三大・藩政改革以外

戦国大名が城下町に家臣を住まわせた理由とそのようになった背景を説明せよ。

検地を通して武士・百姓関係を確定し直して兵農分離を行った結果、武士身分として家臣に編成した人々を城下町に集住させ、直接監視下に置いて統制を強化しつつ迅速な軍事動員を確保し、在地から彼らを切り離すことで百姓の直接的支配を図った。


喧嘩両成敗法の内容と目的を説明せよ。

戦国大名の許可のない実力行使に対して理由に関わらず双方ともに処罰し,紛争処理を戦国大名の裁判に委ねさせようとするもの。家臣間の私闘が分国支配の弱体化につながることを防ぐと共に、戦国大名が家臣の争いの裁判権を握り、自らを公権力として位置付けることを目的とした。


下剋上とは。またその具体例説明せよ。

下位の者が上位の者を実力で圧倒すること。将軍足利義澄が管領の細川政元に追放され,その細川氏(細川晴元)は家臣三好長慶に,三好氏はその家臣松永久秀(将軍足利義輝を襲って自殺させた)に権力を奪取された。


寄親・寄子制の背景と内容を説明せよ。

戦国大名の軍事組織構成方法の一つであり、惣領制がくずれ大名領国制が展開して単独相続制が普遍化するにつれ,惣領に代るべき組織の必要性から生れた。寄親と寄子の間には封建的主従関係はなく,平時は訴訟手続上寄親を媒介者とし,戦時は寄子が寄親の指揮下で統率した。


戦国大名の領国支配の過渡的特徴を説明せよ。

①戦国大名は中世の武士団支配に倣った寄親・寄子制を採用し、家臣団に組み入れた地侍を有力家臣の元で組織化し、近世の家臣団支配へも継承された。

②各大名が制定した分国法には、幕府法や公家法を継承した法とともに、国人一揆の規約を吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格であり、江戸幕府が作成した武家諸法度に影響した。

③農民政策では中世の地下請を継承し、農民らの申告に基づく指出検地(過少申告も多く、基準も統一されていなかった)を行って土地の面積や年貢高を把握し、検地帳に登録することで農民支配を強化したうえで、村全体で年貢を一括納入する村請が採用し、近世でも継承された。

④城下町には中世で経済力をつけた商工業者が集められ、近世の領国における統一的経済圏形成の基礎が確立した。

織田信長の武力討伐および経済政策の過程を説明せよ。

●武力討伐●…今川義元(桶狭間の戦い)、美濃の斎藤氏(稲葉山城の戦い)を滅ぼした。その後、足利義昭を擁して上洛し、浅井・朝倉氏(姉川の戦い)およびこれと結ぶ比叡山を撃破した。義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、武田勝頼(長篠合戦)を破った。石山本願寺と和議(正親町天皇の仲介)を結び、毛利氏征討を進めたが、明智光秀に本能寺の変で攻められ、全国統一の業半ばで倒れた。


●経済政策…安土城を築き、また関所の撤廃楽市楽座・検地等の革新政策を行った。


※信長への一向一揆…長島一向一揆・越前一向一揆


楽市令の意図、及び楽市令が民衆世界に与えた影響を説明せよ。

神仏が支配する聖域では商行為は平等とする観念が民衆の中に存在し、門前町や寺内町に楽市が形成された。楽市令は、既存の楽市を保障し座を否定して新興商人を集め、外界の債務関係や敵対関係を持ち込んで平和的商取引を阻害するような行為を禁じ、城下を繁栄させる政策として出された。しかし、権力による保障により「無縁」の原理(主従関係、親族関係をはじめとする世俗の私的な支配に拘束されない状態)は消滅した。


信長のキリスト教に対する対応を説明せよ。

仏教勢力に対抗させるために宣教師を保護し、コレジオ(宣教師養成学校。府内→天草・長崎)やセミナリオ(神学校。安土・有馬)、南蛮寺の建設を許可した。


安土宗論を簡潔に説明せよ。

織田信長の命によって安土城下浄厳院で行われた浄土宗と日蓮宗の宗論。浄土宗側の勝ちとされ、日蓮宗側は詫び証文を出し、厳しく処罰した。日蓮宗を弾圧するためのものとされる。


