外交史:古代/中世

4 世紀後半での倭国と高句麗との戦いで倭国が手にしたものを説明せよ。

高句麗側は騎馬軍団を使用したのでそれまで乗馬の風習がなかった倭人たちは騎馬の技術を学ぶようになり、馬具が百済や加耶などからもたらされるとともに百済・加耶の技術者を呼んで日本列島でも馬具などの生産が開始された。

古墳時代中期(4世紀後半~5世紀末)の倭国の外交関係

倭国は鉄資源確保のために朝鮮半島南部の加耶諸国と関係を持っていたが、南下する高句麗に対して百済・加羅とともに対立し、倭の軍は高句麗の騎馬軍と交戦した。倭の五王は中国の南朝に朝貢して安東大将軍などの称号を得た。


磐井の乱(527年)とその背景を説明せよ。

高句麗の圧迫を受けた新羅や百済が勢力を南に広げると、加耶は倭と結び、新羅に対抗しようした。倭は近江毛野の率いる新羅征討軍を派遣しようとしたが、新羅と結んだ筑紫国造磐井によって渡海を阻まれた。この磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧された。


倭王武の宋への遣使と推古天皇の遣隋使の中国皇帝への対し方の違いを説明せよ。

●倭王武…中国皇帝の権威に依拠して倭の諸豪族への優越性朝鮮南部への軍事指揮権を確保するために中国皇帝に朝貢し冊封を受けた

●推古天皇…政治組織の整備が進んで大王の権威が確立して、中国の冊封を受ける必要がなくなったため、隋と高句麗の敵対状態を利用して隋との対等な立場を主張して朝鮮諸国に独自に君臨しうる立場を固めようとし、朝貢関係ではあるが冊封は受けず中国皇帝と対等の立場を主張した。

※600年…多利思比孤が隋に使いを派遣


煬帝が裴世清を遣わした理由を説明せよ。

対戦中の高句麗が倭国と結びつくことを恐れたから。

608年、妹子は裴世清とともに帰国し、同年に再度使節として渡隋した。この際、高向玄理僧旻南淵請安らが留学生、学問僧として同行した。


天武・持統朝~文武朝にかけての遣唐使の派遣のありかたを説明せよ。

朝鮮半島統一をめぐり、新羅が唐と対立すると倭と新羅の使節の往来も盛んとなった。新羅を通して唐の文物の入手も可能となったこともあり、天武・持統朝は遣唐使を中断した。しかし、唐と新羅の関係が修復すると国際的孤立を恐れた文武朝は遣唐使を再開した。

遣唐使の航路の変更について背景を踏まえて説明せよ。

唐と新羅関係が安定すると、従来の朝貢形式を嫌う新羅と日本の関係は険悪化し新羅の沿岸を通る北路はとれなくなったため、南路・南島路をとらざるを得なくなった。

日本が百済を積極的に支援した理由を説明せよ。

日本は中国皇帝の冊封を受けず、独自の立場から朝鮮半島に君臨しようとしていたが、唐が中央集権体制を整え、新羅と提携して百済・高句麗へと侵攻してその立場が動揺した。そこで、日本は百済再興を通じて朝鮮諸国への優越性を回復するとともに戦争遂行を通して国内での権力集中を推進しようとした。


白村江の戦い(663年)の内容と影響を説明せよ。

唐が朝鮮半島へ侵攻し,新羅と結んで百済を滅ぼしたのに対し,倭が百済再興の救援のために朝鮮半島へ出兵したものの,白村江の戦いで敗北した。この結果,唐・新羅と倭の間で軍事的緊張が高まり,それに対する防衛政策を軸として律令国家の建設が進んだ。

中大兄皇子水城の築造や大津宮への遷都、朝鮮式古代山城を築き、北部九州沿岸には防人を配備し、即位後には初の全国的戸籍である庚午年籍の作成など、内政・国防重視の政策に転じ、唐・新羅への対抗を図った。天智天皇の没後、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は天皇中心の政治体制を樹立し、中央集権化を達成した。天武天皇は天智天皇の下で初の全国的戸籍として庚午年籍が作成されていたことを基礎に、豪族ではなく人民に基盤を置く中央集権的な軍事体制の構築を進め、その事業は持統天皇の下、庚寅年籍の作成により完成。全人民を戸に編成し、戸ごとに兵士 1 人を徴発する体制が整えられた。


