地反対闘争が、本土でも反戦運動が高揚した。アメリカは、1970年の新安保条約の自動更新を懸念し、反米感情の鎮静化を図って、沖縄の施政権を日本に返還した。そして、泥沼化したベトナム戦争を中国の仲介により解決するため、アメリカが中国に接近すると、これを受けて日本も中国との国交を正常化した。
佐藤=ニクソン会談(1969年)の内容、その背景と結果を説明せよ。
1960年代から活発な祖国復帰運動が始まり、1967年に佐藤内閣とジョンソン大統領の間で3年以内に返還することが約束された。その後、佐藤=ニクソン会談の結果、佐藤=ニクソン共同声明が発表され、アメリカが沖縄の施政権を日本へ返還することが合意され、「ニクソン・ドクトリン」表明以来のアメリカのアジア政策の転換を反映して「アジア地域の平和と安全」のために日本が果すべき役割の増大が確認され、「核抜き・本土並み」での返還について合意が成立した。1971 年に沖縄返還協定が結ばれ,1972年に日本復帰が実現したが、返還の代わりに、緊急時の核再持ち込みと日米繊維摩擦問題での日本側の譲歩とが取引されるという密約も交わされた。また、施政権は返還されたが米軍基地はそのまま残され、「核抜き」についての疑惑が存在して反対運動が起こった。
沖縄返還協定 全文:https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19710617.T1J.html
日米繊維交渉の内容を説明せよ。
繊維の輸出規制と沖縄返還を絡めた交渉は「糸(繊維)と縄(沖縄返還)の取引」とも呼ばれた。佐藤栄作首相は 69 年の首脳会談で、沖縄返還の約束を取り付けるとともにニクソン大統領に輸出を規制すると伝えた。いったん交渉は決裂したが、沖縄返還協定調印後、日本が規制と引き換えに繊維業界に補償することを決めて合意した。
ベトナム戦争の日本の社会運動や経済に与えた影響を説明せよ。
べ平連なども参加したベトナム反戦運動は、新左翼を中心とする全共闘運動と呼応して70年安保闘争へ連動し、沖縄では祖国復帰運動も高揚した。ベトナム特需はいざなぎ景気の要因となり、GNP は世界2位になった。財政破綻した米国が金・ドル交換停止、円切り上げを行い、ドル=ショックを起こした。
エンタープライズ寄港反対闘争を説明せよ。
ベトナム戦争中の 1968 年、日本の長崎県佐世保に世界初の原子力空母であるエンタープライズが寄港し、反戦・反核活動家らによる大規模な寄港反対運動が起こった。
沖縄の 1950 年前後から 1970 年前後に至るまでの歴史を説明せよ。
沖縄戦を経て米軍に占領され、戦後も直接軍政下におかれた。本土が独立を回復した 1950 年代以降も米国の施政権下であった。60 年代のベトナム戦争では戦略拠点とされたが、次第に祖国復帰運動が高揚し、72 年には日本に返還された。
沖縄返還の実現を促進させた事情を説明せよ。
アメリカはベトナム戦争に介入したが敗勢であり、さらにアメリカ軍の出撃拠点となっていた沖縄では,祖国復帰運動がベトナム反戦運動と結びつき,アメリカ軍基地撤去を求めて激化していた。アメリカは,施政権返還により住民の反米感情を払拭し,基地維持のコストを軽減すると同時に,極東でのアメリカの覇権を確保するため,日本の軍事的・経済的分担増大を企図した。
沖縄返還をめぐる二つの争点を説明せよ。
沖縄でのアメリカ軍基地存続と核兵器配備。「核抜き・本土並み」が合意され,沖縄にも日米安保条約が適用されて基地は存続し、核兵器持ち込みには日本が事前協議に柔軟に対応することとなり,アメリカの最大限の基地自由使用は維持された。
非核三原則(1967年)の内容を説明せよ。また、その中で形骸化した部分を指摘しろ。
佐藤栄作首相が国会答弁で述べた、核兵器を「もたず、つくらず、もち込ませず」という日本政府の方針で、佐藤栄作が 74年にノーベル平和賞を受賞した理由となった。「持たず、作らず」は日本自身の行動であるのに対し、「持ち込ませず」は特にアメリカの行動が関わっており、密約によって形骸化した。
1945 年から 1972 年までの沖縄の歴史を説明せよ。
1945 年、沖縄戦の敗北・日本の降伏後、沖縄は米軍の直接軍政下におかれ、翌年には、連合軍の間接統治下に置かれた日本本土と分離した。