豊臣秀吉の天下統一までの過程と政策を説明せよ。

本能寺の変後,明智光秀(山崎の戦い)、柴田勝家(賤ヶ岳の戦い)を倒し,信長の後継者としての地位を獲得した。家康と講和した小牧・長久手の戦い根来・雑賀一揆を鎮めて紀伊を平定し、四国征伐(長宗我部元親)・九州征伐(島津義久)を行った。1590 年に小田原北条氏を滅ぼして天下統一をした。文禄・慶長の役で朝鮮に軍を送ったが失敗した。この間1585 年関白,1586 年太政大臣となり豊臣の姓を賜った。織田信長の政策をほぼ継承するが,太閤検地の施行,刀狩などの画期的な新政策で近世封建社会の基礎を確立した。


惣無事令を簡潔に説明せよ。

豊臣秀吉は戦国大名間の戦争(領土紛争)を私戦と断じ,私戦禁止令(大名の平和令)を出し,受諾した大名については領土を認め地位を保障した。


五大老・五奉行を説明せよ。

●五大老…五奉行の上に位する職制で,政務を統轄、当初は,徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景がこれに任じられたが,小早川隆景の死後は,上杉景勝が加えられた。

●五奉行…前田玄以,浅野長政,石田三成,増田長盛,長束正家の 5 人


九州の戦国大名のキリスト教に対する対応を説明せよ。

布教活動と一体化した貿易の利益を求め、宣教師の布教活動を保護して自ら洗礼を受けたり、他の大名との対抗から領地をイエズス会に寄進したりする大名もいたが、宣教師を領外に退去させて領国経営の安定をめざす大名も現れた。


人掃令の内容を説明せよ。

豊臣秀次の指令によって全国一斉に行われた家数・人数の調査である。明征服に向けて朝鮮侵略を準備するため,武家奉公人が百姓や町人になることや無断で奉公先を変えること,百姓が田畑を捨てて商人・職人になることなどを禁じ,武家奉公人と百姓を確保しようとした。全国の戸口調査を命じ、村ごとに人別を書き上げさせ、他国他郷の者の在住を禁じた。


中世後期の武士・百姓の身分の未分化の状態を説明せよ。

国人など武士の多くは在地領主として村落を支配して農業経営にも従事し、百姓は惣村を母胎に一揆を形成して武装し,なかには武士身分を獲得して地侍となる者もいた。


御前帳と国絵図を説明せよ。

豊臣秀吉が叡覧にそなえるという名目で作成・提出を命じた日本全国の御前帳(石高が記されていて、朝鮮出兵での軍役負担の基礎台帳となった)と国絵図などによって,国土の全体が把握され,国郡制的な行政単位によって国内の境が整理された。江戸幕府もまたそれを継承し,おもなものだけでも慶長・正保・元禄・天保の各時期に国絵図と郷帳を徴収した。

家康は征夷大将軍に任命されることで何を得たか。

全武士を指揮・統率することの正当性。


家康が大船禁止令を出した理由とその変遷を説明せよ。

大阪城の秀頼を孤立させるため、関ケ原の戦いで東軍につき、領地を加増された西国の豊臣系大名を主な対象にして軍事力を抑制しようとした。幕末には海防上の必要から全面的に解禁となり,幕府も諸大名も海軍軍船の建造に努め,海軍力の増強を急いだ。


方広寺及び大仏と政治の関わりを説明せよ。

●豊臣政権は刀狩令を発して百姓から武器を没収する際,方広寺大仏造営のための釘やかすがいなどに利用することを口実にした。

●豊臣秀頼により鋳造された方広寺の鐘銘は,徳川家康により大坂の陣の口実になった。


禁中并公家諸法度(1615年)の起草者及びそれを制定した目的と内容を説明せよ。

金地院崇伝。江戸幕府が天皇と公家の行動を規制するため、朝廷が独自に政治権力をふるったり,大名と個別的に結びつくことを防止するために制定された。朝廷には伝統的な儀礼を通じて幕府を権威づけ,その支配を正統化する役割が求められ、各家が継承してきた学問に努めることや武家の官位を公家のそれの員数外とすること(武家に対する官位叙任権を幕府が実質的に掌握)や紫衣勅許の条件などについて定めている。