白村江の戦いとそれ以後の朝鮮半島情勢の日本への影響を説明せよ。

白村江の戦いでの敗戦に伴う対外的危機に対処するため、百済の亡命貴族を登用した防衛政策を通じて中央集権化を進めた。新たに朝鮮支配をめぐって唐と新羅が対立すると、新羅を通じて先進的な知識を導入した。在地では豪族が寺院を建立するなど独自に大陸文化を受容する動きが進み、さらに文字の認識も進んだことで律令支配が浸透する素地が整備された。


8 世紀における唐・新羅と日本との関係 を説明せよ。

独自の律令法を制定した日本は建て前では唐とは独自に周辺諸国を服属させる帝国という立場をとったが、実際には唐を頂点とする国際秩序が成立しており、日本の遣唐使も皇帝に臣下の礼をとる朝貢形式に従った。

新羅については建て前では服属国として扱ったが、実際には新羅が対等な立場を主張して緊張が生じていた。一方で、頻繁な新羅使の来日は大陸文化摂取の貴重な機会になった。


遣唐使が日本にもたらした制度や文物について説明せよ。

律令法とそれに基づく中央集権的な支配体制、都市形態としての都城制、支配の正当性を示す元号や国史の編纂、貨幣の鋳造、貴族の教養としての儒教や漢詩文、鎮護国家の使命を担う仏教、国際色豊かな美術工芸品など。


国家にとって東北地方の支配がもった意味を説明せよ。

唐が拡大し、唐と新羅、唐と渤海の対立などの国際関係の変動に対応する北方ルートを確保し、さらに蝦夷の服属は律令国家の持っていた自らを中華、周辺の国家、地域を蛮国と位置付ける、唐に倣った帝国構造を構築するのに必要であった。


渤海が日本と良好な関係を維持した理由を説明せよ。

渤海は唐・新羅と対抗するため日本に接近したから。


律令国家が指向した帝国型国家の構造における矛盾を説明せよ。

日本は唐も諸蕃として捉えようとしたが、遣唐使を派遣して朝貢していたために、唐に対しては日本が蕃国の礼をとらざるを得なかった。


8世紀~9世紀前半にかけての帝国型国家の構造の変化を説明せよ。

日本は新羅・渤海を諸蕃としたが、新羅は公的な外交関係の断絶によって日本の従属下から離脱して、渤海のみが朝貢を続けた、夷荻とされた隼人・蝦夷に対しては支配領域の拡大を図りつつ、朝貢の停止や軍事的征討の終結によって内国民化していき、隼人や蝦夷などの名称は使われなくなった。


7 世紀半ば~9 世紀の東北地方に関する諸政策の意義を説明せよ。

国土の拡張を実現させたが、農民に負担が課されて公地公民制の動揺帝国構造の変質を招いた。一方で、中央・地方を問わず威信財などとして東北地方の物産への関心が高まって交易が活発化し、さらに在地に武力が蓄積され、武士団が成長する一因になった。


律令国家が渡来人をどのように利用していたか説明せよ。

滅亡した百済や高句麗の旧王族などに王姓を賜与して臣下として従わせることで、異民族を支配する帝国としての体裁を整え、渡来人を東国へ移住・集住させ、空疎地の開発を担わせた。


百済などの滅亡した王権を国内において疑似的に存続させた理由を説明せよ。

日本は倭国の時代から朝鮮半島に対して華夷意識をもって上位の立場で接しようとしていたが、白村江の戦いでの敗北により蕃国として扱うことができる国を失った。中国から継受した律令は、異民族支配を前提とする帝国主義的な理念を内包しており、律令を導入して帝国としての体裁を整えるためには、蕃夷として扱うことができる存在が必要であったため、滅亡した百済や高句麗の王権を国内において疑似的に存続させ、奉仕させることで華夷意識を満たそうとした。