1952 年、サンフランシスコ講和条約発効により日本は再独立し、琉球政府も発足したが、実態はアメリカ民政府主導による米軍支配の代行機関として機能し、沖縄は依然としてアメリカの施政権下であった。
冷戦の激化の中で、アメリカは沖縄の軍事基地の拡大を進めたため、基地収容に反対して島ぐるみ闘争が起こって、「即時・無条件・全面復帰」を求めて祖国復帰運動が高揚し、1960 年には沖縄県祖国復帰評議会が結成され、1968 年には初の琉球政府主席公選が行われ革新系の屋良朝苗が当選した。
1967 年、佐藤栄作首相とアメリカのジョンソン大統領との会談で、小笠原諸島の返還と、3 年以内の沖縄返還の決定を行うことが合意され、翌年 1968 年に小笠原諸島は返還された。
1969 年、ベトナム戦争の激化の中、アメリカは日本との関係密接化を目指し、沖縄返還へ向けての話し合いが佐藤・ニクソン会談で行われ、「核ぬき・本土なみ」の返還方針が定められた。1971 年に沖縄返還協定が結ばれ、翌年、沖縄の施政権が日本に返還され、沖縄の本土復帰が実現した。しかし、安保条約に基づくアメリカ軍による基地問題や本土との経済格差など大きな課題が残された。
主要先進国首脳会議の目的の変遷を説明せよ。
当初のサミットは,1970 年代に入って第 1 次石油危機などの諸問題に直面した先進国が,世界経済問題に対して首脳レベルでの政策協調を決定することを目的としていた。しかし1979 年末のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻事件を契機に冷戦を背景とした東西問題が新たに議題に上り、ソ連崩壊後は世界経済の諸問題と並んで,冷戦崩壊後の国際問題,南北問題,地域紛争などの世界情勢から生じる政治問題や,環境問題,麻薬・テロ対策,エイズなどの感染症対策といった地球規模の社会問題も議論された。
「福田ドクトリン=東南アジア外交三原則」の背景と内容を説明を説明せよ。
1974 年の田中角栄首相の ASEAN 歴訪の際,ジャカルタでの反日暴動など激しい反日機運が噴出したのが契機になり、従来の利潤追求型の東南アジア関係を修正し,同地域の安定的発展と相互依存を重視する姿勢を打出した。 ①日本の軍事大国化の否定,②「心と心」の通う友好関係の樹立,③対等なパートナーとして東南アジアの地域的共存と安定に寄与することなど 3 つの指針を明らかにした。第 2 次世界大戦後の日本の東南アジア外交における一つの転機となった。
覇権条項の内容を説明せよ。
中国・日本を含め、あらゆる国の覇権に反対するという内容。
覇権条項を日中平和友好条約に盛り込むことが難航した理由を説明せよ。
中ソ対立が続く中、もしもそれを盛り込めば、ソ連側から見れば日中が共同してソ連の覇権に反対していると解釈できてしまうため反発が起こり、日本国内からもソ連との関係悪化を憂慮して反対意見が起こった。結局、「第三国条項」(ソ連には関係無し。を意味する)を加えて妥協した。
日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の内容と変遷を説明せよ。
日本が他国に攻撃された際などの自衛隊と米軍の具体的な役割分担を決める政策文書である。1978年、旧ソ連の侵攻に備えて初めてつくられ、冷戦後の97年の改定では、朝鮮半島有事を想定した。
大平正芳の提唱した「総合安全保障論」とそれを提唱した背景を説明せよ。
当時,経済力が相対的に低下していたアメリカからの圧力により日本は防衛努力の増大を迫られたが,日本では長く安全保障論議がタブー視されてきたため,軍事力の整備・増大については国内世論に対して新たな安全保障概念を提示する必要があった。そこで、国家の安全保障は軍事力によってのみはかられるのではなく,外交努力や対外経済協力によって総合的に達成するものとした構想を提唱した。
大平正芳内閣の外交政策を説明せよ。
アメリカを同盟国と呼ぶなど西側陣営の一員としての日本の立場を明確にし,ソ連のアフガン侵攻に対しても積極的にアメリカの政策を支援する態度をとった。
日本がモスクワ大会をボイコットしたのはなぜか。