江戸幕府が求めた朝廷の役割を説明せよ。

江戸幕府は、朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、上洛と内裏への参内によってその事実を諸大名に示してすべての武士の指揮権を正当化し、天皇の勅許による徳川家康の神格化を通じて将軍権威の高揚を図り、武家への官位叙任権を掌握して大名・旗本らの統制に役立つことを期待し、一方で最低限の禁裏御料を保障した。朝廷儀式の再興を認めて滞りなく遂行することを求め、公家衆法度、禁中並公家諸法度により、後退していた朝廷の権威の立て直しとその保持を図った。


江戸幕府の朝廷の統制を説明せよ。

譜代大名を中心とした京都所司代に朝廷を監視させ、公家衆法度・禁中並公家諸法度を定めて公家・天皇の守るべき規範を示した。紫衣事件を通じて幕府の法度が天皇の意思に優越することを明示し、関白と三公に朝廷での主導権を与えた。京都所司代・老中との連携により朝廷・公家に大きな影響力をもち朝幕間の事務連絡にあたる公家である武家伝奏を通じて操作した。

家康や秀忠が上洛を頻繁に繰り返した理由を説明せよ。

軍事動員権を実際に発動することを通じて諸大名との主従関係を形成し、朝廷への軍事的なデモンストレーションを企図した。


元和偃武を説明せよ。

大坂の陣が終り豊臣氏の滅亡後平和な時代になったこと。島原の乱や,由井正雪の乱など政情不安はあったが,幕藩体制そのものをゆるがすような大規模な反乱はみられなかった。


豊臣政権と対比した徳川幕府の対朝廷政策の特徴を説明せよ。

●豊臣秀吉●…関白に就任して天皇から全国支配権をゆだねられたと称したり,聚楽第への後陽成天皇の行幸をうけ,諸大名に対して天皇と秀吉への忠誠を誓わせたりしたように,朝廷の官職や天皇に依拠しながら統一政権を樹立した。

●徳川幕府●…諸大名に対する統率権を正統化するために朝廷の権威を利用したものの,天皇の学問専念を規定して朝廷を政治権力から遠ざけた

紫衣事件(1629年)の内容を説明せよ。

後水尾天皇による紫衣勅許の乱発を幕府が非難したのに対し,大徳寺の僧沢庵宗彭らが抗議すると,幕府は彼らを処罰するとともに,幕府の許可なく着用されていた紫衣を剥奪した。幕府の法度が天皇の意思に優越することが明示された。

18 世紀以降の江戸幕府の朝廷統制の変化を説明せよ。

●18 世紀後半●…摂家主導の朝廷統制が緩む中で宝暦事件が生じ、尊号事件では光格天皇と武家伝奏を含む公家とが一体となって幕府と対立した。

●19 世紀半ば●…条約勅許問題では孝明天皇が公家と一体となって幕府の勅許要請を拒否し、江戸幕府の朝廷統制は崩壊した。


島原の乱(1637年)の背景と内容を説明せよ。

肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆。松倉氏は農民に対して過重な年貢の負担を強制し,滞納する者には過酷な刑罰を課し、江戸幕府の禁教政策におけるこの地方のキリシタン弾圧は特にきびしかった。代官と農民の衝突をきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起し、これに商人,手工業者,船頭なども加わり,さらに天草の農民がこれに呼応して蜂起し,益田四郎時貞が首領に推された。一揆は松倉藩兵を破り城代家老を戦死させ原城にたてこもり、幕府は総攻撃をかけたが落ちず,板倉重昌は戦死。幕府は,老中松平信綱(「知恵伊豆」といわれた)を派遣し、兵糧攻めや,一時的ではあったがオランダ商船『レイプ』号に依頼して海上から砲撃させるなどし、幕府軍の総攻撃によって陥落した。以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。