藤原仲麻呂が計画した対外軍事行動を説明せよ。

新羅は唐と関係を修復すると、従属国として扱おうとする日本との対立を深めた。渤海は唐・新羅との対抗関係から日本との通行を始め、唐が安史の乱で衰退すると唐・新羅への進出の機運が高まった。藤原仲麻呂はこの機に乗じて新羅征討を計画した。


俘囚を説明せよ。

律令国家に帰属した奥羽地方の蝦夷。


俘囚の反乱としてもっとも大規模なものを説明せよ。

878 年に起こった元慶の乱。


遣唐使を廃止した理由3つを説明せよ。

①唐の混乱、衰退

②朝廷の財政難

③9世紀頃から唐や新羅の民間商人が九州に盛んに来航して大陸の文物を今まで以上にもたらすようになった。


※文物の流入の下での文化の国風化!


9・10世紀における日中間の交流を説明せよ。

●9世紀…遣唐使が派遣され、随行した最澄・空海が新たな仏教を伝えるなど唐との国交は継続したが、唐の商船が来航するようになる中で派遣中止が決定した。

●10世紀後半…宋とは正式な国交は開かれなかったが、博多に来航した宋の私商船を通じて金などが輸出され、輸入された陶磁器・書籍などの唐物は貴族に珍重された。また、宋銭が日本の貨幣経済を発達させ、大仏様などの建築様式、茶や宋学ももたらされた。日本人の渡航は原則として禁止されたが、奝然など許可された僧によって中国の文物がもたらされた。


7~9 世紀における律令国家の陸奥国支配について簡単に説明せよ。

●7 世紀…日本海側に渟足柵・磐舟柵を置き、阿倍比羅夫を派遣(658 年)して蝦夷征討にあたらせた。

●8 世紀前半…日本海側に出羽国(712年)を建て、さらに秋田城を築き、太平洋側には陸奥国府として多賀城(724年)を築いた。

●8 世紀後半~9 世紀前半…東北地方に城柵を設け、城柵の周囲には関東地方の農民を移住させて開拓を進めた。一方、帰順した蝦夷を関東以西の各地に俘囚として移住させる政策を進めたが、780 年には蝦夷の豪族の伊治呰麻呂が多賀城を襲撃し、大規模な反乱に発展した。

桓武天皇に任命された征夷大将軍の坂上田村麻呂は、蝦夷の族長の阿弖流為を降伏させ、802 年に胆沢城を築いて鎮守府を多賀城から移した。翌年には北上川の中流に志波城を築き、東北経営の前身拠点としたが、徳政論争の結果、桓武天皇は蝦夷征討事業の中止を決定した。その後、嵯峨天皇により派遣された文室綿麻呂が蝦夷征討を進めた結果、30 年余りに及ぶ戦闘が終息し、現在の岩手県北部までが律令国家の勢力下に入った。後に氾濫で大きな被害を受けた志波城は解体・移築され、811年に徳丹城が完成した(文室綿麻呂の建議)。


●9 世紀後半…878 年に、出羽国の俘囚が秋田城を襲撃する元慶の乱が起こった。

元寇で元軍が敗北した、元軍内での問題点を説明せよ。

日本に来襲したモンゴル軍の中には、モンゴルに降伏した高麗人・南宋の江南の人々が多く含まれていて、彼らの士気は高くなく、人種の異なる指揮官たちの間では内部抗争が絶えなかった。

日明貿易の推移を説明せよ。

3代将軍の足利義満は、明に朝貢して明の皇帝から日本国王の称号を与えられて朝貢形式の日明貿易が開始した。4代将軍の足利義持が朝貢形式に反対して一時中断されたが、6代将軍の足利義教により再開された。


日宋貿易と日明貿易との性格の相違について説明せよ。

日宋貿易は正式な国交に基づかない私貿易であり,民間商船が往来した。

一方で、日明貿易は正式な国交に基づいた公貿易であり,明が海禁政策をとったため,中国商人の海外渡航は禁じられ,日本の遣明船は勘合所持を義務づけられるなどの制限が加えられた。