ソ連がアフガニスタンに侵攻したことに対してアメリカは強く抗議し、西側諸国とソ連との間に緊張が高まる中で、日本はアメリカの対応に従った。
鈴木善幸内閣の外交政策を説明せよ。
西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略に協力していく姿勢を明らかにし、レーガン大統領に日本から1000海里以内のシーレーン(海上航路)防衛を約束した。
村山談話の意義と内容と問題点を説明せよ。
植民地支配と侵略によりアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたとして、痛切な反省の意を表明した、政府からの初めての戦争への公式見解。しかし、内容が曖昧であり根拠に乏しいことや、その議案が国会議員の約半数が欠席した状況で決議され、参議院では議案の提出すら拒否されていることなどの問題点があった。
冷戦終結以降の10年間の日本の対外政策(軍事面)を説明せよ。
湾岸戦争で多国籍軍に多額の資金を援助した海部内閣は、戦後にペルシア湾に海上自衛隊の掃海部隊を派遣し、その後に人的貢献が求められる中、自衛隊の海外派遣についてはその違憲性をめぐる論争が生じたが、宮沢内閣時に PKO 協力法が成立し、自衛隊のカンボジア派兵を行った。冷戦終結後の安保体制をアジア太平洋地域の紛争への日米共同対処と再定義した日米安保共同宣言に基づき、周辺事態に対する新ガイドラインを定め、その実行のために周辺事態法を成立させた。
「周辺事態法」が成立するまでの日米の動向と同法の内容を説明せよ。
日米安保共同宣言(日米安保体制を冷戦終結の情勢に見合うものにするために安保再定義がうたわれた。具体的には、日米の防衛協力関係の対象範囲が従来の「極東」から「アジア太平洋地域」へと拡大された)に基づき新ガイドラインが合意され、その実行のために周辺事態法が制定され、日本周辺の有事の際の自衛隊の米軍後方支援、地方自治体・民間企業への協力要請などが規定された。
「ガイドライン」と「新ガイドライン」の相違点を説明せよ。
●当初のガイドライン●……有事の際の米軍と自衛隊との緊密な共同作戦行動を定め、主にソ連の脅威から日本を守ることが目的。
●新ガイドライン●…冷戦が終結すると、北朝鮮や、中国と台湾の関係悪化などにより東アジア情勢が一層不安定になったため、日本の周辺事態の危機に対処できるように行動範囲を拡大した。
小泉内閣の外交政策を説明せよ。
米国での 9.11 事件をうけてテロ対策特別措置法を制定し、訪朝して日朝平壌宣言による国交正常化に着手した。また、イラク戦争に際してイラク復興支援特別措置法を制定し,イラクに自衛隊を派遣した。
★テロ対策特別措置法の正式名称★…
「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」
アメリカの貿易赤字を是正するために日本の 2000 年以前の政策を説明せよ。
牛肉・オレンジの輸入自由化を決定した後、GATT-ウルグアイ=ラウンドで農産物の完全自由化の原則に合意し、コメ市場の部分開放に踏み切った。自動車の輸出自主規制を実施すると、自動車産業は米国などに生産拠点を移した。
沖縄県の米軍施設問題の経緯を説明せよ。
橋本龍太郎内閣時、日米両政府は基地機能の移転を条件に、普天間基地の返還を表明した。その後、辺野古へ移設する計画が進み、鳩山由紀夫内閣は県外移設を公約したが、アメリカの反発を受けて実現できず、県内移設案に戻され、政府も辺野古埋め立てを承認したが、「新基地建設反対」を公約に掲げた知事が当選し、承認取り消しを表明した。
核兵器に関する日本のジレンマを説明せよ。
日本は唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向け、核兵器廃絶に向けた決議案を毎年、国連総会に提出するなどの取り組みを続けている。しかし一方で、核・ミサイル開発を進める北朝鮮や、軍備増強を続ける中国など日本を取り巻く現在の安全保障環境下では、日本は同盟国アメリカの「核の傘」に大きく依存している状況である。そのため、核兵器禁止条約への不参加を表明するなど、核兵器廃絶に向けて実効性のある行動をとったり、提案をしたりすることができないというジレンマを抱えている。