原城包囲の図 引用元:Wikipedia


勘定奉行の職掌3つを説明せよ。

幕府財政の運営、関八州と天領の訴訟、天領からの租税徴収。


大名知行制の内容と変遷を説明せよ。

石高を基準に知行給付し、知行高を基準に軍役を賦課する体制のこと。17 世紀中葉の初期藩政改革を画期として、藩がその直轄地(蔵入地),給人知行地を含めて,所領内の農民支配を一元的に掌握して年貢を取り,大名家臣にはその知行高に応じて,藩が年貢米を支給する俸禄制へ移行した。


江戸幕府による大名への統制とそれに対する彼らの自立性を説明せよ。

石高に基づく統一的な知行・軍役の体系の下に大名を組み込み、一国一城令により居城以外の城郭の破却を命じ、武家諸法度により武芸の鍛錬・居城の修築の許可制・新規の築城の禁止など大名の守るべき規範を示して大名を統制した。

大名は独自の領地と年貢収納権を持ち、領内統治の自由裁量をある程度認められると共に独自の軍隊を常備するなど自立性を保持した。


●武家諸法度●

元和令→金地院崇伝
★寛永令→林羅山(参勤交代・大船建造の禁)
天和令(文治主義)


武家諸法度において、私婚の禁止をした理由を説明せよ。

婚姻を通じて大名同士が提携し、幕府に反抗することを警戒した。

江戸幕府の政治機構と明治憲法体制下のそれを比較せよ。

●江戸幕府●…寺社と寺社領は寺社奉行が、江戸の町方は町奉行が、幕領と幕府財政は勘定奉行など、対象ごとに職務が分担されたが、行政・立法・司法は分離されず、役職は武士身分が独占。運営については月番制合議制で、同一の権限を持つ複数の者が月番交代で日常的な政務・裁判を担当することで権力を分散させるとともに、重要な案件は合議を行って処理し、複数の役職にまたがる問題は評定所で老中・三奉行らによって評決した。

●明治憲法体制●…行政・立法・司法が実質的に分立、一部を除いて能力や財産があれば一般人民にも任用・関与の機会があった。


江戸幕府の職制を説明せよ。

老中を設け,これに複数の譜代大名をあて常時の最高職とし,非常時にはその上に大老を置いた。老中補佐のための若年寄,大名の観察のために大目付を置くほか,寺社奉行や,町奉行(江戸の行政・司法、配下に与力・同心),勘定奉行を置き,重要な訴訟は三奉行を集めた評定所で行った。京都に所司代,大坂に城代を置くほか,各都市に町奉行を置き,幕府直轄地には郡代と代官を配置した。道中奉行や、佐渡・長崎・山田・日光などに遠国奉行もおいた。

①将軍

大老・老中・(側用人)・若年寄・寺社奉行・京都所司代・大坂城代

③老中の配下→勘定奉行・町奉行・城代・大目付、若年寄の配下→目付

④勘定奉行の配下→郡代・代官

※②は譜代大名から、③は旗本から


江戸時代に統一的な軍事動員を可能にした制度を説明せよ。

江戸時代は土地の価値を米建てで統一的に表示する石高制を基盤とし、武士間の主従関係と武士による百姓支配が石高という基準の下で統一的に把握した。武士は主君から石高の知行を保障され、石高に見合った軍役を負担し、百姓は検地により田畑・屋敷地の所持を保障され、石高に応じた年貢や陣夫役を村ごとに負担した。