日明貿易での幕府の収入を説明せよ。

遣明船による輸入物の国内売価の 10 分の 1 を徴収した抽分銭や、朝貢に対する皇帝からの頒賜品として得られた銅銭・生糸

★日明貿易の貿易品

輸出品…刀剣・硫黄・銅など

輸入品…銅銭・陶磁器・生糸・絹織物など。


日明貿易と日朝貿易を比較せよ。

日明貿易は、明皇帝から冊封された日本国王の朝貢にともなう形でのみ行われ、遣明船は明交付の勘合の所持を義務付けられた。

一方で、日朝貿易は将軍が対等に通行したほか、多様な人々が個別に参加し、朝鮮交付の図書を捺した文書と宗氏発行の文引の持参を義務付けられ、入港地は三浦に限り、三浦と首都の漢城に倭館を設けて交易を行った。

このように、両者は正式な国交関係の下で行われ、ともに倭寇禁圧の代償として貿易を始めたこと、統制内容は異なるものの相手国の認める枠内での貿易であり、自由な民間貿易は禁じられていた点で共通していた。


日朝貿易で宗氏が利益を得た理由を説明せよ。

宗氏は文引の発行手続きで利益を得た。

★日朝貿易の貿易品

輸出品…銅・硫黄・南海の産物・琉球貿易でもたらされた蘇木など

輸入品…木綿・綿布・書籍など。

※木綿の国産化は16世紀から


明の海禁政策について説明せよ。

民間中国人の海外渡航などの私貿易を禁じ、皇帝と国王の冊封関係を前提に、従属国が貢物を伴った使者を送って皇帝に朝見し、皇帝が返礼の品を与える朝貢貿易のみに限定する政策。


前期倭寇と後期倭寇の違いを説明せよ。

●前期倭寇…14 世紀に対馬・壱岐・肥前松浦地方の住民が主体となって活動した倭寇で、日明貿易開始に伴い足利義満が禁圧を進めると衰退した。

●後期倭寇…16 世紀半ば以降、中国人の密貿易者を主体とした倭寇であり、勘合貿易途絶後に活発化したが、秀吉の海賊取締令の発令後に衰退した。


15世紀に琉球が海外貿易に積極的に乗り出した理由を説明せよ。

琉球は産物が少なかったが、明の冊封を受け朝貢貿易を行えたので、明の海禁政策下のアジアにおいて中継貿易を行うことができた。


15世紀~16世紀半ばまで、琉球王国が栄えた理由と衰退を説明せよ。

明の海禁政策の下、明との朝貢貿易を認められた琉球王国が、明と朝鮮・日本・東南アジアの間において中継貿易を行うことができ、海洋国家として大いに栄えた。しかし、明が中国商人の海外渡航を認めるようになり、さらにポルトガル船が東アジアに進出して日明間の中継貿易に参加するようになると、琉球王国の通商上の地位は低下した。


江戸時代における薩摩藩の琉球を介した清との交易を説明せよ。

薩摩藩は、実質的に琉球王国を支配下に置いた後も対外的には琉球王国を独立国として存続させ、清から冊封を受けて朝貢貿易をおこなう冊封関係を継続。琉球との独占的な交易を通じて、薩摩藩は琉球が清との朝貢貿易によって得た清からの輸入品を入手した。


島津氏の琉球支配を説明せよ。

琉球全域で検地を行って石高を定め、刀狩の実施によって兵農分離を推し進めた薩摩藩は、農村支配を確立し、年貢米や産物の黒砂糖などを上納させた。


勘合貿易断絶後、ポルトガルが巨利を得た理由を説明せよ。

ポルトガルは、中国のマカオを拠点に日明間の中継貿易を行い、白糸を長崎に持ち込んで、日本の銀を購入して巨利を得ていた。


北海道と南西諸島の明治維新前までの歴史を説明せよ。

●北海道●…弥生時代になってもコメ作りは伝わらず、続縄文文化とよばれる食料採取文化が続き、7 世紀以降には擦文土器をともなう擦文文化が成立。

14 世紀末から 15 世紀にかけてアイヌ民族と道南に進出した和人との間で交易が行われ、津軽と畿内を結ぶ日本海航路によって、サケ・コンブなどの北方の物産が京都にもたらされた。その後両者の間にしばしば衝突が起こり、1457 年のコシャマインの戦いを鎮圧した蠣崎氏は道南を支配して江戸時代には松前氏を名乗って大名となった。松前氏は徳川家康からアイヌとの交易の独占権を公認されたが、交易の独占権を背景に、交易を蝦夷地全域に拡大する中でアイヌと対立し、1669 年、シャクシャインの戦いが発生した。それまで対等な交易相手という関係にあったアイヌは、敗北により松前藩に全面的に服従することを余儀なくされた。