郡代と代官の違いを説明せよ。

管轄区域の広大なもの,枢要の地,大藩付近の地,もしくは支配地 10 万石以上を郡代,以下を代官と称した。


※代官の職務…耕地調査・年貢徴収などの民政面と訴訟面


明治初期までの3回の戸籍の歴史のうち2回目を説明せよ。

キリスト教禁止の徹底を目的として、全ての人がいずれかの寺院の檀徒になるものとした寺檀制度を基盤に、幕府の宗門改めにより寺院ごとに宗門人別改帳を作成した。


※1回目と2回目の戸籍作成の空白期間→荘園領主や在地領主が地方分権的に支配した


寺檀制度と寺請制度を説明せよ。

●寺檀制度●…すべての人がどこかの仏教寺院を檀那寺とし,その寺院の檀家(檀那)となる制度。

●寺請制度●…キリスト教など禁制の宗教を徹底して禁圧するため,寺院に人々が自らの檀家であることを証明させる制度。


江戸幕府の宗教統制とその方法について説明せよ。

江戸幕府は、本山・末寺の制の整備や諸宗寺院法度の制定により寺院を統制した。切支丹や日蓮宗不受不施派の禁圧を目的に、寺請制度を設けて宗門改を実施し、民衆をいずれかの寺院の檀家とする寺檀制度を確立した。宗旨と檀那寺を記した宗門改帳は戸籍の役割を果たして人民支配に利用され、寺院は婚姻などに際し、寺請証文を発行し、檀家の身元証明を行うなど、民衆支配の末端を担った。


寺請制度において、檀那寺の変更が寺院に与えたデメリットを説明せよ。

寺院の経営は檀徒の布施に依存する部分が多く、檀那寺の変更は、安定した寺院経営に支障をきたす恐れがあった。


「諸社禰宜神主法度」の内容を説明せよ。

全国の神社に対し、社領の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づけた。


参勤交代の背景を説明せよ。

元和偃武は、幕府が諸大名に対して軍役を課し、軍事動員する機会、つまり忠誠を確かめる機会が少なくなっていた。参勤交代が軍役に準ずる奉公で、諸大名の将軍に対する忠誠を示す儀礼であった。


参勤交代が大名に定期的な国元在住を認めた理由を説明せよ。

それまで幕府が諸大名に対して手伝普請を繰り返し命じた結果、その負担が領内の百姓へ転嫁され、百姓経営の疲弊や逃亡の増加を招いていたことで年貢の安定的確保が動揺した。この事態を防ぐために各大名に領内経営の安定化を命じた。

参勤交代の目的・内容・変遷・社会的影響を説明せよ。

寛永の武家諸法度により制度化された参勤交代は、国元と江戸とを原則として 1 年交替で大名に往復させ、妻子の江戸居住を強制するものであった。主従関係の確認や軍役の意味を持ち、幕藩体制を安定させる役割を果たした

●享保の改革●…上げ米が命じられた時期は在府期間が半減された。

●文久の改革●… 3 年に 1 回となり、大名統制策としての機能が後退した。

この間、交通の発達や文化の交流、大都市としての江戸の発展を促す一方、藩財政を圧迫した。

参勤交代の様子 引用元:参勤交代とは実際どのようなものだったか?参勤交代にまつわる「ちょっと意外なホントの話」5選 | ライフハックアナライザ (lifehack-analyzer.com)

※参勤交代では、経費節約のためにそのために雇われた人々もいた。

赤穂事件とそれに関する論争を説明せよ。

旧赤穂藩士の大石良雄らが、吉良義央の邸内に乱入して義央の首級をあげて,旧藩主の浅野長矩の仇をはらした事件である。浪士らの処分について、その挙を忠義とするか,罪とするかをめぐって将軍から庶民までを巻き込んで,江戸時代最大の論争になった。林大学頭信篤や室鳩巣らは復讐を義とする考えから彼らを義人とみたが,一方で佐藤直方らはこの論に反対した。荻生徂徠は,私論では忠義,公論では罪人とみてその義人,義士論を批判した。この事件は「忠臣蔵」として民衆に愛好された。

武断政治から文治政治へと変化を起こした、社会状況の変化を説明せよ。

武士の主従関係が本人一代限りの関係から家同士の永続的な関係へと変化、軍役の村々への転嫁により村々の百姓が疲弊していた。幕府は大名や朝廷との関係よりも地域統治・人民支配の安定化に重点を置き始め、戦乱が終焉する中、武士には百姓経営の維持・安定など統治を担う為政者としての役割が求められるようになった


末期養子の禁の内容とその理由を説明せよ。

武家の相続について、跡継ぎがなく養子をとる場合は当主存命中に前もって許可を得なければならず、臨終に際して申請しても認めないもの。主従関係は本来は個人間の契約関係であり、本人の意思の確認が困難な末期養子を認めてまで大名家を存続させる必要はなく、さらに後継ぎの決定をめぐる御家騒動を回避しようとする意図もあったから。