●南西諸島●…漁労中心の貝塚文化が平安時代前期まで続き、11 世紀頃からグスクを根拠地として按司と称する首長が支配を進めた。

14世紀になると、按司の連合から沖縄本島に中山・北山・南山の 3 王国が並立する三山の時代を迎え、1429 年、中山王の尚巴志によって琉球は統一され、琉球王国が成立。琉球王国は明に朝貢すると共に、日本・朝鮮だけでなく東南アジア全域へ貿易船を派遣し中継貿易で繁栄。16 世紀後半以降、ポルトガルなどヨーロッパ勢力が東アジアへ進出すると貿易は衰退。1609 年、琉球は薩摩藩の島津氏に武力で征服されて薩摩藩領となり、謝恩使・慶賀使を幕府の下に派遣したが、他方で中国の冊封を受けて朝貢貿易を行う関係も維持した。


607 年・894 年・1401 年の日本の対外関係史上重要な出来事を説明せよ。

推古天皇のもとで中央行政機構の編成が進められる中、607 年に小野妹子が遣隋使として中国へ渡り、倭の五王時代の服属外交から対等外交の確立を目指した。

唐の衰退に伴い、894 年菅原道真は遣隋使派遣を停止した。これを受け日本ではそれまでの大陸文化の消化の上に立って、日本の風土や日本人の人情・嗜好にかなった優雅で洗練された国風文化が生まれた。

13 世紀後半に起きた元寇以来中国大陸と日本の間に正式な外交関係はなかったが、足利義満が 1401 年に明と国交を開いた。日明貿易は朝貢貿易の形式をとっており、貿易費用は明側が負担したため日本側の利益は大きく、また大量に輸入された銅銭は日本の貨幣経済の発展をもたらした。


応永の外寇(1419 年)の内容と背景を説明せよ。

倭寇の禁止や日朝貿易に積極的であった対馬の宗貞盛が死去し、倭寇の活動が活発になったため、朝鮮は対馬が倭寇の本拠地と考え、襲撃した。


応永の外寇後の日朝の交渉を説明せよ。

室町幕府では,この事件後、無涯亮倪を朝鮮に派遣して大蔵経の入手を名目に実情をさぐらせた。朝鮮側ではこれに対して,回礼使宋希璟を日本に送った。


嘉吉条約=癸亥約条(1443 年)の内容を説明せよ。

①歳遣船は年 50 隻に限定②通信符を用いて貿易を行う③貿易港は三浦(塩浦・富山浦・及而浦)に限定


1510 年、1592 年の日本の関係・交流を説明せよ。

15 世紀には室町幕府と朝鮮の間に国交が成立し,対馬の宗氏の管理下に貿易が行われたが,1510 年,三浦居住の日本人が反乱を起こした三浦の乱以降,貿易は次第に衰微した。


1592 年以降,明征服を企てた豊臣政権が2度にわたる出兵を行ったため,両国の国交関係は途絶した。


壬申約条(1512)の背景と内容を説明せよ。

日本と朝鮮との間に成立した通交関係の条約。1510 年に、三浦(乃而浦・釜山浦・塩浦)に住んでいた日本人(恒居倭)が、朝鮮側の貿易統制と居住権圧迫に対し、対馬島主宗盛順の援助を得て三浦の乱を起こして以来、日本と朝鮮の関係は断絶していた。宗氏が朝鮮に出す歳遣船を 25 隻に半減、往来は乃而浦に限定するなどを規定。


寧波の乱(1523 年)を説明せよ。

細川氏大内氏の遣明船の入明に際し,寧波で引起された武闘事件。細川氏と大内氏は日明貿易の利益をめぐって鋭く対立し,これに大内氏と結ぶ博多商人と細川氏につながる堺商人の利害の対立がからんでいた。その後、大内氏が貿易を独占し、以後の遣明船貿易にはきびしい規制措置がとられるにいたった