末期養子の禁止を緩和した目的とその内容を説明せよ。

大名の改易などにより生じた多数の牢人が社会不安を招いていた。牢人の発生を防ぐために今後は当主が死に臨んだ時、その当主が 50 歳未満の場合は末期養子を入れて家の存続をはかることを許可した。


下剋上の可能性を皆無にした政策を説明せよ。

家綱は、殉死を否定した上に罰し、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務付けた。そして、主人個人に奉公するこれまでの考え方を改め、主人の家に忠誠を尽くすことが望まれた。

徳川家綱の政治を説明せよ。

慶安事件=由井正雪の乱を背景として末期養子の禁を緩和し、社会不安を招いていた牢人の増加を防止した。また、殉死の禁止をして主従関係を固定化し、主君から家臣に与えた、知行の割当てを示してその知行の権利を保証した文書である領知宛行状を発給して将軍の権威を確認した。こうして武断政治から文治政治への転換点を迎えた。


徳川綱吉の政治を簡潔に説明せよ。

武家諸法度の第1条の「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」を改めて、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」とした。また、柳沢吉保を側用人として登用し、湯島聖堂を建てて林信篤を大学頭に任命した。さらに将軍の権威を高め、かつ平和な秩序を維持するために、天皇·朝廷の権威を利用し、前代にみられた伊勢例幣使や石清水八幡宮放生会の再興に続いて、大嘗会や賀茂葵祭など朝廷の儀式を復活させ、山陵の修理や禁裏御料の増献を行った。歌学方に北村季吟、天文方に渋川春海をつけ、生類憐みの令を制定し、財政収入増の方策として荻原重秀による元禄小判への改鋳を行ったが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこし、人々の生活は圧迫された。また、かぶき者の集団(大小神祇組)を逮捕した。そして、戦国以来の武力に頼って上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令と服忌令の二つの法令を出すことで、社会全体の価値観ごと変化させた。護国寺・護持院など寺社を建立した。富士山が大噴火の復興のために、全国から諸国高役金を徴収した。

伝徳川綱吉像(土佐光起筆 徳川美術館蔵)引用元:Wikipedia


綱吉の時期の幕府財政を説明せよ。

江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。

元禄金銀への改鋳の目的を説明せよ。

金銀産出量が減少する中、貨幣量を増やすことや、極印が見にくい貨幣の一掃などを掲げていたが、真の狙いは改鋳益金(出目)による財政赤字の補填にあった。しかし、経済の規模に見合った貨幣量の増加を実現したという意義もあった。


新井白石の政治=正徳の治を説明せよ。

朝幕関係の融和をはかり、天皇家の直系が断絶することを避けるために新しく閑院宮家を創設した。外交面では朝鮮使節への待遇を簡素化し、さらに朝鮮からの親書における将軍の表記を「日本国大君」から「日本国王」へ改めさせて将軍が天皇と混同されることを防ぎ、将軍の体面を保とうとした。また、来航する船数と貿易額を制限して銀の流出を抑制するために海舶互市新例を発布した。経済面では財政再建のため良質貨幣の正徳金銀を鋳造,勘定吟味役を再置した。しかし、貨幣改鋳も効果は少なく,極端な文治主義に対する幕臣の反対も多く,根本的な経済政策を欠いた。

新井白石肖像 引用元:Wikipedia


閑院宮家を創設した理由を説明せよ。

朱子学的にも皇室の存続を重視していたが、宮家は伏見・桂・有栖川の3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家して門跡寺院に入室している状態を少しでも改善しようとして、世襲親王家を増やそうとしたから。


借り上げを説明せよ。

江戸時代、各藩で財政に困窮して、家臣から借りる形式で、俸禄を減らしたこと。


尊号一件(1789年)の内容と歴史的意義を説明せよ。

光格天皇が父の閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとして,幕府の老中松平定信に反対された事件。君臣の名分を私情によって動かすべきではないという理由であったが、大義名分論と反するとして当時の尊王思想に少なからず影響を与え、幕府と朝廷の協調関係の崩壊を示し、さらに家斉と定信の対立に発展して定信失脚の一因ともなった。


大義名分論を簡潔に説明せよ。

江戸時代末期に強く説かれた、君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序や礼節を重んじる思想。


江戸時代の封建社会の理論的支柱を説明せよ。

上の立場である幕府や藩主にとって非常に都合が良かったため、大義名分のもとに礼節や上下関係を重視する朱子学が理論的支柱となった。


宝暦事件(1758年)を説明せよ。

竹内式部が復古派の公家衆に神書・儒書を講じ、武技を教えたという理由で朝廷統制の責任を持つ摂家によって処分された事件。


明和事件(1767年)を説明せよ。

宝暦事件で逃れた藤井右門山県大弐と甲府・江戸城攻撃の軍略を述べたことなどを理由に、両人が死刑、竹内式部も流刑となった事件。


大塩平八郎の乱(1837年)の内容と意義を説明せよ。

天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した幕政の改革を訴え、門弟の武士や農民らを率いて蜂起した。この乱は、幕政の直轄の都市大坂で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が主謀したことによりその影響は大きかった。幕政担当者はこれを契機に天保の改革に取り組む。生田万の乱などの連鎖反応も生じた。

「大塩平八郎像」菊池容斎 – 大阪城天守閣蔵 引用元:Wikipedia


江戸幕府の蘭学政策とその政策が蘭学に与えた影響を説明せよ。

享保期に吉宗が実学奨励にため漢訳洋書輸入の禁を緩和し、青木昆陽らに蘭学を学ばせたことが蘭学興隆の契機となり、田沼期に解体新書が刊行されて以降、蘭学は医学や天文学など多分野で盛んになった。対外危機が迫ると、幕府は蘭学の政治利用を図り海外情報の摂取を目指し、蘭書の翻訳局である蛮書和解御用を設置する一方、蘭学者の幕政批判は蛮社の獄などで弾圧し、蘭学の発展は医学・兵学などの実用の分野に限定された。


江戸時代後期の蘭学の展開とそれに対する幕府の対応を説明せよ。

医学などの実学として蘭学が広まると、幕府は高橋景保の建議で蛮書和解御用を置くなど蘭学を保護したが、蛮社の獄など幕政の批判につながると抑圧する動きも強めた。

蛮書和解御用では、フランス人ショメールの百科事典の蘭訳本から「厚生新編」が翻訳された。


桜田・坂下門外の変による幕府と朝廷の関係の変化を説明せよ。

幕閣独裁を進めた大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると,幕府と朝廷の和解をはかって幕府権威を立て直そうとする動きが強まったが,老中安藤信正が坂下門外の変で襲撃をうけて失脚し,朝廷の幕府に対する発言力が拡大した

「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」大判六枚続  月岡芳年画 引用元:Wikipedia


将軍継嗣問題とその後に井伊直弼がとった方針を説明せよ。

江戸幕府 13 代将軍徳川家定は病弱で子がなかったため,その跡目相続をめぐって起った政争。ペリー来航後の難局を控えた時期に,攘夷論の中心であった水戸藩は,藩主徳川斉昭の子で聡明の聞えの高い一橋慶喜を推した(松平慶永,島津斉彬らも彼を擁立、一橋派)が,これに対して彦根藩主井伊直弼を中心とする幕閣は,血統論から紀州の徳川慶福を推した(南紀派)。井伊が大老に就任すると,慶福が将軍の後嗣に決定し、反対派は弾圧された。


安政の大獄で捕らえられた者 4 人を記せ。

吉田松陰。橋本左内。梅田雲浜。頼三樹三郎。


安政五年の政変を説明せよ。

井伊が家茂を将軍後継としたことに対して、抗議のために江戸城に来た斉昭や春嶽らを処分した。

家継の時と家茂の時の皇女降嫁の事情を説明せよ。

家綱以降、将軍個人から将軍の地位への権威の転換が図られ、将軍就任時に幼少であった家継は将軍の地位の権威付けが必要だった。

家茂の頃は幕府権力の弱体化と政局の混乱の中、大政委任論の下で公武合体による政局の安定化が必要だった。


大和行幸を簡潔に説明せよ。

尊攘派による討幕計画の一つ。孝明天皇による攘夷祈願のために神武陵、伊勢神宮参拝などを企図したもので、幕府の地位を否定する意味があった。公武合体派はこれを阻止しようとして八月十八日の政変を起こした。


公武合体運動の盛衰を説明せよ。

安藤信正らの公武合体派は挫折したが、福井の松平春嶽、高知の山内豊信、宇和島の伊達宗城、鹿児島の島津久光など雄藩で活発化し、「航海遠略策」や文久の改革が生じた。八月十八日の政変で主導権を握るが、その後は尊攘派・倒幕派に圧倒された。


文久の改革の内容を説明せよ。

島津久光によって主導され、勅命により実施された幕政改革。若年の将軍徳川家茂を補佐する役として,一橋家の当主一橋慶喜を将軍後見職に任命。越前藩の前藩主松平慶永(春嶽)を政事総裁職,会津藩主松平容保を京都守護職に任命した。また、隔年交代制であった大名の参勤交代を3年に一度に改め,江戸在留期間も 100 日とし,江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可した。幕府陸軍の設置,西洋式兵制の導入など軍制改革や蕃書調所を洋学調所と改めるなど洋学研究にもてこ入れをした。


※洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→開成学校→東京大学


公武合体政策の狙いとその挫折を説明せよ。

通商条約調印により対立した朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力を抑え込み、さらに無勅許問題を発端とする条約問題で分裂した国論を統一して幕府の権威を回復させようとした。孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の妻に迎えることに成功したが、有栖川宮熾仁親王との結婚が決まっていたにも関わらず、和宮を降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤信正は坂下門外の変で負傷し、失脚した。


安政の改革を主導した人物とその内容を説明せよ。

阿部正弘。

●ペリー来航前●…江戸の守備強化のために江川太郎左衛門に命じて品川・浦賀などに砲台を建築し、株仲間を再興させ、開明派の島津斉彬を藩主とし、徳川斉昭を幕政に参与させた。

●ペリー来航後●…親藩・譜代・外様を問わず、さらには旗本・庶民にも意見を求め、朝廷の権威や諸大名の発言力を強めて幕府の地位低下を生じさせたが、これにより国難には挙国的に対応すべきだとする気運が強まった。大船建造を解禁し、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置して近代化を図り、勝海舟らを海防掛に登用した。


戊午の密勅の内容を簡潔に説明せよ。

勅許と諸藩との衆議を経ないまま独断で日米修好通商条約に調印した幕府に対して調印を抗議し,諸藩と衆議を尽くすべしとの勅諚を下すことを決した。


第一次長州征伐における西郷の行動、長州内での内部対立を説明せよ。

西郷は、征伐の無意味さを感じ、長州藩との交渉を通じて幕府に対し恭順の意をとってもらうことが最善だと捉え、禁門の変の首謀者を処罰することを条件として幕府軍を解兵することを岩国藩主である吉川藍物に持ちかけた。当時、四国艦隊砲撃事件もあり、それに加え幕府による征伐という危機を迎えた長州では、武装したまま幕府と交渉するという正義派と、完全な降伏を示す俗論派が対立していたが、正義派の井上馨が俗論派に襲われたことにより藩論は俗論派で統一され、それもあって実戦は回避された。


第二次長州征伐の原因を説明せよ。

薩長同盟により、薩摩藩名義で最新鋭の武器を長州が購入し、軍備を拡充していることが幕府に伝わったから。


奇兵隊(三割は庶民)が果たした役割を説明せよ。

奇兵隊は、領内の豪商・豪農や村役人層とも結んで、藩の上層部である俗論派がもっていた幕府に恭順の態度を示そうという藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化を図った。


諸隊を説明せよ。

奇兵隊以後、長州藩に結成された下士・浪人・農民・町人からなる軍隊。


尊攘派の武力行使3つを説明せよ。

天誅組の変(伴林光平・中山忠光・吉村寅太郎)。生野の変(平野国臣)。天狗党の乱(藤田小四郎・武田耕雲斎)。


慶応の改革を簡潔に説明せよ 。

慶喜による幕政改革。ロッシュに接近して横須賀製鉄所の建設など軍備の拡充を図った。また、老中などの職制を内政事務・陸陸軍・海軍・会計・外国事務の専任制とするなど、組織も改革した